目次
その3(21〜30)
(21) 隠れ家の食糧事情
(22) 「隠れ家の食糧事情」の続き
(23) 『赤毛のアン』?おしゃべりな女の子
(24) 『赤毛のアン』?種イモ切り
(25) 『赤毛のアン』?翻訳者・村岡花子
(26) 赤毛のアン? 主婦の鑑(かがみ)
(27) 赤毛のアン?アンに熱狂した少女たち
(28) 赤毛のアン?少女たちの行方
(29) 肉じゃが
(30) 「金団」―「主婦歴 30年」さんから―

その1(0〜20) / その2(11〜20) / その4(31〜40) / その5(41〜)

 

(30) 「金団」―「主婦歴 30年」さんから―

おせち料理につきものの「栗きんとん」。辞書によると
きんとん【金団】…栗、隠元豆などを甘く煮たものに、薯蕷(ながいも)や薩摩芋を煮て裏ごしにし砂糖を加えて餡(あん)にしたものをまぜた料理のこと。
だそうです。和菓子の金団には栗の粉を団子にしたものなどもあるようですが、大正生まれの私の母の作ってくれたのは「ジャガイモきんとん」でした。
皮をむいて茹でた(粉ふき)ジャガイモを潰し、熱いうちに溶き卵と砂糖を混ぜるだけのものですが、サツマイモとは違う風味が、後をひくおいしさでした。
「栗きんとん」のこってりとした甘さとは違い、ほんのりとした、やさしい甘さです。もちろん加えるお砂糖の量にもよるでしょうし、好みもあるでしょうが、ジャガイモに合う甘さというものがあるような気がします。
他では「ジャガイモのきんとん」にお目にかかったことがないので、「郷土料理なの?それとも創作?」と母に聞いてみたのですが・・・。
「何処でも、誰でもつくる一般的なもの」という答えでした。

みなさん、ご存知でしたか? 

 






(29) 肉じゃが

久々の「じゃがいも談義」です。吉岡章子さんから―

肉じゃがは老若男女問わず日本人の好きなおかずのようですね。 メインはその名のごとく牛肉とじゃがいも。最近はBSE騒ぎで豚肉を使う人が多いと思いますが、結構おいしいです。それに欠かせない材料として玉葱と白滝。砂糖と醤油が主の味付けですが西洋だしともいわれる玉葱の甘さ、風味、肉から流れ出るだしに絡まった白滝がまた美味しい。
少し大きめに切ったじゃがいもがホクホクとできあがった時は思わず口の中に唾液が出てくるほど。

ところでじゃがいもは一旦冷めると二度と炊きたてのあのホクホクとした美味しさが味わえないのが残念です。もう一度温めなおしてもあのおいしさはもどってこないのです。何とか冷めてもおいしく食べる方法としては、じゃがいもを小さめに切って煮崩すのです。そうすると、ホラきんとんのように残ったいものかたまりに崩れたいもがくっついて少しはおいしいと思います。

ともあれ肉じゃがは炊きたてを食べるのが一番です。 

 






(28) 赤毛のアン?少女たちの行方

私=むらき数子も、中学時代に同級生たちと『アン・シリーズ』を何度も読み返した、熱狂的なファンの一人だった。
 思い返してみると、『赤毛のアン』から強い影響を受けている。

一つは、孤児アンを受け入れた家は、夫婦でない男女(兄と妹)のペアで成り立っていた。養子縁組という親族擬制をすることなく、アンを育てる。マリラは後に友人リンド夫人と台所は別という同居をする。
「親子(=直系血縁)」も「夫婦(=性関係)」も含まずに「家族」が形成されうる、という多様な家族観を示していた。
二つめ、命令口調の横暴な夫に丁寧語で忍従する妻、という「主従夫婦」しか知らなかった私にとって、アンが示した恋愛→結婚は、「友達夫婦」の理想像となった。
三つめ、マリラたち、農家の主婦は、男が農作業に働いているあいだ、家の中を綺麗に飾り、手芸をしケーキを焼く。身綺麗に装って、教会や地域のボランテイア活動。とても素敵な世界に見えた。農地が相続でなく売買されているのも異なる世界だった。
身近な自営業の主婦が、一日中「主人」(=夫)に従属する労働力であるのに比べて、職住分離のサラリーマン家庭はどんなだろう、と漠然と思っていた。
マリラもリンド夫人もそして結婚後のアンも、性別役割分業の専業主婦像だった。
四つめ、アンの周囲は、女の高等教育に否定的だった。大学卒業後、女子の進路は教職→結婚退職、か、即結婚。「結婚して主婦になる」よりほかのモデルはなかった。
五つめ、アンが、結婚してからあとのシリーズは、面白くなかった。なぜだろう?
 
日本のベビーブームの世代=団塊の世代(1946〜1950年生れ)、現在五○代の女は、義務教育の中学校で前後のどの世代よりも、和裁と洋裁の双方を仕込まれた(☆1)。進学率の上昇した高校では、女子のみ必修の家庭科を課された。卒業後は「お勤め」して恋愛結婚するのがあたりまえになっていた。
すでに雑誌上に「主婦論争」が展開され(☆2)、フォークソングの「主婦のブルース」(☆3)があったが、専業主婦となる人が多かった。1965(昭和40)年に中教審が『期待される人間像』で要請した通り、男は職業人・女は家庭人にと、性別役割分業によって産業社会を担ったのだった。その頃、農家では、男たちが味噌つくりや餅つきなどをしなくなり、台所は女だけの場となっていった(☆4)。
団塊の世代の「主婦化」は、落合恵美子が、「日本女性史上、もっとも結婚・育児に専念した人の割合が高い世代だ」(☆5)と、指摘している。
人口の最も多い世代で高率なのだから、実数としても、膨大な数の女が、結婚・出産で専業主婦となり、子育て後に再就職するというM字型人生を生きてきたのである。

「赤毛のアン」は、落合恵美子が指摘する「二○世紀近代家族」が欧米で大衆化した頃に生れたのだった。そして、日本でも「二○世紀近代家族」が大衆的に成立した戦後に、少女の愛読書となった。
結婚後のアン・シリーズが面白くないのは、アンに熱狂した少女たちの行方を示していたのだった。

☆1 むらき数子「現代衣生活考 和裁とゆかた」『くらしと教育をつなぐWe』1992.10
☆2 「主婦論争」は1955年の『婦人公論』誌上での第一次以来、1960年の第二次、1972年の第三次、1990年代の第四次と、くり返されてきた。
「4次にわたる主婦論争の流れは,そのまま戦後主婦の地位の変動の歴史と重なっている.」(上野千鶴子「主婦論争」『岩波女性学事典』2002、p.195)
☆3「主婦のブルース」1968年、中川五郎作詞・高石友也作曲
   http://wagesa.cool.ne.jp/music/j-folk1/syufunoblues.html
☆4 むらき数子「食文化の変容―高度経済成長前後」『民俗の思想』朝倉書店、1998
☆5 落合恵美子『21世紀家族へ 新版』有斐閣、1997、p.22
 






(27) 赤毛のアン?アンに熱狂した少女たち

1931(昭和6)年生れ、72歳のS.Cさん
「ラジオで村岡花子、子どもの頃聞きましたよ。戦前、女性ではとっても有名な人だったんですよ」

60代のN.Mさん
「子育て終わった頃、読書会で『赤毛のアン』とりあげたことあったわよ。みんな、それぞれ自分の青春を思い出して・・・」

40代のN.Kさん
「読んだ、読んだ、夢中になって読んだ。中学の頃だったかなぁ」

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『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993、の村岡花子の項目には―
「戦前から翻訳を進めていたモンゴメリーの『赤毛のアン』が27年に出版されると少女たちに熱狂的にうけ入れられ、アン・シリーズ全10巻はその少女らの娘たちに読み継がれている。」

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1955年生れの晶子さんから―
 私も中学生時代、熱中して読みまくりました。確か中一の夏休み、宿題の読書感想文の題材に、「何を読もうか」と探していたとき、母が「もう中学生だから読めるでしょう、私が大好きだったものよ」と日に焼けた古い『赤毛のアン』シリーズ5冊を出してくれたのです。
 最初の方はくだくだとした記述がつまらなくて、途中を飛ばして、学校生活のあたりから読みはじめたら、面白くなり、一冊めの最後までいったところで、もう一度最初からすぐに読み直しました。母からもらった5冊を一気に読み、さらに自分で『アンの娘リラ』を買ってきたのです。
 中学時代は、アンにはまっていました。
 が、高校生になると、なぜかもう読むことはなくなり、大学生の時、英文の原書を読んでも、あまり面白く感じずがっかりしました。
 今、高一になる娘には、読むように勧めてはいません。一度話題にしたくらいです。(勧めたい本は他にたくさんあるので)

 アンの学校生活が自分のとはかなり違うこと、奨学金を得て進学していく様子、ギルバートとのロマンスに、中学生だった当時、同時に大好きだったマンガと同様に、胸をときめかせていたように思います。といって、ギルバートとの結婚式は全く記憶になく、また、ジャガイモ談義にとりあげられた箇所や料理のことなども、ほとんど憶えていません。金持ちでも美人でもない娘が幸せになっていくサクセスストーリーとして楽しんでいたのかな。ずっとあとになって、美人の女優さんがアンをやっている映画を見て、がっかりしたのは良く覚えています。
 村岡花子訳以外は目にしたことがないのですが、村岡さんが「ラジオのおばさん」として有名人だったのは、今回、ジャガイモ談義を読んで初めて知りました。
 昭和3(1928)年生まれの母たちの世代にとっては、大きな影響を与えたのではないかと思いました。

 






(26) 赤毛のアン? 主婦の鑑(かがみ)

ミセス・リンドはまず、主婦としては折り紙つきだった。日常の家事をこなすどころか、人並以上にやってのけた。村の裁縫の集いを文字どおりきりまわし、日曜学校の運営に手を貸したうえ、教会婦人会や国外伝道後援会にとっては、なくてはならない人だった。
 これだけのことをやってのけながら、ミセス・リンドにはまだ、台所の窓辺にすわって、木綿のキルトをつくりながら―アボンリーの主婦たちが、おどろきと尊敬をこめていうように、十六枚もつくったのだ―くぼ地を横ぎって、すこしさきで赤土の急坂になっている街道に目をひからせている時間が、たっぷりあった。・・・
 六月はじめのある午後、ミセス・リンドはいつものように、窓辺にすわっていた。・・・
 トーマス・リンド―小柄な、おとなしい男で、アボンリーでは、レイチェル・リンドのご亭主でとおっていた―は、納屋のむこうの斜面の畑で、遅まきのカブの種をまいていた。
 (L.M.モンゴメリー、掛川恭子訳『完訳 赤毛のアン シリーズ1 赤毛のアン』講談社、1990、p.8)

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茨城の「主婦歴30年」さんから―
こんにちは。
『ジャガイモ談義』興味深く読ませていただいています。「赤毛のアン」が登場した時は「おっ」と思いました。 私が「赤毛のアン」を読んだのは大人になってから、最初は1979年にアニメ放送された時に、子供と一緒に見たのがきっかけでした。(小・中学・高校の頃はもっちょっと難しげな本を読んでいました)
アンという空想癖のあるちょっと変わった女の子。彼女と触れ合うことによって魅力をます周囲の人々。グリーンゲーブルズのすばらしい自然。面白かったですね。アンが本当は男の子と間違われて働き手として引き取られたことや、マリラに女性(家庭の主婦)として必要なしつけを受け、成長していくアンがどんな大人になるか興味津々で本を買って読みはじめました。
じゃがいも談義(24)に載っていた『「赤毛のアン」の生活事典』も、買おうと思ってた本のリストに入っていましたよ。
アンはライバル、ギルバートと結婚して教師の仕事をやめ、専業主婦になったわけですが、・・・ある意味ではアンの自由な個性が、性別役割分業向きの女性として成長(?)させられていった物語だったのかもしれないなぁと思います。時代を考えれば当然かもしれないけど・・・影響を受けやすい私は、マリラのような女性になりたいと思っていましたよ。女の子には教育は必要ない、というリンド夫人よりも、アンの個性を伸ばそうとしたマリラのほうに好感を覚えたのかも知れません。
あの頃は主婦業もまだまだおぼつかなくて、妻も母もシンマイだったしね…

 






(25)『赤毛のアン』? 翻訳者・村岡花子

村岡花子自身の解説によれば、『赤毛のアン』の翻訳から出版にいたるいきさつは―
(モンゴメリ作、村岡花子訳『赤毛のアン』ポプラ社、1991、赤毛のアン・シリーズ1、p.293‐294【解説】より)

 私はカナダ人の学校の卒業生であり、カナダ人から英語を学びました。カナダの作家というのはいっこう日本には知られていません。なんとかして、カナダの作家を紹介したいと願っておりましたが、ちょうど、戦争のはじまる直前でした。私がいっしょに仕事をしていたカナダ人ミス=ショーがおとずれて、ぼろぼろになった厚い本を、「私の長年愛読している本だから」といって贈ってくださいました。私はこれを読んでまったくアンのとりこになりました。おかげで戦争のいまわしさも、かなり忘れたくらい、この本の翻訳に心をうちこんで、あのあいだを過ごしました。
 さて、戦争が終わってだんだんに日本の社会ももとのようになってきました。たまたま、三笠書房の編集部の小池さんという人が――この人は現在、北海道で高校の先生をしていらっしゃいますが――私のところへきて、「なにかおもしろい翻訳物はないでしょうか。」というのです。「駄目ですよ。日本では同じものを焼き直し焼き直し出すのでなければ、いけないのだから、今までに紹介されていないものなんか、とても出版社は相手にしませんもの。」
 私はこういってことわっていましたが、あまり熱心なので、ついに「それなら、社長に見せていらっしゃい。」といって、アンの原稿を渡しました。数日たらずして、小池さんは意気揚々として訪問されました。
 「社長がぜひいただきたいと申します。」とのこと、こうして今までだれも知らなかった著者ルーシー=モンゴメリは日本へ紹介されました。


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『新潮日本人名辞典』1991、によれば―
「むらおか はなこ 村岡花子 明治二六・六・二一−昭和四三・一○・二五(一八九三―一九六八)大正・昭和期の児童文学者、翻訳家。甲府市生れ。東洋英和女学院高等科卒。旧姓は安中(あんなか)。昭和二年から児童文学翻訳・創作畑の数少ない女流として活躍。昭和七−一六年ラジオ「コドモの新聞」の放送を担当。戦後は幅広い社会活動をした。特に英米文学の翻訳に貢献、モンゴメリーの「赤毛のアン」シリーズは著名。」

竹山昭子『ラジオの時代―ラジオは茶の間の主役だった』(世界思想社、2002)によれば―
ラジオは、1922年から主要各新聞社が公開実験をすすめて放送事業への参入をはかっていたが、政府は放送局を公益社団法人として、1925年3月22日東京放送局から仮放送を開始した。放送局は独自の取材記者を持たず、新聞社提供のニュース原稿を読みあげたが、「放送一時間前ニ適宜ノ方法ニヨリ届出シムルコト」と事前検閲制度を敷いた。
「放送内容はすべて監督官庁である逓信省の統制のもとにおかれ、経営も組織も首脳人事も、逓信省の了解なくしては運営できなかった。」(p.24)

 現在、ラジオもテレビも、多数の局があるのがあたりまえである。1950年より前の日本では、放送とは、NHKラジオしかなかったという事実が嘘のように思える。
日本のラジオは、最初から、大衆への娯楽提供とともに、国家による大衆操作のメデイアとして発足したのだった。その、唯一の放送局から流れる声の印象は、現在のタレントとは比較にならないほど強烈だったと思われる。

『王子と乞食』『赤毛のアン』の翻訳家として知られる村岡花子は、「ラジオのおばさん」でもあり、昭和戦前期の有名評論家でもあった。婦人雑誌に、次のような例が見られる。
 ?『主婦の友』1937(昭和12)年11月号座談会「世界大戦で男子に代って働いたドイツ婦人の愛国苦闘の体験」の司会。
 ?『婦人倶楽部』1938(昭和13)年4月号特大号
「今月の婦人の問題  村岡花子
  国家総動員法 ・・・法の形式に於てはこれがどのやうになって表はれて来ますかは未だ確定はして居りませんが、我々婦人としては気持の上に於て国家総動員法に応じ得る用意をしてゐなければなりません。国家のためには我々は凡ての力を捧げますその決意はいつでも持ってゐる筈です。」







(24) 『赤毛のアン』?種イモ切り

大学から帰省したアンが、親友ダイアナについて行くと―

おそい時間だというのに、アトッサおばさんはライト家の台所で、種いもにするジャガイモを切っていた。(ダイアナの挨拶にも、おばさんは、種いもを切る手を休めずに)ぶっちょう面で話をつづけた。
「それでもなんとか、仕事はこなしているよ。ここじゃ、働かないものは用なしだからね。手間をとらせることになるけど、そのゼリーを食料室においてきてもらうなんてことを、おねがいできるかね? この種いも切りを、今夜じゅうにかたづけちまわなくちゃならないもんでね。あんたがたおじょうさんは、こんなことはしたことがないだろうよ。きれいなお手々が、だいなしになっちまうものね。」
「畑を貸しにだすまでは、わたしもジャガイモの種いも切りをしてました。」アンがにこにこしながらいった。 「わたしはいまでもやっています。」ダイアナはそういって笑った。「先週は、三日もやったんですよ。」ダイアナはそういったあとで、からかうようにいいそえた。「もちろん、毎晩仕事がおわったら、手にレモンジュースをぬって、子山羊革(キッド)の手袋をして寝ましたけど。」
アトッサおばさんは鼻をならした。
(掛川恭子訳『完訳 赤毛のアン シリーズ3 アンの愛情』講談社、1990年、p.136)

テリー神川『「赤毛のアン」の生活事典』講談社、1997、p.130には―

「子供の仕事Children's work   農家の子供たちは、春には作物の種まき、ジャガイモの種イモ切りと植えつけの手伝い、干し草作りでは刈り倒した草を集め、ワゴンに積みあげた干し草を踏み固める役目を受けもった。そして秋にはジャガイモのとりいれとピッキング・オーバー(☆)。12〜13歳ぐらいになると馬をあつかえるようになり、短い距離のワゴンでの運搬や、干し草の積みあげ作業での、ケーブル(手綱)につないだ馬の簡単な操作なども担当した。」

  ☆ピッキング・オーバー p.129「収穫されたジャガイモは、売りに出すもの、小さいもの、傷のあるものなど、地下セラーで、ランプの明かりをたよりに選別がおこなわれた。これはピッキング・オーバー(picking over)とよばれ、父親の指示のもとに子供たちは助手をつとめた。」







  (23) 『赤毛のアン』?おしゃべりな女の子

『赤毛のアン』は、カナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリの1904年の作品。
カナダの東海岸プリンス・エドワード島のアヴォンリーという小さな村。グリーン・ゲイブルス(緑の切妻屋根)の家に、孤児院から来た11歳のアンが巻き起こす物語。
農業の手伝いに男の子を欲しいと思ったマシュウとマリラの兄妹は、伝言の間違いで送られてきたアンに途方にくれる。翌朝、アンのおしゃべりにへきえきしたマリラは・・・

「これまでにあの子みたいなのは見たこともきいたこともないね。」と、マリラは退却して地下室にじゃがいもをとりにおりていった。
(モンゴメリ作、村岡花子訳『赤毛のアン』ポプラ社、1991、赤毛のアン・シリーズ1、p.51)

 






(22) 「隠れ家の食糧事情」の続き

前号ジャガイモ談義(21)で「隠れ家の食糧事情」として、『アンネの日記 完全版』(深町眞理子訳、文芸春秋、1994)を引用したところ、Oさんが次の論文を教えてくださいました。

 渾大防(こんだいぼう)三恵「アンネ・フランクの日記―作者と読者(上)―「戦後ベストセラー」の終わらない命」(朝日新聞社総合研究本部『朝日総研リポート』?161、2003.4、p.58‐90)
渾大防(こんだいぼう)三恵「アンネ・フランクの日記―作者と読者(下)―「アンネとともに歩んださまざまな人生」(朝日新聞社総合研究本部『朝日総研リポート』?163、2003.8、p.149‐178)

1947年にオランダで最初に刊行されて以来、欧米でも日本でもベストセラーとなり、驚異的生命力を保ってきた『アンネの日記』、国により時代により、読まれ方が違っていた。
日本では、1952年に『光ほのかに―アンネ・フランクの日記』と題して文芸春秋新社から初版が刊行されて以来、50年にわたる超ロングセラーで累計500万部近い。
『アンネの日記』は、中学一、二年向け国語教科書にもたくさんとりあげられてきたが、抜粋の仕方で、「もっぱら思春期の日記ととらえるものと、歴史的文脈に沿って読ませようと意図しているのがわかるものの二つに大別できる。」

       ………………………………………………………………………………………

 渾大防さんの指摘で、『アンネの日記』が、"思春期もの"扱いされている本だと知って、びっくり。それも、女子中学生向け、とあっては『赤毛のアン』と一緒か?
 今回、埼玉県立浦和図書館で『アンネの日記』を探したら、「こども室」の書架に絵本と並んでいたので、「え?」と思ったのだが、そういうことだったのか。いくつかの図書館での蔵書区分をみると、同じ本が、「一般書」だったり「児童書」だったりしている。
 私の頭の中では、『アンネの日記』は、"戦争もの"であり、"ナチスドイツもの""ユダヤもの"だった。読者層に性差があるなんて、考えたこともなかった。
「情報ファイル」の読者なら、たぶん読んだことのある本だろう、と思って載せたのだが、男性には縁遠い本だったのだろうか? 







(21) 隠れ家の食糧事情

『アンネの日記 完全版』(深町眞理子訳、文芸春秋、1994、p.150,310−311)より―

一九四三年四月二十七日、火曜日
(前略)
食糧事情も逼迫しています。朝食は、干からびたパンと、代用コーヒーだけ。夕食にはホウレンソウかレタス、それが二週間もつづいています。ジャガイモは長さが二十センチもあって、甘ったるい、腐ったような味がします。ダイエットをご希望のかたは、どなたもわが≪隠れ家≫にどうぞ! 上の階の人たちは不平たらたらですが、うちではだれもそうみじめだとは思っていません。
 一九四○年にドイツ軍が侵入してきたとき、銃をとって戦った人たち、あるいは工場などに動員されていた人たちは、いま片っ端から召集され、捕虜として"総統"のために働かされています。おそらく、連合軍の上陸にそなえての作戦でしょう。
               じゃあまた、アンネより
             一九四四年三月十四日、火曜日
 親愛なるキテイーへ、
 たぶんあなたにはおもしろいでしょうから(わたしにはちっともそうじゃありませんけど)、きょうはわたしたちがこれからなにを食べようとしているかをお話ししましょう。
(中略)
 わたしたちに闇の食糧切符を融通してくれていた人たちがつかまってしまったので、八人で五人分の配給手帳以外に、余分の切符が手にはいらず、バターやマーガリンも買えなくなりました。そのうえ、ミープとクレイマンさんは病気、ベップは買い物に出かけるひまがなく、おかげでみんなの気分は最低、食糧事情も最低。あすからは、一切れの脂もなければ、バターも、マーガリンもありません。朝食にジャガイモの揚げたのを食べてたんですけど(パンを節約するため)、それももうできません。かわりはオートミールだけです。このままでは飢え死にしちゃう、そうファン・ダーンのおばさんが言いだし、どうにか手をまわして、脱脂されていない全乳ミルクを買いこみました。今夜のごちそうは、いままで樽に貯蔵してあったキャベツ入りのハッシュ。そこで、予防措置として、ハンカチの出番となったわけ。キャベツ――それもおそらく二、三年もたった古いのって、ものすごい悪臭を発します。いま部屋じゅうに立ちこめているそのにおいたるや、傷んだプラムと、強い防臭剤と、腐った卵十個分のミックス。おえっ! こんなどぶどろみたいなしろものを食べることを考えると、それだけで胸が悪くなってきます。  なおそのうえに、ジャガイモまでがつぎつぎと妙な病気にかかりだし、バケツに二杯持ってきても、そのうちまるまる一杯分はストーブへ直行することになります。お慰みまでにみんなで病気の種類を研究した結果、ジャガイモの病気にも、癌から天然痘、はしかまであるという結論に達しました。そうなんです、ほんと、笑い事じゃありません――戦争も四年めにはいって、隠れ家生活をしている身にとっては。ああ、早くこんないやなことがそっくり終わってくれたら!








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