目次
その2(11〜20)
(11) 「おばあちゃんのコロッケ」
(12)  北海道からのイモ
(13) 「ジャガタラのジャガイモ」その1
(14) 「ジャガタラのジャガイモ」その2(「ゴロー・ファン・クラブ・ジャカルタ」さんからのレポート)
(15) 「ジャガタラのジャガイモ」その3(「ゴロー・ファン・クラブ・ジャカルタ」さんからのレポート)
(16)供出するのはジャガイモじゃなくて馬鈴薯
(17) 学生とジャガイモ
(18) ジャガイモに要注意
(19) フライドポテト
(20) 父のこと・・・戦争責任

その1(0〜10) / その3(21〜30) / その4(31〜40) / その5(41〜)


20.父のこと・・・戦争責任

この夏、国会前で出会った女たちの一人HUM☆さんの文です。
(平和を愛する女たち発行『戦争反対・2003年夏 女たちの発言集―平和、生命、憲法―』2003.8.15、p.24)

・ 私の父は満州に従軍。ハルビンで731部隊の小規模なもののような部隊にいたことがあるらしい。従軍慰安婦の列にも並んだらしい。人も殺したと思う。
・ 私は父が大好きで、父と話すことが大好きで、戦争の話も何度もきいてみたけれど、まともに答えてくれたことはなかった。上の話はすべて母からきいたこととその後の推測。
・ 父はソ連の捕虜としてシベリアに抑留、イルクーツクの近くで、シベリア鉄道の線路をつくっていたという。
シベリア鉄道には乗ってみたいが、帰れなくなるようで怖いといっていた父。
「じゃがいも」が嫌いになった父。
・ すべては伝聞。すべては想像するしかない。
中国を侵略する日本軍の一員である父。
栄養失調で死にそうになった極寒の地の父。
・ 「戦争」が悪いといってしまえば簡単だけれど父がしてきたことの責任を、娘の私はどう負っていけばいいんだろう。
私の娘たちには何をどう伝えていけばいいんだろう。
・ 今年の12月、父の27回忌を迎えるが、まだ答は見つからない。


 






19.フライドポテト

新潟県の21歳さんから―

映画「ヒバクシャ」(HP:http://www.g-gendai.co.jp/hibakusha/index.html)では、ワシントン州にある、プルトニウムを製造するハンフォード工場の風下で、農業を営む男性が紹介されています。
この地域ではガンになり、死亡する人も多く、またこの男性の兄は被曝(注)被害で政府を訴えているのですが、弟のほうはおかまいなし。
「このじゃがいもはフライドポテトに適しているんだ。日本のみなさんにもたくさん食べてほしいな!」
と笑顔で話します。怖いです。
実際、彼の農場の作物は主に日本向けに輸出されているそうです。
ファーストフードはこんな面からも買ってはいけない、食べてはいけないものだと思いました。

 (注)爆撃を受ける→被爆。放射線にさらされる→被曝・被ばく

 






18.ジャガイモに要注意

前号?の、時々苦いとも思いながら皮まで食べている学生さんに、猿の木さんから―

危険です、ご注意下さい!

*新ジャガイモでは、あまり起こりませんが、ジャガイモの皮には、ソラニンという物質が生じることがあります。

イモを乾燥させる時に、誤って太陽に当てたり、袋からこぼれたイモが、数日間、日に当たってしまったり、新芽が出始めたりすると、新芽の部分、緑色に変化した皮の近くに、ソラニンができて、大量にたべると下痢をすることもあります。
食害虫からの自衛手段と思われます。
人のからだには良くありません。

ジャガイモの、緑色に変化した皮の下の、イモの身が緑色に変わっている部分は、皮を厚くむいて、切り捨ててください。もちろん、新芽も、取り外してください。
買ってきたイモは、新聞紙等でくるみ、明かりを遮っておくと持ちます。
農家の人は、乾燥作業も日陰干しですし、1−2月頃、自家食イモの新芽を、指先でポロポロと剥がし、芽が育たないようにして、保持期間を伸ばします。

私の経験ですが、我が家の家庭菜園で掘りたてのイモは、1−2日位までは、タワシで、こすり洗いすると、皮が、自然に擦りむけるほど柔らかいものです。
問題なく、皮ごと食べても大丈夫なのは、タワシで剥ける頃までと思った方が良いのではないかと思います。
 






17.学生とジャガイモ

現代日本の18歳の学生さんから―

じゃがいも談義をいつも大変楽しみにさせて頂いております。もしネタが切れても、かぼちゃなり人参なりさつま芋なりと続けてください。
僕のことを言えば、百円のTシャツの穴を縫って着続ける程の貧乏臭さ(でも、これを貧乏臭いと言えるのも今、しかもこの国だからですね)からか、きちんと皮ごと食べてます。たしかに時々苦いとも思いますし、皮が剥けてしまうこともあるけれども、やはり皮を無くしてじゃがいもは有り得ないでしょう!
1920年頃、第一次世界大戦後のフランスに中国から留学した勤工倹学生たちは、戦後不況下の物価騰貴と就職難の中で、仕事にあぶれ、住まいもなく、飢えに迫られていた―

 食べるものは何か。いちばん安いのは、豆かすかジャガイモである。石油を買う金がないから、ジャガイモの炊き方もなま煮えで、食べて腹の中にいれても消化がわるい。つづけて食べると、胃の病気になる。学生はみんな病気で倒れた。病院にかつぎ込んで医者が検査しても、何の病気かわからない。フランス人には生のジャガイモを食べるなどという、こんな経験はないからである。おおくの人が、こんなふうによくわからぬまま死んでいった。病院で死体を解剖すると、胃の中はまるで鉄のかたまりのような、まるいままのジャガイモだらけであった。医者は頭を振るが、方策は考えつかない。またひとりはこび込まれて、またひとり死んでいく。それで人びとはみな、びくびくして病気になることを心配した。病気になれば死ぬにちがいないからだ。
(何長工著、河田悌一・森時彦訳『フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流―』岩波新書、1976、p.105)

 学生さんも、そうでないヒトも、ジャガイモの芽はちゃんと取ってから食べましょう、ね。
 たかが、ジャガイモごときに殺されないように・・・
 
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ゴローと、同じ鍋のイモを食った仲の、オニイチャンから―
「うちの皮むき器(高級セラミック使用の京セラ製)には『芽取り』はついておりませんです。」

ハイテク時代になっても、家庭での皮剥きは手作業なんですね。
給食や外食産業の業務じゃどうしてるんでしょうね、どなたか報告ください。

30年前のあやしげな船では、クプクプ少年の、ボーイとして最初の仕事が、ジャガイモの皮むき。65個も!
  皮むき器なし、ナイフで、指に二、三ヵ所も傷をつくって。かわいそー。
(北杜夫『船乗りクプクプの冒険』)

梅村芳樹著『ジャガイモ : その人とのかかわり』(「作物・食物文化選書」古今書院、1984.5p.195)によると、ヨーロッパではジャガイモは19世紀に普及し、爆発的な人口増加と生活水準向上をもたらした。にもかかわらずジャガイモに対する評価は低い、と次のように述べている―
「『ジャガイモの皮剥き』という言葉。この仕事は馬鹿でもできる仕事、意義を見い出せない最低の仕事を示す言葉として、ヨーロッパ人の間で使われている。」

オヨヨ、「ジャガイモの皮剥き」にこだわっている「情報ファイル」はサイテー、か。

 






16.供出するのはジャガイモじゃなくて馬鈴薯

資料3点の紹介です。
戦争中は、供出は、「大東亜戦争必勝ノ為」「大東亜戦争完遂ノ為」の「皇国農民ニ課セラレタル重大責務」として、実行組合に「誓約書」まで提出させていました。
敗戦によって、供出―配給の制度は機能低下したといわれていますが、実態はかえって、非農家にまで、供出を強要したのでした。

?1944(昭和19)年7月9日 茨城県真壁郡河内村、馬鈴薯供出検査日時通知
         (『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984、p.443。)
 
昭和十九年七月九日    河内村農業会長
 各字実行組合長
 藷類出荷部長   殿
    馬鈴薯供出検査日時通知
標記ノ件左記日時ニヨリ割当分供出検査相願及御依頼候也 追而左記数量ハ特定地域ニ於ケル飯米ノ代替配給ナルモノニテ絶対必要数量ニ付申添候也         記 組合名    検査供出日時       供出数量  行先     備考板橋     七月二十二日午前九時   一二七俵  其ノ都度指定 検査場所集荷所 舟生     七月二十二日午前十一時  三七     〃          〃        八月二十五日午後三時   五三  木有戸南   七月二十五日午後四時   六○     〃          〃    北   同日           六七
      犬塚     八月四日午前十時    一一二     〃          〃 上藤     八月十四日午前九時   一一二     〃          〃 中藤     同午前十一時       八三     〃          〃 下藤     八月四日午前九時     一五     〃          〃        八月十日正午       三○     〃          〃 関館     七月二十六日午後四時   七○     〃          〃        八月十四日午後三時     五     〃          〃 花田     八月十四日午後一時    七○     〃          〃 霞台     八月四日午前九時     二三     〃          〃  計
?1945(昭和20)年8月 茨城県猿島郡中川村、常会徹底事項(昭和二十年)              (『岩井市史 資料 近現代編?』 1994、p.272)

八月の常会徹底事項
一、麦と馬鈴薯の供出について
 食糧は勝ち抜く為の力です。(中略)
 殊に農家における御奉公の道は、一に食糧の増産と供出にあります。戦況が危急をつげると共に、国内の食糧事情はいよいよ逼迫して参りました。これからの食糧は麦と馬鈴薯で食ひつながねばならぬ事情にあるのです。従って今年は特に麦は八月末日までに、馬鈴薯は九月末日迄に必ず割当全量の供出を完了しなければなりません。
 特に馬鈴薯については、七月十五日以后の割当出荷数量に対して農業会は前金を渡して「先買」をし、その金は各自の貯金通帳に記入されることになっております。
 横流しや闇売は決戦国民の恥です。お互に堅く申合せて一日の延滞もなく一俵の不足もなく供出を完了し、刻下の食糧不安を克復して皇国農民としての責務を果しませう。

?1946(昭和21)年5月19日 (二)「茨城新聞」
 「家庭でも供出 
    古河町では農家以外の各家庭からも大小麦馬鈴薯等の供出を行はせることになり隣組を通じて各戸に耕作反別の届出方を通知した」

 






15.「ジャガタラのジャガイモ」その3(「ゴロー・ファン・クラブ・ジャカルタ」さんからのレポート)

ある中国系インドネシア人のお宅の場合、クンタンは主にコロケ( kroket、これも洋風調理法ですが)にして食べるか、スープにして食べます。
コロケの場合は茹でてから皮を剥いてつぶしてから、調味料で味付けをして、丸い形にして(少しぺちゃんこにして)揚げます。こちらのコロッケはパン粉をまぶして揚げるなど、そんな手間はかけません。そのまま揚げます。 スープにする場合は角切りにして、同じく角切りにしたにんじんや牛肉、それからねぎと一緒に煮込みます。
日本の肉じゃがのような料理をよく作りますが、牛肉ではなく鶏肉を使います。しかも鶏肉は国産鶏に限る!
 






14.「ジャガタラのジャガイモ」その2 (「ゴロー・ファン・クラブ・ジャカルタ」さんからのレポート)

駐在日本人(台湾人や韓国人、欧米人も含めて)はまず市場には行かないのです。彼等はスーパーで買い物します。
市場では各スタンドでいろんな種類の野菜が並べてあって、たいていはジャガイモがおいてあります。朝早く行ったら、恐らく10kgぐらい積んであるでしょう。
選ぶ前に、まずは値段の交渉をします。値切らないで買う人はいません。私も得意ではありませんが、たいていの外国人はもっと難しいでしょう。だから市場には外国人を見たことがありません。
買い物客は自分の手で好きな大きさや形のものを選んで(中には腐りはじめたものもあります)、計りで重さを計ってもらって、新聞紙に包んでもらって、輪ゴムやわらで作った紐で縛ってもらって、持ち帰ります。一個だけを買うこともできます。
ここでは古紙回収はないので、新聞を取っている家庭(新聞を購読しない家庭の方が多いかもしれません)の主婦はたまった新聞紙を市場にもって行って、その分、買い物の代金を差引いてもらいます。知り合いのおばさんも長年そうしてきました。常連だから、一定の期間が経ったら必ず「新聞紙はないか」と聞かれました。
買い物袋はほとんど持参で、一ヶ所で大量の買い物をしたら、ポリ袋をくれます。
普通は買いだめはしないで、その日の調理に必要な分量だけを買います。
使い切れないジャガイモは冷蔵庫か室内で良く見えるところにしまって、できるだけ速いうちに調理します。







  (13) 「ジャガタラのジャガイモ」その1

Sさん(1925年生まれ、東京都育ち)から―
「ジャガイモを福島県ではカンプラということを、疎開して知りました。どこから転訛した言葉でしょう。韓国語ではカム(ン)ジャGam-ja といいます。」

梅村芳樹によれば、ジャガイモには200以上の呼び名がある。
「ジャガイモは馬来薯(マライ半島のイモ)との説もあり、ジャガイモはジカトライモ(ジャカルタの旧名)からジャガタライモをへて成立したというのが定説である。」
農林省では「ばれいしょ」と呼び、厚生省や文部省、消費する側は「じゃがいも」と呼んできたという。(梅村芳樹著『ジャガイモ : その人とのかかわり』「作物・食物文化選書」古今書院、1984.5)

なるほど、大正・昭和期の雑誌などではしばしば、「馬鈴薯」に「じゃがいも」とルビがふられている。
では、「ジャガイモ」という名のもとになったジャガタラ(=ジャカルタの旧名)のジャガイモ事情は?

以下、「ゴロー・ファン・クラブ・ジャカルタ」さんからのレポート―

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ここではジャガイモはkentang(クンタン)といいます。もちろん昔オランダ人が(恐らくは)ラテン・アメリカから運んできたものです。
広辞苑では、日本のジャガイモはジャガンタラ、つまり今でいうジャカルタから(オランダ人によって)日本に運んできたものだと記載されていて、本当かどうか分かりませんが、定説になっているらしいですね。
余談ですが、中国語ではジャガイモのことを口語では「土豆」( tudou)と言いますが、文語では日本語と同じく馬鈴薯(malingshu)といいます。日本語からの借用語かも知れませんが。

ジャカルタの市場には、クンタンすなわちジャガイモのほかに、ubi(ウビ)やtalas(タラス)、singkong(シンコン)があります。
ウビは日本のサツマイモと似ていて、こちらでは蒸して食べるか、スライスして(1?足らずの厚さに)衣を着けて天ぷらにして食べるか(日本と同じ、ただしこちらではウビの天ぷらはおかずではなくおやつです)、茹でて皮を剥いてつぶして砂糖などを足して菓子にする(日本の芋ようかんを想像して下さい)。
タラスはタロイモの感じで、ほとんど中華料理や中華の菓子にします。
シンコンはキャッサバのことで、蒸しておやつ(或はご飯代わりに)にするか、スライスして塩をまぶしてからっと揚げておやつにする。
いずれも、ジャガイモより値段も「品格」も庶民的です。
クンタンも今や大量に作られていますが、やはりもともとは白人が食べる物だというイメージが強い。20年前だと、私の記憶では、確かにジャガイモは高級品でした。ジャガイモの価格も今やだいぶ庶民的になったので、貧乏でジャガイモが食べられない、ということはありません。

 






12.北海道からのイモ

目黒区のAさんから―
「ジャガイモ談義? 北海道のイモ」を読んで、母が言ってました

"戦後20年11月に北海道から送ったじゃがいもが、すっかり凍って翌年の4月にまっくろになってじゃあじゃあ水びたしになって届いたが、何も食べる物がないので、それを干して乾燥させて肉ひきで粉にして野菜にまぜて食べた。その頃の鉄道も郵便局もまじめにやっていた。よく盗まれずに届いた。あのころの人は今の人よりずっとまじめできちんとしていた。"

母も、小学校に入る前から、朝かまどに火をおこし、ごはんを炊いて、後片付けをしてから学校に行っていた。子守りやおむつ洗いもした。
耳が痛かったです。







(11) 「おばあちゃんのコロッケ」

静岡県の「肉屋の孫娘」さんから:
私の祖母が元祖コロッケ! でした。その地域では戦後、一番最初にコロッケを店頭に並べたとか。だから、おばあちゃんの製法は語り継がれているのです。
ジャガイモは「ゆでてあがったらすぐに、ホクホクの熱いうちに皮をむきます」。
そうすると薄くきれいに取れるので、皮と身の間の旨みが逃げません。
ゆですぎると身のほうまでボロッと崩れてしまうので、取れるので注意。
剥くときのポイント:熱いのでもちろん素手では無理。清潔な軍手をはめて、手の中に芋を包んで親指の腹で皮の上を滑らすようにすると、おもしろいように剥けるのです。軍手の代わりに、ふきんを一旦湿らせてから固く絞って手のひらに広げて、その上に芋をのせてきゅっ、きゅっと勢いよく剥くことも可能。
当時(30年位前)の記憶によるジャガイモは、今店頭にあるものよりも、だいぶ大きかったような気がしています。私が小さかっただけなのか…小判型のおいしいコロッケ、売価はたぶん30年前は1個30円くらいで売られていたと思います。その後、50円、70円に。その数字が記憶に残っています。なつかしいな。
そのおばあちゃん、当時50代だったと思います。

新芽は毒!とは言うものの、丁寧にとらなかったり、見落としていたりしただろうに、今までおなかを壊したことはありません。
でも、物ごころついてからは、丁寧に取っていますね。

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「東京の精肉店での手づくり製イモコロッケ1個当たりの値段」を『完結・値段の明治・大正・昭和風俗史』(朝日新聞社、1984年)p.287で見ました。
静岡県のおばあちゃんが売り始めたのが1950(昭和25)年だと、東京では5円だったそうです。今から30年前にあたる1973(昭和48)年には、50円。
2003年現在、スーパーで、1個100円、特売で80円というところでしょうか






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