(680) 今冬の黒猫 | |
アルフレッド− ※1 ノアは2022年秋の3か月、むらき家を巡回していました。 (635)さすらいのノア (636)ノアは安兵衛? (638)ノアはイッパイアッテナ? 2023年春先にちょっとだけ顔見せしたのはラスカルです。 (662)さくら猫ラスカル 1968 『スプーンおばさんのぼうけん』 アルフ=プリョイセン著、ビョールン=ベルイ画、大塚勇三訳、学研プラス(原著1960) |
(680) 今冬の黒猫 | |
アルフレッド− ※1 ノアは2022年秋の3か月、むらき家を巡回していました。 |
(679) ウサギの受難 | |
アルフレッド― ウサギ諸君が我が世の春と祝った(※1)ウサギ年も残りわずかです。 12年前のウサギ年は2011年、女将さん、まだ年賀状の机上展覧会やっていませんでした。 三太くんが、子育てに奮闘(※2)しているうちに、大地震と原発事故で未曽有の年になりました。 その前のウサギ年は、1999年、1987年、1975年、1963年、1951年、1939年… 三太― おかあ、1939年=昭和14年の写真雑誌をひっぱりだした。 お国が発行していた『写真週報』昭和14年1月4日号。(※3) おかあ― 「今年は卯年」って見出しの続きが良く見えない。 35ページを見てびっくり! 「兎も戦争に」 「酷寒の中に身を曝し戦ひつづける我が勇士の身を護るために、兎毛は欠くことの出来ないもの。 防寒帽、防寒外套、手袋等の裏、むくむくとした暖かい毛皮を献じてゐるのはみんな兎」 アルフレッド― 戦時中にウサギ飼育が流行っていた(※4)のは、毛皮にするためだったんですか。 イヌ年に、三太君が言いました。(※5) 「戦争はイヤだ! 軍用犬になるのも 毛皮にされるのも イヤです」 ウサギの諸君も言いたかったでしょうね 「毛皮にされるのはイヤです!」 ※1 (646) 干支引き継ぎ式 ※2 (209) 三太産婆猫 ※3 『写真週報』は、昭和13(1938)年2月16日、内閣情報部(のちに内閣情報局)によって創刊され、敗戦直前の昭和20(1945)年7月に至るまでに375号が発行された。 ※4 熊谷元一 2003.11.25 『写し続けて69年 會地村−阿智村 昭和・平成』 熊谷元一写真童画館編集発行、p99 【兎】「最近陸軍で兎の皮を買上げるので養兎が盛んになった。販売は農会で斡旋してゐる。一枚一円十銭二十銭位が普通の値だ。」 ※5 2018年 年賀状 |
(678) 太鼓獅子 | |
アルフレッド― 年内、各地で大雪、お見舞い申し上げます。 女将さんがご縁のあった新潟県柏崎市では、海沿いの市街地でも12月1日に降雪、12月22日から23日には48cm。 市の南のほう、山の中の集落では110cmとか140cmに達し、停電もしたそうです。(※1) 女将― 東京でも、この数日、ぐんと寒くなって、朝はマイナス1度。 皇帝ダリアがすっかり霜枯れたので、撤収作業してたら、足先が冷えてジンジン痛んできた。 ペレットストーブに点火する。 カルシファーに逢いたいし(※2)。 三太― おかあ、ライターとかチャッカマンだと指先に力が足りなくって、うまく点火できない、って、クラシックにマッチを買ってきた。 アルフレッドの出番だ、なんで太鼓を転がしてるのかわかんないが―。 ※1 「2023.12.24 ふるさと石黒、板畑で140cmの積雪となる」 |
(677) 霜枯れ | |
アルフレッド― 女将さん、毎朝、菊の花がら、摘み取ってます。 今日の雨と寒さで、菊もおしまいですね。 三太― Sinceさんのうちのあたりじゃ、霜枯れること、「しもげる」って言う。 われもこう― 私、菊ってあんまり好きじゃなかったんだけど、「菊がいっぱいの庭」の写真(※1)は良かった。菊もいろいろなんだな、って。 アルフレッド― 78年前、それまで菊好き人間だった復員兵・渡辺清さんは、菊を激しく嫌悪するようになりました(※2)。 女将― 特定の家紋だとか花言葉だとかで、やたらに価値づけられたら、嫌いになるのも無理ない。 単なる植物の一種の花を、意味づけないで、きれいだな、と楽しめるといいと思う。 うちのフェンスの菊籬を手入れしてると、通りかかるひとが声をかけてくれるんだけど、 男性は「綺麗ですね」だけじゃなくて、菊に理屈づける傾向がある。 われもこう― これ、今年7月にやった「鉄の造形・全作品展」の感想文集(※3、写真)。 5日間に400通以上の感想文を寄せてもらって、やってよかったと思った。 おかあ― よかったねえ。 武田さんの作品は、鉄製品だから、重いしかさばるし、移動も設営も、たいへんでしょ。 私は非力だから、行っても役に立たない。できるのはカンパくらい。 われもこう― 私たち【武田美通・鉄の造形「戦死者たちからのメッセージ」を広める会】も、みんな高齢化してるし、たいへん。 でも、どうしても作品を保存して活かしていきたい。 貸し出しは1点の希望にも応じてるけど、保管はバラバラでなく、全点いっしょに保管していけるような土地、家屋、施設などの情報が欲しい、 よろしくお願いします。
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(676) 蔵払い | |
アルフレッド― 女将さん、沈んでますね。 三太― 師走になっちまった、って。 おかあ― この秋は、菊が当たり年、フェンスの菊籬も良く咲いたし、 数年前から苗を植えてきた「菊がいっぱいの庭」も実現できた。(写真) 柿は信じがたいくらい不作だったけど、皇帝ダリア2株が嵐を生き延びて咲き誇った。 チューリップの球根を植え終わったら、「喪中はがき」をいただく季節になってた。 今朝は、ハイカン椿が開花した、冬の花。 アルフレッド― 女将さん、長年、取材と称して聞き取りをさせていただいてきました。 女将― それがね、今年はめっきり、取材をされる側になって… 「何をしている人か」よりも「何をしてきた人か」を問われるようになって。 「『900号によせて』&連載『緊急事態宣言から3年半 今、わたしは…』」(※1)で、 何年もお会いしていない方々の近況に思いをはせることも多かったし。 学校時代の同窓会や同期会が「今年が最後」だったし、私自身もサークルの企画に「これが最後と思います」って書き添えたし… 三太― おかあ、でこちゃんから、「元気な年寄りになろう」ってエールもらっただろ?(※2) アルフレッド― 女将さん、収納ケースを1個整理しました。 たくさんの引き出しに埋もれていたオモチャやビデオカセットは「どうぞお持ちください」って、門の前に出しました。 今年初めには『お年玉セール』(※3)をやりましたが、年末だから『蔵払い』です。 断捨離には、モノだけでなく、思い出やおつきあいもあるんですね。 ※1 「900号によせて」&連載『緊急事態宣言から3年半 今、わたしは…』」 ※2 女将とアルフレッド、気に入っています。 でこちゃん ※3 (645)お年玉(その三) |
(675) ゲゲゲ忌 | |
アルフレッドー 11月30日は水木しげるさんの命日。調布市では11月17日から30日まで「ゲゲゲ忌」です(※1)。 調布市立の小中学校では給食に、「ゲゲゲ忌取組」という献立がでます。 たとえば2021年度、第三小学校では、「どんどろげ飯、いもこん鍋、目玉のおやじゼリ−」でした。 「どんどろげ飯、いもこん鍋」は水木さんが育った鳥取県の郷土料理、「目玉のおやじゼリ−」はキャラクターを模した献立、でした。 今年2023年度11月27日の第三小の「ゲゲゲ忌献立」は「ごはん、手作りふりかけ、肉じゃが、ゲゲゲのドーナッツ、牛乳」です (写真、※2 ↓)。 三太― ※1 ゲゲゲ忌 | 調布市 (city.chofu.tokyo.jp) |
(674) ミス女将 | |
アルフレッド― 前号で、タライで手洗いの時代、洗濯は家事の中で嫌われていたと書きました。(※1) 海辺のうづら― そうですそうです、洗濯キライです、でも、下着やティシャツは、たらいで洗濯します。この夏からの習慣です。ベトベトになって、何回も着替えるので。 洗濯機、二槽式がいいと、聞いてはいますが、場所がないと、置けないんです。 エコなのに。残念。 アルフレッド― 女将さん、元気ないです。 三太― 前号の「情報ファイル」、ミスだらけだった。 日付は間違えるし、ファイルを添付し損ねるは、図は横向きのまま添付するは… アルフレッド― ミズ女将じゃなくてミス女将ですね。 三太― おかあ、気分転換に、図書館へ行った。 帰り道、鉄砲坂の上で道を横切った影! え? ノア? ラスカル? 急いで道路脇の車の下を覗いたけど、もういなかった、って。 去年秋の黒猫ノアは、パッタリだし、今年春先に来た黒猫ラスカルもどうしたんだか…。(※2) アルフレッド― 川越の間下胡桃さんは、雨の降る川で黒猫ポウに出会いました。(※3) 胡桃さんは、リストラされて再就職先は決まらないし、貯金はなくなるし、どん底でした。 超イケメンで性格極悪のポウに、叱咤翻弄されているうち、いつしか生きる意欲を取り戻していきます。 女将さんも、ポウのような黒猫と出会えるといいのですがね。 おかあ― 黒猫の中でも、史上最強のイケメン・ポウに会うのは難しいけど、ポウに鍛えられた胡桃さんから学んだ。 胡桃さんが作りためてきた語録「クルミペデイア」。 私は、脳細胞は減る一方なのに気づいてから、パソコンに覚えておいてもらうことにしてなんでもかんでも入力してきた。 今日、初めて読むから、って借りてきた本のタイトルを入力したら、何年も前に入力してあった。 これぞ「むらきペデイア」。
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(673) 洗濯かあちゃん | |
アルフレッド― 女将さん、嬉しそうですね、何があったんです? 女将(=おかあ)― ITA先生(※1)から褒められた。 三太― おかあ、伊那谷で、手回しの「カモメ洗濯機」を使ってるとこの写真を見た、って興奮した(※2)勢いで、「カモメ洗濯機はなぜ不人気だったのか」ってレポート書いて、 ITA先生に提出したんだ。 電気洗濯機によって、「手を濡らさず」「しゃがみこまず」「水を運ばず」に済むようになり、労働はラクになった。 同時に、洗濯の頻度が高まり洗濯量は増えていったので、洗濯に要する家事時間は減少しなかった。って。 おかあ― ITA先生が昔書いた「魔法のような球体洗濯機の発明者」(※3)を引用させていただきましたって、仁義切ったわけ。 三太― そしたら、ITA先生から、思いがけず、お褒めの言葉がもらえたんで、おかあ、ホクホクしてる。 ITA先生― この洗濯機は、圧で汚れを落とすエコ洗濯機です。 開けるとポンという音がするので、「ぽん洗濯機」と呼ばれていたそうです。 新採用の小学校の先生の3か月分の値段だった由。 購入した元校長が言ってました。 きれいになるが、わずかしか入れられず、盥と併用だったと。 女将― そんなに高価だったんですか。 嫁入り道具を揃える、財布を握っている父親としては、銀色の球体より、もっと大きくて白い電気洗濯機のほうが、 見栄えがいい、と思ったでしょうね、お年玉年賀はがきの一等賞品や贈答品にも、電気洗濯機が選ばれていた時代でしたから。 タライと洗濯板でゴシゴシやる洗濯は、たいていの主婦が「嫌いな家事」にあげていた重労働でした。 “洗濯の大の大の大好きな”のは絵本の『せんたくかあちゃん』(※4)くらいだったと思います。 アルフレッド― 女将さん、ちゃっかり、ITA先生のもぐりゼミ生やってますね。 在宅で指導していただけるとは、ありがたいことです。 ※1 (644) お年玉(その二) ※2 (671) カモメ洗濯機 ※3 『Column いせさきフロンティア27「魔法のような球体洗濯機の発明者」』(『伊勢崎佐波地区 景気動向調査 ?33 2011.4〜6月期』 伊勢崎商工会議所) ※4 『せんたくかあちゃん』 さとうわきこ作・絵 福音館書店(初出1978.8.1月刊「こどものとも」、図は2016.8.1第86刷) |
(672) ヘルメット | |
アルフレッド― 女将さん、帽子を新調したんですか。 女将― 帽子っていうか、自転車用ヘルメット。 今年4月1日から、ヘルメット着用が努力義務とされた(※1)。 買ったものの、沸騰の夏には麦わら帽子かぶってた。 けど、このひとつきの間に、知り合いが二人も自転車事故でひどい骨折した、って聞いて。 三太― どちらも自転車同士の事故だ。 中年の一人は出会い頭に、重装備のママチャリに吹っ飛ばされた。 右手首と鎖骨と仙骨を折って、救急車に乗せられてから、受け入れが決まったのは6つ目の病院。 手術のために転院。リハビリに通院できる病院を探して… 3か月たってようやく、杖を使って歩けるようになった、って。 86歳のネエサンは、正面から来る自転車をよけようとして、自転車ごと転倒。足の骨を折った。 アルフレッド― 10月20日は「世界骨粗しょう症デー」です。 女将さんも読者のみなさんも、自転車でも家の中でも転ばないでください。 上野千鶴子さんは、75歳以上を【転倒適齢期】と呼んでいます(※2)。 ※1 道路交通法第63条の11 第1項 自転車の運転者は、乗車用ヘルメットをかぶるよう努めなければならない。 自転車用ヘルメットの着用 警視庁 (tokyo.lg.jp) ※2 上野千鶴子、樋口恵子 『最期はひとり 80歳からの人生のやめどき』 マガジンハウス新書、2023.7.27 |
(671) カモメ洗濯機 | |
三太― おかあ、伊那谷の写真集(※1)で、手回しの洗濯機を使ってるとこの写真を見た、って騒いでる。 おかあ― 今までに資料館とか博物館に、展示してあるのは見たことあったんだけど、 実際にどんなふうに使うのか、ってわかんなかった。(※2) 「カモメ洗濯機」とか「ポン洗濯機」って呼ばれてたんだって。 アルフレッド― なるほど。僕は、日本の農村に「スプートニク1号」(※3)が落下したのか、と思いました。 ソ連が打ち上げた、世界初の人工衛星の。 銀色の球体に、棒が突き出てて… ※1 「昭和34年の洗濯機『カモメ洗濯機』=手動洗濯機」『富県のあのころ』、 写真集「富県のあのころ」刊行委員会、p21 ※2 豊後大野市歴史民俗資料館「手動洗濯機」(大分県)2018.7.21撮影 ※3 スプートニク1号は、1957年10月4日にソ連(ソビエト連邦)が打ち上げた世界初の人工衛星。 アメリカにスプートニク・ショックをもたらした。 |
(670) 阿智村の写真 | ||||
三太― おかあ、伊那谷から重たい写真集持ち帰ったけど、断捨離はどうなったんだ?(※1) おかあ(=女将)― う〜ん、紙の山脈の焼畑、本の藪を90%くらい伐り開いて峠が見えてきたんだけど、着火にいたらなくって… アルフレッド― 爆破に踏み切れない女将さんには、「断捨離」は無理だと思います。 何十年ものつきあいのSinceさんから「断捨離って難しいと思います。」って言われたとおり。 女将― そうかもしれない。 阿智村にせっかく行ったんだからって、「熊谷元一写真童画館」で、 ついつい、『写しつづけて69年 会地村―阿智村 昭和・平成』(※2)を買ってしまった、2,200円也。 アルフレッド― 僕は、熊谷元一さんの撮った写真を、2年前、新聞の全面広告で初めて見ました。(※3 女児が机を拭いている写真) あの写真は、1955年に熊谷さんが教員として学級担任をした会地小学校一年生を記録した『一年生−ある小学教師の記録』だったんですね。
女将― 私が、熊谷さんの写真集『会知村』を初めて見たのは40年位前かな、昭和12(1937)年8月の「事変」(=日中戦争)早々に召集された 兵士を送る行列、徴発された馬を連れて行く村人たちの写真が印象に残った。 今回、飯田駅前発の路線バスを阿智村の「役場入口」で降りてから、満蒙開拓平和記念館(※4)まで歩いて行った。 10分くらいだったけど、猛暑の昼間、バテてしまった。 ああ、この道を、熊谷さんの写した「出征兵士を送る行列」(※2−2)も歩いて行ったんだ、と思った。
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(669) 阿智村 | |
三太― おかあ、朝っぱらから、何、コーフンしてるんだ? おかあ― 黒い金魚がいた! 健在だった! 今年の春は、とうとうカエルが来なかった。 夏のあいだも、池で泳いでるのは、赤い金魚だけ… 1年半ぶりに、見た、良かった、良かった!(※1) アルフレッド― 女将さん、伊那谷では、飯田線に乗ったんですね? 女将― そ。飯田駅で降りて、バスで阿智村へ行った。 昔は、会地村っていったとこ。 アルフレッド― 長野県は、かつての、昭和10年代に「満州」への開拓団及び満蒙開拓青少年義勇軍の送出が、全国一多かった県です。 阿智村には、満蒙開拓平和記念館(※2)が開設されています。 中国残留孤児の肉親探しに尽力した山本慈昭さんが住職だった長岳寺の近くです。映画『望郷の鐘』(※3)のモデルです。 女将― ああ、『科捜研の女』の土門刑事役(※4)の内藤剛志さんがお坊さんを演じてたんだ。 三太― 平井和子さんは、2021年7月にを満蒙開拓平和記念館を訪れて、開拓団関係者の語り部に出会った。 それから聞取りと資料調査を重ねてきた論考を加えた本を、今年6月出版にこぎつけた(※5)。 おかあ、開拓団の女性の体験を、一例読んだだけで、しんどくて逃げ出したくなる。 重い、重過ぎるテーマに、挑み続けてついに本にした平井和子さんって、つくづく、すごい人だなあ、って敬服してる。 ※1 2022年3月14日、黒い金魚との感激の出会いと写真を (619)赤と黒 おらぁ三太だ22 でご覧ください。 |
(668) 塩の道 | |
アルフレッド― 女将さん、「恒例、夏の家出」で長野県の南半分へ行ったんですね(※1) 5月に行った糸魚川では海岸でヒスイを捜した(※2)ようですが、糸魚川は「塩の道」の起点です。 三太― おかあ、バスに弱いんで、鉄道に乗る、大糸線。 大糸線で糸魚川から南下するコースは、姫川の谷筋であり、千国街道でもある。 「糸魚川―静岡構造線」とか、「フォッサマグナ」とか聞いたことあるだろ? おかあ― 大糸線って、好きなんだよね。 糸魚川を出ると、じきに長野県に入って。 途中、千国駅から白馬大池駅の間、「塩の道」のうちの「千国越えコース」を歩いてみた。 「塩の道」が、姫川からも大糸線の線路からも離れた山の中を通るのが不思議だったんだけど、歩いてみてナットク。 姫川は地すべり地形が多くて土砂災害、崩落・出水を繰り返してきた。 河原は危険だった。(※3) 江戸時代、牛方は塩俵を背中に積んだ牛を一人で6頭も連れて歩いた。 緑の美しいハイキングコース(写真)、と思って歩きはじめたら、大き な石がゴロゴロ傾斜のきつい山道になった。 ここを、牛に歩かせたのか… で、9月初めに、飯田線に乗って。(※1) 長野県―信濃の国を南北に貫いていた「塩の道」のイメージがつながった。 「千国街道は、大名行列や文人墨客の往来した道ではない。 塩や魚や麻の生活必需品輸送の道であった。貧しき人々が通った雪深い岨伝いの道であった。」(※4) 日本列島では、岩塩とかが採れない。塩は海の水から作るしかない。 塩は海岸沿いから運ぶしかない。で、「海岸から内陸に向かって、無数の塩の道があったのであり、 そのルートをみれば、江戸時代の商品流通がくわしくわかる。」(※5)。 「糸魚川―松本」も「塩の道」の一つだったんだ。 ※1 (667)九百人のおばあさん |
(667) 九百人のおばあさん | |
アルフレッド― 女将さん、どこへ行ってたんです? 女将― 久々の「恒例、夏の家出」。 2020年コロナで中止、2021年不参加(※1)、2022年は11月だったから、夏の家出は4年ぶり。 長野県、伊那谷で、87歳のおばあさんに会った。 おばあさんが、母親であるおばあさんの話をしてくれて… そのまた、母親であるおばあさんの話になって… アルフレッド― 新聞によると、日本には65歳以上の女性は、2051万人いるそうです。(※2) 65歳の女性に「おばあさん」って言ったら怒られるでしょうね、今の日本の女性はいくつになっても元気な人が多いから。 女将― 図書館のジロちゃんがね、おばあさんを紹介してくれる、って言うんで行ったんだけど…(※3) 紹介されるのは、一人、多くても二人だろうと思ってた。 ところが、最初の一人に、「もっと年寄りがいるから」って紹介されたのが、 最初の人より少し小柄で、その人がまた、「もっと年寄りがいるから」って… 次々に紹介されるたんびに、どんどん年寄りになって、どんどん小柄になってって… 三太― なんと、九百人目のおばあさんは、ミツバチくらい小さいんだと。 その星では、誰も死なない。 年を取ったら「することだんだん少なくなる。エネルギー欠乏になる」どこへも行かず、家の中にじっといる、んだと。 ※1(607)アルフレッド・ご馳走 ※2 「65歳以上の高齢化率、過去最高の29.1% 高齢者人口は初の減少」『朝日新聞』2023年9月17日 17時39分 ※3 「九百人のお祖母さん Nine Hundred Grandmathers」 (2021 『ファニーフィンガーズ ラファテイ・ベスト・コレクション2』 R.A.ラファテイ、編者:牧眞司、訳者:伊藤典夫・浅倉久志・他、早川書房) |
(666) 柔らかい犬、硬い犬 | |
0アルフレッド− テラのママさんから、白柴・小銀の近影が来ました。 柴犬の飼い主デビュー2年の「テラのママ」さん― 白柴小銀と暮らし始めて2年、来たばかりの仔犬のころはたいへんでした。(※1) このごろ、小銀、お兄さんになってきてだいぶ落ち着いてくれました。 番犬意識が強い小銀に、孫は小さい頃は吠えられ、部屋中逃げ回って、テーブルの上に避難していましたが、 このごろは小銀と仲良くなって、同じポーズで寝たりしています。 もう、シッポを触っても大丈夫です。 小銀は股関節がやわらかくて、今晩もこんな感じで寝ています。 三太― おらと同じ柴犬だが、小銀の柔らかさはすごい! おかあ、硬い犬=石製の犬=狛犬のこと、久しぶりに書いた。(※2) 東海林次男さんの写真いっぱいのお話、「略奪文化財」「収奪文化財」を元の場所に戻す活動を聞いて、その紹介文を書いたんだ。(※3) おかあ― 靖国神社に、なんで、中国の「石獅子」がいるの か? 大阪城にいる狛犬のこと思いだしながら書いた。(※4) お話を聞いた直後には、「好太王碑」と「北関大捷碑」とが頭のなかでごちゃごちゃになってた。 一週間、ほかのことにアタマを向けている間に、ようやく気が付いた。 靖国神社に置かれていたのは、「北関大捷碑」だった。 現在に至るまで、日本は戦利品として奪ってきた文化財の多くを返還しようとしていない。 靖国神社に置かれていた「北関大捷碑」を韓国へ“引き渡し”2006年に韓国から北朝鮮へ移送された例と、 2011年の民主党政権時に「朝鮮王朝儀軌」を“引き渡し”た例とが僅かな例だ。 が、政治によって、可能であるという例でもあります。 ※1 (624) 黒と白 第857号 2022.5.16 |
(665) やせうま | |
アルフレッド− 元祖・三太君の家の「やせうま」は、しょいこだったんですね。(※1) 女将さん、どこかで「やせうま」に出会ったって言ってましたね? 女将― 元祖・三太の村じゃなくって、大分県の県庁9階で。(※2) アルフレッド− ビルの9階まで、しょいこで荷物を背負って登ったんですか? 女将― 大分の「やせうま」は、食べ物。 馬肉じゃなくって、小麦粉を水で練って平たく伸ばして茹でたものに、きなこや砂糖をまぶして食べる、おやつ。 三太― 大分県の学校じゃあ、給食にも出るんだと。(※3、→図) ※1(664)馬どろぼう ※2 (494)アルフレッド・狛犬さん な 2018.7.28 ※3 やせうま | 学校給食レシピ | 株式会社SN食品研究所 (snfoods.co.jp) |
(664) 馬どろぼう | |
アルフレッド− 村に新しくきた駐在のおまわりさんが、元祖・三太くんのおとうから聞きながら帳面に書いています。(※1) 「土曜の夕方、水車場(三太の家)の往来に面したクリの木につなぎおきたるやせ馬が紛失した。 15歳だが米俵2俵をつけられる」と。 翌日、日曜日は三太くんたちの学校の学芸会です。 村じゅうが見にきて大入り満員、窓のそとまですずなり。 出しものは『舌切りスズメ』、21世紀の今なら、動物虐待と言われそうです。 元祖・三太― おらたち、大小二つのつづらから選べと言われたら、『正直のいいじいさまなら、きっと、大きいのもらったにちがいねい』という新解釈を加えた。 いざ、じいさまにあげようと、ひきだそうとしたら、幕のかげに置いといた大つづらが消えていた。 客席から駆け付けたおまわりさんが、今朝は馬一頭の盗難があったし、なにか連絡があるのではないか、って言う。 おらんち(水車)でなくなった「やせ馬」は生きてる馬じゃねい、「しょいこともいうし、しょいばしごともいう、木でつくった、背中にくっつけて歩くもんだ」(→図) 留が、学校道の森の道祖神のわきに、やせ馬がおっぽりだしてあった、森んなかに大きな箱に腰かけて考え込んでる人がいた、って言うんで、 駐在のあとから、それゆけ、われもゆけってんで、とびだした。 駐在がピストルに手をかけて森に入ろうとすると、小使いさんがおどろいた。 「ま、だんな。あれなら手あらいこと、お待ちください。とても気のどくなもんですだ。」 戦争まえまで、村のほめ者だった模範青年が、戦争から帰ってきたら、記憶がなく、 古い箱ばかり持ち出してはつじつまの合わないことを口ばしるばかり、だという。 おら、つづらを返してもらいやせ馬でしょった。 花荻先生が、学校に劇を見に来るように勧めて、青年を観客に、『舌切りスズメ』を始めから演じていった… おかあ− 第一次世界大戦から、戦争神経症は注目されていたけれど、『三太物語』には、戦争神経症とかシェルショックという言葉は出てこない。 PTSDという言葉もなかった。(※2) 村の「模範青年」は、入営し、満州に配属された。 上官の命令で、飢饉の農村の人びとから「種コウリャン」の大箱を「徴発」した。 が、農家出として耐えられず、大箱を返そうと持ち出してつかまり、「さんざん、ぶったたかれた」。 以来、記憶を失ったまま、入院、生家に復員してからもブラブラしている青年が、三太たちの劇をきっかけに「正気を」取り戻したのでした。 ※1 『三太物語』青木茂、山中冬児挿絵、偕成社文庫3405、偕成社、1977年、 「三太大つづら」p209−239 ※2 復員兵のPTSD (第896号(2023.8.13)3.黒井秋夫さんからのメッセージ) ※2−2 中村江里『戦争とトラウマ――不可視化された日本兵の戦争神経症』吉川弘文館、2018年 |
(663) 初心 | |
アルフレッド― で、ひどいクシャミの元は、タマネギ本だったんですか? 女将― じゃなくって、『三太の日記』(※1)。 三太― おかあ宛に、分厚い封筒が来た。 「海辺のうづら」さんから、ウクライナ情勢に関するコピーに添えて、 「こんなものが出て来ました」って、『三太の日記』の数ページ分、古色蒼然としたコピーがあった。(※2) で、おかあ、そのコピー部分の前後も読もうと思って、図書館のジロちゃんに取り寄せを頼んだわけだった。 「おら、登校とちゅうだ。考え考えあるいてる。」(※1のp.21) これって、おら(むらき三太)が言ったんじゃねい、永遠の小学6年生・元祖「道志川の三太」(※3)が 1955年(昭和30)に言ったんだ。68年前! おかあ、おらを主人公にして「おらあ三太だ!」を書き始める前に、『三太物語』とその周辺を読み込んだつもりだった。 けど、三太の口調まで、元祖っから受け継いでた、って今さら、自分に感心してる。 初心、忘るべからず、って、「海辺のうずら」さんからのメッセージだったのかな。 ※1 『三太の日記』青木茂、学習研究社、1975年 ※2 『三太の日記』青木茂、鶴書房、1955年 ※3 (1)三太自己紹介−茶色の犬 |
(662) さくら猫ラスカル | |
アルフレッド− 女将さん、どうしたんです? 庭に飛び出してって… 草取りは朝のうちと決めてるんでしょう、もうお昼過ぎですよ。 女将― 今、リビングの窓の下を、猫が通って行った! 玄関前を通過して、東側のフェンスを抜けてお隣へ… もしかして、≪ノア≫? 半年ぶりに? 三太― おかあ、フェンス越しに手を伸ばしてやっと写せた。 アルフレッド― 確かに猫です、黒っぽいキジネコ、シッポはだんだら模様。 おとう― 左耳にカットがある、怪我してるんじゃなくって、さくら猫だ、「地域猫」(※1)だよ。 アルフレッド? 女将さん、地域猫に≪ラスカル≫って名前をつけました。 ≪ラスカル≫が次にいつ来るか、気にしながら、女将さん、図書館へ行きました。 このところ、避暑がてら行く図書館で、やたら、古い本をまとめて借り出してきます。 本を開きながら、女将さん、ひどいクシャミ。 花粉症ですか? 戸外でひとしきり本をはたいて戻ってきた女将― 図書館のジロちゃんに、取り寄せてもらった本、1975年版、ということは、48年前! 昔風の、裏見返しに、貸出カードのポケットが貼り付けてあって、「本を返す日」という返却予定日の一覧表が貼ってある。 その最後が「60.6.12」。 「60」が昭和60年なら1985年。それからあとは、今風の、バーコードを読み取る方式になったのかな…… 一番最近に貸出したのがいつだか、分からないけど、長いこと書架で眠ってたんでしょうね、ものすごい埃。 表紙を開いて「クシャン!」、どのページを開いても開くたびに「クシャン!」「クシャン!」 長年、図書館の本を利用してきたけど、こんなにクシャミしたのは初めて。 長生きすると、いろいろ新しい経験するもんだ。 ※1 地域猫活動について ? 具体的活動|公益財団法人 日本動物愛護協会 (jspca.or.jp) |
(661)玉ねぎと涙 | |
ドイツの魔女― 玉ねぎは冷蔵庫に保管しておくと、全然泣かずに刻めますよ。 何かに書いてあったと思いますがほんとでした。 まだご存知でない方のために。 おかあ― 冷蔵庫で冷やすといいのか…。 何に書いてあったのかな…図書館のジロちゃんに聞きに行ってきます。 アルフレッド― 女将さん、何冊も本を抱えて帰ってきました。 まず、子ども室の本から― 『おとうさんと いっしょ』(※1) 花屋を経営しているクマさん一家のお話。 おかあさんがお産のために入院した、残ったぼくとおとうさん。 花屋を一週間休業して、家事をひきうけた、まではいいけど、何をどうしたらいいかまるでわからない、おとうさん。 スーパーでの買い物の要領がわからずウロウロ、台所では調味料のありかを息子に教えられる。 おとうさん、泣きながらタマネギを切る。 三太― 泣いたのは、タマネギのせいなのかな… アルフレッド― 次は、『玉子の卵焼き』(※2) 小学校4年生の玉子は、食べるの大好き。 玉子が作った、お皿の上のボテッとしたものを見て、双子の兄トシ「な、なに?これ」 「卵焼きだけど、野菜も入れたほうがいいと思って、冷蔵庫にあったゴボウとタマネギをすって、 卵の中に入れて、チーズの粉とワインビネガーとケチャップを入れた」 三太― 玉子は、泣かないでタマネギをすったみたいだ。 玉子のお母さん、タマネギを冷蔵庫に保管してるんだ。 おかあ― 真面目に大人の本を読みます。 『PHP文庫 世界史を変えた植物』(※3) タマネギは、疲労回復や病気を防ぐ薬効があり、巨大ピラミッド建設の労働者の食べ物だったんですって。 電気冷蔵庫は無かったでしょうね。 マーサ・ジェイさん著の『タマネギとニンニクの歴史』(※4) イギリス人はタマネギを、大英帝国の行く先々に広めたんですって。 で、イギリス本国では作らず、1939年イギリス国内で売られていたタマネギの98%は、外国産だった。 第二次世界大戦がはじまると、フランス人は売りにこなくなり、ドイツ軍のUボート(潜水艦)に脅かされてタマネギ価格は高騰した。 タマネギが買えないイギリス人が泣いたかどうか書いてないけど… 「タマネギを切るとなぜ涙が出るのか」はしっかりと追及している。 アルフレッド― 2013年のイグノーベル賞の化学賞は、日本の食品メーカーの研究者チームが受賞しました。(※5) 「たまねぎを切ると涙が出る原因となる酵素を突き止めた」んです。 おかあ― マーサ・ジェイさんは、「涙の出ないタマネギ」が開発されているとも書いてる。 「涙の出ないタマネギ」が手に入らない人にも、「タマネギを冷蔵庫に入れておくこと」、 切るときは、「コンタクトレンズ、メガネ、あるいは、とくに敏感な人向けの特殊なタマネギ用ゴーグルを着用するのもいい。」って。 「ヒロコさんは、玉ねぎを切る前に、水泳用のゴーグルを着けます。」(※6)ってアルフレッドが言ったのを読んだのかな。 三太― マーサ・ジェイさんが載せてる写真はガスマスクだ! おらたち犬もガスマスクが欲しい! ※1 『おとうさんと いっしょ』つちだよしはる作、ポプラ社、1990年 |
(660) 淡路島の玉ねぎ | |
アルフレッド― 前号に淡路島の玉ねぎの写真(※1)を載せたら、コメントが来ました。 神戸っ子― 玉ねぎは、淡路です! 半端なく、甘くて、おいしいです。 高いですけどね。 玉ねぎは、根っこや上の青い部分を切り落とし、十字か8割に切れ目を入れて、少し深さのある器に入れて電子レンジへ。 水分が玉ねぎから出るので、出汁等は不要です。新玉が良いでけど、そうでなくても大丈夫です。 できあがったら、ポン酢をかけて、削りカツオをパラパラと…柚子みそ、ゴマダレも良いです。 メインディッシュになるくらい、存在感があります。 淡路産が一番ですが、そうでなくてもOKです!(^^)! 三太― 神戸にとって、淡路は「すぐそこ」っていう感覚なんだと。 おら、おかあと知り合って以来、東京都を出たことがない。 おかあが、「調布市」に登録したから、おら「調布市民」なんだと思う。 先代犬のゴロー先輩は「茨城県民」だった。(※2) おかあ― いまどき、「犬税」とは言わないけど、登録費を払うんだから事実上の「犬税」だと思う。(※3) 70年前の1953年=昭和28年、合併で調布市になる前の神代村の頃、村役場の衛生係の仕事の一つに5月「昭和28年度犬登録及第一回狂犬予防注射実施」、 8月9月に「未登録犬摘発」があった。(※4) 90年前、1933年=昭和8年の『家の光』っていう農家向け雑誌にも、犬を飼うときは警察に「畜犬届」を出して、「畜犬税」1ヶ年6円80銭を納税するように、 って書いてあった(※5)。 その頃は、衛生は警察の業務だったんだ。 アルフレッド― で、三太君も、女将さんも「調布市民」であり「東京都民」でもあるわけですね。 「神戸っ子」さんは「神戸市民」であり「兵庫県民」でもある、と。 神戸っ子― 兵庫県民ではありますが、おおむね旧国名をかぶせて、「播磨の人間やし…」「丹波では…」とこだわります。 かく言う私は、「摂津はね…」ではなく、「神戸やし…」といいます。「兵庫だったら…」とは言いません。 あくまで「神戸」なんです。 女将― いやー、うっかり「兵庫県民」なんて言うもんじゃないんですね、あな恐ろし。
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(659) 玉ねぎは必須アイテム | |
アルフレッド― 前号で、綿貫淳子さんの「生の玉ねぎがないと、献立を考えるのがこんなに大変なものかと知りました。」(※1)という南極体験を紹介しました。 Since― 私にとって玉ねぎは必須アイテム。なきゃ困るほどですから…ストックを心がけております。 もちろん、シチューにも使いますよ。 我が家のシチューは豚肉・ジャガイモ・たまねぎ・人参+市販のシチューの素と全くの手抜き料理ですが… それをごまかす(?)ためにトウモロコシのクリームタイプとホールタイプと牛乳をたっぷり目に加えます。 家族は喜んで食べてくれますが、これは残念ながら白米のお供にしては塩味が足りない気がします。 だからめったにつくりません。 三太― 手紙出しに行ったおかあ、郵便局でチラシ貰ってきた。 「淡路島の極味玉ねぎ」 写真だからおらが見てもダイジョブだ。 送料・消費税込で、3?が1980円だと。 あきる野のフラワーさん― 「玉ねぎ抜きで食事を考えて」って言われたら、わたしは頭を抱えてしまいます。 むらきさんの愛犬愛(上から読んでも下から読んでも)には敬服ですが、わたしは無理ですね。 コロナ禍で休止となったのですが、毎年、安曇野へ「玉ねぎツアー」に行っていました。 武蔵野市の元職員の方が主宰していらっしゃって、 参加者は畑から玉ねぎ10キロ掘り出して、ネットに詰めた後、 市の観光施設で食事をして、お風呂に入り、 どういうわけか、林家たけ平さんの落語を聞いて帰るというツアーでした。 まあ、そこで食べた玉ねぎスライスのおいしさと言ったら、なかったですよ。 大皿に盛りつけられ、ふんわりとかつお節が載った玉ねぎスライスに、 玉ねぎドレッシングをちゃらっとかけていただくのですが、 甘くて、しゃきしゃきした歯ごたえがさわやかで、大皿を幾枚もお代わりしてしまいました。 両市の恒例行事になっていたのか、 出発には武蔵野市の松下玲子市長や菅直人氏がお見送りくださり、 安曇野では市長がご挨拶に見えられる、ちょっと変わったバスツアーでした。 今年も玉ねぎ10キロ、安曇野から送っていただくことになっていますが、 やはり、現地で食べるおいしさってありますよね。 何ら手を加えていないのに、絶品になってしまう現地マジック。 なんて書いていたら、たまらなく恋しくなってきました。 今夜の夢に出てくるかも〜。 アルフレッド― 安曇野では今年は6月17日18日の土日、「玉ねぎ祭り」が行われていました。16会場で玉ねぎの「直売」と「収穫体験」(※2)。 玉ねぎは10kg1300円と20?2500円。 ネット袋詰めを持ち帰ったら、ネットから出して直射日光の当たらない風通しの良い場所で数週間乾燥させるように、とのことです。 おかあ― 玉ねぎを乾燥する場所が要るのか…「愛犬愛」との両立は無理。 ※1 (658)玉ねぎスープ |
(658)玉ねぎスープ | |
アルフレッド― ※1 ウサギ監督とも長〜いおつきあいです。(656)子ども園の給食 ※2 綿貫淳子 『南極の食卓 女性料理人が極限の地で見つけた暮らしの知恵』 聞き手・文:吉田佳代、イラスト:平尾直子、家の光協会、2023.1.20 |
(657)シチューと玉ネギ | |
三太― おかあ、シチューの話ばっかりしてるけど、おら、一度も食ったことがない。 おかあ― そりゃそうよ、もうずうっと20年くらい、シチューを作ったことがなかったから。 三太だけじゃなくて、先代犬のゴローにも食べさせないようにしてた。 犬には玉ねぎは毒だから。 玉ネギは「買わない、置かない、使わない」。 Since― そう…確かにゴローちゃんの食事はむらきさんの手作りで玉ねぎは使わないというお話は覚えています。 人用にも使わないのですね。20年も? ストイックですね。 おかあ― 「ストイック」と言われると、そうかなあ? 20年前、ゴローが突然、「ワァ―オ、ワァ―オ、ワァ―オ…」と大音響で鳴き始めた…(このあたり、前後のこと思い出せないのだけど) 獣医さんに、「何か変わった物を食べましたか?」と訊かれて、前日の残りのピザのかけらを与えたと言ったら、 「それかもしれない、ピザには見えなくとも玉ネギが使われてるから」と言われました。 ピザの、トッピングの汁がしみ込んでいない縁の部分だけを与えたつもりだったのに、獣医さんに言われてショックでした。 その時のゴローは鳴きわめくだけで済んだけど、命にかかわったかもしれない、と、以来、玉ネギは一切、断ちました。 玉ネギは「買わない、置かない、使わない」。 玉ネギを切っただけでも、揮発性の催涙ガスがゴロー飯に入って、またあの苦しみを味わわせることになる。 買わない、というのが一番、簡単確実に実行できることでした。 レトリバーのテラさんのおかーさん― テラが仲良くしていた柴犬の老犬・ゴンタちゃん、庭で飼われていて、温かい縁側にベッドがつくってあり、 人が来るたびに道路側の垣根まで出てきて、くんくん匂ったり、エサをねだったりする人懐こい犬です。 或る日、ゴンタちゃん、急に元気がなくなり、何も食べず、動かなくなったので、家の人たちは「もう、寿命かも・・・・・」と、言っていました。 ゴンタちゃんの家の付近を廻る散歩コースを歩いて、姿が見えない、 「死んじゃったのか・・・」とドキドキ。ダメかな・・・と思いながら声を掛けると、のそのそ出て来てくれました! その後訪れる度に、どんどん元気になって、今ではコギンとも垣根ごしに挨拶できるように! 家の人たちは、「あのときの衰弱は、どうも誰かが間違えて玉ねぎが入ったものを与えたらしい」とのこと。 アルフレッド― ヒロコさんは、玉ねぎを切る前に、水泳用のゴーグルを着けます。 催涙性の揮発ガスを防ぐには良い方法です。 |
(656)子ども園の給食 | |
アルフレッド― 女将さん、どこ行ってたんです? 朝早く出てったきり、夜中になっても帰ってこないから、心配しました。メモもないし。 女将(=おかあ)― ごめん、ごめん。 前夜ギリギリに荷造りして、朝飛び出すので精一杯だったもんで。 長年、出かけるときは「日時、宿泊先、幹事の名前・携帯電話番号」のメモを置くことにしてきたのに――脳細胞が欠落した感じ。 2月3月からずっと、ウサギ監督(※1)に背中に火をつけられないように、逃げ回ってる。 ようやっと、薪を仮に束ねた(原稿を下書きした)ところで、逃げ出した。 三太― で、どこ行ったんだ? 女将― 糸魚川。フォッサマグナを体験してヒスイを捜そう、って、 長年のグループ最後の「お別れ遠足」。 最後だから、って、メンバーそれぞれから、数十年分の打ち明け話や 「告白」があったりして盛り上がった。 「園長先生」からは、40年間幼稚園を経営してきた側のこぼれ話。 三太― いつだったか、「認定こども園」にした、って聞いたぞ。 おかあ― 「園長先生」、首都近郊農村が宅地化する中で、ずう〜っと、幼稚園をやってきた。 行政から懇請されて、渋々、こども園にした、その苦労でいっきに老け込んじゃった。 お国は、少子化と男性の雇用不安定化の進むなかで、「女性の社会進出」「女性の活躍」をもてはやしてきた。 単純化すると、女性に「産んで働け」と勧めたから、子どもを預かる施設が大量に必要になった。 お国は、子どもを収容する施設を増やそうと、規制緩和したり、いろいろ工夫した。 その一つが、平成18年(2006)、幼稚園にも「教育」だけでなく「保育」を担わせることにした。それが「認定こども園」(※2)。 それでも、「待機児童」があふれて2016年には「保育園落ちた日本死ね!!!」という怒りが広がって政府を揺さぶった。(※3) 法律は平成26年(2014)年にも改正されたりして、待機児童は減って来てるけど…。 アルフレッド― 「園長先生」って、ご苦労多かったんですね。髪が白くなり、少なくなり… おかあ― 毎日、送迎バスを自分も運転してたんですって。2台のうちの1台を朝と午後。 年度初めに、決めたルートの送迎スポットで乗る子どもが決まってるんだから、とシロウトは思うんだけど、 実際には毎日のように、保護者(多くは母親)から、変更希望が来る。 その調整が大変なんだって、うちの近所の幼稚園の元園長先生からも聞いてたけど。 認定こども園にしてからは、幼稚園の「教育」時間を越えて「預かり保育」をすることになった。 朝、Aちゃんの母親から、「今日は『預かり』お願いします」って電話がくる。 午後、Aちゃんを乗せないで園で待たせて、バスを運転していく。 送迎スポットに来たAちゃんの母親が 「うちの子がいない!」 「朝、『預かり』お願いします、って電話があったから」 「誰が、そんな電話したんですかっ!!!」『預かり』を頼んだことを忘れた母親が逆ギレする。 アルフレッド― 「園長先生」って、こどもだけでなく母親の面倒も見なくちゃならないんですね。 おかあ― こども園にするのは、手続きの書類いっぱい書くのに大変だったんだと思ってたんだけど、始めてからも大変だったんだ。 収容する子どもの年齢が広がった、昼食だけでなく「おやつ」が必要になる。 「子どもには味なんかわからないんだから」と安あがりだけの業者に委託するのを避けるために、調理施設を作って、調理員の人事管理して… ひたすら「ご苦労さまでした」とねぎらった。 三太― で、こども園の給食にシチューを出したかどうかって、聞けなかったのか。 ※1 ウサギ監督とも長〜いおつきあいです。(594)アルフレッド・カチカチ山(4) ※2「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律(平成二十七年法律第六十四号)」 「よくわかる「子ども・子育て支援新制度」 ※3 待機児童問題 3−1「待機児童問題、広がる共感 首相交えた国会論戦も ブログ「保育園落ちた日本死ね」」『朝日新聞デジタル』2016年3月4日16時30分 3−2「保育園落ちた」ネット世論で政権一転 首相も軌道修正『朝日新聞デジタル』2016年3月8日21時18分 3−3「(取材考記)待機児童減少 保育の「量」優先、「質」は低下 田渕紫織」「朝日新聞」 2022年7月26日 16時30分 |
(655)保育園のシチュー | |
アルフレッド― ※? (591)アルフレッド・スズメバチふたたび |
(654)戦下のシチュー | |
アルフレッド― シチューも治部煮も、とろみをつけた煮込み汁、ということのようですね。 海辺のウズラ― 斉藤美奈子さんの本『戦下のレシピ』(※1)に < 戦争中の料理 や食生活は、 何でもかんでもすりつぶして粉にして増量剤に使った。 従って、料理の多くはモサモサしているか、ドロドロしているか 、だ> と書いてありますよ、なかなかの内容です。 私は、ポタージュ状態のすいとん、思いつかなかったです。 アルフレッド― 女将さん、図書館で『戦下のレシピ』を見つけてシチューを拾い読みしています。 『主婦之友』昭和17年3月号、90ページ 「剥身(むきみ)と里芋のカレーライス 剥身に里芋、こんにゃく、人参、葱などの平凡なお煮〆の材料で、美味しい カレーライスができました。馬鈴薯代りの里芋から充分に粘りが出ますから、配給の小麦粉は大助かりです。 …材料を…ゆっくり煮込みます。… 次にカレーの味をつけますが、だいたい里芋の粘りでどろっとしていますから、手早くカレーの素を水溶きして流し、味を見て塩、胡椒で補います。 女将― なーるほどねー。 肉じゃなくて貝のむき身、ジャガイモ・小麦粉じゃなくて里芋の煮〆。 <とろみをつけた煮込み汁に、カレー粉を入れて黄色くすれば、「カレー」>(※2)なんだ。 で、粉にする道具が必要なわけだけど、石臼があれば上等。 『婦人之友』の読者の家は都市中流だから、挽肉器やコーヒー挽きが利用できる、って。(※3) 一般的には擂鉢とすりこぎ。 戦時の写真集なんかで見る「玄米をつく一升瓶と棒」 アルフレッド― 占領下、食糧難の中で、米国=GHQの指示とララ物資とによって日本の学校給食は始められました。 1946年12月23日、東京の永田町国民学校での初日の「メニューは、シチュー。 具はネギ、ハクサイ、ダイコン」(※4)とあります。 とろみはどうやってつけたのでしょうか… ※1 斉藤美奈子『戦下のレシピ―太平洋戦争下の食を知る』岩波アクテイブ新書37、2002年、p140−142、169 |
(653)賄いのシチュー | |
アルフレッド― 栄養士のたま子さんは、会社の従業員向けの食堂で、300人の食事を作っていたそうです。独立して小さな食堂のオーナーシェフにもなりました。(※1) メニューにはシチューもあったんですか? たま子― 職場のメニューとしてはシチュウは出しませんでした。 シチュウは家族向けです。 私のシチュウは、ジャガイモ、人参、玉ねぎ、鶏肉 ベーコン、カリフラワー、芽キャベツ。 ルウは市販のルウ、塩、コンソメ、牛乳を足して仕上げます。 前はホワイトソースを作っていましたが、いつ頃からか、市販のルウを使ってます。 おかあ― 東京で私が育った家庭では、昭和30年(1955)前後には、主に「ジャガイモ」を煮た(茹でた)鍋に 小麦粉(当時の言い方だと「うどん粉」)を水溶きしたものを流しいれて、加熱してとろみをつけた ものを「シチュー」と呼んでいたように思います。 バターなんかない、小麦粉をバターで炒めて作るホワイトソースなんかない。牛乳もない。 要するに、小麦粉の糊をとろみとした白い煮込み汁。 カレー粉を入れて黄色くすれば、「カレー」。 ケチャップを入れて赤くすれば、「ボルシチ」。 いまどきの小学校の給食の「ボルシチ」はビーツを入れているのかな(※2) 母個人の発明だったのではなくて、戦中戦後の婦人雑誌や 新聞家庭欄に載っていたレシピだったのではないか?と思うのですが― 私の母は1911年東京生まれでした。 たま子― 私の母は1905年に東京で生まれましたが、シチュウはつくりませんでした。 母は6才の時、母親が亡くなり、ばあやに育てられ、父親の転勤で朝鮮の京城、今のソウルに住みました。 16才で父親が亡くなり、伯父と兄と暮らしました。 おかあ― お母様が作った<おふくろの味>は、お祖母様が作った<おふくろの味>じゃなくて、 複合的な味だったんですね。 たま子― 母がよく作ったのは、和製シチュウというか、材料はシチュウと同じ ジャガイモ、人参、玉ねぎ、麩、鶏肉、薄い醤油味、治部煮です。(※3) 私は嫌いで、またか、といったものです。
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(652)ポテトスープ | |
おかあ― 岐阜県の小学校の給食の献立に、「ポテトスープ」ってのがある(※1)。 シチューとどう違うんだろう??? アルフレッド― 女将さん、また図書館行っちゃいました、ジロちゃんに聞きに。 女将― ジロちゃんが、ポテト・スープが大好きな猫を紹介してくれた。(※2、図) 猫も、飼い主のおじいさんも、年とって頑固で、互いに無関心なふり。 毎日、一緒に湖に行ってボートで魚釣りをする。 一緒に食事して同じベッドで寝てるのに。 おじいさんは、猫に名前もつけないまんま。 原著に一目ぼれして訳し始めた村上春樹さん、 相当な猫好きだから、訳しながら、猫に名前を付けて呼んでたんじゃないかな、 「オレンジ・キャット」とか。 残念ながら、ポテトスープのレシピまでは載せてくれてない。 猫が好きなポテトスープって、どんなんだろう? 太郎のカッカさん― 我が家のシチューは、ジャガイモいっぱい、ゴロゴロ・シチューです。 シチュー、私は、確実に七年は作っていません、 なぜなら夫が七年前に逝き、その後、作ることができないのです。 夫は ジャガイモが大好きな人で、幼い頃 「おやつ」って思い出は「じゃがいも」だったそうです。 ジャガイモだらけの中に多量の玉ねぎ(甘味のため)を多量のバターで炒め、細かく切った鶏肉、飾り程度の人参等々で、 ゴロゴロ シチューって感じです。 書きながら 懐かしく思い出しながら でも まだ、作れないな〜 思い出させてくれて、ありがとうございました。 花粉症の私はハクション大魔王状態です。 季節の変わり目 くれぐれもご自愛ください。
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(651)病院のシチュー | |
アルフレッド― ※1 「コロナによる悪夢の勤務はまだまだ続く」 ――A.Y.(東京都) |