目次
その5(41〜  )
★第41回 キッチンカーの献立
★第42回 60年目の植付け
★第43回 芽吹き
★第44回 紙芝居の見物代
★第45回 豊島区の4月13日
★第46回 収穫
★第47回 一年分
★第48回 これ、なんだ?...new

その1(0〜10) / その2(11〜20) / その3(21〜30) / その4(31〜40)


48.これ、なんだ?
  
信州の「田舎のヒロイン一年生」から、写真が届きました。

2005年7月9日「これなんだ?
これが、(46)収穫(第194号 2005.6.20)で紹介した、「チューニョ」になるのかな。

先日行った、静岡県北の山村の『井川歳時記 増補版』(2005.6.1、発行者「万象」静岡・井川お茶壷句会)によると、 

“井川方言では、馬鈴薯は「オランダ」、「オランド」。オランダイモの略である。”その,北瓩









47.一年分
   
ジャガイモ栽培の大先輩「川口」さんから―

靖国、教科書といやな話題ばかりの今日この頃、じゃがいも初収穫おめでとうございます。
わが畑のじゃがいもは、あと2週間位先になりそうです。今年は、父が2月に1ヶ月入院したため、植えたのは去年の半分です。

去年は、収穫後は1坪ほどの玄関に広げて乾かし、その後コンテナに半分ぐらいずつ入れ3箱、重ねて風通しの良い北側の物置に置きました。年を越すと、芽がでてきますので、2.3回芽かきをします。1年たったじゃがいもはもうしわしわです。
なぜかスーパーで、しわしわじゃがいもを見たことがありません。
生産性から言うと、買ったほうがどれだけ安いかわかりませんが、無農薬で安全ということで、大切に1年かけて少しずつ食べています。88歳の父と二人ですから、1日平均1個でたりました。
去年のものが、残りあと10個!
小さいもの、ゴローちゃんに差し上げたこと思い出します。
また、おしゃべり出来る日を楽しみにしております。


     *   *   *   *   *   *   *   *   * 


むらきが植えた種芋は10個くらい入った1袋でした。フェンス際に一列に植えてちょうど。
通りかかる人に、「何の草花だろう?」と珍しがって眺める楽しみを提供してました。
収穫は、ミカンの段ボール1個くらい、3軒にお裾分けしたら、うちの分は10日間でおしまい、でした。









46.収穫
   
  ジャガイモを初めて収穫しました。種芋1個に対して6個の収穫という割合でした。種芋として1個残すと、食べられるのは5個。
これって、生産性として高いって言えるのかな? ジャガイモ栽培の大先輩、「川口さん」、どうですか?

 もう一つの収穫―教科書展示会に行ったら、じゃがいもに出会いました。
東京書籍『新編 新しい社会 歴史』平成17年3月30日検定済、p.120に―
「深めよう 世界をめぐる食べ物 じゃがいもの歴史」
  じゃがいもの原産地 じゃがいもの原産地は、南米のアンデス地方の高地だと考えられています。今でもペルーやボリビアに行くと、「チューニョ」とよばれる、乾燥させたじゃがいもの食べ方が残っています。昼夜の気温差の大きいアンデスの高地では、外に出しておいたじゃがいもは、夜になるとこおり、昼にはとけます。これを足でふみつぶし、乾燥させると保存食になるのです。」

と、「チューニョづくり(ボリビア)」の写真が載っていました。









45.豊島区の4月13日
   
★第185号で、東京都北区の空襲を読んだ読者から、「豊島区もひどかった、って聞いたんだけど」という声が寄せられました。

『豊島区史 通史編二』(1983年)を参照しながら、紹介します―

豊島区域は、大正期から急激な都市化が進み、関東大震災以降、農地はほとんどなくなっていた。電車・バスの交通整備にともない、盛り場ができ、人口は1912年(大正1)の2万8949人が、1930年(昭和5)には24万0551人へと、8倍に急増していた。
大塚駅付近の焼け跡(石川光陽氏提供)」『豊島区史 通史編二』 1938年国家総動員法成立、長期戦に備えて、あらゆる分野で統制が敷かれていく。都市には戦争景気で人口が急増し、派手になる一方の風俗は、国民精神総動員運動によって抑制されていく。

1940年の巣鴨警察管内の様子は、
“一部ニハ細民部落アリ。其ノ間富豪邸宅一部介在シ小工場小商店俸給生活者ノ住宅等雑然タリ。”

省線電車(現JR)の山手線大塚駅付近には、百貨店の白木屋分店があり、夜間には露店が出て、人出が多い盛り場になっていた。大塚三業組合(待合75、料理店16、芸妓屋137、芸妓530)や特殊飲食店喫茶店などが、“支那事変勃発以来”の戦争景気に乗って、とくに時局産業関係者を顧客に、業績を伸ばしていた。麻雀店にかわって、撞球場が流行っていた。

1941年12月、太平洋戦争突入。日に日に、生活必需品はすべて配給と闇でしか入手できなくなっていき、衣食住も生存ギリギリにまで窮乏していった。
1945年に入る頃には、
“雑司が谷町二丁目地域の例では(昭和)20年2〜4月の61日中配給日が26日、野菜13回=5日に一度、魚6回=10日に一度の現状であった。・・・食料事情は4月13〜14日の山手大空襲以後さらに悪化していき、他方で、闇はますます蔓っていった。”

食糧自給策として「家庭菜園」が奨励されていた。庭はもちろん、道路も三分の一まで開墾を勧められ、「強制疎開」政策によって建物を破壊除去した空地も菜園にされた。

“現在の春日通りの池袋電報電話局から豊島消防署に至る地域は全部空地になっており、一面家庭菜園だった。また、池袋東口の当時雑木林だった根津山付近にも菜園がつくられていた。広さは五坪程度で、カボチャ・トマト・サツマイモ・トウモロコシ・里芋・ナス・キュウリ・麦などを作っていたが、泥棒が多く実りの頃になると持っていかれたという。”

豊島区は1944年12月12日に初空襲を受けてから、1945年5月25日までたびたび空襲を受けた。1945年3月10日の東京大空襲にも罹災者5488人の被害を受けた。
4月13日はB29 160機(米側資料330機)が豊島、荒川、王子、足立、滝野川、本郷など広汎な地域を襲った。この夜、米軍は3時間半に、爆弾81.9トンと3月10日を上回る2037.7トンの焼夷弾を投下した。
4月13日の豊島区内の被害は死者741人、負傷者2523人、全焼3万4000戸、罹災者16万1661人にのぼった。1945年2月現在区内人口の約70%が罹災者となった。

“地域的には巣鴨警察署管内全域、池袋二〜四丁目の一部を除く池袋署全域、目白署管内では椎名町一〜五丁目、長崎一、五丁目、要町一丁目、高田南町一、二丁目、千早町一丁目、高田本町一丁目、目白町三、四丁目、雑司が谷町一、七丁目の各一部であった。区役所庁舎、巣鴨警察署、池袋警察署も全焼し、区役所は焼け残った立教中学校内で業務を続けた。罹災規模の割に死傷者が少なかったのは、人々の避難が早かったからであった。なお、死者は六義園、雑司が谷崇祖堂、日出町三丁目公園予定地に埋葬された。”

“空襲の全時期を通じた豊島区内の罹災者数は16万9392人で、都内35区中第二番目の大きさであった。”

5月下旬の山手空襲までで、東京全市街地の半分が焼き尽くされ、東京は焼夷弾攻撃目標リストから抹消された。以後、地方都市が空襲の対象とされた。

「戦災区域図(『豊島区史』昭和26年版より)」『豊島区史 通史編二』










44.紙芝居の見物代
   
街灯紙芝居

「カチ、カチという拍子木の音に夢中で駆け出した経験があれば、りっぱな中年である。50年代半ば、街頭紙芝居は九州の田舎町にも毎日やってきた。子どもたちは先を争って水アメを買い、おじさんの熱演に聴き入った。」
と佐藤昭二記者が書いてます。

(『朝日新聞』2005.4.23 「サザエさんをさがして」「街頭紙芝居 路地裏から消えた娯楽」)

この記事に添えられた写真(※)には、

「見物代の水アメを買えない子がいても、紙芝居のおじさんは怒らなかった=49年4月」
とありますが、東京でむらきの家の近所に来たおじさんは、ただ見を許してはくれませんでした。生活がかかっていたのだから―。


見物代の例―

1945年3月、仙台の軍需工場から病気になって帰郷した草野知代子の場合
(「日の丸弁当」暮しの手帖編集部『戦争中の暮しの記録 保存版』暮しの手帖社、1980、(もと第96号特集。1968.8)p.107−108)

妹が上級生といっしょにとった写真を見せました。・・・写真で見ると、衰弱しているのがはっきりとわかるのでした。
これはいけない。悪くすると妹を失うかもしれぬ。なんとかして存分に食べさせてやらねば。だがどうすれば、何もないこの手から、食糧がわいてくるでしょう。その時、脳裏にパッと閃くものがありました。紙芝居です。あれなら仙台で、養成工の少年たちにやってみせたことがある。あれなら出来る。

思いついた私は、古い少女雑誌の小説を脚色して、ボール紙に半紙をはり、それに絵を描き、「三井寺の鐘の由来」「愛の一念」自作童話「千代ちゃん物語」の三種をつくりました。それを風呂敷に包んで背負い、薪タバの中から探した拍子木とメリケン袋二枚をもって、本物の紙芝居屋のこない山の部落へ行ってはじめました。

「馬鈴薯三つで紙芝居見せるよ」恥かしかったけれど、大声で叫んで拍子木をならしますと、子供たちは馬鈴薯を三個ずつ持って集ってきます。

子供たちの後には、もの珍らしげに見ている大人たちがいました。私はただ一心にやりました。幸い知代ちゃんの紙芝居はためになると評判になり、子供会の余興にもときどき呼ばれるようになりました。

一日紙芝居をして歩くと、二枚のメリケン袋に、馬鈴薯が一杯になりました。

それを御飯に入れたりゆでたりして、とにかく存分に食べさせました。おかげで英子は元気になり、22年3月卒業するときの写真は、幽霊のようではありませんでした。

父が「なせばなるってなあ」といっていたのを思いだしました。







43.芽吹き
   
ジャガイモの芽がでてきました。近所のプロの畑では、葉っぱが10センチ位伸びてますから、かなりの出遅れですが。
いやなニュースばかりの人間界とは違って、草木の芽吹きっていいですね。
種イモを埋めてならしておいた土にひび割れができ、二日後に芽が見えてくる・・・
こんな変化を観察したのは生れて初めて。よっぽどのヒマ人ですね。
飢えに迫られての食糧増産でなく、成長そのものを楽しむことができる、幸せ。






42.60年目の植付け
 
お彼岸にジャガイモを植え付けました。二十日大根の種もまきました。

 4月13日は、東京北部大空襲の日です。
『新修北区史』(東京都北区、1971)、『北区史 通史 近現代』(1996) によれば―

北区(旧王子区・滝野川区)には、たくさんの軍需工場や軍事施設があり、1945年2月19日から8月10日まで8回の空襲を受けた。
なかでも、4月13日夜から14日未明にかけての大空襲で区内は壊滅的打撃をうけ全くの焼野原と化したところが多かった。

「王子区の官公署では、区役所・警察署・消防署・税務署・電話局・動員署、陸軍兵器補給廠・陸軍第二造兵廠・被服廠、下十条・王子第四・王子赤羽・姥ケ橋・神谷・王子第一・柳田各国民学校、民間工場でも、王子製紙・日本フェルト・日本油脂・日本工業・中央工業・日本特殊合金などが焼失した。また滝野川区では、低地部が大きな被害を受けた。」

下十条国民学校の場合、4月13日午後10時40分の警戒警報発令に続き、空襲警報が発令され、特設防護団員(校長以下)が詔書を背負い、重要書類を持ち出して防空壕のなかに埋め、校内を点検した。14日午前零時には通学区域内の岸町に数百発の焼夷弾が投下され、午前1時、ついに校舎は全焼した。校庭には、周辺からの避難民が続々と押し寄せていた。周辺は火の海であった。顛末書は、「御真影、勅語謄本ハ奉還済ニシテ詔書又御安泰ナリ」と記している。
この13日から14日にかけての空襲被害は、死者203人、負傷者849人、罹災者103,930人、焼失33,380戸であった。

 罹災後、王子区豊島三丁目町会長は、「残留者に収入の道を考え、日産化学の焼跡整理を会社から請け負い、共同事業として働いてもらった。食糧不足をおぎなうために、足立区の農協から、カボチャの種をもらい焼跡にまかせた。更に荒川河川敷を1万5000坪開耕の許可をとり、家庭農園に開放した。幸い焼跡のカボチャはよく実り、河川敷農園は、ジャガイモ、ピーナツ、大根、むぎ、なす、キュウリ、トマト等あらゆるものがよくとれた。」

 二十日大根のフタバが出てきました。ジャガイモの芽はまだです。

 60年前、焼跡に種をまいた人が、どんなに芽の出るのを待ち望んだことか、と思います。






41.キッチンカーの献立
 
茨城県猿島郡境町の農村部をキッチンカーが走り、古河保健所栄養士が栄養料理を実演指導して回っていた− 1978年6月の献立は、ピーマンの肉詰め・コーンスープ・春雨のからし和え。(「健康をまもる おいしい料理のお勉強」『広報さかい』1978(昭和53).8.1。写真1) 1984年5月の献立は、成人病予防の、めん糸卵サラダ、鶏肉の辛みソース和え、豚肉ごまいため。(「健康づくりにと キッチンカーで栄養指導」『広報さかい』1984(昭和59).6.1。写真2)

写真1 キッチンカー『広報さかい』53.8.1
(写真1)
写真2 キッチンカー『広報さかい』59.6.1
(写真2)
『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』(鈴木猛夫、藤原書店、2003)を読んだら、キッチンカーの写真と献立が載っていた(写真3)。
「トーストパンと中華風サラダ」「小鯵の唐揚げ じゃがいもとピーマンの酢みそ」「そうめんの胡麻味そかけ」「リャンバンメン 蒸し薯」「いかのハヤシソース」「フィッシュサルシャード」「四宝リャンパオ」「茄子のフリッパアー」などなど。
鈴木猛夫によれば、キッチンカーは、「ご飯に味噌汁、漬物」という日本人の食生活を欧米型に転換させようとする日本側の「栄養改善運動」と、小麦の販路拡大をめざ して出資したアメリカ側との、共同事業だった、という。(p.43−80 第二章 粉食奨励策)
“アメリカは必ず食材に小麦と大豆を使うことを条件に全ての費用を出したのである。・・・パン、麺類、スパゲッテイー、マカロニ、ホットケーキ、ドーナッツなど の小麦料理の他、油を使った料理がこの頃から増え、油の効用が盛んに説かれるようになってきた。油の原料は大豆であり、大豆の使用がキッチンカー運行の条件という ことになると、献立の中に油料理が増えてくるのも当然であった。”」)

写真3 キッチンカー献立『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』
(写真3)





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