

| (740) 80年 亀山の学校 | |
| アルフレッド ― 女将さん、「亀山」の「学校」を探して、タイムスリップしちゃいました。 女将― なんと、1877(明治10)年9月、148年前! 明治政権が新しく学校制度を敷いた、その最初期の1874(明治7)年にお寺で開校した「荒川小学校」が、1877(明治10)年 “九月更に王子村亀山の王子製紙会社外人用社宅跡に移転”してきたんですって(※1) アルフレッドー 「亀山」というのは、王子村の中の小字(こあざ)の名前だったんですね(※1-2)。 「ご-ご-ひでりん」さんが「前方後円墳なのかもしれません」と思ったように、台地の端の小さな塚だったのかもしれません。 亀山下には、王子村が「町制」を敷いて王子町になった1908(明治41)年には、王子町役場がありました。 石鍋秀子さんが描いた(※2)ように1930(昭和5)年頃には「亀山神社」あるいは「亀山稲荷神社」があり、王子稲荷の南側にあるいなり坂の途中にある鳥居から登って行ったんですね。 ずっと後ですが、この亀山を中央工学校が買収して校舎の建設を始めたときの写真(※3)の、中央右下の鳥居がそれだと思います。 ![]() 亀山には、戦争中には大きな防空壕が作られていました。(※4) おかあ- 亀山にある学校といえば、1962(昭和37)年以降、現在にいたるまで、「中央工学校」。 まだ、戦後の「焼け跡」とか「空き地」という雰囲気があり、亀山稲荷への登り口に鳥居があった亀山に、中央工学校が最初の校舎を建てたときの校長は、田中角榮(1918=大正7年生まれ)。 角榮少年は高等小学校を卒業、上京して働きながら神田にあった夜学に2年間学び1936(昭和11)年に卒業した。それが1909(明治42)年に創立された「私立中央工学校」。 建築事務所を営み成功して政界入りし、戦後1947(昭和22)年に新潟3区から衆議院議員に初当選した。敗戦後、存続が危うかった中央工学校の復興に協力し、1953(昭和28)年校長に就任した。 1974(昭和49)年4月の入学式の式辞では次のように述べている。(※5) 「自民党の中には、政治的に、外交的に、いろんなことを知ってる人はたくさんおりますが、都市計画とか都市改造とか、建築基準法の問題とかを議論したり、立法の提案を行うときには、田中がウンと言わないと、できません。 建築士法をはじめとして、河川法の一部を改正する法律も、公営住宅法、道路法、電源開発促進法、宅地建物取引業法、道路整備費の財源等に関する臨時措置法、そして原子力基本法、国土開発縦貫自動車道建設法なども、私が提案者となって成立した議員立法です。また、国土総合開発法などの法律は、私が立案などに参画し、私の構想が基盤となって制定されたものであります。」 この式辞を述べてから3か月後、内閣総理大臣に就任したので校長を辞任した。 世間は《今太閤》と大騒ぎだった。 アルフレッド- 今から10年ほど前、「今、田中角栄がブーム!」だったそうです(※6)。 女将― 私は、10年前のブームより、50年前の1974年当時の「今太閤」報道が強烈。 田中角榮著『日本列島改造論』は、ものすごいベストセラーだった。 ごく身近な「亀山」と王子界隈が、1962(昭和37)年以来、「改造」と「高度成長」の具体例だったんだ… 最初の校舎が建って以来、王子界隈は、次々に建てられる校舎が密集している住宅とモザイク状に建て混んで、学生や各種試験の受験者で、日夜ざわつく町になった。 『月刊経済』の記事(※7)が、 「コンクリートのビル校舎がタコ足配線のように各所に林立しているのがこの中央工学校なのだ。」 と書いた1987(昭和62)年に8棟だった校舎は、2010(平成22)年の『写真でみる中央工学校100年の軌跡1909-2009』では13棟となっている。 アルフレッド- 「中央工学校」の学校案内「SCHOOL GUIDE 2026」には、 「キャンパス全体が「巨大な教科書」校舎は生きた教材」とあります。 100年後にはどうなってるでしょうね。 ※1 『王子町誌 王子町編』昭和3.12 (歴史図書社 昭和54(1979) ※1-1 p93 ※1-2 p45 亀山は、王子町の大字王子の小字16の一つ。 ※2 石鍋秀子『王子に生まれて』p45「亀山神社」(前号の図) ![]() ※3「建設中の王子校舎。昭和37年8月」『中央工学校八十年史』1990年、p300 ※4 (721)80年 五大空襲 ※5『中央工学校八十年史』p362。https://chuoko.ac.jp/ ※6「今、田中角栄がブーム!人を惹きつける「今太閤」の言葉とは」 ※7 『月刊経済』34(9)(427)1987-09 p40「アングル」 「中央工学校と王子の稲荷―タコ足校舎で住宅街を破壊」 |
|
| (739) 80年 亀山 | |||
| 女将 ― ちょっと、亀山行ってきます。 アルフレッド― 亀山? 三重県の亀山なら、信楽へ行った(※1)帰りに、亀山駅を通ったでしょう? JR草津線を全線乗るんだって、柘植駅へ出て、JR関西本線に乗り継いだときに。 また行くんですか? 何泊? 女将― 日帰り。 東京都内の北区、JR「王子駅」から線路の西側を北へ台地の裾を歩いて行く「王子界隈フィールドワーク」(※2)の続きです。 前に、行ったときは、葛餅を買ってすぐ、名主の滝へ直行しちゃったんで(※3)。 石鍋秀子さんが描いた昭和5(1930)年頃の地図の左端に「亀山」って書いてある。 おんなじ、秀子さんの本の45頁に、「亀山神社 今中央工学校」という図(添付)があるので、 95年前と2025年現在、比べてみたいな、って。 三太― 中央工学校のHPの、「交通アクセス」https://chuoko.ac.jp/access に、すっごい丁寧な「近郊沿線マップ」がある、東京駅から出発する人ばかりじゃねい、って。 おかあ(=女将)― さらに「キャンパスまでの歩き方」は、スマホの小さい画面じゃあんまり感じないけど、 PCで見ると、わかりやすいし、綺麗で、なんか楽しく歩けそうな気がしてきた。 かんじんの「亀山」って地名が載ってないけど、徳島の「王子神社」も地図に載ってなくても現地に行ったらちゃんとあったし(※4)。 アルフレッド― 「北区 亀山」を検索したら、古墳マニア「ご?ご?ひでりん」さんが訪れてます。(※5) 亀山遺跡は、十条台遺跡群の一部だそうです。 1993(平成5)の『北区史』には、 「「王子稲荷の坂」を登りきった台地上が亀山遺跡である。」とあり、 1955(昭和30)年の調査で、 「弥生時代中期から、古墳時代初期にわたって」「総数25軒の竪穴住居跡、貝塚、古墳周溝などの遺構」が検出されました。(※6)とあります。 「ご?ご?ひでりん」さんによれば、 「亀山は古墳時代前期に造られた前方後円墳なのかもしれません」 おかあ(=女将)― 「ごーごーひでりん」さんの報告は丁寧で鮮明な写真もいっぱい載ってて、現地へ行けないひとに親切。 ただ、「この場所には、王子第二小学校の前身である「亀山小学校」があったそうです。」とあるのは、はて? 卒業生である石鍋秀子さんが、王子第二小学校・通称「王二」と亀山は「いなり坂」で隔てられていると描いているし。 「王二」の現在のHPにも、北区の教育関係資料にも、「王子第二尋常小学校」は1918(大正7)年創立されたとあって、「亀山小学校」という校名が見当たらない、 はて? ※1 (723)80年 信楽火鉢 ※2 (726)80年 イチョウ ※3 (727)80年 名主の滝 〇石鍋秀子『王子に生まれて』 「見返しの地図は、「昭和七年頃の岸町一丁目付近の絵図」 p3「昭和5年頃の岸町界隈」の左端(※3の図) p45「亀山神社」(今号の図)
※4 (733)80年 王子動物園 ※5 『古墳なう』 「東京都北区「亀山」」2021/04/05(月) 20:14:07 ※6 『北区史 資料編 考古2』 1993 |
|||
| (738) 80年 京都の王子さま | |
|
アルフレッド― |
|
| (737) 80年 万博・残念石 | |||
| アルフレッド― 大阪の万博が終りましたね、正式には「2025年日本国際博覧会」、略して「大阪・関西万博」というそうです。 55年前のは「日本万国博覧会」(大阪万博)。 僕の生まれる前の年、1851年、ロンドンは「万国博覧会」で賑わってました。(※1) 三太― おかあ、ロンドンの万博にはまだ生まれてなかった。 大阪万博には、55年前のも、今回のも行く気にならなかった、 根っからの「行列嫌い」だ。 神戸っ子― 閉幕間近、皆も行くなら私も行くか~と思って万博に行きました。 目標は、大屋根リングの上を歩く、残念石を使ったトイレを見る(使う)、石のパーゴラの下に入る…という3つで、パビリオンは別に~でした。 夕方からのサテライト入場券で、西ゲートから、空港のセキュリティー検査と同じチェックをうけて入場。 とにかく、人が多かったです。しかも、それぞれ好き勝手に歩いてるので、いきなり目の前に人が現れて…緊張しながらキョロキョロしつつ歩いてました(笑) 会場内は、パビリオンも、ショップも、食事場所も、とにかく、どこもかしこも行列です。 もちろんトイレも…特に女性用が長蛇の列で、実感としては女性の来場者が7割ぐらいあったので、4倍は作らないとあかんかったんではと思いつつ、並んでました(笑) おかあ(=女将)― あ~、行かなくってよかった! 神戸っ子― お土産は、行列でしたので、買わずに帰りました。 行列の短かったドイツ館の横のフードスペースで、ドイツビールとウインナーを食べて、まぁまぁ満足して帰りました(笑) おかあ― お陰様で、行列にならばずに、ドイツビールとウインナが目に浮かび、万博に行った気分を味わわせていただきました。 アルフレッド― 「残念石」とか「石のパーゴラ」って、なんだったんです?(※2) 神戸っ子― 「残念石」は、秀吉が築いた大坂城を覆うように徳川秀忠が石垣を積み直した際に、切り出したけれども大阪まで運ばれずに運び出し港などに放置された石のことを言います。 お城の石垣にならなかったから、残念ねぇ~ぐらいの意味で残念石と総称します。 左の写真の、トイレの柱と壁にあたる場所にある石が残念石です。 「石のパーゴラ」は、人頭より大きい花崗岩系の石に穴を開け、ワイヤーを通してつなぎ、テントのターフのように設置。 右の写真の、下にいる人とサイズを比べたら、いかに大きい石が連なっているのかが分かります。 来場者が通る頭の上は、ワイヤーネットで下からカバー、石の風化や内部のひび割れ・強度等予測がつかないものを連ねた総重量何トンものモノを、なぜ頭の上に設置しているのか理解できない。 石の隙間が大きいので、日差し除けにもならない。 アルフレッド― 「こんなこともできます!」「やってみました」、ということですか? ※1 (346)アルフレッド・万国博
|
|||
| (736) 80年 第一次世界大戦 | |
| アルフレッド― 前号(※1)で、1915年(大正4年)8月9日に王子町役場では、「御大典迄ノ間壱頭ニ付金二銭ヲ以テ買鼠ヲ始ム」とありましたが、僕の国では、第一次世界大戦の戦時中です。 日本も1914年8月23日に対独宣戦布告をして参戦していましたから、戦時中です。 女将― 確かに、そうなんだけど、高木助一郎さんの日記を読んでて、在職中「戦争してるんだ!」っていう緊張感というか、窮乏感はない。 1911年(明治44年)1月、19歳で町役場に勤め始めてから1932年(昭和7年)土木課長で退職するまで、庶務系でさまざまな業務を担当していくけど、兵事係にはならなかったからかも知れない。 第一次世界大戦に参戦した1914年8月23日は日曜日だったのでお休み。朝、王子神社で陳列されている「朝顔会」を見に行って、午後、麦を俵に入れ、夜は文武館柔道部に行ってきた。 日記には、宣戦布告の詔書を書き写して最後に、「以テ二十年来ノ怨報ズベキナリ」。 日本軍の動静については、8月25日に「帝国海軍ニ於テモ第一、第二、第三艦隊出動、十八師団ハ征独軍トシテ出征セリ」 個人的には、翌8月26日、入営中の友人からの端書に「死んで帰ってたら水の一杯位ハ御願ひする」との決心に感じ入る、と記し、8月27日に「欧州戦争実記ヲ買フ」。 以後、9月11日王子神社、9月18日紀州神社での「宣戦奉告祭」は、吏員としての仕事の記録。 助一郎さん個人は、1912年(明治45年)6月17日の徴兵検査で、「第二乙種輜輸」と判定された。 甲種合格して帝国の兵たるを「当然ノ務メ」「光栄」と思っていた助一郎さんは、ショックを受け「実ニ残念ノ極マリナリ」と慨嘆した。 でも、「国家ニ対スル義務ナル者ハ兵役ニ服スルノミニ非ザルナリ。君ニ忠、国家ニ対シテ義理果スモノハ兵ノミニ非ラザルナリ。」と、「富国強兵」の「強兵」を甲種合格者が担うのであれば、自分は「富国」を担う、「我ガ務メニ専心専意ニ尽シ以テ此ノ国民タルノ義務ヲ尽シ男子ノ本分ヲ尽サント欲スルナリ。」と誓っていたのでした。 アルフレッド― で、買鼠の期限の「御大典」ってなんですか? 三太― 大正天皇の即位の儀式だ。 助一郎さんち(=父・高木助次郎)では、王子神社氏子総代に王子神社境内へ「御大典紀念」植樹にと請われて、椎2本楓1本を寄付した。 11月10日、助一郎さんは役場での儀式を務め、吏員一同の祝賀会に参加して帰宅。 王子町内では、旗行列・提灯行列・煙火・軒頭に奉祝提灯や幕・アーチなど。 助一郎さんちのズシでは、11月14日から16日、神酒所とはやし舞台を作り、他のズシでは煙火・花車・御輿など、臨時のお祭り「御大典祭礼」だった。 助一郎さんちの負担は1円80銭だった。 アルフレッド― で、3カ月間の王子町の買鼠の結果はどうだったんです? 女将― 助一郎さんは書いてない。 愛知県の本(※2)に、 「(明治)38年東京では1年間に122万6900匹の鼠が4万1109円で買上げられ、1匹3銭余りで買上げられている。」とあるんだけど。(※3) ※1 (735)80年 鼠 |
|
| (735) 80年 鼠 | |
| アルフレッド― 読者さんから、質問をいただきました。 「僕が生れた頃、ヴィクトリア女王の時代」って、いったい何歳?」 今年、173歳になります。1852年生まれ、鋼鉄製のライオンです。(※1) この年になるまで、いくつものパンデミックがありました。コレラ、ペスト、インフルエンザ(スペイン風邪)、コロナ…。 僕のロンドンにいる本体は鋼鉄製だし、日本のむらき家にホームステイしている分身はぬいぐるみ、どちらも不死身ですが、女将さんは生身(なまみ)ですから、健康には気を付けないと。 で、女将さん、王子動物園では僕にも王子さまにも会えなかったんですね?(※2) 女将― 王子動物園で、遊園地の方を見たら、「カレー王子」の看板を見つけた! 近寄って見たら、2021年に閉店していた、ガッカリ。 動物園を出て、道路の向かい側を見たら、「王子神社」! 境内にはお稲荷さんも。 高木助一郎さんの日記(※3)にしばしば出て来る「両王子」に出会えた。 アルフレッドー 神戸の王子神社も猫神社なんですか? 女将― 特に猫は見なかった。王子神社だからって、猫神社とは限らないらしい。 アルフレッド― 女将さん、立川市の蚕影神社という「猫返し神社」に行ったことがありましたね。(※4) 三太― 違う違う、蚕影神社の猫は元はペットじゃなくて、蚕を食べる鼠を駆除する実用家畜。 ナマ猫だけじゃなく、絵の猫も、養蚕農家は大事にした。(※5) アルフレッド― 鼠は、2025年現在、外環の陥没現場に増えているそうです。 空き家や解体中とか重機や機材がイッパイ…津波や原発・豪雨などの被災地も、ヒトが住まないと大小の動物が現れるんですね。 女将(=おかあ)― 大正3年(1914)、111年前、千葉県でペストが流行したとき、利根川をはさんだ茨城県の村では、猫を飼うか、捕鼠器で鼠退治をするようにという「予防心得」を配布した。(※6) アルフレッド― 高木助一郎さんの日記によると、大正4(1915)年7月3日(土)午後3時20分、王子町役場に疑似ペスト発生の通知がありました。 女将― 町役場の吏員である助一郎さんは、即、同僚たちと現場に出張して「消毒方ノ準備及ビ隔離所等ノ仕沢」にかかり「隔離所用圃団及蚊帳等」を運び、11時30分帰宅。 現場には「王子分署ヨリハ関根署長、池田・新納警部、巡査二十余名出張、警視庁ヨリ田中検疫医、八木検疫官等出張」、衛生・伝染病対策は警察の仕事だった、「清潔法」って呼んでた「大掃除」の立会いも。 翌4日は日曜だけど、「朝四時ヨリ現場ニ出張…、患家及隔離所ニ鉄板塀ヲ囲ラス」捕鼠器配置、健康診断、隔離所監督…午後7時半帰宅。 以後7月25日に次のように記すまで、ペスト関連業務。 「ペスト発生地大清潔法施行、探鼠及蚤駆除実行ノ為メ庶務五人出張、午後壱時終了、本日ヲ以テ上十条警戒ヲ解ク、大字上十条ニペスト発生七月三日以来此処ニ至ル二十三日、漸ク本日ニシテ終極ヲ告グルヲ得タリ、」 7月31日、「ペスト現場出張手当金八円貰フ」、人夫賃金などの清算。 8月に入ってからは、9日殺鼠剤配付を始めるとともに、「今回王子町役場ニ於テ御大典迄ノ間壱頭ニ付金二銭ヲ以テ買鼠ヲ始ム」 助一郎さんの仕事に、「買鼠」の整理、30日には「買鼠券ト現金ト引換エ」も。(※7) 王子町では猫を飼うようにとの奨励はしなかったみたい。
|
|
| (734) 80年 女王さま | |
|
アルフレッド― ※1 【速報】自民党新総裁に高市早苗氏 決選投票で小泉進次郎氏に勝利 |
|
| (733) 80年 王子動物園 | |
|
アルフレッド― ※1 (732)80年 雨乞いの効き目 |
|
| (732) 80年 雨乞いの効き目 | |
| アルフレッド― 女将さん、雨の中、どこへ行ったんです? 女将― 東京から徳島へ、恒例夏の家出。 出かける前、日照りが続いてたから、雨乞いをした(※1)ら、雨が降り始めた。 近づいてくる台風に向って進むことになってしまった。 羽田発の飛行機は、揺れるからって、シートベルトしたまんま、飲物サービスもなくって、徳島空港に着陸した時にはホッとした、ドッと疲れた。 乗務員さんたちはさぞ疲れたでしょうね。 同じ時間帯、地上コースを選んだK青年は、新幹線が5時間動かなかった。 ところで、前号、1915年(大正4)年を「100年前」と書いたのは、「110年前」の誤りでした。読者各位、ご訂正ください。 アルフレッドー 女将さん、数字に弱いです。 お金の話も忘れていたでしょ、大正三年八月の、王子町の助一郎さんちの雨乞は、 “雨乞の負担額は「壱戸割金拾弐銭」である。”(※2) 女将さんが家出してる間に、メールをいただきました。 海辺のうずら- すごいすごい、前号の雨乞いの話いいです 神奈川県の綾瀬市で雨乞いの話を聞きました 、 やはり 大山 阿夫利神社に行ったそうです 稲の開花が8月1日ぐらいでその頃に水が 雨が降らないと困ると言っていたように思います 一升瓶 かなんかで水をもらってくるのですが歩いてはいけない 急ぎ足で行かなければいけないので 駅伝 みたいにやったとは聞いています そしてもらってきたら多分 神主さんが 清めて あちこちの畑に その水をまくんだったと思います 蛇は作っていませんでした 三太― うん、元祖「道志川の三太」は音さんと二人、カラの一升瓶を2本持たされて自転車に乗った。(※3) 神戸っ子― 各地にいろいろな雨乞いの祭りがあります。 兵庫県三田市では、雨乞いで有名な民俗芸能「上本庄百石踊り」(三田市本庄 駒宇佐八幡神社)があります。 中世の伝承ですが、雨乞い祈願が成って、雨喜びの祭りとして始まったものが、やがて雨乞いの祭りに変化し、 江戸時代には藩主が雨乞いの祈願をするほど霊験あらたかな祭りになりました。 費用が米百石ほどもかかることから「百石踊り」と名付けられました。 戦前までは、雨乞いの時にだけ行われましたが、戦後は伝統文化の継承の意味を込めて、毎年11月23日の新穀感謝祭で奉納されます。 太鼓を手に踊る子どもたちが10数人、音頭取りも10数人、そのほかの役員も含めると50人ほどが関わる大がかりな祭りです。 6回ほど調査・見学に行きましたが、全く雨の気配がなかったのは1回、今にも降りそうな雲行きになったのが1回、残りはポチっとでも降りました。 さすが名高き雨乞い祭り~でした。 そのほかにも、村堂に祀る毘沙門像を池につける(実際は池のほとりで読経をする)、琵琶湖の竹生島(弁天さん)からお水をもらってきて川にそそぐ、 竜女伝説のある寺では竜が天に帰る時に残した鱗に水をかけるなど、いろいろな雨乞いのバリエーションがあります。 また、江戸時代末の史料で、氏神に雨乞い祈願するのに、境内を掃除するから降らしてくれという第1段階から、降らなかったら第2段階で奉納相撲をする、 それでも降らなかったら第3段階が社殿を修理する…など、どんどん雨乞いのやり方をバージョンアップしていくという、おもしろいものもあります。 三田市は、武庫川という比較的大きな河川(現在は二級河川)があっても、河岸段丘や微高地、緩やかではあっても丘陵地・細い谷などが多く、武庫川から農業用に水が引けず、 多くのため池があります。小さいものでは田んぼ1枚分から、大池という名のある池まで、多数がありました。 戦後に、圃場整備が進み、ポンプアップができる用水路も張りめぐらされ、池の多くは使われなくなりましたが、水には苦労した地域です。 神仏に祈願する…では、仏像をお堂から担ぎ出して、池の側で法要する、池に沈める… 竜神・池の主などを怒らせる…池・淵に石を放り込む、牛の血を注ぐ(池・淵を汚す) 祈願をする…絵馬を奉納する→ 黒馬の絵馬は降雨祈願、白馬か赤馬は日照り祈願 高いところ(山の上など)で火を焚く → 神さまを困らせる、怒らす こうしてみると、お願いをするのは基本だけど、それ以外に、神さんを怒らせるのは、怒らせすぎると怖いのだけど、調度よい位に怒らせるとご利益が得られる…なんて、発想の転換が面白いです。 アルフレッド― 高木助一郎さんの家の辺りでは、大正11年(1922)が、雨乞いをした最後だそうです。(※4) 江戸時代から大根の一大生産地帯だった江戸・東京北郊地域にとって、日照りで8月半ばに大根の種蒔きができないのは深刻な死活問題でした。(※5) 助一郎さんの家でも、大根は重要な作物でした。 女将― 助一郎さんの日記(※6)をたどると- 大正3(1914)年の夏は、第一次世界大戦が始まった年です。助一郎さんは連日の欧州各地の紛争・衝突を記しています。 8月12日雨乞いをした夜に降り始め、13日の風雨のあと、低地では洪水になりました(※1)。が、台地上では、16日の日曜にお父さんと助一郎さんが畑を耕し、17日「父母ハ大根ヲ蒔ク」。 王子町は明治から大正にかけて、鉄道や軍関係の施設・工場がどんどん増えて、「軍都」と呼ばれるようになっていましたが、 大正12(1923)年の関東大震災以降、さらに急激に宅地化・人口増加が進みました。 農家は田畑を買収されて勤め始めたり、「家作(かさく)」と呼ばれた貸家経営の地主になったり…専業農家が減っていきました。 埼玉県鶴ヶ島市脚折(すねおり)の雨乞が、専業農家の減少などで途絶えたのは昭和39(1964)年でした(※7)。 その40年前に、同じことが王子町で起こっていたのでした。 ※1 (731)80年 雨乞い |
|
| (731) 80年 雨乞い | |
| アルフレッドー 女将さん、毎朝、庭仕事に精が出ますね。 女将― 連日の猛暑・酷暑で、「三太のヒタイ」の庭の草木が干上がって。 豪雨・水害に遭われた地方の方には申しわけないけど、心の中で雨乞いしながら、草取りと水やりに小一時間汗ビッショリ、「運動」しています。 アルフレッド― 女将さんの日記はお天気をたまにしか記していませんが、高木助一郎さんは毎日毎日必ず記しています。 ほぼ40年間、東京北部の「王子」という地で定点観測してた記録(※1)です。 女将― 100年前の王子町下十条、1915(大正4)年8月2日月曜日朝、高木助一郎さんちの辺りでは、27日ぶりに雨が降った。 「今ヨリ五六日雨ナキニ於テハ畑作物ノ大凡ハ枯死スベキ有様ナリシニ…」と夢のように良いお湿りだ、と大喜び。 「今日ハオシメリ正月ナリトテ一日休ム」 その前年の1914(大正3)年も、7月初めからほとんど雨がなくて、 とうとう8月10日には、相談して、11日から五日間、雨乞いをすることになった。 11日には、「太鼓ヲドンドン叩キ掛念仏ニテ王子権現・同稲荷両社ニ至リテ雨ヲ祈ルナリ、昼ヨリハ予代リテ出ヅ、二回参詣ス」 12日は午前2時に石神井川から汲んで神官が御祈祷した「御神水」を戴いて上下十条の畑を廻り、「夕食後蛇ヲ荷グ、長サ四五間、黍殻ニテ作リ両眼ハ南瓜、上下十条ヲ廻ル」 夜9時半頃ポツリポツリ降り始めた。霊験に勇気百倍した群集は濡鼠になりながら深夜まで「蛇」を担ぎ廻ってお酒を飲んで解散した。 アルフレッドー 「蛇」は「ジャ」と読むそうです。 五日間の予定で始めた「雨乞」は三日目以降は中止になったんでしょうね。 13日には暴風雨になり、14日から王子町の低地は洪水になり、15日には浸水家屋150戸余りとなりました。 三太― 役場吏員である助一郎さんは、 10日(月)の相談にはお父さんが出席し 11日(火)は午前中勤務、午後お父さんと交代して雨乞の参詣・掛念仏に参加。 12日(水)は未明3時から御神水を担いで廻り、午前中は勤務して、昼から又参加。 「夕食後蛇ヲ荷グ」とは、材料を集めて作っていた「蛇」が完成したのが夕方だったんじゃないか。 13日以降は、吏員として、出水への対応、炊出しが必要か、と仕事の記録になっている。 アルフレッド― 十条村の北隣・稲付村の場合(※2)は、雨乞いをする場合には、榛名神社に御神水を迎えに行き駅伝方式で駈けて持ち帰る役と、 八間半程の大蛇(おろち、龍神)を作る留守番とに分かれて準備したそうです。 重くて大きな「雨乞龍を担ぐ若衆は汗と埃と染料にまみれて朝と午後と担ぎます。雨乞は命がけだったのであります。」 ![]() 「雨乞いに使われた稲付村の龍神(じゃ)(1/2模型)(北区飛鳥山博物館蔵)」(※3) を見に行ったのだけど、竹と麦藁で作られているんで劣化が著しくて、少し動かしてもボロボロ壊れてしまいそうなので、展示はしていません、と言われてしまった。 写真でしのぶしかない。 アルフレッドー 図書館のジロちゃんからの情報ですー 埼玉県鶴ヶ島市脚折(すねおり)の雨乞いでは、長さ36メートル、重さ約3トンもある「龍蛇(りゅうだ)」を担いで廻るそうです。(※4、5) 御神水は、群馬県の板倉雷電神社に戴きに行ったようです。 女将― 茨城県西の猿島郡でも、雨乞いには板倉の雷電神社へお水を貰いに行ったと聞いた。(※6) 元祖「道志川の三太」(※7)が雨乞いに出かけたお話があった。 元祖「道志川の三太」の村では、雨乞いには「夜なき山の夜なき神社の水をいただいてきて、鎮守の杉の根本にかける」ことになっている。 作者の青木さんは、三太の村を相模の山村と設定しているから、夜なき神社のモデルは大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市大山)かもしれない。 ※1 『高木助一郎日記(第十号~第十七号)調査報告書3 文化財研究紀要別冊第三十一集』2023.3 p18 角田くるみ「<研究報告2> 十条地域における信仰行事と運営主体―高木助一郎日記十~十七号を中心として―」《二》大正三年八月の雨乞 ※2『稲付村の話 北区立清水小学校』1988年、p13,14 ※3 稲付村の雨乞 『北区の歴史 はじめの一歩 赤羽西地区編 改訂版』北区立中央図書館、2025年、p32 ※4 (絵本)『雨をよぶ龍 4年にいちどの雨ごい行事』 秋山とも子、文・絵、童心社、2009年 ※5 [脚折雨乞」 鶴ヶ島市公式HP ※6 海老沢孝子 『山鳩』短歌研究社、S58、3500円、p.273 (境町中央公民館蔵) 『日本の食生活全集 10 聞き書 群馬の食事』農文協、1990、p273 ※7 (1)三太自己紹介-茶色の犬 『三太物語』青木茂、秋野卓美画、少年少女学研文庫、学習研究社版、1977、p127「三太大雷」 |
|
| (730) 80年 坊主 | |
|---|---|
| 板橋の先生- 今回(※1)もまた、詳細な情報提供とともに、「王子田楽」に関する貴重な資料提供に感謝しつつ、興味深く拝読いたしました。 お蔭で、「喧嘩祭り」とも称せられる理由、及びその変遷が理解できました。 また、新たな疑問として、うかがいたいのは、高木助一郎氏の日記(明治42年)に、 「坊主踊」「田楽ハ出家八人ニテ踊ルモノニシテ」とある記述です。 この記述は、『稲付村の話』の「田楽踊の八人の少年が冠る花笠」と、同様に見てよいのでしょうか。 今日も田楽の舞い手は少年達ですが、それにも変遷があったのでしょうか? 明治期は神仏分離であり、そこでの「坊主」「出家」は何を意味するのでしょうか? マニアック― 坊主踊りの「坊主」とは、「田楽法師」だったんじゃないんですか? マレビト- 「坊主(ぼうず)」を検索したら、髪形とか僧侶、米の品種とか- 女将― う~ん…田楽の担い手は誰か? アルフレッド ― 女将さん、またまた資料をひっくり返しています。 女将― 明治初年から昭和18年までの約70年間の、王子田楽というイベントの担い手は、 「主として王子地区の富裕な商家の人たちや、十条地区の旧本百姓層のちの地主層の人たち」(※2)だったのでしょうね。 踊り手については、板橋の先生がご指摘くださったように、高木助一郎日記(※3)には、下記のようにあります。 明治42(1909)年には「坊主踊」「出家八人ニテ踊ル」 明治44(1911)年には「本(もと)ハ出家八人・武者三人ニテ踊リシモノニシテ踊リニ十二番迄アリ、笛太鼓ニテ踊ラシムルナリ、今ハ稚子八人ニ武者三人、稚子ハ六人ハ花ノ付キシ笠ヲカブリ二人ハ筍ノ形シタル笠ヲカブル、…」 昭和の終わりころまで、「坊主」というのは、「出家」=僧侶とは限らず、男の子をさす言葉だったと思います。 「ぼっちゃま」「ぼっちゃん」はよその家の息子を指す丁寧語、今も使う女性がいるかも。 「ぼうや」は、男児や若輩をさす、親しみや軽視を含む、母親や姉が弟を呼ぶとか 「ぼうず」は、年長男性が男児や若輩をさす 自分の息子をさして、父親は「うちのぼうず」、母親は「うちのぼうや」とか いたずらっ子を怒鳴る時は「そこのぼうず!!」。 板橋の先生も、子どもだった頃「ぼっちゃん」って呼ばれたでしょう? マレビト- 日本語って、使い分けが難しいです。 女将― たぶん、助一郎さんの書いた明治末期の人々は男児が踊っているのを見ながら「坊主踊」と呼んでいたのだろうと思います。 そして現在の「王子田楽」は、40年間の空白を経て「復活」した時から、舞童にも楽部(笛)にも女児・女性がいます(※4)。装束と傘で覆われて、見分けられないけれど。 女性は、戦前も裏方・接待を担っていましたが、現在はその「復活」の時から、舞台で演じる一員ともなっています。 王子田楽を担う人間関係は、戦前と、空白後の現在とでは、かなり異なっているようです。7 ![]() ※1 (728)80年 王子田楽 (729) 80年 喧嘩祭 |
|
| (729) 80年 喧嘩祭 | ||
|---|---|---|
| アルフレッドー 前号の、王子田楽報告(※1)に対して、 「コロナ前に観たことが思い出されました」とか 「<まつり>の諸要素の外縁部ばかりを並べているみたい」という反響をいただきました。 マレビトー 食べものじゃなくて民俗芸能だという「デ・ン・ガ・ク」って、何なんですか? アルフレッド- マニアックさんから、詳細な資料が送られてきましたが、女将さんは「おまつりって何ですか」に答えるのに精いっぱい、息切れしています。 同行できなかった神戸っ子さんから、お助けメールが来ました。 神戸っ子― 田楽は、大変広く、深く、複雑な意味合いをもつ芸能です。 語源は「田の楽」…、読んで字のごとく「田の側で演ずる楽」です。 平安時代の貴族も田楽衆を自邸に招き入れて楽しんだという史料が残されています。 (『中右記』『御堂関白記』) 大陸から伝わった伎楽などとも習合し、高足(ホッピング)や曲芸的なものもあります。 全国に、さまざまな田楽が継承され、文化財に指定されています。 田楽は、稲作の祭りとしては、予祝行事といい、耕作のさまを模式的に演じ、豊作を祈ります。 その演じる様子は、やや大げさで、滑稽であったりするので、演劇的に見えることもあると思います。 女将― 高木助一郎さんの日記(※2)を読んでみます。 助一郎さんは、東京府北豊島郡王子村大字下十条(現東京都北区中十条一丁目)の農家の長男として明治25年(1892)年に生まれました。尋常高等小学校を卒業して私塾文武館に入学した16歳の夏8月1日から40年間つけ続けた日記です。 回想記や聞き取りには、記憶にたよる不安がありますが、日記はその時々のリアルな記録です。 助一郎さんが、王子神社(権現)の祭礼について毎年書いているなかでも、明治42(1909)年の記述(※2-2調査報告1、p92)が当時を知らない人への解説にもなっています。 大字「下十条」では、8月11日「幟立て」から始まり、12日御仮屋を設営し、各戸では花・提灯を飾り、13日は王子神社での「坊主踊または鎗祭、古代田楽」・露店・山車を見物し、14日も王子神社で神楽見物、15日御仮屋・幟を撤収し御神酒開きで終ります。 8月13日を書き写してみます。ささらの漢字が打ち出せないので、□にしておきます。 「八月十三日 金曜日 曇天 午前中勉強シテ午後三時頃ヨリ権現ノ祭礼ヲ見ニ行ク、路上非常ニ賑ハシ、屋家々ニテハ皆店頭ニ祭礼之提灯ヲ出シ又ハ花等ヲサシテ目モサムル限リナリ、神社ニ至レバ露店軒ヲ普ベテ客ヲ呼ビツヽアリ、又見セ物等モ多ク非常ナル人出ナリ、 「五時頃ニ至リテ祭リハ初マレリ、ソモソモ此ノ祭所謂坊主踊又ハ槍祭トモ云ヒテ古代田楽ナリ、現時此ノ祭ヲ行フハ当社ト熊野権現其ノ外一ヶ所ニ止マルト云フ、田楽ハ即チ今ヨリ七百年前鎌倉北條氏ノ末ヨリ足利ノ中世迄盛ニ行ハレ特ニ武家ノ間ニ愛セラレシモノナリト云フ、祝典ハ昔時催馬楽ノ如キモノヲ諷ヒシトアレドモ今ハ此ノ歌絶エテ只田楽踊ヲ伝フルノミ、田楽ハ出家八人ニテ踊ルモノニシテ内二人ハ筍ノ如冠ヲカブリテ鼓ヲ持チ六人ハ花笠ヲカブリテ□ヲ持チテ他ノモノハ武者三人二人ハ左右ノ腰ニ七振リノ大刀ヲ帯シ一人ハ割竹ヲ持チ次ノ式ニ従ヒテ踊ル、 舞祭順序 第一 中門口 第二 道行□ 第三 行違腰□ 第四 背摺腰□ 第五 中居腰□ 第六 三拍子腰□ 第七 点礼腰□ 第八 捻三度 第九 中立腰□ 第十 搗□腰□ 第十一 □流 第十二 子魔帰 等ナリ 此ノ式ニカブル冠ハ縁起ヨシトテ相争ヒテ奪ヒ合フナリシ」 踊リ始リテ程ナク大鼓ノ音、笛ノネニ従ヒテシャガムタリ其ハ何時冠ヲ取ラルゝヤモ知レザレバ其ノヒモヲ解クナリ、其ヨリ少シテ「ワー」ト一声急舞殿中ハ笠ノ取リ合ヒヲ以テ混雑争乱ノ巷トナリヌ、而シテ一キリ大声ナル巡査ノ叱声ト女子供ノ叫声ト相雑リテ実ニ惨憺タル中ニテ棒ニテ投リ合奪フ十五六分ニシテ止ミヌ、其ヨリ社内ヲ出デゝ森下ニ至レバ花車ノ中ニテ大鼓笛ヲ以テハヤシツヽ少サキ子供是ヲ引キテ実ニ賑ヘシ、其ヨリ足立銀行ノ前ニ大獅子ノ雌雄大いサ一間計リナリ、其ヲ通リ過ギテ船串橋ニ至レバ涼風飄々トシテ来リ、実ニ暑サヲ忘ルヽ程ナリ、其ヨリ舟串坂ヲ上リテ権現内ニ入レバ恰モ嵐ノ吹キ去リシ跡ノ如クニシテ混雑争乱跡歴然タリ、一時間程前ニハ立錐ノ余地スラナカリシ所今ハ只露店ヲ壊ヌ人カ又ハ用事ニテ通ル人ノ外影モナクシ辺寂然タリ、新道ニ出デヽ家ニ帰リ食事ヲナシテ六時半頃ヨリ文武館ニ至リ算術ヲ筆記シテ越部君ノ家ニ行キ少シ話シテ九時頃ニ家ニカヘル (余白)(小使、三十銭父ヨリ貰フ) (一金四銭蒸餅、一金四銭氷、一金八銭紅鉛筆、一金四銭五厘水彩画用紙) 翌明治43(1910)年8月は関東地方大洪水(※3)のため王子神社の祭礼は一ヶ月延期され、9月13日に行われた様子を、助一郎さんは-(2-2調査報告書2、p68) …四時過ギ坊子踊リヲ見ニ出カク、今日ハ例年程ニ混雑セズ、例ノ笠取リモ左程ニ大騒動ナクシテ終リヌ、此ノ間雨ハ小止ミナシ、今年ハ七軒町若者、宿ノ若者、各笠ヲ取ル、今夜夜学ハ寂トシテ来ラズ (余白) (一金四十銭 父ヨリ小使) 翌明治44(1911)年1月から、助一郎さんは王子町役場に勤めながら家の農事を手伝い夜学に通う暮しになりました。8月13日は …甚ダ賑カニシテ境内人ヲ以テ埋マルバカリナリシ、…稚子八人ニテ踊ル、第二番目ニテ急テ笠ノ取合ヒ喧嘩ハ初ケリ、騒々甚シ、其ノ内ニ止ム と記しました。 明治45(1912)年は、7月30日の明治天皇死去から9月13日大喪という日々にあって王子神社の祭礼の記述はありません。 大正2(1913)年以降の日記には、大正4年見合、翌大正5年結婚、という身辺の変化もあり、助一郎さんの日記は業務日誌・備忘録という性格が強くなっていきます。 石鍋秀子さん(1924生)が、約20年後の様子を回想しています。 秀子さん(1924生)による王子神社のお祭りは-(※4) 王子神社のお祭りは東京三大祭りと言われたほど、花飾りと提灯、きらびやかな田楽舞、光り輝くみこしと山車、そして汗と力の喧嘩祭りである。祭りのために明治大正と臨時列車、臨時電車も出たとか。田楽の花笠はぼろぼろになる事が多かった。その夜はおかぐらが上演され王子神社の森から太鼓の音が遅くまでして寝つかれなかった。 秀子さんの記憶にある田楽舞とは- 五時頃王子神社には本殿の前の舞台に竹矢来が組まれ、警察官が角々に立ち、竹矢来の内の舞台には七本もの刀を持った鎧兜の二人の武者がこれから始まる田楽舞の踊り子を守るために立ち、踊りの途中で花笠を取ろうとする人は三人目の武者の太い竹を持った人に打たれる。しかし、踊り子も恐ろしがって途中で笠を投げたりして終わりまで踊る子はない。その花笠を当時何軒もあった料理屋に持って行けば祝物で御祝儀が出て、御馳走にもなれたので江戸時代から喧嘩祭りといわれ境内では取りつ取られつの大喧嘩であった。 私の子供の頃も怪我人は戸板に乗せられて我が家の前の王子警察にかつぎ込まれた。今のように救急車もない頃、警察には警察医が近くに住んでいるので運ばれたのだろう。恐ろしくて二階からそっと見ると、白い服の警察官に先導をされ戸板に乗せられた人は血だらけであった。 マレビトー 食べものじゃなくて民俗芸能だという「デ・ン・ガ・ク」って、何なんですか? 「田楽」が途中から、「喧嘩祭」になっちゃったんですね。 参加者は、募集したんですか? 今、ネットで「お祭り参加者募集」と検索すると、「地域のお祭り情報が掲載されている掲示板や公民館、商店街のウエブサイトなどを確認してみましょう。」とあります。 女将― う~ん、戦前の王子神社では、「参加者募集」はしてなかったんじゃないかな… マニアック- 喧嘩は、「まつり」を構成する暴力的要素です。 神社の「まつり」に参加を許されるのは、氏子とか宮座とかの、地域のなかでの特定の家柄の長男であるなどの条件を満たす、限られた男だったんじゃないんですか。 アルフレッド- 「喧嘩したのは誰か?」って、女将さん、いろんな本ひっくり返してます。 女将― 高木助一郎さんは、氏子区域の農家の長男だけど、自分が喧嘩に加わったとは書いてない。 十代の青年・助一郎さんは、チョー真面目な勉強家。家業の農作業と夜学のあいまに勉強・勉強、菊と朝顔を育てるのが趣味。友達とは将棋さしたり、出歩いたりするけど。 友だちも、「笠取りに加われ」って誘わなかったでしょうね。 助一郎さんの住む十条村の北隣である『稲付村の話』(※5)。稲付村は、王子神社の氏子ではないし、誰が何年に語ったのか不明な資料ではありますが-、 王子神社の槍祭りは毎年八月十三日にありました。王子神社の祭礼には、前の年に神社からいただいた「槍のお守」に一本新しい槍を添えて奉納します。そして他人の納めた槍のお守と交換して家に持ち帰り「火災、盗難除」のお守としたのであります。 この槍替え神事の為に川口の船橋を渡って街道を通る埼玉の人々の足音が、夜の明けないうちからザアッザアッと聞えますので稲付の人は起されたそうであります。こ れ等の人々を称して村人は「盆槍が通る」と申しておりました。「盆槍が通るから、そろそろ種播の準備をしよう」と大根の種播の準備にとりかかったそうです。 この日は王子神社では「槍替神事」に合せて午後四時三十分から社前の舞楽殿に於て田楽踊りをしました。 田楽踊の八人の少年が冠る花笠は、「開運、魔除、子育」の縁起物とされています。踊りの終る頃に、近郷近在から集まってきた若者達の集団は舞楽殿に飛び上り、縁 起物の花笠を奪ひ合ふのであります。その壮絶な戦ひ振りは、毎年流血の惨事をひき 起しますので「喧嘩祭」ともいはれています。 この日稲付村の若者達も「喧嘩」に行く為に鎮守の森に集結して、ひとかたまりになって王子神社に繰り込みます。たとえ切れ端一つでも奪ひ取ろうと田楽踊を見に行くのであります。 従ってこの「喧嘩祭」には、一村一団となって当らなければ花笠は奪えない程凄まじいものでした。」 マニアック- 『稲付村の話』は臨場感が豊かであり、埼玉からも参拝者がおしかけたことがわかり、驚きました。 「川口の船橋」をキーワードに年代を推定すると、1891(明治24)年の船橋の設置から1928(昭和3)年の新荒川大橋(初代)開通にともなう廃止までの間となります。 女将― 「喧嘩」には暗黙のルールがあったようです。(※6、p81) この点について、かつて王子神社の宮司の家であった、大岡アイ氏(王子本町1-2-12)は次のように語った。「けんか祭りは鳥居を出ればそれで終りということになっていましたが、昭和の初め頃、音無橋(昭和5年完成)の架橋工事やそれに伴う道路(昭和6年開通)工事など建設に従事する人々も、これに加わり、中には面白半分の人もいて、鳥居から出ても奪い合いが続くようになりました」という。 アルフレッド- で、喧嘩をしたのは誰だったんですか? 女将 ― 見物人すべてではないし、氏子とは限らない、とだけは言えます。 暴れたがっている男たち、だったんでしょうね。 アルフレッド- 1980年代に復興した田楽舞では、「喧嘩」も復活したんですか? 女将― 1988年時点の報告書(※6、p83)によれば、花笠は希望者に渡しているそうです。 「喧嘩」は復活していない、穏やかなおまつりになったようです。
|
||
|
マレビト- 三太― 女将―
おかあ- 三太― おかあ-
女将― ジモティ・シニア- ※1 王子神社 http://ojijinja.tokyo.jp/reitaisai/ |
||
| (727) 80年 名主の滝 | |
|---|---|
| フィールド先生― 映画「黒川の女たち」を、見てきました。 見るまでは、何か重たい気分でしたが、満蒙開拓を歴史的にしっかり位置づけ、タブーになっていた「性接待」を、なかったことにはできないと告発した女性たち。 黒川開拓団遺族会の中には、差別と偏見から守るためには隠蔽?しかないという意見がある中、現在の遺族会会長をはじめとする地域の取り組みによって、石像でしかなかった「乙女の碑」に、その歴史を刻んだ碑文が建てられた。 それによってトラウマから解放され、笑顔が戻った女性たち。 何度も涙が流れました。 見てよかったです。 アルフレッド-「黒川の女たち」は、各地で上映中です。(※1) 明日、ユーロスペースでのトークイベントのゲストは平井和子さんです。 (https://kurokawa-onnatachi.jp/) 今日は、王子界隈フィールドワークを続けます。 このコースは観光コースです(※2)が、実は戦跡めぐりでもあります。 石鍋秀子さんが描いた地図「昭和5年頃の岸町界隈」(※3、p3)だと、左下端の「秀子」という署名のあたりに石鍋商店があります。 店内の席が埋まっていたので、お店の前でご主人(石鍋秀子さんの息子さん)にお話を聞いて、葛餅を買いました。 お母さんの石鍋秀子さんによると、昭和の初めころ=95年ほど前は、飛鳥山から音無川辺、王子神社から名主の滝にかけて、たくさんの茶店があったそうです。 石鍋秀子さん(※3、p8、63)― それらの茶店で昭和のはじめ頃売られたものは、春はおでん・だんご・茹で卵・くず餅・甘酒、夏はかき氷・ラムネ・ところ天、秋はきぬかつぎ・おでん・茹で卵、一年中売っていたのは、おせんべい・飴玉など、どこでも同じようなものでした。 桜の花が咲き、飛鳥山が一ぺんににぎやかになる。飛鳥山には高い所に一年中五軒ほどの茶店があり、縁台には赤い布が敷かれ、ゆで玉子が山とつまれ、大鍋にはおでんが湯気を上げていた。くず餅や、ところ天なども売られ、我が家も急に忙しくなる。荒川土手の五色桜にも、鹿浜の虫切りにも配達する。飛鳥山にも車がないからリヤカーや自転車、また大八車で運ぶのだから大変で、父の兄弟やら従兄弟たちも来て今ならアルバイトの人たちでごった返した。 ジモティ・ミドルー 石鍋商店の葛餅が、ただただ美味しいのではなく、それが背負っていた記憶と一緒に味わえたのが大変によかったです。 女将― 急がないと! 「名主の滝」(※4)の、「金魚すくい」に間に合わない! アルフレッドー 「金魚すくい」? 縁日の、水槽の回りにみんながしゃがみ込んでる、あれですか? 水槽の中で泳いでる金魚を、紙の網「ポイ」で追い回してすくいとる? 三太― 違う違う。 「名主の滝の金魚すくい」は、名主の滝から流れて来る水面に向けて撒かれた金魚を、つかまえるんだ。 アルフレッドー 金魚を撒く? 節分の「豆撒き」とか、上棟式の「餅撒き」みたいに? お寺の放生会とか施餓鬼とかで、生きてる鳥や魚を放つ行事があるそうですが… 金魚を放流するのは、今の日本では禁止している地域もあるそうです。 女将― ずうっと前、「ドジョウ施餓鬼」に行ったことがあった、埼玉県杉戸町の永福寺(※5)。 ドジョウを放流する、ドジョウはちょうど「そうめん流し」のそうめんみたいに、樋を流れ落ちて、下の池にポッチャン。 アルフレッドー 放つのと、つかまえるのとじゃ、全く逆のようですが。 三太― 違う違う。 「名主の滝の金魚すくい」は、お寺とも民俗とも無関係な、遊園地のアトラクション。 昭和30年前後、遠くから来る家族連れにも、近所の小学生たちにも楽しみだった。 ジモティ・シニアさん、やったでしょ? ジモティ・シニアー う~ん、覚えてないなあ…学区が違うと知らなかったのかなあ… 女将― 北区のHP(※4)に、名主の滝は、「昭和20年4月の空襲により焼失し、ようやく東京都によって再公開されるようになったのは昭和35年11月でした。」とあり、 【東京湧水巡礼】(※6)の筆者さんは、北区HPにならったのか、 「戦災で全焼、敷地は1960年にようやく再公開され、1975年に北区の公園となった。小学生の夏休み、自転車に乗って水遊びに来たことが何度もあったが、公園になってちょうど数年しか経っていなかった時期だったということだ。…宿題の絵日記にも何度か描いた記憶がある。」と書いてる、「金魚すくい」のことは言及してない。 どうやら、名主の滝は、戦災に遭った1945年から1960年までの間、閉鎖されていたと思われてるらしい。 昭和10年代、名主の滝は、精養軒が経営する東京近郊の遊園地だった。食堂などの施設は地元の大人の会合の場だったし(※7)、空襲で施設が焼失した戦後も、滝と流れとプールは子どもたちの天国だった。 ということは、「金魚すくい」は、1960年に精養軒が東京都に売却するまでの、民営の遊園地のアトラクションだったということか。 やっぱり石鍋秀子さんに聞いてみよう。 秀子さんの描いた地図(※2)の真ん中には、名主の滝の、男滝からの流れが注ぎ込んでる大きな池に、魚が泳いでいる。 石鍋秀子さん(※1、p22)― 名主の滝も夏休みと共に来園者が多くなり日曜には特に午前午後と四回くらい池に金魚がまかれ、橋の上でカランカランと金魚の入ったバケツを持った人が鐘を鳴らすと、池の中が人でいっぱいになり網を差出し、まいた金魚が入ったらもうけものとばかり大人も子供も大さわぎ。 金魚こそ哀れなもので踏みつけられて死ぬものもあり、気の弱い子は隅の方で立ちすくむばかりで一匹もすくえない。 利口な金魚はすぐ岩下にかくれ、五時頃人々が帰って少し水が澄むと岩下から出て来る。その赤い姿を待っているのはこの近所の子供たちで園が閉まるまで頑張る。 女将― そうそう、秀子さんの頃から20年ほど後、戦後の私の覚えている頃の、名主の滝の「金魚すくい」そのまんま。 私は曜日や時間がいつだったか思い出せないけど。 秀子さんの頃は、池が浅かったのかな、子どもが入って歩き回れるくらいに。 私の覚えてる頃は、池に入って捕るのではなくて、流れに入って待ちかまえてた。 流れの深さは足首くらいまでだから、小さい子でも大丈夫。 流れに向けて金魚が撒かれた瞬間、子どもも大人も一斉に追い回す、網でも手拭でも素手でも。つかまらずに池までたどりつけた金魚はいなかったと思う。 つかまえた金魚は持ち帰り自由、ただ(無料)。 撒かれてから数分間の、興奮。 右の写真(※8)、ヒトがみんな、流れに入って金魚を探しまわって いる様子が良く撮れている。 ただ、この写真の提供者も編集者も「金魚すくい」という アトラクションだったという事を知らないで、キャプションには 「水遊びをして…網で魚捕りをしている」と書いてるんだと思う。 新聞や教科書に載っている写真も、ほんとうに<その時><その場所で>撮られたものかどうか、<ヤラセ>もあるし、異なるキャプションや記事と組み合わされていることもある、って、佐藤卓己さんに教わった(※9)。 写真に、キャプションつけるって、難しいって、つくづく思う。 ![]() ※1 映画「黒川の女たち」 公式サイト https://kurokawa-onnatachi.jp/ |
|
| (726) 80年 イチョウ | |
| アルフレッド- 女将さん、いそいそと出かける支度しています。 三太― ああ、信楽谷の報告書をようやっと提出できたからだ。 いつも厳しいウサギ監督(※1)が、今回は締切過ぎて1か月たっても何も言ってこない。 【無言の圧力】に耐え抜いたおかあタヌキを褒めてやろう。 アルフレッド-で、どこへ行くんです? 女将― 王子界隈フィールドワーク。 ジモテイのシニアさん(1949生)とミドルさん(1977生)と 一緒に歩くことになって。 アルフレッドー 地図を見ながら行きましょう。(→※2の地図) 地図中央の王子駅のホームから左を見ると、飛鳥山、その上に 音無川(石神井川のこと)の対岸に王子神社の台地が見えます。 地図にはイチョウの葉っぱマークがありますが、現地では緑の塊に見えます。 この森は何百年も経っているんでしょうね。 三太― 違う違う、今の王子神社の森は、せいぜい60年くらいだ。 80年前の城北大空襲(※3)で焼き尽くされた焼け野原に、戦後に植え育てたんだ。 ジモテイ・シニア― 空襲を生き延びたのは、崖の途中の大イチョウだけだったんだよ。 東京都指定天然記念物。(※4) ![]() おかあ― 石鍋秀子さんが、疎開先から戻って来た時、王子神社の社殿が全焼して焼野原になっていた台地に、唯一焼け残っていた木。(※5) 今、大イチョウの写真撮ろうとしても、周囲の木の葉とまじっちゃうし、根元から見上げ て撮っても、なんだかわからないような写真になっちゃう。(→写真) 全国の空襲被災地で、生き延びた「戦災樹木」または「被災樹木」としてイチョウがあげられている。(※6) アルフレッド― 広島市では、 爆心地から概ね半径 2km 以内に 生き残った 159 本の樹木を被爆樹木として登録しているそうです。 「緑の伝言プロジェクト」もあります。(※7) ヒトには、緑が必要なんですね。 ※1 ウサギ監督とは長~いおつきあい「醗酵縁」です。いつも、タヌキ(=おかあ)の背中に火をつけて追い立てて、原稿提出を催促してくれます。 |
|
| (725) 80年 何でも陶器で | |
| フィールド先生― 陶製手榴弾を、埼玉県川越市のビン沼川河川敷で2012年に採集したことがありました。 その3年後、2015年に『朝日新聞』が取り上げました。(※1) 「陶器手榴弾 戦時の残像 全国の窯元製作、川越の川で野ざらし」 『朝日新聞』2015.6.4 (※1) アルフレッド- 検索してみたら、最近の2024年、2025年にも載っています。(※2) フィールド先生― 今年の6月25日にNHKで放送された「沖縄戦 戦場の人々は」の中で、 手に持った陶器爆弾が映し出されたのは驚きでした。 女将― マスコミで働く人も世代交代して、戦争非体験世代が、新たな眼で取材し伝え継いでいるということですね。 アルフレッド- 信楽焼の手榴弾の模擬弾は、戦場だけでなく、国内の国民学校や青年学校の軍事教練で使われたそうです。(※3) 信楽焼の産地の人々は、「何でも陶器で造ったる」という意気込みがある、と言ってます。(※4) その気概で、1970年の大阪万博の太陽の塔のタイルを焼いたし、今開催中の大阪・関西万博にもテーブルやスツール、 ブロックなどいろいろなモノを出展しています。(※5) 2019年には、犬型の県非公認キャラ「びわけん」が誕生しました(※6)。 僕としては、昭和初期に乾燥中だった狛犬とライオン(※7)に会いたいです。
※1 『朝日新聞』「陶器手榴弾 戦時の残像 全国の窯元製作、川越の川で野ざらし」2015.6.4 |
|
| (724) 80年 陶製兵器 | |||
|
※1 (722)80年 学徒
※4 『「紫香楽アルバム」を語る 第2集』長野区いい顔づくり推進委員会「信楽火鉢の全盛時代の職人気質」2006年、p。6 |
|||
| (723) 80年 信楽火鉢 | |
| アルフレッド- 女将さん、だいぶご無沙汰してますよ。 どこ行ってたんです? 女将― ごめんごめん、滋賀県甲賀市信楽町、信楽高原鉄道に乗ってきた。 JR草津駅から草津線、貴生川から信楽高原鉄道に乗って終点・信楽駅下車。 信楽高原鉄道が、国鉄信楽線として1933(昭和8)年に開通したとき、お祝いに華やかな山車(だし)が何台も繰り出し、 加藤茂夫さんたち小学生は花笠をつけて開通祝いの歌を歌いながら山車の周囲を踊りまわり、初めて汽車に乗せてもらった(※1)。 信楽線で、日本国中に信楽焼の火鉢が出荷されて行った、「一家に一つ、信楽火鉢」って。 (写真は「昭和20年代後半「火鉢が飛ぶように売れていた頃」(信楽町江田)『写真アルバム 甲賀の昭和』2024年、p134」)
|
|
| (722) 80年 学徒 | |
| アルフレッド- 久しぶりに飛鳥さんからメールをいただきました。 飛鳥― はーい、飛鳥です。私の名前と飛鳥山は特に何もありません 前号(※1)に登場なさった西野みのりさんから、飛鳥山の防空壕に逃げたというお話をお聞きしたことがありました。 西野みのりさん(※2より)― 王子で焼け出されたから、新橋の従姉の家を頼って、線路伝いに歩いていくんだけど、そこでも十五日に空襲にあうんです。 どこへ行っても、あのときは行く先々でひどかった。 絶対ああいう体験はこれからさせたくないんですね アルフレッド- みのりさんは、当時、女子師範の2年生だったそうです。 今の朝ドラ(※3)の主人公「のぶ」さんのように、舎監兼担任の先生にしごかれて、裁縫で苦労したり、なぎなたを振り回したりしていたんですね? 三太― 違う違う、みのりさんが入学した1944年=昭和19年4月には、授業なんか無かった。 西野みのりさん- 入学すると、すぐに学徒勤労動員で立川の昭和飛行機に行かされました。 全員住み込みで、飛行機の部品のネジみたいなものを作らされていたの。 学校といってもまさに勉強なんてもんじゃない、ひどいよね。 寮も、それはひどいところでした。 1945(昭和20)年の三月十日に下町に大空襲があって、それで動員生徒は帰されたんです。 アルフレッド- 工場で働いている人を日本語では工員と言うのでしょう? みのりさんは工員になったんですね? 三太― 違う違う、学徒が工員になったんじゃないんだ。 おかあ- 戦争が長期化して、労働力不足が深刻になり「中学生・女学生を工場へ勤労動員することを決めた。」(※4、→写真)とか、 「中学生以上の生徒・学生も兵器生産などに従事させた(勤労動員)」(※5)って、いまどきの教科書に書いてある。 先生も生徒も、今、授業を受けている生徒とおんなじ年のテイ―ンエイジャーが労働させられたんだ、ひどーい! って反応になる。 ![]() そのとおりなんだけど、ただ、戦前の日本社会は、義務教育は小学校6年までで、テイ―ンエイジャーの多くは田畑でも工場でも奉公先でも働いていた。 例えば、昭和10年(1935)前後の小卒後の進路(※6)を見ると、 中等教育機関への進学率(小学校の卒業者のうち、中学校・高等女学校・実業学校甲種・師範学校一部へ進学した者)は、 昭和5年(1930年) 男子21.1%、女子15.5% 昭和10年(1935年) 男子20.4%、女子16.5% 昭和15年(1940年) 男子28.0%、女子22.0% つまり、テイ―ンエイジャーのほぼ8割はすでに就労している、子どもが労働する社会だった。 当時の制度では、「中学生」というのは、「中学校」という男子限定の学校の生徒だけをさす言葉だったから、 男女ひっくるめて中等教育機関以上の生徒・学生を呼ぶのに【学徒】って言ったようね。同年代のほぼ2~3割。 総動員体制は、学校行ってるからって労働を免除してきた【学徒】に、学校ぐるみで「勤労奉仕」させ、やがて「勤労動員」していった。(※7) 上からの制度として強制されるだけでなく、学校が割当てを消化・実践して「報国」を競い合う、同調圧力…というのが、当時の、(2020年代の今も)動き方だと思う。 初めは農繁期のお手伝いなどの短期間だったけど、だんだん長期間になって、通年動員、つまり、授業はゼロで工場などで働く、工員とは別扱いの非正規労働者。 初めは、上級学年だけだったのが、どんどん学年を下げて、西野さんの頃には入学即就労。 学童集団疎開に行っていた6年生は1945年3月に疎開先から帰宅した、「疎開解除」と呼ぶ人もある(※8)けど、卒業したとたんに「生産」に従事させるためだった。 アルフレッド- 【ガ・ク・ト】は、学校という名の派遣業者から派遣される非正規労働者だったんですね。 飛鳥― それで、西野みのりさんをはじめ、昭和一桁生まれの方たちは、 「せっかく学校に行かせてもらったのに、勉強できなかった」って、おっしゃるんですね。 おかあ- そう、彼女たちの戦後のものすごい学習意欲の根っこ。 ※1 (721)80年 五大空襲 https://murakifile.noor.jp/m4/sa/sa26.html#721 ※2 「戦火をくぐり、平和の語り部へ 西野みのり」『凛として 市民がたどる調布の女性史』発行・調布市、p286-290 ※3 あんぱん - NHK ※4 『ともに学ぶ人間の歴史』学び舎、2022年発行(中学社会 歴史的分野、p.237、→写真) ※5 『高校日本史A 新訂版』実教出版、2019年発行(p.131) ※6(https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000313436 「レファレンス協同データベース」「昭和一桁世代の学制と進学率はどのようなものであったか」(2025.6.3検索) ※7 1943(昭和18)年6月25日 学徒勤労動員体制確立要綱 閣議決定 女学生の動員例:(715)80年 こんにゃくの行方 https://murakifile.noor.jp/m4/sa/sa26.html#715 ※8 土屋敦『「戦争孤児」を生きる ライフストーリー/沈黙/語りの歴史社会学』 青弓社、2021年 |
|
| (721)80年 五大空襲 | |
| 東京のアキコさん- 前号(※1)の気象情報から1945年冬を再現してみる、という試み、とても興味深かったです。 ・一般への公表は止められていても、気象観測とデータ蓄積は続けていた ・アメリカ軍が日本の暗号を解読し、より精度の高い予報を続けていた 記録蓄積がより良い行動への基礎となっているのは、どの分野でも同じなのですね。 例年よりかなり寒かったという事実を知ると、被災者の辛さを一層感じました。 今年1月に、96歳で亡くなった母(1928年4月生まれ)は、1945年、荒川区に住んでいたのですが、 空襲で家が焼け、避難した先でもまた、さらにと、合計3度も焼け出されました。 その混乱の中、病弱な母親を、お世話になっていた親類の家で看取りました。 遺体を焼くための木材を、17歳の母自身がリヤカーをひいて集めたそうです。 その体験を私に伝えようとしていたと今では理解できるのですが、中学生の頃の私は「何度も同じ話ばかりしないで」とさえぎって、聞こうとしませんでした。 話を聞き取ることのむずかしさと大切さを、改めて痛感しました。 ![]() アルフレッド- 3度も焼け出された? 空襲で焼け出されたら、「罹災証明書」を発行してもらって、 地方へ「罹災疎開」したんじゃないんですか? 女将― 焼け出されてすぐには、焼け残った近所や都内の親戚知人に世話になったケースが多いみたい。 焼け跡のバラック「壕舎」で「残留」せざるを得ない人もいたし。 アルフレッドー なるほど。 東京大空襲・戦災資料センター(※2)によると、東京都の区部が被害をうけた空襲は60回を超え、三多摩・島しょ部を含めて都全体では100回を超えるそうです。 「五大空襲」の表と図が、わかりやすいです(※3)。 女将― そう。 3月10日が、死傷者数が飛び抜けて多いのと、住宅密集地を狙った無差別爆撃の最初だということで、 教科書に載ってるし、マスコミも取り上げるから、たいていの人は「東京大空襲=3月10日」と思ってるけど。 被害者と遺族にとっては、空襲の規模がどうあろうと、その日が《戦争》。 三太― 石鍋秀子さんちの、王子区は4月13日「城北大空襲」だった。 秀子さんは疎開先で、西の方の空が赤くなっているのを見て、眠れぬ一夜を過ごした(※4)。 強制疎開で家が撤去されてから、残留した家族3人(父、母、夫)は近くの借家で暮らしていた。 石鍋秀子さん(※4より)― 4月13日、空襲となり、父母と主人は王子神社が燃えて森下(崖下の小地名)にも火が来、借家もやられたので名主の滝へ向かった。 その途中、稲荷神社の手前で爆弾の空を切る音で父が「伏せろ」と叫び、皆地に伏せた。 と同時に、稲荷と裏の石垣との間に爆弾が落ち、稲荷の裏の屋根の庇は爆風の為めくれ、本殿は前にのめった。 (戦後、引張ったらちゃんと元にもどった)。 十一代徳川家斉の再建で国指定文化財の柴田是信の大絵馬や幕府お抱えの絵師・谷文晁の竜の天井画も二点共無事だった。 石垣も炸裂した痕が斜めにあるが崩れなかった。」 おかあ- 今は、王子駅のすぐ前からモノレール「アスカルゴ」に乗って、飛鳥山登山ができる。 「東京とりっぷ」(※5)に載ってる写真「飛鳥大坂を登る都電は、碓氷峠越えと同じ66.7‰」で見ると、 北(右下)から南・上野方向へ「王子駅・音無川・飛鳥山」の位置関係が良くわかる。 写真のいちばん右下角からもう少し歩くと岸町・石鍋商店~王子稲荷~名主の滝に至る。 岸町は、台地の崖下の低地なので、今でも少し掘ると水が出る。防空壕を掘っても水が溜まってしまった。 石鍋家3人は、台地の裾(岸町)を北に向かって「名主の滝」に逃げた。写真では右下角からさらに右下へ走ったわけ。 岸町に住んでいた高水幸子さん、当時12歳(※6)―― 京浜東北線の線路ぎわは強制疎開になっちゃってて、空地があったのよ。 亀山のところ(王子稲荷神社の南隣、台地の中腹)、今の中央工学校のある所ね、あすこの防空壕は大きくってね、大勢入れたの。 横穴で鈎の手のように曲がっていたの。 でもお稲荷さん(王子稲荷神社)に爆弾が落ちて、その爆風でやられてしまって、みんな生き埋めになっちゃったの。 金輪寺(王子稲荷神社の北隣)に山になる程死体が集められて……。 爆弾は落ちたのにお稲荷さんは焼けなくって残ったから、さすがに火防(ひぶせ)の神様よねって言ったものよ。 おかあ- 写真左下の「下町低地」から写真中央の台地=「飛鳥山」へ逃げた人もいた。(※7) この写真中央の「飛鳥山」という字の「飛」のあたりに、横穴式防空壕があった。(※8) ![]() 西野実さん-(※9、図)。 この日あすか山(飛鳥山)のほらあな(防空壕)から見た町は、まるでじごくのようだった。 夜の空もいっしょに燃えているようだった。 夜あけになって、ほらあなを出ようとしたら、どこかのおじさんが入り口でラジオをかかえてしんでいた。 ※1 (720)80年 天気予報 ※2 東京大空襲・戦災資料センター ※3 『東京大空襲・戦災資料センター図録 いのちと平和のバトンを』監修:吉田裕、合同出版、2022年、p.12 「東京への空襲と五大空襲による焼失面積」「五大空襲による主な被災エリア」 ※4 石鍋秀子『王子に生まれて』街から舎、2007年、p。134、150 (718)80年 疎開 ※5「東京とりっぷ」「東京随一の「鉄道急勾配」は、かつての信越本線碓氷峠越えと同じ急登!」(2025.5.22検索) ※6 高水幸子『戦時下にくらした女性たち』ドメス出版 , 1997.3 ( もうひとつの北区史 ; 2 )、p。172 ※7 「飛鳥山追想 王子一丁目 営野政雄(64)」『真赤な空は忘れられない』東京都北区、1988、p60-61 ※8 『新修 北区史』1971年、p。1375 ※9 「先生の戦争体験 西野実(にしの みのり 昭和5年生)」 『《記録集》いまも心に-戦争体験を次の世代へ-』調布市、2009年、p。91 |
|
| (720) 80年 天気予報 | |
|---|---|
| アルフレッド― 葉桜の季節になりました。 石鍋秀子さんの描いた地図(※1)では、左の端っこになっていますが、【飛鳥山】は江戸時代に将軍が桜を植えさせて以来の、お花見の名所です。 明治以降も、昭和になっても、上野とともに東京の二大桜名所で、花見電車が増発されたり、大混雑。 飛鳥山から音無川、王子の町にかけて、料理屋・映画館、三業地など、繁華街でした(※2)。石鍋商店は、飛鳥山→音無川→王子神社→石鍋商店→王子稲荷→名主の滝、という観光コースの、真ん中です。 「マニアックな読者」さんから、1945年4月の上野の山の桜について投稿いただきました。(※3) “三月十日の初の大空襲に十万ちかい人が死んで、その死者を一時上野の山に集めて焼いたりした。 まもなくその上野の山にやっぱり桜の花がさいて、しかしそこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありゃしない。ただもう桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。” マニアックな読者― 当時、中央気象台が制作していたアジア太平洋地上天気図と日ごとの気温データ(インターネットで閲覧可能)から1945年2月から4月の東京の気象(午前6時と午後6時)を再現してみる。 三太― 気象を再現してみる? アメリカ相手に戦争を始めたとたんに、「天気予報」がなくなった、って聞いたぞ。 マニアックな読者― 「天気予報」を新聞やラジオで公表するのが禁止されたのであって、気象観測は継続していた。(※4) 気象情報・天気予報は軍事機密とされて1941年12月8日の開戦とともに公表が禁止され、1945年8月22日に再開されるまで、台風をはじめとする防災情報を国民が得られない状態が続いた。一方、米軍は日本の気象情報の暗号を解読するとともに、南方の気象観測結果を平文で発信した。敗戦直前の中央気象台はこの米軍情報を採り入れて、南方海上の台風進路などを把握していたという。 東京の1945年2月は最低気温が0℃をわずかに超えた日が2日あるだけで、26日は0℃以下が続き、マイナス5℃以下の日も5日あった。 これは最低気温がマイナスになった日が7日しかない(しかも最低値はマイナス1℃)。2025年2月と比べると著しい差があり、近年の地球温暖化の表れとみられる。(→グラフ) しかし、前後の1944年・1946年の2月と比べても、1945年は最低気温・最高気温とも低い傾向が明らかであって、1945年2月の東京が寒冷であったことが分かる。 なお、1945年の日本列島が大豪雪・大冷夏であったとして「終戦」との関係を論じた研究に山内大輝「終戦を促した異常気象 ~昭和20年大豪雪と大冷夏~」(※5)がある。 女将- 1944年から45年にかけての冬、疎開先での豪雪と寒さに苦しんだと、読んだり聞いたりしてきた。 集団疎開した子どもたちは自分たちのための薪や炭を自分で運ばなければならない。 縁故疎開した主婦たちも、疎開先では、何を買うにも「札びら切って…」と白い目でみられるし、薪を拾おうにも「山(=資産)」はないし、住まいだって納屋でも鶏小屋でも屋根があれば幸い、という物心あらゆる面で、疎開前の暮らしと異なるストレスのせいで、寒く感じた、のかと思ったのだけど……客観的に寒かったのね。 マニアックな読者― 3月10日夜から11日未明の東京(下町)大空襲のときには、10日の最高気温が8℃、11日の最低気温がマイナス2℃であった。このときは典型的な西高東低の冬型気圧配置で、10日18時の東京は風力4(5.5m~7.9m/秒)のかなり強い北風が吹き、気温も2℃まで下がっていた。猛火を避けて川に入ったり、水をかぶったりすれば低体温症を免れない寒さであった。(※6) アルフレッド- なるほど。 で、石鍋商店のあたりが被害にあった空襲の4月13日は、どんな天気だったんですか? マニアックな読者― 1945年4月13日6時 東京は快晴 南南西の風 風力2 気温9℃(以上は記号が重なり合っていて正確な判読は難しい)サハリンに強い低気圧があり、南西諸島に中心を持つ高気圧に本州は覆われ、南高北低型の気圧配置である。福島沖に寒冷前線が発生。房総半島では南西の強風。 6時の天気予報では、夜にかけて「南西の風、晴れ時々薄曇り 最大風速は南西の風7m 最低気温7℃ 最高気温26℃」としている。最高気温の予報値がこの時期としては異例に高いが、実際にこの日は予報通り26℃を記録した。最低気温は9℃。 1945年4月13日18時 東京は快晴 北東の風 風力4(5.5~7.9m秒 やや強い風)気温17℃ 昼間の初夏のような高温は収まった。風も寒冷前線の通過によって、やや強い北風に変わった。この北風は空爆による火災の延焼に影響したかもしれない。 翌日1945年4月14日 東京は6時も18時も晴れ 18時はやや強い南風 最高気温19℃と前日から7℃下がった。 最低気温9℃ 黄海と南西諸島に中心のある高気圧に本州は広く覆われ、穏やかな好天が続いている。 翌々日15日も東京は穏やかな好天。最高気温は再び25℃まで上がって初夏の陽気。 この後、18日まで23℃前後の高温が続いた。朝の最低気温は8~9℃。 爆撃する側にとっては、格好の好天続きであったと思われる。 ※1 (714)80年 子ども時代 ![]() ![]() |
|
| (719) 80年 ミルク | |
| アルフレッド- 秀子さんは昭和19年(1944年)夏に赤ちゃんを産みました。 大正13年(1924年)生れですから、20歳。 2025年現在の日本では「若年(10代)妊娠」が問題視されています、 秀子さんは『ヤンママ』だったんですか? 三太― 違う、違う。 秀子さんは、女学校卒業したあと、親の言う通り、家業を継ぎ、婿さんを迎えて結婚した、当時の普通の女性。 女将―昭和16年(1941年)の閣議決定、「人口政策確立要綱」(※1)は、「産めよ増やせよ」で知られるけど、早婚を勧めて、 女子には「二十歳を超ゆる者の就業を可成抑制する方針」も掲げた。 行政も新聞雑誌も、「結婚報国」「出産報国」を煽ってた。 女学生は、「卒業したらすぐに結婚してたくさん子どもを産みます」って言うと褒められた。 アルフレッド- そのころの新聞雑誌には「産め」だけでなく「死なせるな、育てあげろ」も目立ちます。 乳幼児死亡率を低下させて「世界人口資源戦」にうち勝つため(※2)、と。 なるほど、戦争する国は子供を欲しがる、日本も、ナチスドイツも、今のロシアも。 女将― 秀子さん、母乳が足りなくて困った。 戦時下の乳不足について、『写真週報』も『主婦之友』も、母乳で育てるという決心を要求しながらも、牛乳の薄め方や、 代用乳の作り方など、けっこう、載せていた。 対米開戦後の昭和17年5月号『主婦之友』の「戦時の育児十二ケ月」(※3)など、きっとたくさんの女性に読まれてたと思う。 昭和19年10月号『主婦之友』では、内藤寿七郎医学博士は、「即座に間に合ふ赤ちゃんの非常乳(※4)」として「炒った穀豆粉(こくづふん)」をあげている。 つまり、空襲下では米・小麦・大豆などの粉を水で溶けばよい、と。長文の最後に ▲空襲の衝撃のため、出てゐたお乳がぴったり止ってしまふといふことも事実あり得ますが、しかしこれも母親の肚のすゑ方一つでよほど違ひます。 必至の空襲を控へて、日頃からちよっとのことで物に動じない心の鍛錬を、戦時の母親は忘れたくないと思ひます。 けど、現実に空襲警報が発令されるようになって、 「夜中に赤ん坊をおぶってミルクとおむつを持ってね。すぐ降りられるように、なるべく玄関の近くに靴を履いて寝てましたよ」(石鍋秀子※5) という日々、秀子さんだけでなく、当時の母親の多くが、乳が止まっていたと思う。 アルフレッドー 赤ちゃんのミルクは優先的に配給しそうなものですが? 女将― 牛乳はカゼインという物質の元だからって軍需物資。(※6) 昭和15年(1940年)11月から乳製品は切符制になっていた(※7)。 ミルクも、代用品の穀粉も、入手するには、医師か産婆に「乳不足です」という証明書を書いてもらわなくちゃならない。 もちろん、お金も必要。 という、手続きは知っていたけど、じゃあ、産婆さんは、どうやって「乳不足」だと判定したんだろう? 石鍋秀子(※5、p。132より)― お乳が出るか出ないかって、保健所へ行ってみんなで部屋に入って一斉にお乳を含ませて20分ぐらい、 そのあと赤ん坊の体重を量って、それで本当に出ないということを証明するとそこでミルクをくれるの。 そこで私はお乳が出ないのを証明してやっともらったんですよ。 それなのに、2階に寝ていて空襲だっていうんで降りてくる途中にミルク落としちゃってパアーと広がっちゃって、もう涙がボロボロ出ましたよ。 残っているミルクをすくって… 女将― 保健所の一室、授乳のビフォー・アフターに赤ん坊の体重を測っている母親たち…、 やっと貰ったミルクをこぼしてしまった秀子さんの涙… アルフレッド- 疎開先では、転入手続きをすれば、配給を受けられるのでしょう? 女将― 配給は、全国一律じゃなくて、都市部と農村部では配給される品も頻度も大きく異なっていた。 そもそも、牛乳・ミルクという商品を購入するのは都市の暮らし方だったわけで。 農山村では、戦後まで、乳不足には米の粉か重湯を用いるのがあたりまえだったし(※8)。 山羊を飼って自給しろ、って奨励されてたし…。(※9) 秀子さんの疎開先は、姑さんの隠居所(※5)。 農家である本家の別棟に、姑さんが一人で住んでたところへ、《嫁の核、4人》、《娘Aの核5人》、《娘Bの核1人》の10人が疎開して来た。 石鍋秀子(※5より)― お乳が出なくて、本家からもらった麦うで汁(馬の飲み物)を赤ん坊に飲ませた。 アルフレッド- 麦うで汁? スープですか? 石鍋秀子(※5より)― 丸麦を囲炉裏でぐつぐつとゆでて、その汁だけは馬にやり、外側のはじけた丸麦に少しお米を入れて炊く。 女将― 麦飯ですね。「毎晩ゆでてえまし麦にし、翌朝、米と一緒に炊いて麦飯にする。」って、茨城県の農家で、ふだんの食事として、聞きました。(※10) 豊かな農家でも、高度成長期まで、白米だけの御飯は「もの日」の御馳走だった、と。 石鍋秀子(※5より)― これは田の少ない山間の村の昔からのやり方で、その馬にやる汁をもらって哺乳瓶に入れて飲ませましたよ。 毎夜、夜中に4歳の妹が、何も言わずただ泣く。 皆に迷惑をかけるので、上着を着せ、山にかこまれた暗い道を、妹が疲れて泣き止むまで歩いてから寝かせた。 涙に濡れて眠る妹の顔を見ると私も泣きたいように不安であった。
|
|
| (718) 80年 疎開 | |
| アルフレッドー 3月10日のあと、石鍋秀子さんはずうっと東京にいたのですか? もう、東京には大空襲はなかったんでしょう? 女将― たいていの人が、3月10日の「東京大空襲」しか知らないから、そう思うのは無理ないんだけど- 秀子さんち「石鍋商店」は、3月10日には無事だったのに、建物疎開の対象にされてしまった(※1)。 アルフレッドー 「タ・テ・モ・ノ・ソ・カ・イ?」 「疎開」って日本語は、人を危険な所から移動させる「避難」の意味じゃないんですか? 「建物」を安全な所へ移築するんですか? 三太― 違う、違う。 「建物疎開」ってえのは、建物を壊して空き地を作ることだ。 2025年の今、おらんちの近所で進行中の「解体」とおんなじと言いたいけど、1945年のときは、権力剥き出し、「お国の為に」と煽り立てて、すごい短時間で立ち退かせてぶっ壊す、 だから「強制疎開」と言われた。 女将― 日本の戦時中の「疎開」政策はね(※2、3)、 まず、戦争遂行のために、重要施設を防衛すること、都市機能を分散させることから始まった。「建物除却」=「強制疎開」。 1944年に入ると、「物資疎開」「人員疎開」へと重点が移って行った。都市防空と生産とに役立つ者には疎開を禁じ、足手まといになる者には「縁故」に頼って疎開するよう強力に勧奨された。 8月からの学童集団疎開が良く知られている。秀子さんの妹が通っていた王子第二国民学校の疎開先は、群馬県富岡町の旅館(※4)。 11月、「老幼者妊婦等の疎開実施要綱」、東京への空襲が頻繁になっていく。 石鍋秀子― (3月10日)何時間たったのか静かになった時、明日はどうなるか分からないが今は生きているのだと感じた。朝が来てラヂオや新聞で大変な被害が報道された。 髪の毛もおぶった赤ん坊のねんねこも焼けこげた女性たちの被爆者を見、隅田川は死体でいっぱいだったと聞いたので、次の夜からは足許に油紙を敷き、 靴を履いて、おぶい紐を手に持ち、赤ん坊のそばに寝た。空襲警報が鳴るとすぐにおぶって王子神社の音無川よりの崖にある防空壕に走った。 それから間もなく、前の王子警察から周りに空地が欲しいから強制撤去せよとのこと。 二週間ほどの間に私の生まれ育った家は壊されることとなり、六年生の妹と一年生の弟は栃木に、日劇で風船爆弾作りの父と中島飛行機に通う主人と母は岸町に、 私たち親子と末の四歳の妹と祖母は主人の実家福島に近い茨城へと、家族は三カ所に別れ別れとなった。 アルフレッドー 家族が3カ所に?! 女将― 今から40年近く前だけど、疎開体験者にアンケート調査をして「疎開とは女にとって何だったのか」にまとめたことがあった。(※3) 「疎開」と聞くと多くのひとが「学童集団疎開」、つまり子供の経験だと連想するのだけど、人数的にもっと多かった「縁故疎開」について、 当時、既婚だった女性、いわゆる主婦188人の経験を尋ねたわけ。 「ご家族は全員一緒に疎開しましたか?」への答えは、 単純に2カ所(都市の自宅(残留)と疎開先)だったのは49%。家族数が多ければ多いほど、多くの地へ分散していた。 5か所に分散していた例―(1)廃業移転した世帯主夫婦と幼児2人、(2)息子A出征、(3)息子B出征、(4)残留(息子C=学徒動員、娘3人=勤務)(5)小学生2人=学童集団疎開。 「疎開先との関係」を聞いてみた。 お上や新聞なんかが「縁故を頼れ」と宣伝してたけど、私が直接知っていた例では、「縁故」がなくて困った例とか、女(妻)の実家を頼って行った例とか…。 家族制度に従えば、男(夫)の係累を頼って行くはずじゃないのか? 戦後の都市の核家族で育って、戦後の憲法・民法を基準に考えていた私には、不思議でしょうがなかった。 で、188回答に様々な手記・聞き取りを加えて考えてみたら- 大ざっぱに言えば、農村地域に縁故があれば、それが夫方か妻方かこだわらないで行く。 「縁故」とは、顔を見たこともない遠縁、たとえば、いとこの夫の実家の…というつながりを無理にたどっていった先も「縁故」と一括されていた。 大日本帝国って、男系社会じゃなくって女系でも男系でもいい、っていう双系社会なんだ、って思えてきた-こんなこと、社会学者とか文化人類学者とかが、 とっくに論じていたのかも知れないけどね。 大日本帝国の「家」には、その「家」に生まれた者の生存を保証するという機能がある。嫁が病気になったとき、実家が引き取って扶養する。 「家」を出た息子が失業・帰郷したとき扶養する。外孫(よその「家」に生まれた者)を扶養しなくても非難されない。 そして、極限状況で、「家族」は、《核(女とその未婚の子どもたち)》ごとに分裂して行った。《姑の核》《嫁の核》《小姑の核》…《祖母の核》《母の核》《娘の核》… 女の夫は、生み込まれた《母の核》か、作った家族《妻の核》か、どちらを重視するのかという選択を迫られる-あ、これって平和な日常にありふれたことかも。 アルフレッド- で、秀子さんの場合は? 女将― 一家には2夫婦いた、《母の核》と《秀子さんの核》と。 自宅に残留したのは、生産2人(父、夫)と防空1人(母)。 《母の核》は、父(=母の夫)の生家(栃木)に小学生の娘と息子を預けた。学童集団疎開に参加させるのでなくて、縁故疎開させたわけ。 《秀子さんの核》は、夫(=秀子さんの夫)の生家(茨城)に、妻子と妻の妹と妻の祖母を託した。 受け入れ側の農家も、人手も馬も徴発されて肥料も農具も足りないづくしで、収穫物は「供出」させられて、暮らしは苦しくなっていた。 そこへ野良仕事のできない都市住民が何家族も頼ってきて… 疎開した都市の人々も、戦後に、元の土地に戻れたのは24%。多くが住宅も職業も、そして家族をも失っていた。(※3、5、図) 21世紀の現在も、大災害のニュースに接するたび、避難者側にも受け入れ側にも、ことばにできない苦しみが積もっているだろうと、胸苦しくなる。 ※1 石鍋秀子『王子に生まれて』街から舎、2007年 ※2 逸見勝亮『学童集団疎開史―子どもたちの戦闘配置―』大月書店、1998年 ※3 むらき数子「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート 特集 戦場化する銃後―空襲・疎開・勤労動員』女たちの現 在を問う会、復刊5号、1983年 ※4 東京都北区『真赤な空は忘れられない』1988年 東京都北区『北区戦後70年誌 記憶が紡ぐ平和への願い』2016年 ※5 むらき数子「或る解体」『銃後史ノート』復刊5号、1983年、p94-95(図) |
|
![]() 王子区に住んでいた7家族(Y夫婦とその親族)の疎開による移動の軌跡 (「或る解体」p95) |
| (717) 80年 火叩き | |||||
| 海辺のうずら- 今年(2025年)2月8日土曜日の東京新聞「戦後80年に読みたい本」の欄に、 暮らしの手帖社の『戦争中の暮しの記録』を投稿したら載せてくれました。 うちは 父と母が戦争に参加したんですけど、全くそれを語らなかった。 暮らしの手帖の本で 私は戦争のことを色々知りました。 アルフレッド- 『暮しの手帖』社は、戦争中から、戦中・戦後に至るまでの『暮しの記録』シリーズ5冊を出しています。(※1) 海辺のうずらさんが読んだのは、どの本ですか? 海辺のうずら- 1968年版です。 あれはもう熟読しました。 「焼夷弾は、たたけば消せる」そういわれて、逃げ場を失った話。そこが戦場だった、という話。最初に書いてあって、感動しました。 1969年の保存版買いました。 あと2018年から19年にかけて出た『戦中・戦後の暮しの記録』3冊のうちの2冊も持ってました。 今探したらみつからない。 このごろ、どんどんどんどん本を捨てているの、資料も。 その勢いで、暮らしの手帖の戦争シリーズも捨てたんでしょうね 私はあのボロボロの手帳の上にバラの花が載っている表紙の、復刻版が好きなので 買い直そうと思います。 おかあ- 海辺のうずらさんがお奨めのシリーズ(※1)を、図書館のジロちゃんに揃えてもらいました。 うずらさんが熟読した「1968年版」の巻頭詩は、 <戦場>は いつでも 海の向うにあった から始まる。 私が幼い頃、父から聞いたお話<戦争>、その舞台はいつでも<海の向う>だった。 なんで、いつでも日本の戦争は<海の向う>だったんだろう? 疑問に感じるようになって、読んだ本の一冊が『戦争中の暮しの記録』だった。 今、私の本の山から掘り出した「1969年 保存版」は、ハードカバー。 終戦から22年後、雑誌『暮しの手帖』の募集に応じた1736篇の記録から、まるごと1冊を特集号としたのが「1968年版」。 「1969年 保存版」は、「1968年版」に「附録」2本を加えたもの。 「附録1 戦争中の暮しの記録を 若い世代はどう読んだか」。「昭和12年以後に生まれた人」に限り、応募1215篇の中から22篇を載せた。 「附録2 戦争を体験した大人から 戦争を知らない若いひとへ」戦前派・戦中派から寄せられた866篇の中から20篇。 それからほぼ50年後の、2017年、『暮しの手帖』が創刊70周年記念企画として募集し、寄せられた2390通から、157点を収録したのが「2018年版『戦中・戦後の暮しの記録』」。 2018年版に載せられなかった投稿に、1967年募集時の未収録投稿を加えたのが、「2019年『戦争が立っていた』と「2019年『なんにもなかった』。 編集者すべてが、「戦争を知らない世代」=非体験世代。 アルフレッド- 女将さんは「戦前派」「戦中派」「若い世代」「非体験世代」の、どれなんです? 女将― 「若い世代」。1969年編集者から「若い人たち」と呼ばれている一人。 「非体験世代」だけど、高度成長期より前の、戦前から戦後のなごりの中で育った。 アルフレッド- 江刺昭子さんが次のように書いています(※2)- 2018年版『戦中・戦後の暮しの記録』は、手記だけでなく、当時の写真、日記、家計簿、戦場からの絵手紙と、表現形式はさまざま。 体験者本人が書いたものだけでなく、子や孫の聞き書きもあれば、父の手記を娘が抜粋して投稿したものもある。 ということは、当事者がいなくなっても継承の手だてはあるということだ。 アルフレッド- なるほど。 で、海辺のうずらさんが言った、「焼夷弾を叩く」というのは? 女将― 「火叩き」、おかみが推奨した「防空七つ道具」の一つ。 1943年、内務省推薦の作り方は、長さ1mから3mくらいの「竹か棒に棕櫚縄か襤褸縄等をとりつけて作る」、デパートの防空用品売り場では、65銭で売ってた(※3)。 当時、隣組の防空防火訓練の群長だった男性(※4)によれば、「はたきをごつくした様な」もの。 訓練の呼びかけに集まってくる隣組員たちは、防空づきんをかぶり、救急袋を肩に、モンペ、ズック靴か地下足袋をはき、軍手をはめた手で、バケツか火叩きを持って来ます。 「どこの家でも、水をいれたバケツと火たたきと砂袋は、いつでも持ちだせるように、入口に用意されてあったのです。」 燃え始めた家の壁に水をかけて、消えかかったところで、火叩きで、火の粉を叩き落す、という訓練をしていました。 アルフレッド- 石鍋秀子さんが押入れで【待避】していた間にも、玄関に火叩きがあったんですね? 女将― う~ん、秀子さんは回想(※5)の中で「火叩き」のこと、書いてない… 国民学校の先生・松本愛さんの当時の絵日記(※6)にも書いてない。 ヒトは、その時、「あたりまえ」のことは、記憶に残らないし、わざわざ書かないからでしょうね。 アルフレッド- で、火叩きで、焼夷弾の猛火を消せたんですか? 女将― 群長さんは、 「結局私の防空防火訓練は実を結ばなかったようでした。 やがてやってきた大空襲に、私たちは広場の防空壕に。 そこも逃れて、爆音と煙の中を安全地帯を求めて、逃げのびていったのですから…。」 ※1 暮らしの手帖社「暮しの記録」シリーズ 1968年 『戦争中の暮しの記録』 1969年 『戦争中の暮しの記録 保存版』 2018年 『戦中・戦後の暮しの記録―君と、これから生まれてくる君へ』 2019年 『戦争が立っていた:戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集戦中編』 2019年 『なんにもなかった:戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集戦後編』
※3 水島 朝穂、大前 治『検証 防空法:空襲下で禁じられた避難』 法律文化社、2014年、p。93 ※4 『戦争中の暮しの記録 保存版』1969年、p。204「防空演習」 ※5 石鍋秀子『王子に生まれて』街から舎、2007年 ※6 「松本愛さんの戦中絵日記」『戦中・戦後の暮しの記録』2018年、p.137-152 |
|||||
| (716) 80年 押入れ | |
| 調布のユキコさん― 小林エリカさんの本『女の子たちの戦争-風船爆弾作戦と本土決戦準備』を読んだことをきっかけに、登戸研究所見学に行きました。 13人もの人が集まり、広がりを持てたこと良かったと思いました。 (明治大学平和教育登戸研究所資料館 | 明治大学) アルフレッド―80年前の3月10日の東京は大空襲でした。 石鍋秀子さんは、どこにいたんですか? 女将― 押入れ(おしいれ)。 アルフレッド- オ・シ・イ・レ? 僕の国・イギリスでいう「エア・レイド・シェルター air raid shelter」(※1)、 日本語で「防空壕」ですか? 三太― 違う、違う。 「押入れ」ってえのは、主に寝具を収納する設備で、造りつけの木製の戸棚だ。(※2) 昭和・戦前の都市の木造の和風住宅にあった、いわばクローゼット。 21世紀のおらんちにゃ、畳敷きの和室も押入れもないから、おら、実物は知らねいが。 アルフレッド― 木造の家の中の、木製の押入れの中に? それで焼夷弾を防げると? 女将― そう、だって、当時のお上が、そうするようにって、推奨してたから(※3)。 アルフレッドの故郷・ロンドンが開戦直後からドイツ空軍の猛爆撃を受けていることを踏まえて、 1940年(昭和15年)10月2日の『写真週報』が「日本の都市が空爆されたら」という実況風の絵入り記事を載せている(※3)。 記事を要約すると― 鉄筋コンクリートのデパートが、一発の爆弾で全店破壊され、店内にいた人が全員死亡した。 道路に落ちた爆弾で100メートル圏内の全員死亡、5メートル先にあった防空壕の中にいた人たちは即死… 二階建ての料理屋を突き破った油脂焼夷弾が5メートルの火柱をあげた。 けれども、防空壕に待避していた隣組の人達が飛び出してきて、バケツで防火用水の水をかけて消火した。 「この分なら消防ポンプを持たなくても火事にはならないやうです」 なんか、爆弾は怖いけど、焼夷弾なら消し止められる、って印象… 同じ号の、「隣組製防空壕」というページでは、「箸より重い物を持たない…ご婦人たち」が、空地に深さ2メートルほどの壕を掘って、周りに土嚢を築いている。 で、ずう~っと『写真週報』みていくと、1937年制定の「防空法」が改正されるに伴って、「防空壕」の呼び方が「待避所」に変わっていった。 場所が空地や屋外の壕から、屋内の床下や押入れに変わっていった。 「避難」じゃなくて、消火に飛び出すまでの「待避」なんだ、って。(※4) 1943年10月の防空法改正、1945年1月19日の閣議決定「空襲対策緊急強化要綱」に至るまでには、都市からの退去を禁止して消火を義務付ける法制によって、 《逃げるな、火を消せ》が浸透していた(※5)。 アルフレッド- なるほど。 3月10日の夜、石鍋秀子さんが、自宅の押入れの下段に、女性5人(大人3人、乳幼児2人)で入っていたのは、お国=隣組の指示通りの行動だったんですね。 石鍋秀子(『王子に生まれて』より※1)― 20年3月10日、浅草など下町一帯が焦土と化した大空襲の夜がやってきた。 岸町は低地の為、骨折ってやっと作った立派な防空壕もじわじわと水がしみ出し入ることが出来なかったので、押入れの上段に布団を入れ下の段に防空頭巾をかぶり入っていた。 一間の押入れの下に私、赤ん坊、末の妹、母と祖母の女5人が、防空頭巾をかぶりミルクとおむつを持って入った。 今夜は空襲警報と同時に敵機の音、そしてサーチライトと照明弾が花火のように空と地上を、まるで真昼のように明るくし、次々と爆弾の音がした。 浅草上野の方の空が真赤になり、あの空の下でどんなに残酷な事が起こっているかと思うと、そして私たちの頭上にも敵機がやって来るのかと思うと恐ろしかった。 死か生か、総ては神に祈るほかなかった。 何時間たったのか静かになった時、明日はどうなるか分からないが今は生きているのだと感じた。 ※1 イギリスの防空壕 |
|
| (715) 80年 こんにゃくの行方 | ||
|
アルフレッド―
アルフレッド― ※1 石鍋秀子『王子に生まれて』街から舎、2007年 |
||
| (714) 80年 子ども時代 | |
| アルフレッド― 女将さん、ページを繰っては、ためいきついてます。 女将― 世の中には、物覚えのいい人っているんだなぁ…。 図書館のジロちゃんから借りた『城南旧事』(※1)では、林海音さんが、100年前の中国の北京(ペキン)で過ごした、 5才から13才までの子ども時代を描いてた。 街の風景、たくさんの人のしぐさ、おしゃべり、着ていた服、靴…、雨、風… で、前号、読みかけていた石鍋秀子さんの『王子に生まれて』(※2)に戻ったら、 ほぼ100年前の、東京市王子区岸町での、昭和戦前の「焼ける前」の子ども時代。 おうちは商店で、家族と従業員でいつも十数人、人の出入りは多いし、近所の子どもたちと遠出はするし…。 70才過ぎて描いた地図は子どもの頃の「焼ける前」をよくぞ記憶しているものだって、驚きためいきをつくばかり… アルフレッド― 「焼ける前」って、なんですか? 女将― 空襲で「焼け出され」た人たちが、「罹災する前」をさして言ってた言い方。 私は「焼ける前」にはまだ生まれてなかった。 私、学校入るまで、うちにばっかりいて、一人で出歩いたことがなかった。 幼稚園にも保育園にも行ってなかったし、友だちと遊んだことがなかった。 紙芝居を見に行ったこともない…。 三太― おかあ、五才の頃から「ボーッと生きて」たんだ。(※3) 思い出せないんじゃなくって、そもそも、知らなかったんだ。 秀子さんが描いてくれた地図(→)をなぞってみたらどうだ? ![]() おかあ― 秀子さんの地図を見て、ああ、そうか、と思えるのは、私も小学校3年くらいから出歩くようになったからでしょうね。 昭和30年代前半は、地形や道路が変わるほどの開発はされてなくて、まだ焼け跡の空き地があったり、井戸も見かけたし。 『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』という本(※4)を見たら、1931年(昭和6)から、1936年(昭和11)までに生まれた10人が子ども時代を語っている。 タイトルにあるように、『昭和二十年夏』に子供だった人達10人の経験がテーマなのだけど、それぞれに、終戦まで「普通の子供」だった。 激変した前後を詳しく語らせているのは、聞き手の梯久美子さんの力なんでしょうね。
|
|
| (713) 80年 こんにゃく | |
| アルフレッド― 女将さん、テレビがどうかしましたか? 女将(=おかあ)― お寿司のネタに、こんにゃくだって! こんにゃくは、お菓子のグミだけじゃなく、魚や肉の代用食品に使われてるんだって。 こんにゃくって、何回も植え替えて、収穫したら切り干しにして…食品になるまで手間がかかるのね。(※1 写真) ![]() 三太― 戦争中は食品じゃなくて、軍需物資だって聞いたぞ。 おかあ― そんな、まさかー。斎藤美奈子さんが昭和17年(1942年)3月号の『主婦之友』に、カレーライスにコンニャクを入れる(※2)、って載ってるって書いてた。 そうだ、王子稲荷へ行ったとき、「狐火の街」を買ったお店「石鍋商店」(※3)。 くず餅で有名だけど、戦前からの本業は、こんにゃく屋さんのはず。 石鍋商店の女将さん・秀子さんに聞いてみよう。(※4) アルフレッド― 女将さん、タイムスリップしちゃいました。 80年前、1945年(昭和20年)の2月です。 確かに、王子警察のそばに「石鍋商店」がありますが、店は閉まったままです。 空襲警報のあいまにも、街に子どもの姿がありません。 女将― 石鍋商店、秀子さんが婿さんを迎えた昭和18年(1943年)頃までは、寒天・ちくわ麩・しらたき・こんにゃくなど作ってた、「こんにゃく屋」だった。 くず餅は、冷蔵庫のない時代、1月から6月まで限定の季節商品だった。 昭和19年(1944年)になったら、原料のこんにゃく粉が、配給もこなくなって、閉店。 婿さんは徴用されて中島飛行機へ飛行機作りに行き、秀子さんのお父さんは日劇に行ってる。 小学生は学童疎開、小さい子は田舎へ預けられる縁故疎開で、いない。 アルフレッド― 【日劇】って、有楽町にあった劇場でしょう? 正式には「日本劇場」といって、4千人も入る大きな劇場だったそうです。近くに、【宝塚】=「東京宝塚劇場」もあって。 で、お父さんは日劇へお芝居見に行ってるんですか? おかあ― 風船爆弾を作ってる。 石鍋秀子さん― あれ、こんにゃくの材料を”糊”にして和紙を貼って作るんですよ。 こんにゃくの糊だと雨に濡れても丈夫なんですよね。(※5) おかあ― こんにゃく屋が、爆弾のためのこんにゃく糊を煮る、なんというブラックジョークだ… でも、大量のこんにゃく糊を扱わせるのに、プロであるこんにゃく屋を徴用する、きわめて合理的だったんだ。 ※1 「コンニャクの切干(山梨市(牧丘町)昭和38年」『保存版昭和写真大全峡東』p.144 ※2 (654)戦下のシチュー ※3 (249)三太キツネ耳(3) おかあ、瞬太にも安倍祥明にも会えなくて、石鍋商店で「狐火の街」(くず餅で有名な(有)石鍋商店の商品、栗むし羊羹)を買って帰ってきました。 ※4 王子 石鍋商店 石鍋秀子『王子に生まれて』街から舎、2007年 石鍋秀子「商店の跡取り娘に生まれて<語り手>石鍋秀子」『戦時下にくらした女性たち』( もうひとつの北区史 ; 2 ) ドメス出版、1997 ※5 石鍋秀子「商店の跡取り娘に生まれて」 p。128 |
|
| (712) 乙巳 | |||||||
| アルフレッド― 女将さん、今年は巳年だそうですね、詳しくは、「乙巳」と書いて「きのと・み」。 「乙巳の変」は「いつしのへん」と読むそうです。(※1) 西暦645年にあたる「乙巳」の年、日本列島では20歳のテロリストが時の権力者を暗殺した…ややこしくて、僕にはわかりません。 2025年の前の「乙巳」は、1965年、1905年…日韓関係の節目だったそうです。 今年は良い節目であってほしいですね。 で、年賀状の机上展覧会の準備状況は? 女将― 今年はねェ… 年賀状、こちらから送るのは大混乱でしたが、たくさんいただいて嬉しかったです。 昨年末の郵便料金値上げを機に、はがきをやめたり「卒業します」も聞こえてきましたが。 ところが、図柄としては、ヘビは描きにくいのか、手描きは少なかった。 三太― 少数精鋭の展覧会だ。 まずは、昨年は過重な仕事をさせられて「ヘヴィーでした」さん、正月休みは飲みすぎなかったかな。① 子ども4人と「奮闘中」さん、毎日、てんやわんや。② 東京の東のほうから、白蛇さんが小判を背負ってきてくれた。③ 東京の真ん中の、都市農家さんは、野菜の宝船を作ってくれた。④ 東京の西、山梨県に移住したお医者さんは、零下10度、巡回してくるノラ猫に 「kennelならぬNekoneruネコ寝るをつくってやりました。」⑤ 締めは、今年も調布のデコちゃん、「まあるく良い年でありますように」⑥2001年
※1 645年の「乙巳の変」= 中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した。 1905年「乙巳条約」=「第二次日韓協約」 1965年「日韓基本条約」、日韓国交回復 【参考:「韓日3度目の乙巳年」『朝鮮日報』2025/01/19 11:55】 ※2 年賀状の机上展覧会。毎年恒例です、 2017年は (448)アルフレッド・狛犬さん ね (鳥) 2018年は (477)アルフレッド・狛犬さん に (犬) 2019年は (514)アルフレッド・狛犬さん み (イノシシ) 2020年は (542)アルフレッド・ねずみは福の神 (ねずみ) 2021年は (579)アルフレッド・卒業 (牛) 2022年は (613)虎か猫か (虎) 2023年は (646)干支引継ぎ式 (うさぎ) 2024年は (681)辰・りゅう・龍 (りゅう) |
|||||||
| (711) 兵隊の給食 | |
| アルフレッド― 女将さん、給食というのは、学校だけじゃないそうですね。 女将(=おかあ)― そう、人が複数いるところ、「作る人、食べる人」が発生する。 作る人と食べる人とが「家族」だと「おうちごはん」ということになるけど、「家族」に限らない関係で、お客ではないと「給食」って呼ぶことになるみたい。 三太― おかあ、図書館のジロちゃんから『戦艦大和の台所』ってえ本貰ってきた(※1)。 おかあ―この本『戦艦大和の台所』は、軍事オタクにはこたえられないでしょうね。 旧海軍では、烹炊員と呼ばれる主計兵が、調理に専従していた。 戦艦大和では、約70人の烹炊員が2500人分の一日4食を作っていた。戦闘中も戦闘食を作っていた。 三太― 軍隊じゃあ、男が食事作るわけだ(※2)。 おかあ― 陸軍でも、『軍隊料理法』(1910)などの教科書を作って兵食の研究・教育が進められていたそうだけど(※3)、 戦闘中とか行軍中は誰が調理したのかな… 昔むかし、私がこどもだった頃、新聞さえ妻や子どもに取りに行かせる亭主関白だった父が、母の不在時に、 ご飯を炊き味噌汁を作ったことがあった。ああ、男は、できてもやらないんだ、って知った。 兵隊経験のある男は、サバイバル技術を身に付けてたんだ。ボタン付けも飯炊きも。 でも、他者(妻、娘、嫁など)にやらせて、多様な食器にきれいに盛り付けた食事を給仕されるほうが快適。 だから、他者がいれば、男は絶対に自分ではやらないんだ、って。 ※1 高持直史『戦艦大和の台所―海軍食グルメ・アラカルト』光人社、2010年。 |
|