目次
その4(31〜  )
★第31回ポテトサラダ
★第32回サンヤサマ(1)猿島郡三和町新立
★第33回サンヤサマ(2)真壁郡明野町
★第34回サンヤサマ(3)猿島郡三和町新立の続き
★第35回サンヤサマ(4)千葉県千葉市市
★第36回サンヤサマ(5)猿島郡猿島町沓掛
★第37回サンヤサマ(6)猿島郡三和町中里
★第38回ボルシチ
★第39回青年団の献立
★第40回肉は何肉?...new
その1(0〜10) / その2(11〜20) / その3(21〜30) / その5(41〜)



40.肉は何肉?

谷川彰英監修『国際理解にやくだつ NHK地球たべもの大百科 13 ロシア ボルシチ』(ポプラ社、2001年、p.6)によれば―
「もともと、家にある手近な野菜をあれこれ煮込むスープであったため、ボルシチの材料はいまでも家庭によってさまざま。一緒に煮込む肉も、とくに決まっていません。」

ジャガイモに取り合わせる肉は何肉?
国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」では、馬鈴薯はビフテキの附属物。(青空文庫
ジャカルタの肉じゃがは、鶏肉。(ジャガイモ談義?「ジャガタラのジャガイモ」その3
調布市仙川の韓国家庭料理店「東仙坊」のメニューに、
  カムヂャタン(ジャガイモと豚背肉の鍋)中(2〜3人前)1,600円
ウクライナのボルシチは、豚肉と牛肉。(2004.1.9NHK「生活ほっとモーニング」)

牛・鶏・豚とあるからには、まだ確かめてないけど、きっと、馬・兎・猪・熊もあるでしょうね。犬・猫も・・・
ネパールのアルスープでは(2004.1.9NHK「生活ほっとモーニング」)
  ジャガイモ・ニンニク・ジンブー(ヒマラヤ葱)・ヒマラヤ産岩塩・コショウ・牛乳・細葱・ターメリック・バター

大蒜(ニンニク)に「人肉」と書いてある売り場を見た。
人の字だけは、やめて欲しい。



39.青年団の献立

1952年(昭和27)12月21日、幸島北小学校(現・茨城県猿島郡三和町立駒込小学校) を会場にして「教養を高め民主社会の一員として社会に適応しよりよい生活へのもと となるようにとの念願」から開催された、幸島村北部青年団の講習会―

午前8 時受付、閉講式が午後10時。一日びっしりの日程のうちには、午後3時のレク リエーション、午後7時半からのキャンプファイヤーもあります。
参加者からは、事前に一人あたり、「米五合、会費五十円、白菜二人で一株、じゃが いも一ケ、にんじん一本」を集めています。
集めた現金で買う物は、調味料や肉とか豆腐、でしょうか。・・・どんな献立になっ たのでしょうか・・・白菜入りのカレーライスか、里芋じゃないからケンチンじゃな くて豚汁かな・・・
 この日のために用意された『レクリエーション歌集』には、「あざみの歌、静かな 湖畔、おなかがすいた、夜の歌、白とりの歌、栗の木の下、陽気なチンタ、皿わっ た、一日の終り、別れの歌」が載っています。今は七十歳前後のオジサン・オバサン も、50年前には、こんな歌を歌っていたんですねエ。

(出典:三和町立資料館『昭和二七年度 雑書類綴 幸島村教育委員会』「幸島村北 部青年団講習会の件」)







38.ボルシチ

久しぶりにボルシチを作りました。いまいち味が決まらない。ジャガイモを二つ割にしたり、小さな鍋でチマチマ、やってるせいかなぁ・・・
むか〜し、40ウン年前、母が作ってくれたボルシチ、ガス竈の上の羽釜(釜飯屋で出てくる卓上用の釜、あれを、う〜んと大きくした鉄の釜)にたっぷり、ジャガイモ丸ごと、肉は牛肉だったのかな、カレーよりも大きめな塊が入ってた。私にとってのカルチャー・ショックでした。

 母のボルシチ、要するに、カレーと同じ具で、味付けがカレー粉じゃなくてトマトケチャップだった。ケチャップの赤い色のシチュー、というべきか。30年前、姑が食べさせてくれたのも、ケチャップ味の赤いシチューだった。

 “ある日、デパートで実演を見てレシピを貰ってきたと言って、母が作ったのが、ボルシチでした”
―9才上の姉に聞いたら、覚えていないそうな―私の思い込みだったのかな、と、少々自信をなくしていたら、最近、76歳のK先生が、「ボルシチよ」と出してくださったのが、ケチャップ味の赤いシチュー、ジャガイモは入っていなかった。

今、友達に聞いても、料理本を見ても、テレビ(2004.1.9NHK「生活ほっとモーニング」)でも、「ボルシチにはビート(またはビーツ)が不可欠」という、ビートが赤い色の元なのだそうだ。
30年前、ビートなんて、売ってなかった。

2004年9月、東京・恵比寿駅のAtoraiの「マトリョーシカ」という店のメニューボルシチ 700円
  大きな具がコロコロ入った具だくさんのトマトスープ。
何時間もコトコト煮込み、余分な脂を取り除いたヘルシーなスープです。
焼きたてパン じゃが芋とヘーゼルナッツのパン(一ケ) 160円

この店のボルシチ、ビーツは小片だったような。味と見た目と、まさに、「メニュー」に書いてあるとおり、トマトスープでした。
私にとっての「おふくろの味」でした。







37.「サンヤサマ」(6)猿島郡三和町中里

中里の二十三夜尊三和町の中里(なかざと。旧茨城県猿島郡八俣村)行政区には「二十三夜尊」があります。「二十三夜尊改築記念碑」によれば、1989(平成元)年11月23日に「県道古河宗道線拡幅工事に際しこの地に移転改築」した新しいものです。

今号掲載の「1945〜1947年 茨城新聞を読む」連載第56回に登場する、八俣送信所(☆)のすぐ南隣にあります。送信所はその高い鉄塔が空襲の目標とされ、戦後は米軍の進駐下におかれていました。写真では、社殿の後方の草地が送信所の敷地です。鉄塔はあいにく樹木の陰で見えません。
中里の二十三夜様の変遷を、為貝守男さん(1934年生れ)に聞きました。
為貝さんは、1945年に本家に縁故疎開したまま、29戸だった中里に住み着いて、三和町役場に勤務してきた方で、非農業です。中里は戦後、野菜よりも苗木の生産販売が盛んになった集落です。お話を聞いた1993年には、元からの農家は苗木商が多くなっていて、新住民の増加で92戸になっていました。

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 二十三夜様(にじゅうさんやさま)は、一軒から一人出て毎月23日にやってた。
私なんか、中学生の頃から出てた。酒飲んだのも、中二の時だもんな、二十三夜様で初めてだった。「こういう時じゃないと、清酒って飲めないもんだ、米の飯も食えないもんだ、から」って。ふだんは酒ったって、ドブロクだから。で、飲んだ飲んだ、気持ち悪くなって、庭に霜よけに敷いてあった藁ッチブにゲロ吐いちゃって、一週間 学校休んだ、その時、試験だったんだ。

「今夜はノーマクだから」って触れがあって。昔のことだから、公民館なんかないから、回り番で、当番の家に夜8時に集まる。食事なんか持ち寄って。子供達の天神講(てんじんこ)みたいに。夜中の2時頃までご飯食べたり酒飲んでいて、すると、旧暦だと二十三日ってのは、月がちょうど三日月で夜中の2時頃出るんだな、それで、月の出を拝んで、「ノーマク サンマン、ダーラーサラーダ、センダンマーカー シャーターソワカ、ウンダラ ダーカンマ」って皆で唱える。太鼓に合わせてこれを一回唱えると、算盤みたいな、上と下に5個ずつ玉があるのを1個ひっくり返す。10個になると上のを一回返す、ってやってって百回拝み終わったら、お月様上がってくるから、それで解散して家に帰る。

箱がある、掛軸と太鼓と数える(算盤状)のとが入れてあって、回り持ちだったが、今は集落センターに置いてある。けど、センターに置いてから、一度もやってない。
太鼓はたける(=叩ける)人がいなくなっちゃったから。
それから、夜中までじゃなくって、ただ夕飯のとき、寄って掛軸掛けて拝んで、9時か10時には解散するようになって。
29軒だったのが、35軒位になったとき、寄りが悪くなっちゃったんで、拝むんじゃなくて、普及員(=農業改良普及員)を呼んで米やサツマや大豆の作り方などの勉強会やろう、ってことになった。それも、最終的には、みんな苗木屋になっちゃって、普及員と話合わなくなって。
「南」(中里に隣接する行政区)にある大日様(だいにちさま。の祭)、あそこは元は中里だけじゃなく、新々田(しんしんでん、行政区)も一緒だったんだが、新々田が10年以上前に抜けちゃった。その頃中里で入ってたのは26軒で、あとからは入ってなかった。それで、抜けっちゃおう、ってことになって。
大日様を抜けるにあたって、それまで裸の石2個だった二十三夜様を、中里だけでミラク堂の三角地に祀ったんだね。
そこが、道路の拡幅にひっかかって移転しなくちゃならなくなって、農道の払下げと交換で今の所を借りて建て替えたわけだ。
ところが、その時中里は80軒あったんだが、寄附集めるのに「何の神様なのか」って質問されるし、80軒の中には学会(=創価学会)もいるし佼成会(=立正佼成会)もいるし、真言宗とか天台宗とか、いろいろあって、寄附出したくない、ってのもあって、まあ農業の作神様(さくがみさま)だろう、それと悪病よけだろう、って言った んだが。
それで初めて二十三夜尊について調べたんだが、回りまわって、茎崎町(現つくば市)にある月読神社に行ってみたら、本堂の中の壁掛けが、みんな「二十三夜様」なんだな。神主さんに聞いたら、なんでも明治初めの神仏分離した時に、「尊」っていうのは仏教だからって「月読神社」に直したんだ、ということで、元は同じ、ってこ とで。
茎崎の月読神社では、11月23日に大祭をやるんだな、その時にお札受けてきて、32軒に配っている。
で、全戸から寄附集めて、移転して建て替えの記念碑に、あの碑も50万かかったが、そこに、移転のイキサツに加えて、「ずば抜けて良い神様なんだ」と書いて、ついでに商工業の発展も願って、建てたわけだ。







36.「サンヤサマ」(5)猿島郡猿島町沓掛

―茨城の猿の木さんから―

茨城県猿島郡猿島町沓掛に、近年まで二十三夜尊(サンヤサマ)講中(こうじゅう)があったようです。年末になると、茎崎町(茨城県稲敷郡。2002年11月合併により現つくば市)の月読神社へ代参した人が受けてきた「作物予表」()を、講中に配っていたようで、私は、近年これを知りました。
近年は、代参といっても、講中というものが事実上消滅していることも多くなり、この十数年内で聞いたところでは、「作物予表」は種屋さん(種苗商)が業の傍らに、まとめて受けてきて景品同然に配ったり、非農家である私が友人の農家から頼まれて、茎崎方面へのついでに受けてきたりしています。私の近所ではとくに酒盛りなどはしていません。

「作物予表」は、1年間の天候と作物ごとの出来具合の予想を一覧表にしたもので、「平成十五年 作物予表」によれば、2003年の予想は、中稲(なかて)三ト、陸稲(おかぼ)七ト、さつま 二ト、雨風(台風など)四ト、とあり水稲とサツマイモの不作と雨を好む陸稲の良作、台風少ないとの予想から、夏の天候不順の卦が出ていました。農家の友人は、「後から晴れるようになって晩稲(おくて)は良かった。」とか。また、今年2004年の夏の天候は、作柄予想から「雨多く、照り多い」と読んだ通りで、友人の言うには「八割がた、あたってる」そうです。

各地に、二十三夜という地名の残る場所もあります。


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☆ むらき注
月読神社が配布している「作物予表」は、昔は、「東方朔」の名称で、訛って「とも さく」「とぼさく(とうぼうさく)」と呼ばれている。

月読神社の「作物予表」
http://www.nibh.jp/~takahashi/tradevents/ts.cgi/KukizakiTsukiyomiには「東方朔」とある。
森戸村(現猿島郡境町)の中村正巳家文書の中に、天保12(1841)年と、明治10 (1877)の「東方作置書」が残されている。中村正巳家は、明治10年前後には、常三郎が、 地祖改正下調掛・蓮生院世話人・書記・人民総代・ 村会議員などの、村の役職をこなしていた。







35.「サンヤサマ」(5)猿島郡猿島町沓掛
─ 茨城の猿の木さんから ─

高校時代に地学部にいた、天文好きの学生だった目で、書いてみます。
1.サンヤサマは、天文学の話からは、夜半遅くに月の出をしてくる、月齢23、月の満ち欠けに言う、二十三夜月を拝む習慣です。二十一夜尊(イチヤサマ)という場所もあります。
2.月は、一ヶ月の中で、毎日形を変え、三日月、半月、十五夜(満月)などと呼ばれます。
二十三夜月は23日目の形で、夜半過ぎに、絵に描かれるような半月、ただし左右反対の、左が丸い半月になります。
地球と月と太陽の公転する軌道の傾きのせいで、この時期に月は、右に開いた半月が、船の様に横に寝た形で上ります。
3.私が、小学生の時に、千葉市の漁村出身の祖母がサンヤサマの話をしたことがありました。
その祖母が子どもの頃、みんなで、夜遅くまで起きて月の出を待っていたこと、事前に作っていた料理、ごちそうを食べながら、待ったこと、そして出てくる月を拝むこと、これがこの慣習の要素となっているようです。医療の未発達な時代に、身体の健康を神仏に祈って頼る他に手段が無かったということでしょうか。
祖母は、月の出を、以下のように表現しました。
「月が、右と、左と、真ん中の三つに分かれて出てきて一つになった。」

幼い私には、何の意味か分からずにいましたが、三位一体の姿、地表地形と、月の出の月齢によれば、可能な現象だと思います。
ちなみに、私は、実際に山の端からこのような月の出をするのを、まだ見たことはありません。







34.サンヤサマ(3)猿島郡三和町新立の続き

新立の「二十三夜尊(サンヤサマ)「※ジャガイモ談義(32)「サンヤサマ」(1)猿島郡三和町新立」に、「新立の「二十三夜尊(サンヤサマ)」は、個人持ちの邸内祠。」と書いたのですが、現地を再確認したところ、持ち主の屋敷からは少し離れたところにありました。(★続き、シューン・・・)

 新立のサンヤサマの正式名称は「二十三夜月読之尊」、祭日は「旧十月二十三日」でした。
 個人持ちですが、境内には、持ち主のイッケ(=同族)でも親戚でもない人々が寄附した鳥居・灯篭・旗台・幔幕があります。新立という集落の鎮守と意識されているのです。







33.サンヤサマ(2)真壁郡明野町

井之口章次『筑波山麓の村』(名著出版、1985、p.119‐120)に、「三夜様」の項目がある。この本は、1954年から1957年にかけて行なった「筑波山をめぐる村々の、民俗調査報告書であり、いちばん中心となったのは、茨城県真壁郡旧上野村(現明野町の一部)での聞き書きである。」調査開始時は、昭和の合併で、上野村が解消するときであり、最後の村長は赤城ひさ子、その夫は赤城宗徳であった。

  『筑波山麓の村』p.119
「三夜様

 二十三夜様とも三夜待ちともいう。毎月二十三日の夜に、月の出を拝み飲食する行事である。家毎にまつるばあい、組毎に講を作っているばあい、信仰する者だけでまつるばあいなどがある。ふつうにいわれていることは、二十三夜様を信じると銭金の苦労がない。金がたまるというのである。赤浜では、信心する人は米を持って宿に集まり、二十三夜様の出るまで起きていた。寝ていて三夜様を拝んだのではききめがない。むかしは三夜様を待つあいだに男は縄を一把ない、女は糸でも引いたものである。この日は五目飯をつくる。本当は毎月の二十三日に集まるのであるが、ふだんは止めても霜月二十三日には必ず集まった。寒い間は農閑期にあたるので、毎月まつるようである。近ごろはだんだんものぐさになってきて、蒲団の中に入っていて、三夜様が出ると起き出して拝む。そして言いわけに、「果報は寝て待ちる」などという。

 二十三夜様は夕飯をすませたあとの行事であるが、夜も更けているので、夜食にあたる飲食がある。小豆がゆとか小豆飯など、小豆を使ったものを食うことにしている。二十三夜の供養塔に、赤飯、米、うどんなどを供えに行くところもある。また十七夜、十九夜様と同じように、子供のできない人が願をかけると、子供が得られるという。そうかと思うとまた、庚申の夜の伝承にも似て、二十三夜に子供が生まれると、その子供は出世するとかぎりなく出世し、悪くなるのもかぎりない。だからあまり信心するな、などという人もある。豊臣秀吉は二十三日に生まれたのだそうで、これはたまたま出世した珍しい一例というのだろうが、あるいは前項の閑居様と、何かの関係があるのかも知れない。」







32.サンヤサマ(1)猿島郡三和町新立

ジャガイモ談義(31) ポテトサラダ(第152号 2004.7.13)で紹介した、新立(しんたて)の「二十三夜尊(サンヤサマ)」のご馳走の一つに、“マヨネーズであえた「ポテトサラダ」”と書いたのは記憶違いでした。
今日、ファイルを引っ張り出して見たら、
“サラダ(鳥肉、レタス、チクワ、マカロニ、玉子、マヨネーズ)” ジャガイモは入ってなかった!! (恥ずかしィー。新立の当番さん、ごめんなさい)

新立の「二十三夜尊(サンヤサマ)」は、個人持ちの邸内祠。農家の屋敷林の一隅の祠は、マチの日に、幟が立ち、幔幕を張ってあるので、初めてその存在に気付くほどの、めだたないもの。集落の農家が鎮守のように年一回の「マチ」には回り番で当番を務める。
集落内の人が三々五々、お参りしたあと、当番から接待を受けて焚き火を囲んでしばし歓談して帰る、月が出る前には終ってしまう。
ささやかなマチだが、蒔田利和さん(1927年生れ)によれば、
「前は、『さんや様』にも露店が出た。昭和30年頃、オリンピック(=1964)までは。前の道路ができて車の通りが多くなって、出られなくなっちゃった。」
三和町の多くの祭礼が週末に行われるようになった高度成長期以後も、新立のサンヤサマの「マチ」は、旧暦で行われている。
1992年も旧暦「二十三夜」にあたる11月17日の「マチ」には当番3人(=3軒。男1人、女2人)が早朝から夕方まで境内に詰めて、参詣にくる人の接待にあたっていた。2004年現在も、旧暦で行なわれる







31.ポテトサラダ

 今年も「川口さん」から「ゴロちゃんに」と、小粒のジャガイモをたくさんいただきました。(→ジャガイモ談義? 第96号 2003.7.18
 蒸かして一個試食、おいしい!
 
ジャーマンポテトにして、オカーサンとオトーサンもたくさん食べました。
「川口さん」ありがとう!

小学5年生の男孫が家庭科の料理実習に取り組んでいる様子に、“「男子、厨房に入らず」なんて平気で言っていた昔が、なんだか恥ずかしく思えた。”という投書がありました。

(「食卓に並んだ孫のポテサラ 無職 清水三重子(神奈川県厚木市 74歳)」『朝日新聞』「声」2004.6.22)

 “週末には、「ポテトサラダはぼくが作る」と言って頑張ってくれた。
材料はジャガイモ、キュウリ、トマトの三種類で、おぼつかない手つきで皮むきを始めた。ドレッシングも市販のものを使わず、分量を計算しながら自分で作った。”
 

1953年、長野県の農村で展開された「生活改善運動」の中で(一ノ瀬綾『遠い朝』檸檬社、1981年、p.203)―

 「村の生活は大きなうねりの中で確実に変化していた。台所改善は流行の先端だが、それにともなって衣食の面もまた、公民館や婦人会のかけ声でさまざまな運動がくり広げられていた。冠婚葬祭合理化のトップを切って、婦人会が婚礼用の式服を揃え、祝儀金額を申し合わせたり、会費制の挙式を提唱したりした。料理講習会はもてはやされ、どこの家へ行っても、じゃがいもにソーセージや胡瓜を混ぜた野菜サラダが出されるという工合だった。それぞれの部落には改善グループや農事研究会が出来、村の中央には村営の診療所が開設され、蚕の稚蚕共同飼育も始められた。

 こうした状況の中で、四Hクラブ活動もようやく若者達の間に根付き始め、クラブ員の実績発表会には、毎回県大会まで出場者を送るようになっていた。」


 ポテトサラダって、ハイカラな料理だったんですね。当時の茨城県立高校農業科の生徒の日記に、“マヨネーズ作りの実習”とあったのを思い出しました。
 
1992年秋、茨城県猿島郡三和町の、新立(しんたて)という集落の「二十三夜尊(サンヤサマ)」のお祭りによばれたことがありました。

並んだご馳走の一つに、マヨネーズであえた「ポテトサラダ」がありました







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