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(200) 三太缶蹴り?

うちの庭で、トーガンが実ってる。去年の種(※1)から自生したんだ。
ゴーヤはおしまい、代わって柿がたくさん実った。みーんなおらの協力の成果だ。
散歩コース、落ち葉にまぎれてジュース缶が何個も落ちてる。
どっちかってえと、空き缶よかボトルの落し物のほうが多い、おら、ボトルを咥えて投げて追っかける、けど、蹴るのは苦手だ。缶蹴りはやったことがねい。
ボトル投げの大好きなテラさん(※2)はどうだろう?


うちへ帰って、新聞の山を仕分けてたおかあ、「「缶けりを知らない子どもたち」ってえ投書(※3)を見つけた。
コーヒーメーカーが今年5月にネットで600人に調査(※4)したら、
「現代の小学生、4人に1人しか「缶けり」をしたことがない!  しかも10人に1人が「缶けり」自体を知らない!」
ってえ結果だったんだと。


空き缶を使う遊びといえば、缶蹴りと缶ぽっくり。
おかあ、缶ぽっくりは、やった覚えがある。けど、「缶蹴り」は、おぼろだ、どんなルールだったか、缶はどんな形・大きさだったか、誰と一緒にやったのか、・・・ほんとに自分がやったのか、やってるのを眺めてたのか・・・
おかあ、自分が思い出せねいことは、すぐにヒトに聞く、
「あなたの缶蹴り体験を聞かせてください」



※1 (165) 三太現実の犬
※ 2 (195) 三太ヤギミルク(続)
※ 3「朝日新聞」2010.8.17 「声」
※ 4 「「『缶けり』を一緒にしたいサッカー選手」1位は中村俊輔選手!」
(199) 三太非常食

すごい!
 
地下700メートルに缶詰めになっていた33人が70日ぶりに生還した。
チリ鉱山落盤事故(※)、避難所に備蓄されていた食料はわずか3日分だった。
それを20日分として、一日おきに、缶詰のツナを2さじ、クラッカーを1枚の半分、牛乳を半カップ、缶詰の桃1切れを食べるように分配して生き延びたんだと。
ルイス・ウルスアさん(54)のリーダーシップとみんなの結束あってこそ、缶詰が非常食として本領発揮したんだ。


文句なしにすごい!


  もし、おら独りだった
缶詰があっても、おらに使える缶切りがねい。
,
ゴロー先輩が、粒メシの10キロ入り袋の前で腹減らしてたことあった。
匂いが洩れてりゃ、袋を噛み破いただろうけど。
 
おとうが、骨タイプのおやつをくれた。非常用に保存しとこうと思って、咥えて庭じゅう保管場所を探して回ってるうち、少しずつかじってたらしい、埋める前になくなっちまった。



※「朝日新聞」 2010.10.13夕刊【キーワード チリ鉱山落盤事故】
  南米チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山で8月5日、落盤事故が発生。作業員33人の生存が絶望しされていたが、17日後、地下約700メートルの避難所に全員が無事でいることが確認された。チリ政府は食料や生活用品を差し入れながら救出用の縦穴を掘り進め、今月9日に貫通した。」
(198) 三太ララのミルク(その3)

ミルク給食ったって、昼食ってえわけじゃなかった。朝10時に飲ませた学校(※1)もあれば、下校直前に飲ませた学校(※2)もあった。


学校給食は、戦争前の昭和恐慌・農村恐慌の時代に始められたときから、欠食児童への栄養補給だった。ある地区の学校に通う子すべてが、同じものを一緒に食べるわけじゃなかった。

たとえば、茨城県じゃ、昭和7(1932)年、給食を奨励するためにまず欠食児童の調査をやった(※3)。昭和12(1937)年には、猿島郡幸島村の幸島小学校(現・古河市諸川小)の青木キヨ先生が衛生主任として奮闘してきた給食実施経験を、猿島郡教衛生研究会で発表して絶賛された。65名に給食したが、貧困児童には無料で実施していた(※4)。

 茨城県の戦後の学校給食も、昭和22(1947)年、水戸・土浦・日立三市では、連合軍放出の物資=軍用缶詰、脱脂粉乳等で始められたが、郡部の学校では「学校農園の収穫その他物交など」などの食材で作った味噌汁から始まった(※5)

幸島小学校では、昭和22(1947)年12月24日の「学校給食記念日」に音楽会を催し、会場で父兄がミルクを試飲した。この幸島小学校で完全給食が実施されたのは昭和31年度、それでもまだ隔日のC型だった。

南隣の八俣小学校では、24(1949)年5月にミルクとみそ汁が交互の給食を始めた。東隣の名崎小学校では24年9月に完全給食を開始している。
猿島郡の中心校的な存在の境小学校(※6)では、22年12月1日に給食を始めた。23(1948)年5月の第一週の献立を「学校日誌」で見ると、
  • 水曜日は「味噌汁 一、四、五年」
  • 木曜日「汁(味噌) 二、三、六年」
  • 次の週の月曜日、「アップルバター パン各自持参 1年―三年」
境小の子どもたちの半分ずつが、かわりばんこで、給食のある日とない日があったんだ。
1週間に5日給食するのをA型、4日がB型、3日がC型、っていったらしい(※7)。境小は「補給D型」っていうやりかただったんだと。
おかあが聞いた4人のララの思い出は、「補食給食」だったんだ。


 文部省の「学習指導要領」で、学校給食が学校行事等の領域に位置づけられたのは、1958(昭和33)年10月だが、そのころの茨城県での「完全給食」の普及率は50%だった(※5)。

<皆が同一時間内に同量を>食べなさいと先生がしつこく指導するようになるのは、この頃からだろうか(※8)。
おらは好き嫌いなく、あっという間にたいらげる。おらが学校行ったら、給食が最大の楽しみに違いねい。
けど、食の細い子、食べるのが遅い子、アレルギーなんかで選んで食べなきゃなんない子、なんかにとっちゃ、給食は責め苦だろうな、かわいそうに。



  • ※ 1 「1946年アジア救済連盟の援助(通称ララ物資)を受け、脱脂粉乳が放出された。学校では朝10時に生徒たちに飲ませた。」
  • (『翔ばたく女性たち―もうひとつの北区史3』東京都北区総務部女性政策課‖編 / ドメス出版 , 1999、p。84【学校給食を支えて】)
  • ※ 2  兵庫県御影市育ちの人からの聞き取り
  • ※ 3 木脇紀美子「学校給食」いまむかし 『町史あれこれ』?50、 1993(茨城県猿島郡三和町役場。幸島村は三和村→三和町→現古河市)
  • ※ 4 「いはらき」1937.6.26、「サシマ新報」1937.7.4  
  • ※5「茨城県学校給食会」サイト『学校給食年表』  、「茨城新聞」1947.1.12
  • ※6−1 「昭和二十三年度 学校日誌 茨城県猿島郡境町立境小学校」 (境小蔵)
  • 6−2 境小学校、学校給食(補給D型)開始する。昭和39.4.10完全給食開始、給食室完成する (『猿島郡教育史』猿島郡教育会2001.12  p.323)
  • ※7「学校給食にA型、B型、C型という型をつくっておりますが、五日やるのと、四日やるのと、三日やるのとあるわけでございます。」
  • (衆議院会議録情報 第043回国会文教委員会第12号昭和三十八年三月二十日(水曜日)kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0462/04303200462012a.html -)
  • ※8 「給食 完食指導は何だった」(『朝日新聞』 2010.4.27「声」)





(197) 三太ララのミルク(その2) 

ミルクだけでも学校給食だ。
脱脂粉乳を溶いて各地で始められた(※1)。

戦災都市・銚子の小学校でも、1947年2月17日から給食を開始した(※2)。献立は、国から配給された「ララ物資」=脱脂粉乳を溶いたミルクか、かん詰(元軍用ますかん詰)を野菜などと一緒にごった煮した、補食給食だった。中学生K.M.さんが、缶詰工場でイワシを詰めるアルバイトしてたころだ(※3)。
銚子市の学校で、「パン、ミルク、おかず」の揃った完全給食を初めて実施したのはまる10年後の1957年(昭和32年)2月4日だ。 
昭和26年度までに、銚子市にゃ、国から学校給食用に、いろんな缶詰が配給されてきた。
副食物類
  • ポークタング(豚の舌)
  • ポークアンドグレイビー(グレイビーはソース、豚の味付けか?)
  • ビーフアンドグイレイビー
  • ラビオラ(不詳)
    ハッシュミートアンドヴェジタブル(こまぎれ肉と野菜)
    さば水煮かん詰(国産か?) 
    バター
    人造バター
    アプリコットジャム(あんずジャム)
  • アップルバター(ドライアップル入りのバター)
    パナックス(不詳)
菓子類
  • キャンデー
  • ドライプルーン(乾燥すもも)
  • ドライアップル(乾燥りんご)
  • ビスケット
飲み物類
  • グレープフルーツジュース(ゲレープフルーツは昭和40年代になって一般に輸入、市販されるようになった柑橘類の一種)
  • トマトジュース
  • パインジュース
  • スープパウダー
I.A.さん、食った覚えあるか?



※1 たとえば、栃木県で『小山市史 史料編・近現代?』1984、p。974 
   (1)小山市における学校給食のあゆみ
      昭和22年1月から全国都市部の小学校を中心に、約3,600校300万人の児童に対   し、ララ物資の寄贈があり、再開された。

小山市においては、
 昭和22年 10月から脱脂粉乳をミルクとして飲用することになった。

※2 『続銚子市史? 昭和後期』 昭和58(1983)、p。494【銚子市の給食開始】
 p。496【昭和20年代の給食状況】
 なお昭和26年度までに国から配給された物資のうち、脱脂粉乳以外では次のようなものがあった。これらはほとんどかん詰である。

※3 (193) 三太焼け缶詰
(196) 三太ララのミルク

おかあ、今のアメリカの、<攻撃→破壊→復興支援>というやり方から、64年前のララ物資も、戦勝国アメリカが国家として、破壊し尽くした占領地日本に送りこんだ<復興支援物資>だと思ってた。
実際は、アメリカのボランタリー団体「ララ(アジア救援公認団体)」が、宗教団体や、いくつもの国の個人から寄付された物品をまとめた救援物資だ。悲惨な母国を案じた日系人の関与が大きかったらしい。
ララの成り立ちや、政治的意味については、おかあ、まだまだ勉強不足だ。(※)


昭和10年代生まれの4人に聞いてみた。Aさん1936年生まれ、Bさん1938年生まれ、Cさん1938年生まれ、Dさん1941年生まれ。
「ララ物資って、言うと、思い出すのは?」
「脱脂粉乳!」4人、異口同音。
4人が育った土地も、学年もバラバラだったが、ララ物資=脱脂粉乳=学校給食だと。
A「まずかった!」
D「くさかった」
B「まずかった。ミルクを入れてもらう食器は自分のうちから持っていったから、なるべく小さい湯のみを持ってった。学校の側溝が、白くなってた」
食糧難の時代に、ミルクを捨てた子がいっぱいいたんだと、もったいねー。貧乏でミルクを買えないうちが多かったころだ。
C「まずかったよ。けど、あれで助かったんだよ」
アルマイトの食器だった、ってえヒトもある、軍の放出物資だったのかな。


<食の嗜好は保守的なものだ>というのが持論のおかあ、4人に食い下がる―
『まずい』『まずい』って、私も子どものころ、周りから聞いてたけど、私自身はそんなにまずいとは思わなかったですよ。
ほんとーに『まずかった』?
周りが『まずい』って言うから『まずい』と思ったんじゃないんですか?
慣れないモノは、おいしく感じない、ということじゃなくって?


「粉末をお湯に溶かして混ぜる、それを初めは人手でやってたからまずかった、少したって、攪拌機でやるようになったらおいしくなった」って言ったのは誰だったろ?
A「ほんとに、まずかったんですよ。私が教員なってからのミルクには、脱脂粉乳にバター混ぜるようになった、美味かった。給食に生の牛乳使うようになる前のこと。」

おかあ「学校から出されるのはミルクだけ、だと、主食はお弁当を持って行ったんですか?」
4人「主食なんて、ないよ」


それでも『給食』?



※ ララ物資については
参照:奥 須磨子『ララ物資のはなし 敗戦直後日本人への救援』 )など。
「ウィキペデイア」/ララ物資には、ララは「日系米国人の日本向け援助団体」であり、「日本国内での物資配布にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配布された。」とある。
(195) 三太ヤギミルク(続)

一回お休みしたもんで、お見舞いもらった。


杉並の猫おばさん

「三太くん、元気?
1回お休みだったから、どうしたのか、って思った。」


「ありがとう、元気だ。おかあよか元気だ。
ヤギに蹴倒されたわけじゃねい。
連日の猛暑で、さすがのおらも、食欲低下気味だけど」
猫おばさん「あら、それはいけないわね。これ、食べてちょうだい」
ほんの一口食べただけのシャケ弁当をそっくりくれた。
おかあ、脇から取り上げる、そのまま食べたら太りすぎる、って。
刻みキャベツをたっぷり加えて煮込んだ。ゴーヤも入れて。


静岡のレトリバーのテラさんからは写真(※1)が来た。
毎日、川へ水浴びに行ってんだと。オカーサンが投げ込んだぺットボトルめがけて飛び込み、キャッチしては運んでくる。通りかかったヒトたちから拍手が来る。
澄んだ水を泳ぐテラさん、涼しそう! おらも行きてい。


テラさんのオカーサンから内緒話―

テラは帰るのが嫌で、ボトル投げの終わりころを察して、この清流のすぐ下の滝をくだり、狩野川まで逃亡しました。下流へ下流へと泳いでいって、護岸を走って追いかける私を無視し、飽きたころに上がってきます。
2日続けて逃亡しました。

急流の滝に飲まれたときは、生きた心地がしませんでしたが、本人はジェットコースター気分なのでしょうか。
寿命が縮む毎日です。


おかあ、自分ちのヤギの写真が見つかんねい。で、同じころの新潟県のヤギの写真(※2)を見つけた。
周りのこどもたちの服や髪型なんか、焼け野原だった東京の自分のうちでも似たようなものだったろう、って。


「当時東京板橋在住の団塊世代さん」から―

まさにそうですね。子どもも下駄を履いていて坊主頭、女の子はおかっぱ、もしくは「わかめちゃんカット」でしたねえ。スカート姿もあんな感じでゴム段のときにはスカートをパンツに挟みこんだりしてましたねえ。
残念ながら私の記憶にはヤギは登場しません。
昭和26〜7年頃、板橋区内で引っ越しするときは馬車だったことを覚えています。
長兄の友人が馬車運送をしていたためのようです。前の家ではニワトリを庭で飼ってい て、おばあさんが毎朝卵を採っている姿も記憶にあります。
あまり参考にならずスイマセン。


ゴム段のときのスカート、さすが、元・男の子だ、目のつけどころが違う。

1947年11月24日、横浜港に入った船に生きたヤギ195頭が乗っていた(※3)。
ララからの贈り物だと。
ヤギたちゃ、病院や戦災孤児施設、各地の農家、畜産関係の学校へ配られた(※4)。翌年には、仔ヤギ誕生もニュースになった(※5)。
おかあ、ララ物資てえのは、小麦粉や粉ミルクだのの缶詰とか、衣料品とか薬とか(※6)の、モノだとばっかり思ってたら、生のヤギまであったんだ。
「ララ物資」とは何だったのか? おかあの、夏の宿題になった。



※1 写真?〜? テラの勇姿は、 でご覧ください。
※ 2新潟県南魚沼郡六日町欠之上のヤギ、1954年→ (194) 三太ヤギミルク
※3 1947.11.25『読売新聞』「米国から山羊190頭」
※4 1948.12.26『読売新聞』「メーメー小山羊鳴く インフレ知らぬ村 育つ酪農 ララの贈物その後」
   ※5 1949.2.25『読売新聞』「赤ちゃん誕生 『ララ山羊』の二世」
  ※6 1947.2.13 (二)『茨城新聞』「ララの贈り物 アメリカから着く」食糧・衣類・薬品など380トンを積んだスコット・イーランド号が横浜入港
 (米麦粉・米・ミルク・トウモロコシ・缶詰・乾燥桃・馬鈴薯・衣類・石鹸・衣料品・ヴィタミンなどの薬品)
(194) 三太ヤギミルク

昭和初期の日本では、お母さんのおっぱいが足りない赤ちゃんには、重湯を与えたり、米を摺って煮て与えることが多かった(※1)。コンデンスミルクや粉ミルクという「商品」を買って使うのは、都会のごく一部の暮らし方だった。

戦時中、「産めよ増やせよ」の時代に、お上は、酪農業を統制して、「母乳不足」の乳児用に、ミルクと砂糖を特別配給する仕組みは作った(※2)。統制しても、牛乳の絶対量は不十分だったから、農村の赤ちゃんには、ヤギ乳を奨励した。(※3)


こないだ、おかあが会った、愛知県渥美半島のオバサンは、1933年生まれ。1955年に産んだ後の食事は、

「梅干だけ、ちょっと砂糖つけて、ご飯、家族とおんなじ麦メシのごはん。お粥なんてせやへん、昔の姑がそんな大事にしてくれない、米ばっかりなんて(あり得ない)。テンプラ食べると、目が悪くなる、って言った。魚とか油ものは、乳が出なくなる、子どもに影響する、って。」

オバサンの在所(=実家)では、昭和5(1930)年頃からヤギを飼っていた。オバサンは子供の頃からヤギの世話役だった。

「私は姉(長女)だもんで、ヤギの世話役で、乳搾る役だった。責任感があった。ヤギの乳も、搾り方でこれくらい(350mlの茶の小ボトル)違うのよ。平均して、毎回、ボール(直径1尺くらい)に八分目とれる。朝と晩と、毎日2回搾ってた、餌の量で違うけど、2へん、出る。

餌は、草刈ってきたり、麦の中の売れないのを混ぜてやったり。量を決めてやらないと、お腹こわすから。決まった人がやれば、(餌の量を一定できる)。(人の)子供育てるのと一緒で。

ヤギの乳は、搾って、鍋を火にかけて煮立てると、上にヘロヘロと膜ができる、そ〜っと、掬って。あれがおいしかった。」


聞いてるおかあ、搾るときに乳がシューッとほとばしる様子、煮立てた鍋の、上にヘロヘロと張った膜が目に浮かぶ。
おかあ、子どもの頃、うちで飼ってたヤギの乳飲んだんだと。
おかあ、江戸っ子だって言ってたろ? 東京でヤギ飼ってたってか? いつ頃?
  新聞だの見てたら、昭和28-29(1953-54)年に、農林省が山羊飼育を奨励したってえ記事見つけた(※4)。
1954 山羊(新潟県南魚沼郡六日町欠之上)」
(須藤功『すまう[縮刷版]写真でみる日本生活図引?』弘文堂、1994)」

おかあのうちでヤギ飼ったのもその余波だったんだろか?
ヤギのこと、知ってるヒト、教えてやっとくれ。


最近、牛乳アレルギーの子ども用に、ヤギミルクが注目されてるんだと(※5)。
おら、生のヤギに会いてい。ヤギミルクも飲んでみてい。
「ヤギは強いからね、頭突きされたり、蹴倒されたりしないように、気をつけてね」



※ 1たとえば、静岡県で、産婆さんが自分の子に「ミルクや重湯を与えました。」(むらき数子「母・長島きん―井川村の産婆― 望月ゑい子さんに聞く」『昔風と当世風』第90号、2007)

群馬県利根郡白沢村・片品村で「幼児の乳の不足には米の粉を擂り潰し、少量の砂糖を加えて代用する。」(成城大学民俗学研究所編『日本の食文化―昭和初期・全国食事習俗の記録』岩崎美術社、1990、p。148−)など、各地の報告がある。

手間・燃料・費用、あらゆる面で、乳の足りない母親は肩身が狭かった。

※2 1939.3.24「酪農業調整法」公布、8.25施行。
  1940.10.10農林省令「牛乳および乳製品配給統制規則」

※3−1 『いはらき』1937.7.23「農村栄養の解決に 乳用山羊飼育奨励 中央畜産会で提唱」

※3−2 『読売新聞』1940.11.7
「保健・娯楽に積極策 厚生養鶏や都市園芸奨励策  農林省案の全貌決る
・・・飼料の不足な現状では農村乳幼児にまで牛乳並に乳製品の供給は困難な事情にあるので、牛乳の不足を山羊乳によって補充する方法を講ずる。・・・」

※4−1 昭和28(1953)年1月、東京の目黒区柿の木坂の「東京都山羊農業協同組合」にヤギ乳処理機械が、農林省から補助金をもらって備えられた(『朝日新聞』2006.5.7「「泉麻人の東京版 博物館」「目黒のヤギ乳工場 ▽昭和28年1月23日付△」」

※4−2 昭和29(1954)年度、茨城県では、生活科学化指定村として「全村一戸山羊一頭以上飼養推進」を掲げた猿島郡森戸村に、山羊導入資金16万円の貸付を行った。埼玉県からの購入価格は、子山羊1頭は、メス3,032円、種オス8,000円。8 月末までに578 頭が導入された。(旧森戸村役場文書(茨城県『境町史資料目録 第二集』)「生活科学化関係綴」)

※5  2010.5.12NHK「いのちドラマチック」「Vol.6 ヤギ −そのミルクが子どもたちを救う−」
(193) 三太焼け缶詰

八王子市の人が、缶詰情報(※)を寄せてくれた―


65年前の8月2日、八王子はアメリカ軍の空襲で破壊された。
東京都の非常用の缶詰が天井までぎっしり積まれていた倉庫も焼失した。
焼け缶詰がころがっている、という噂にたくさんの人々が、集まった。役場の人が「グループを作って並んでもらい、笛で合図して、一定の時間内で手に持てるだけ、といって拾わせました。」
焼け出され、野宿生活をしていた娘さんには、「このいわしの缶詰は、ダイヤモンドより貴重でした。拾ったいくつかの缶詰によって私たち親子は飢えから救われたのです。」
同じ八王子市の、恩方村には、一般の家にも軍の物資が「疎開」といって預けられていた。
紅鮭などの缶詰、海軍の服地などが多かった。空襲で焼けた家では、この缶詰がはねる音がポンポンといつまでも続いたという。焼けてふくらんだ缶詰を釘であけて食べた人もいた。村の人の日記に、終戦後の9月になってから、鯖缶1個90銭、鮭缶1個1円で配給されたとある。

『配給』って、タダじゃないんだ! 


千葉県の銚子市で育ったI.A.さんによると―

爆撃された跡に、「ゆであずき」の缶詰がたくさんころがっていて、子どもたちが拾いに行った。

銚子市内には、1940(昭和15)年当時、18の缶詰工場があった。いわし大和煮、さんま味付、いわし・こんぶ・大豆の混合煮、いわし油漬等を作っていた。
銚子市は、東京方面を空襲する飛行機の通り道にされ、16回の空襲を受けた。とくに1945年3月9日と7月19日の2度の大空襲で、焼失戸数5692戸、罹災人口25267名(※2)と、千葉県下ただ二つの戦災都市となった。

  戦後、缶詰工場は、銚子産業の花形となった。


その缶詰工場の一つで、アルバイトをしていたK.M.さん―

新制中学2年から3年の2年間、毎日毎日行ってました。100人くらい働いていた大きな工場で、オバサマたちと一緒に、やってました。寒い日も、ゴムの前掛けして、ゴムの長靴と、手ぬぐいで頭をギュッと縛って、手は素手でした。 イワシをバンバン切って、缶に詰める。私たちの頃は、楕円形でなく丸い缶、今の鮭缶の厚いのみたいな、に、切ったイワシを詰める。切るのは他の人で、私は切ったものをただ詰めるだけ。
2年間続けてたんですよ。
今なら、中学生のアルバイトは学校から禁止されてるでしょうけど、あの中学生時代は、バイトもオッケーだし、卒業のとき、いろいろな表彰がある中で、私「特行賞(とっこうしょう)」=特別行動賞の賞状をもらいました。
 イワシは、今も一番、私の好きな魚です。



  • ※1 『八王子の空襲と戦災の記録<総説編>』編集八王子郷土資料館、発行八王子市教育委員会、1985、p。440 
  • ※ 2 『銚子市史』篠崎四郎編纂委員長、1956.p。767、p。610
(192) 三太夏の陣

暑っつい! 朝8時っから30度!
昔、心頭滅却すれば火もまた涼し、って言った坊さんがいた。
そっか、お寺へ行けば、涼しいのかも。
おかあが門をあけかけた時、リカちゃんママが通りかかった。
リカちゃんママに話しかけようとして、一瞬、おかあの注意がそれた。
チャンス!

門をすりぬけて、寺町へ向かう。
おかあ、あわててリード持って追いかける。
リカちゃんママから聞いて、おとうもあとを追う。

一つめのお寺、門が閉まってる。パス。
二つめのお寺、門を入ろうとしたら、お寺の犬に吼えられた。
三つめのお寺、今ふうの姉ちゃんが出てきた。ノースリーブにホットパンツ、お寺ん中も涼しくないらしい。
四つめのお寺に向かう頃、人通りが多くなった。出勤する人たちに蹴飛ばされそうだ。
おまけに、車が前からと後ろからと来た・・・びびる
「三太!」
お寺の駐車場からおかあの声、ほっとして駆け寄った。

捕り物20分、おかあのお縄について、歩き出したところで行き会ったおとう、
「どこに居た?」「どうして出てった?」
すわ、熱い戦争が始まる! おら、身を縮めた。

「朝っから、お騒がせしました」
おかあの一言で、事態収拾。
おら、禁固10時間の刑。
(191) 三太粉ミルク缶(2)

 

斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』迫力の挿絵

おチャ公の缶の中味は、粉ミルクじゃねい。宇宙唯一の、お宝だ。
おチャ公は、偶然つかまえた小さな人に逃げられないように、まず、鉛筆削り器に入れた。それでも心配で、鉛筆削り器ごとそっくり、粉ミルクの空き缶に入れたんだ。(※1)

佐藤さとるがこのお話を書いたのは1965(昭和40)年。


1949年以来、ユニセフから寄贈された脱脂粉乳が学校給食で使用されてきた。1955年にはさらに、妊産婦・授乳婦・児童に支給される協定も結ばれた(※2)。
「1960年代に至るまでに、ユニセフは年間90万キログラムのミルクを配布していた。」(※3)
1950年4月、戦時中からの乳製品の統制が全面的に解除された。
乳業会社は、粉ミルクの開発を進め、猛烈な宣伝を展開していく(※4)。赤ちゃんコンクール協賛。公会堂やデパートで実演・栄養相談。保健所・病産院・小児科医・薬剤師・保健婦への説明、サンプル配布。


  1955(昭和30)年には、雪印の脱脂粉乳食中毒事件・森永の砒素ミルク事件が起こった(※5)が、粉ミルクの生産は年々増加し、食料品店で売られていた粉ミルクは、薬局・薬店で売られるようになった。


東京・池袋の薬局の娘だったU.M.さん―

私もよく店を手伝いました
粉ミルクの缶は棚の場所を取る割には利幅がなかったのではなかったかしら?


1959年に東京の産婦人科医院でお産したオネエサン―

粉ミルクは、お産して退院するときに、説明されてサンプル貰って帰ってきた気がする。貰ったのと同じものを一生懸命買った。化粧品と一緒よね、高校卒業前にお化粧のやり方見せられて、そうすりゃ、それと同じ(メーカーの商品を)買うようになる。

子育て、一生懸命やっちゃって。赤ん坊はうつぶせに寝かせたのよ。今になって、事故にならなくてよかったと思うけど。

母乳が足りなくて粉ミルク使った。授乳時間だって、何時間おきに一日何回、って書いてあるとおりに、一生懸命やった、泣いてても、まだ時間じゃないから、って。抱き癖がつくから、抱かないようにする、って。
若い頃は年寄りのいうことは聞かないし、「テキトーにやればいいのよ」って言ってくれる人が周りにいなかったから。
テキトーにやれれば、良かったのにねえ。


「粉ミルクの生産量は、58年から伸び始め、出生数の減少とは逆に増大し、ピークの73年には9万2000トン余りが生産されていました。」(※3−2)
  60〜70年代は、日本の粉ミルク全盛時代だった。
粉ミルクの空き缶は、おチャ公が、釘やネジやラジオのつまみのようなものを入れていたように、どこにでもある、手ごろな容器だった。



※1 佐藤さとる『星からおちた小さい人』(コロボックル物語?)講談社、1975年第1刷、1983年第20刷

※2−1 「1949 ・ユニセフからの寄贈ミルクによるユニセフ給食が開始される(全国六○校、約六万人、一九五○年末まで)」
(『学校給食必携<第5次改訂版>』文部省体育局学校健康教育課監修、ぎょうせい、1998。p.1336) 

※2−2 「さらに昭和30年ユニセフ(国際連合児童基金)と日本国政府との協定により、日本の妊産婦・授乳婦・児童にスキムミルク(脱脂粉乳)が支給されることになった。妊婦・授乳婦には一人一日40グラムを分娩前6ヶ月・分娩後6ヶ月間、幼児には一人一日20グラムを一カ年間支給するというものであった。支給期間は昭和31年から同40年まで10年間であった。この事業は、母子愛育会支部に委託された。(『さいたま女性の歩み 下巻』1993、p151)

※3−1 ガブリエル・パーマー『母乳の政治経済学』技術と人間、1991、p。193

※3−2 ガブリエル・パーマー『母乳の政治経済学』技術と人間、1991、p。297

※4『自然のちからを、未来のチカラへ 明治乳業90年史』2007、p。57

※5−1 1955年3月「30年に学校給食用国産脱脂粉乳の大量買い上げが実施されたが、第1回目に出荷した当社八雲工場製の脱脂粉乳の使用により、3月1日東京都墨田区本所二葉小学校で、学童の集団中毒」(『雪印乳業沿革史』雪印乳業株式会社、1985.4、p。128 )

※5−2 「森永ヒ素ミルク中毒事件とは、昭和30年(1955年)に日本で発生した、森永乳業の粉ミルクによる世界最大の乳幼児大量死亡被災事件。」(森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 )
(190) 三太粉ミルク缶

朝、おかあが玄関ドアを開ける、飛び出そうとした足が止まる、雨だ。
おら、下にある水で遊ぶのは好きだ。上から落ちてくる水は嫌いだ。雨の中へ出てく気がしねい。
おかあ、ゴロー先輩のお下がりをひっぱりだしながら、「レインコート着る?」
断固、謝絶。


おチャメさんは黄色いレインコートを着た。黄色い帽子、黄色いかさ、黄色のかたまりみたいになって小学校へいく。2年生の女の子だ。
昼休み、雨がやんだ運動場で、6年生のガキ大将・おチャ公と、放課後に会う約束した。
ん? デート? まだ早いんじゃあねいか?


おチャ公は、粉ミルクの缶を自転車に積んで出かける。(※)
は? デートに粉ミルク?



※ 佐藤さとる『星から落ちた小さい人』(コロボックル物語?)講談社、1975年第1刷、1983年第20刷
(189) 三太産後にイワシ缶?

 

斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』迫力の挿絵

とつぜん、とびらがあいた。うす暗い家の中から出てきたおばあさんは、ものすごい目つきであたりをぐるりと見まわした。ほ、ほうきを持ってる。魔女だ。こんなところにいたら、かまゆでにされて食べられてしまう。
黒猫ルドルフは、あまりのこわさに、こしをぬかしてしまった(※1)。

 おかあ、ここまで読んで、眠れなくなった。明日、魔女の館へ行く予定だ・・・

 ホームページで「私は堂々と魔女を極めたいと思います。」って宣言してる調布の魔女。
どんな怖ろしい目に遭うか・・・

 調布の魔女の前に出たおかあ、おずおずと、イワシの缶詰を捧げた。
「大好物です」調布の魔女がにこっとした。小学生のママだ。

 台湾で集会した魔女たちと違って、調布の魔女は「midwifeミッドワイフ」つまり、昔のヨーロッパで魔女だって言われた産婆さんだ。(※2)
今の日本じゃあ「助産師」って呼ぶ。

 別の日、大田区の魔女の館へ行く。もうリタイアしてるから、あんまり怖くねい。けど、やっぱり、イワシの缶詰を捧げる。
 イワシ缶を見て、大田区の魔女が語り始めた―


若い頃、40年位前は、お産のほうはやらないで、食事つくりを担当してました。
毎日三食、二十何人分作りました、入院してる患者さんたちと、家族と、従業員との分。
戦後すぐは、産後三が日は「お粥+梅干+野菜のごまよごし」でしたね、生まれるとすぐにお粥食べさせてた。
けど、私が賄いやってる頃は、ふつうの食事出してました。
イワシの缶詰、たくさん、使いましたよ。イワシの缶詰は安かったから。100円でイワシ缶1個。大き目のお皿に、一人イワシ2匹のせて、タマネギのスライスとキウリの千切りをつけてマヨネーズに胡麻でもふれば、ちょっと手をかけると、100円の缶で150円の3皿になる。

<うちでお姑さんにいじめられてる人でも、お産のときは女王様にしてあげたいという理念>を実現した魔法が、きれいな食器に盛り付けた美味しい献立だった。しかも100円を150円×3=450円にする、錬金術!
大田区の魔女は、助産院の院長になってからは、24時間、365日拘束されっぱなしだ。タクシーでさっと行って30分以内に帰れるところより遠くへは出かけたこともなかった。
「助産院の仕事は、楽しかった、けど、怖かった。助けなきゃならない、いつも二つの命を抱えてるんですから。そのかわり、喜びも大きいですよ。」




※1 斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』講談社、1997第一刷、2000第29刷、p。36

「NHK母と子のテレビ絵本」のおばあちゃんは、ぜ〜んぜん怖くない→
You Tube
※2−1台湾での魔女集会には、8人の魔女=バアチャンが参加しました。
 
(148) 三太魔女修行・台湾編「小さな魔女」 〜 (155) 三太魔女修行・台湾編「合理性」

※2−2 『西の魔女が死んだ』梨木香歩著、楡出版、1994。2008年夏、映画公開。
(116) 三太魔女修行
※ 2−3 15世紀ごろからヨーロッパでは、民間療法や助産に携わる女性たちは無資格者とみなされ、厳重な刑罰が課せられ、魔女にしたてられた。
参考:バーバラ・エーレンライク著 ディアドリー・イングリシュ著 長瀬久子訳『魔女・産婆・看護婦:女性医療家の歴史』 法政大学出版局、1996
(188) 三太ドロップ缶

戦争中の暮らし、ってえと、食べるモノがなくって、着るモノはボロッちくって、犬は供出(※1)されて・・・ってえ、イメージが強い。
けど、日中戦争のころは、都会は軍需景気で華やいでた。女のヒトの着物も、どんどん柄が大きく、色使いがどぎつくなり、金糸入りのキンキラが流行していった。荷風ジイサン、あきれ返って日記に書いてる(※2)。
お上は消費を抑制して戦争協力へ向けさせようと一生懸命。お上が発行するグラフ誌『写真週報』は「国民精神総動員運動」の写真や記事がいっぱい。
その同じ『写真週報』に、缶詰の広告が載ってる―パイナップル、みかん、梨桜桃、びわ、桃 フルーツサラダ、フルーツポンチ、フルーツカクテル、ゆであづき、チェリーみつ豆(※3)。
そっか、缶詰が買えたんだ。きっと、「1935年生まれのハングリー世代」さんや「東京のお嬢さん」のファースト缶詰(※4)だ。


関舘に近い村から出征した一人の兵士は、中国の南のほうで、親戚のオバサンが送った慰問袋を受け取った(※5)。
中みは、ドロップ缶一ケ(一円五○銭位)、タバコ五ケ(キンシ)、手拭四本、油紙二枚、スルメ(十枚)、梅干を入れた太い竹筒二本、だ。
ドロップ缶は、慰問袋に入れるのに手ごろだ。
『写真週報』にも、中国の北のほうで、慰問袋でもらったドロップの空き缶を資源回収用に集めてる兵士の写真が載ってる(※6)。


やがて、ドロップ缶は、空襲で焼け出された4歳の女の子の大事な宝物になった(※7)。そして、骨壷になった・・・



『写真週報』1939(昭和14).8.2 広告


※1 1944年、犬は「軍需毛皮の増産確保、狂犬病の根絶空襲時の危害除去」という名目で供出させられ、殺された。
 (9)三太 マイホーム主義, (24) 三太鎮魂譜
※2 永井荷風『断腸亭日乗』

※3 『写真週報』1939(昭和14).8.2 広告

「御家庭を明るくする 明治の缶詰  Meiji PEACHS
パイナップル、みかん、梨桜桃、びわ、桃 フルーツサラダ、 フルーツポンチ、フルーツカクテル、ゆであづき、チェリーみつ豆.   明治製菓株式会社」

※4 (175) 三太都会のファースト缶詰

※5 『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.577 

※6 『写真週報』第77号、1939(昭和14)8.9(『フォトグラフ・戦時下の日本 原誌『写真週報』』第4巻 大空社、1989)

※7 野坂昭如原作小説「火垂るの墓」 。

(187) 三太1937年

おかあが、テレビ「蒼穹の昴」に「犬はほとんど登場しない。」と書いたら、すぐに宮廷犬「獅子狗(しーずーこう)」が登場した(※1-1)。
今の日本で人気のペキニーズのご先祖だ。
おら、「ぼろぼろ王子」だが、ペキニーズの中にゃ「ぺったんこ王子」がいる(※2)。

問い合わせ―「美少年『蘭琴』って?」
うん、「蒼穹の昴」の主人公・李春雲(春児)と同じように、貧しさから宦官になり、宮廷に入った一人だ。春児は西太后付となり、蘭琴は光緒帝付となった(※1-2)。
おかあ「原作読んで抱いてた蘭琴のイメージと、テレビの役者とは、ゼーンゼン違う・・・」

1937(昭和12)年―茨城県・関舘の人たちがイワシ缶で自力更生新年宴会をやった(※3)、その年、中国と日本は全面戦争に突入した(※4)。
衝突事件が起こったのは、そこに日本軍が居たからだ。よその国の首都近郊に。

当時の日本のヒトたちにゃ、軍隊は身近なものだった。毎年毎年、20歳になる若者たちが徴兵検査を受ける、入営する若者もいれば、満期で除隊して帰郷してくる若者もいる。個人にとっちゃ通過儀礼、送迎する集落にとっちゃ年中行事だった。
この年も、関舘じゃ、7月14日、1人が満期除隊で帰ってきたので歓迎行事をやった(※5)。
その翌々日、7月16日、1人の若者に「召集令」いわゆる赤紙が来た。非常事態だ。
区長さんたちゃ、上海事変の例に倣って、出征者に「餞別三円、旗一旈(りゅう)、御祈祷札一体、煙火五発」を贈呈する。19日には集落一同で最寄駅まで送って行ったあと、大宝八幡と千勝神社へ参拝に行く。
8月15日にゃ、8人に「赤紙」が来た。65軒から8人だ。
関舘は、一気に戦争モードになった(※6)。
11月8日、関舘の部落懇談会は「申合せ事項」を決めた(※5)。国民精神総動員運動の一環ということで、看板が経済更生から戦争協力に変えられたが、その内容はほとんどおんなじだ。
その中に「資源の開発愛護 廃品の蒐集利用」として「古毛織、銀紙、古新聞、古雑誌、空缶、毛髪等を蒐集。金に代へ貯金とし又は銃後運動に献金する事」ってのもある。
空缶=ブリキは金属資源だから、早速統制の対象にされたんだ。これから中身を入れる空缶も、食べ終わった空缶も。

日本のイワシ缶輸出は急増して、1936年に100万函、1937年には130万函になった。
が、この1937年をピークとして、「南洋市場の華僑の排日で輸出が減退し、国内でもイワシの不漁と空缶配給制度の実施で、減産となっていく。」(※7)

翌年の新年会に、関舘の人たちがイワシ缶を買ったり食べたりしたかは、おかあにも分かんねんだと。



※1「蒼穹の昴」
 
※2 ぺったんこ王子

※3  (184) 三太鬼怒川くだり

※4  盧溝橋事件

※5 『関城町史 史料編二 戦時生活史料』1984, p215-220 

※6 むらき数子「大字関舘の戦争」『昔風と当世風』古々路の会、第85号、2003年11月1日

※7 岡本信男『日本漁業通史』水産社、1984、p。153
(186) 三太日清戦争

「あれぇ、もう土曜日。一週間、あっという間だ・・・」
おかあ、テレビの前に座り込む。『蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)』(※1)
紫金城の部屋のしつらい、衣裳から髪型から、食事の作法から・・・小説読んだだけじゃ想像しきれないデイテールが見られるから、とか言ってる。
ほんとは、美少年「蘭琴」を見たいんだろが。

ときは19世紀末。ところは中国。
敗戦の報に清朝宮廷の人々が驚愕動揺して、日清戦争(1894−95)は過ぎちまった。
日本の映画なんかだと、戦闘場面だとか、軍服着たヒトたちの悲壮な演技が延々と続くところだ。

日清戦争は、日本の缶詰業を急成長させた(※2)。軍が、国内産缶詰を大量に買い上げたからだ。10年後の日露戦争(1904−05)では日清戦争の約9倍の缶詰が軍需用として使用された(※3)。

明治天皇も、明治35年(1902)、列車内での昼食のおかずに牛缶を食べた。当時の天皇は「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(※4)って、軍人のトップ「大元帥」だ、国民の前に現れるときゃあ、軍服姿だ。

  日本の男のファースト缶詰は戦争・軍隊と切り離せない。


 
※1「蒼穹の昴」
   浅田次郎原作、『珍妃の井戸』『中原の虹』に続く。犬はほとんど登場しない。
第13回 「日清開戦」

※2日本缶詰協会監修、稲垣長典総編集『缶びん詰・レトルト食品事典』朝倉書店、1984初版、1989第4刷。p。9−

  ※3 浅見安彦「缶詰は、ナポレオンが1万2千フランの賞金つきで発明させた保存食にはじまる」『別冊 暮らしの設計 3号 1980年 缶詰の中身の研究』中央公論社、p。124 

  ※4 大日本帝国憲法 第1章天皇 第11条
(185) 三太食事作法

朝5時、腹が減っておかあを起こす。
おかあ、おらの前に食器を置いて、ボーッと突っ立ってる。
「ゥガンッ!」
「食事もらって怒る犬なんて、理解できない・・・」

1941年の調査(※1)を見たら、食事中を見られるのをいやがるヒトがけっこうある。だから、堅い人は訪問しても食事中は中へ入らずに家の外で待っている。
福島県相馬市じゃあ、「飯を食っている他人のそばへよるものではない」と子供にはしつけたもんだと。

ヒトが食ってるのをジロジロ見るのは、無作法だ。
いまどきのテレビは、レポーターが食う顔をアップして、食べ物を口に入れたとたんに
「う〜ん、うまい!」とか言わせる。口に食べものを入れたまましゃべるなんて、無作法そのものだ。
ったく、この国の今のヒトたちは作法を知らない。

柴犬仲間の「しばわんこ」(※2)は、テレビや絵本でヒトに和のこころを教える。
おら、身近なおかあに身をもって教える。
「飯を食っているイヌのそばへよるものではない!!」



※1 成城大学民俗学研究所編『日本の食文化―昭和初期・全国食事習俗の記録』岩崎美術社、1990、p。108福島県相馬郡八幡村(→相馬市坪田字八幡)など、各地からの報告。

※2 川浦良枝絵と文『しばわんこの和のこころ』シリーズ、白泉社、2002〜    http://www.nhk-character.com/chara/shibawanko/index.html
(184) 三太鬼怒川くだり

おかあ、鬼怒川温泉(※1)へ行った。
電車に乗りはぐれるは、乗り換えホームを間違えるは、手前の駅で降りちまうは・・・ドジ踏みまくって、ようやく集合地にたどり着いたのが発車予定5分過ぎ。
心やさしい仲間たちが、バスの運転手さんを口説いて発車を待ってもらってた。


「鬼怒楯岩大吊橋」(きぬたていわおおつりばし)を渡って行くと、「鬼怒太」がいる!
おらが先回りしてんじゃねいか、おかあ、目をこすってみた。
〜〜「鬼怒川ライン」の舟に乗ったつもり〜舟を筏に乗りかえたつもり〜〜。
くだりくだって、栃木県から茨城県に入る。
「しぇら & Since」さんが現地調査に行ってくれた下妻市(※2)のすぐ上流で真壁郡関城町に上陸。2005年の合併で、今じゃ筑西市(ちくせいし)になってる、東に筑波山、西に鬼怒川の畑作農村だ。
関城町の関舘ってえ集落の資料(※3)を見直す。


1937(昭和12)年、正月元旦、65軒の関舘の人たちは、自力更生新年宴会を開いた。
一人30銭会費と寄付とで、収入が19円90銭と酒4升。支出は〆て20円75銭。不足の85銭は区長さんが寄付して穴埋めした、区長さんってたいへんなんだ。
買った食いもんは、いわしかん詰65個(6円77銭)、みかん3箱(2円40銭)だけ。
おかあ、前にこの資料見たときゃ、缶詰のほかに、うどんとか五目飯とか、ケンチンや昆布巻きなんかもあったんだろう、って思った。けど、この宴会は、農村不況を「自力更生・生活改善」で乗り切ろうってえ、虚礼廃止・簡素が趣旨だ(※4)。それぞれが一軒ずつ廻って年始の挨拶するのは、食糧も時間も無駄だ、一ヵ所に全員集合して済ませよう、って。
ほんとに、いわし缶とみかんだけで乾杯したのかも知んねい。
いわし缶は、一人1個=10銭4厘余(※5)。その頃の農村で農閑期に稼げるのは、男が農作業で35〜40銭、女が木綿の着物1枚仕立てて10銭だったりした。
いわし缶は、すっごいご馳走だったんだ。
振舞の御馳走は、出されたからって全部食っちまうもんじゃねい、手をつけない分を土産に持ち帰るもんだ、ってえ土地もあった(※6)。
関舘の新年会のイワシ缶も、土産に持ち帰ったかも知んねい。
関舘の子どもら(※7)の、ファースト缶詰だったかも。



※1 鬼怒川温泉
○鬼怒川温泉に「鬼怒楯岩大吊橋」(きぬたていわおおつりばし)が完成 http://puchitabi.jp/09/07/post-2931.html
○鬼怒太 http://www.kinugawa-kawaji.com/play_buy/2010/images/0402.pdf
○鬼怒川ラインくだり http://www.linekudari.com/3k.html

※2「しぇら& Since」さんの現地調査 (92) 三太 下妻物語・続きの続きのまた続き

※3 「昭和一二年一月 自力更生新年宴会会員名簿 河内村大字関館」区有文書(未刊)
一人30銭会費と寄付とで、収入が19円90銭と酒4升。
支出は旗一式が1円58銭と酒1斗(10円)といわしかん詰65個(6円77銭)、みかん3箱(2円40銭)、〆て20円75銭。不足の85銭は区長が寄付。

※4 新年会に関しては、各地の町村の経済更生計画書に、同様の条項がある。
たとえば、『猿島町史 資料編 近現代』1993p.443「一五七 経済更生指定実行町村計画書(生子菅村)(昭和一二年三月)」
生活ノ改善 実行方法
1、 年始廻リノ虚礼ヲ廃シ元旦ヲ期シ部落毎ニ質素ナル新年会ヲ催シ之ニ代ヘルコト

※5−1 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』1981、p。251表「値段のうつりかわり  缶詰」によれば、昭和12(1937)年に、牛肉缶(大和煮)は26銭5厘、鮭缶(水煮)13銭。 

 ※5−2 1932(昭和7)年、農村恐慌に対する「時局匡救(きょうきゅう)対策」として農村振興土木事業(町村道改築)が実施され、「救済道路」と呼ばれた。茨城県西の境出張所管内では、工費38万円が、20万人に労賃をもたらすとされた。一戸二人平均6ヶ月稼げる、 一日男60-70銭、女40-50銭
  『下総境の生活史 図説・境の歴史』2005、p.231、『いはらき新聞』などによる。

※5−3 『小山市史 史料編・近現代?』 P。695 「359 昭和11年4月 絹村農業労働賃銀協定表」農作業の普通日雇賃が男35-40銭、女30-35銭

※5−4 『三和町史 通史 近現代』p.58−60.
幸島村の幸島実践女学校が配ったチラシでは、生徒の「裁縫」実習の仕立賃が「本裁物(羽織・長着共)木綿物、拾銭」。この女学校の秋の運動会に生徒たちが出した売店では、「寿し・ちらし五もく・おだんご10銭均一」。

※6 成城大学民俗学研究所編『日本の食文化―昭和初期・全国食事習俗の記録』岩崎美術社、1990、p。200
「20 新潟県岩船郡粟島浦村
ハレ日の食事は祭礼・正月・年賀・婚礼・法事・その他来客ある場合。別に名称を聞かず、ただ、何なにのフルマイと言う。種類には刺身・煮肴(焼肴)・平・壷・吸物・酢のもの・汁その他酒の肴として別にするものあり。

 その場合として、全部手をつける時もあるが、一般に飯と汁、漬物ぐらいを食して、他は土産としてその人の家へ送る。また、多数婦人のみの時は各自持ち帰る。人により差異なし。」

※7 関舘の小学校5年生は、日曜日、母ちゃんに言われた。「今日はあそびに行かねで繭もぎれ」簇から繭をはずす作業を「十枚やれば二銭くれる」。
(吉田三郎編 『筑波の子ら?―昭和初年の河内小学校生活綴方―文集「僕たち」より』ふるさと文庫、筑波書林、1981、p.15「 まゆもぎり 尋五 箱守文三」)
(183) 三太五目飯

 ゴールデンウイークだ。スーパーのチラシで日替わり特売を見る。
3日「憲法記念日」は、「ぶなしめじ」や「お刺身バイキング」。
4日「みどりの日」はインスタントのうどん・そば―主婦にお休みしてもらう日なのかな。
5日「こどもの日 みんなでお祝い!」のメインは「ちらし寿司の素」4人前248円と「から揚げ粉」だ。柏餅は4個248円、風呂に入れる菖蒲の葉一束158円。
いまどきの「こどもの日」は家族4人で食事する日らしい。


昭和ヒトケタの頃、長野県のほぼ中央部・安曇の一角の小松少年は、正月二日、朝の雑煮を食べ終えると、すぐに家を飛び出した(※1)。子どもの道祖神(どうそじん)仲間による「御柱(おんばしら)」の日。そのころの「こどもの日」だ。
寄付を集めて回り、道祖神に灯篭や幟を立ててお参りしたあとは、「当家(とうや)」で五目飯を食べて、泊り込んで翌日まで遊ぶ。
 小松少年のあたりじゃあ、集めた寄付で買い出しに行く食物は、「酒、醤油と、なぜか鮭の缶詰が必需品だった。」んだと。
当家の親に炊いてもらう「五目飯」は、牛蒡、人参のせん切りや干瓢と鮭缶をほぐして混ぜた醤油味。
「自分の茶碗に鮭缶の骨が入っていたりすると、なんだかうれしくなった。」って―ワカル、ワカル。


 1月25日、山梨県の笛吹川上流の村(※2)の子どもたちも、天神講のごちそうは、醤油味の炊き込み飯。当番のうちによって、油揚げ飯だったり、ちくわを炊き込んだ飯や、魚の缶詰を炊き込んだ飯だったり。

 缶詰の魚は何だったんだろ?


茨城県西部の、猿島郡の子どもたちにも「天神講(てんじんこ)」は楽しみだった(※3-1.2)。
 戦後の昭和30年頃、三和町仁連(にれ)の小学生(※3-3)は、6年生のリーダーの指示で、お米や野菜や薪を持ち寄って、宿(やど)のお母さんに調理してもらった。昼はカレー、夜は五目飯。天神様と観音様に供えたあとは、宿に泊りこんで食べたり遊んだりした。
 天神講が、日帰りになり、とだえたのは、テレビの普及と校外補導のための子供会育成が話題にのぼってきた昭和37、8年(1962-3)ころだった。
 冬休みのお楽しみは、大人が仕切る「クリスマス会」のケーキとから揚げになった。



※1小松恒夫「安曇の一角の年末年始」(「日本の食生活全集 第二十巻 長野の食事 月報12」p。1−5)『日本の食生活全集 20 聞き書 長野の食事』農文協、1986。 小松恒夫(1925−2000)が、「御柱」の大将を勤める小学校6年生だったのは、昭和12(1937)年。

  ※2『日本の食生活全集 19 聞き書 山梨の食事』農文協、1990、 p。72−127
東山梨郡牧丘町牧平(旧・西保村→現・山梨市)で聞き取り。集落内に4軒の商店があり、行商人・馬方・荷馬車でも商品が手に入る。

※3-1 1939(昭和14)年、八俣(やまた)村(後に、三和町、平成の合併で古河市)の天神講 (猿島郡教育会編『紀元二千六百年記念 猿島郡郷土誌 下巻』1940年、p.96)

※3-2 1957(昭和32)年、大木チ夫日記には、男女別々の日に天神講が行われたとある。(茨城県猿島郡三和町『三和町史 民俗編』2001年、p。298)

※ 3-3 三和町仁連(にれ)の天神講の変化は『三和町史 民俗編』2001年、p。295
(182) 三太産後にイワシ缶?

柿の若葉が鮮やかだ、おらの毛が抜ける、ボロ毛布(※1)の盛りだ。

今朝、白黒パンダ風の娘犬に会った。お供のオバサン、おらを見て、しみじみ感嘆した
「あー、そういう風に抜けるのねえー」
むずがゆくってたまんねい、おかあにからだを押付ける。
掻いて、掻いて!
櫛じゃなくって素手で! もっとマジメにやれ!
おかあ、おらのご機嫌と牙の距離をうかがいながら「まったく、ボロボロ王子だね」


お産したあと、二十一日間は休ませるもんだ、ってあちこちで聞く。福島県では、二十一日目に「枕ひきのお祝い」をした。


産婆のN.K.さんによると(※2)―

祝い事は21日目にするが、実際は早い人で産後3日目から桑摘みや草むしりをした。階級が上の人や姑のいない人は里帰りや実家の母の手伝いがあり21日間休めた。
 蚕どきの桑摘みなど野良仕事が忙しい時期には、お粥を3食分と梅干3個、鰯の缶詰、塩など産婦さんの食事は鍋ごと枕元に用意してみんな野良仕事に行ってしまい誰もいないので、昼間お湯使いに行った時は自分で水くみやお湯沸かしなどしたこともあった。


鍋ごと置かれた冷えたお粥、梅干3個、イワシ缶

――しーんとした農家の、暗〜い納戸で一人ぼっちの嫁さんの姿が目に浮かぶ――

農繁期にお産した嫁さんは、家中の皆が働いてるときに、自分だけ働かないで休んでるのは、どんなに居づらかっただろう。たださえ炊事・洗濯に時間をかける嫁は働きの悪い嫁といわれるくらいだから。

機械化される前の農業は、とにかく、手が必要だった。

「いつまでも寝てるな!」って三日目に怒鳴った姑さんもいた。

たいていの姑さんは、怒鳴りたくなるのを飲み込んで、嫁さんだけのためにお粥を炊き、ふだんは嫁さんがやってる仕事も肩代わりして、一秒を惜しんで野良へ出て行ったんだと思う。
姑さんも、たいへんだったんだ。


そのころ農家で飼われてた犬は、おらみていに掻いてもらえなかっただろう。



※1 三太のボロ毛布ぶりは → (72) 三太「ふたり合わせてパピ五郎」(その6) 第三の道 ,(156) 三太抜け毛

※2 内藤和子他、『福島県のお産婆さん達―明治・大正生まれの開業産婆の活動―』福島県立医科大学看護学部内。助産学・母性看護学、2001.10、p。103-110
(181) 三太産後にイワシ缶?

びっくり! 紫金山が白くなってる!
雪だ。寒暖計は2度。
チューリップが花びらをキッチリ巻き直してる。
オタマジャクシは、池の底にひそんでる。
うちに池を作って以来17年、初めて生まれたオタマジャクシだ。3月6日に上陸したカエルがきっと母ちゃんだ。
卵産んだあと、母ちゃんガエルは何食ってるんだろう。


産後のイワシ缶の続き―

大正の終わりから昭和の初めころの食生活を再現した『日本の食生活全集』(※1)を見ると、お産の後の食べものに、「いわしの缶詰」をあげている県に、宮城県、福島県、静岡県がある。青森県では「サケ缶」、山梨県では「さば缶」「かつお缶」があげてある。どこも、県内全域じゃなくって、ところどころの村で聞かれた例だ。
おかあのこったから、見落としてる所もあるんじゃねいかな。


福島県の南のほう、茨城県境に近い東白川郡鮫川村で、昭和30年代に自宅(=実家と婚家)でお産した藤田初枝さんからおかあが聞いたのは(※2)―


ふだんは、麦飯だった。
産後だって、あの頃は、お粥に梅干、いわしの缶詰だけ。味噌汁ったって豆腐ぐらいで、カラッ汁。ナスは駄目、葱は駄目、キュウリは駄目、って、言われて。
お産して日があくまで、二十一日間は、火の元に寄るな、って言った。洗濯もの畳みくらいで。


産婦の食事や、赤ちゃんのお湯浴びせは、実母や姑と近所のおばちゃん仲間がやってくれた。洗濯も、「冷たいものに手入れるんじゃない」って、おばちゃん達がやってくれた。「ありがたかったね。終わってからの茶話会が、おばちゃん達の楽しみでもあったんだね、こちらは甘えてたね。」

 同じ福島県で、昭和30年代まで自宅出産をとりあげてきた産婆さん達(※3)が、やっぱり、産後の数日は「白米の粥+梅干」だった、って言ってる。イワシ缶を食べられるのは「生活のいい家」だったとも。
白米のお粥って、いまどきのヒトも当時お産した当人も、今の常識で「粗食だ」って言う。けど、当時の常識では、病気や産後のご馳走・滋養食だったんだ。常識ってのはけっこう変わるもんなんだ。
産婦だけの特別待遇だったから、上の子は羨ましくっても食べさせてもらえなかった。

昭和10(1935)年ころ、5歳の男の子が、母親が自分だけ白いご飯食べてるの見つけて、ねだった(※4)。
いきなり、父親に平手打ちされた―
「この馬鹿たれ。何んちうことばするか。汝れは、母ンの命を食い縮めよるとぞ。それがわからんとか!」
白いご飯は、流産した妻の養生のために、父親が借金して買った白米だった。



※ 1 『日本の食生活全集』農村文化協会、『聞き書 ○○(福島など、県名)の食事』など、全50巻、1984−1992 ※1−1 イワシ缶 宮城県・大内村(現・伊具郡丸森町) 『日本の食生活全集 聞き書 宮城の食事』1990 
福島北部盆地・福島市(旧・信夫郡鎌田村)『日本の食生活全集 聞き書 福島の食事』1987
静岡県・富士宮市下条(旧・富士郡上野村)『日本の食生活全集 聞き書 静岡の食事』1986

※ 1−2 サケ缶
青森県・三八地方の山ぎわ『日本の食生活全集 2 聞き書 青森の食事』1986
(三八地域は青森県の東南端、八戸市及び三戸郡5町1村(三戸町・五戸町・田子町・南部町・階上町・新郷村)。地図は→大橋建一「惰学記」が分り易い) )

※1−3サバ缶
山梨県・東山梨郡西保村(旧・牧丘町、現・山梨市)

※ 1−4 かつお缶
山梨県・南都留郡西湖村(現・富士河口湖町)、北都留郡棡原村(現・上野原市) 『日本の食生活全集 19 聞き書 山梨の食事』1990

※2 むらき数子「鮫川村の母子健康センター跡で福島県のお産を考える」『昔風と当世風』第94号、古々路の会、2010.4、p。52

※3 内藤和子他、『福島県のお産婆さん達―明治・大正生まれの開業産婆の活動―』福島県立医科大学看護学部内。助産学・母性看護学、2001.10。p。93-96、p。103-110、 p。111-115、 p。116-122。
※4 島一春『産婆物語 産小屋の女たち』健友館、1981、p。117 
  1930年生まれの島一春が「わたしはいまでもその光景を、時折、夢にみる。わたしが5歳の秋のことだった。」
(180) 三太オイル・サーディン

おかあ、図書館で『(株)魔法製作所 ニューヨークの魔法使い』(※1)って本見つけた。「ニューヨークの魔女」(※2)が働いてる会社かも、って読んでみる。
主人公は、ケイティって名前のテキサス娘だった。
ある朝、ケイティは、地下鉄で隣の席の、どうにも気に食わない男から声かけられた
「これから仕事?」
「いーえ! 毎朝、地下を走るブリキ缶にイワシみたいに詰め込まれてロウアーマンハッタンに向かうのが好きなだけよ」


おかあ、オイル・サーディンの缶、開けてみた(※3)。ケイティじゃなくってイワシが14匹も入ってた。お裾分けがおらにもきた、うまい!
“地下を走るブリキ缶にイワシみたいに詰め込まれて”ってえ言い方が気になって、英語のできる友達に聞いてみた。


「各駅停車で一人旅」さんから―

缶詰研究にいそしんでおられるとは想像しておりませんでした。
欧米の方々が知っているイワシは、ほのぼの感のないではない和風料理の鰯と違って、オイルサーディンのイメージしかないのでしょうね。
The passengers were packed (in) like sardines. 乗客はぎっしり詰めこまれていたというのはお決まりの言い回しのようで、説明文に pressed tightly together in a way that is uncomfortable or unpleasan とありますから、イワシ自体というより、その置かれている状態が悲惨というイメージなのでしょう。



おかあ、思い出した―

ずうっと前、職場まで電車で1時間半の所から、近場へ引っ越した理由のひとつが、<満員電車の中で窒息する>だった。

ふた駅先にできたマンション群の入居が始まったとたんに、電車の込みようがひどくなった。背が低いから、口も鼻も、まわりの人の背中や胸でふさがれて呼吸困難。呼吸しようと顔を上向けて背伸びし続けるので、降車駅につくころには、脚がしびれていた。

イワシはおかあだった。


「1935年生まれのハングリー世代」さんから―

フランス語を勉強して、この表現に出会いました。「大勢の人が、それこそ、収容所行きの移送貨車に詰め込まれた状態」を形容するものとして使われます。 それで、そういえばそうだったな、として頭に定着しました。




※1 シャンナ・スウェンドソン、今泉敦子訳『(株)魔法製作所 ニューヨークの魔法使い』東京創元社、2006、p。11
※2 (155) 三太魔女修行・台湾編「合理性」
※3 オイルサーデインは、日本製の缶詰の始まりとされています。
 3−1 日本缶詰協会によれば、
わが国の缶詰は、今から約130年前の1871年(明治4年)に長崎で松田雅典という人がフランス人の指導で、いわしの油漬缶詰を作ったのが始まりです。
 3−2 『銚子市史』1956.p。610では、
千葉県銚子では、明治12(1879)年5月を始まりとしている
(179) 三太産後にイワシ缶?

「猫のこまる君のおっかちゃんのおふくろさん」(※1)から―

三太くん
犬はたまねぎだめなの?
知らなかった。

猫はミルクとアボガドがだめなんだって。
こないだテレビで知って、同じくミルクとアボガドが苦手なのはそういうわけか、とはたと納得し、
「やっぱりママは前世は猫だったらしい」と娘(=おっかちゃん)にメールしたら
「前世じゃなくて現世じゃないの?」と返事がきました。


おかあ、猫はミルクとアボガドがだめだって、知らなかった。
おかあが、「猫のおねえさん」(※2)やってた頃にゃ、アボガド(※3)なんて、売ってなかったんだ。


産後の食べ物について、茨城県西の、古河市(旧三和町)・猿島郡境町の東隣、利根川と鬼怒川に縁の深い地方で―


猿島郡猿島町(現坂東市)のお裁縫の先生T.Yさん。1960(昭和35)〜66(昭和41)に、自宅に助産婦さんに来てもらって産んだあとの食事は―
白いおかゆに、缶詰の鯛味噌、海苔、じゃがいもの煮たもの、味噌汁。味噌汁の実はじゃがいも。かんぴょうはなかったね。
 「いわしの缶詰」は、お七夜すぎて、食べられました。骨ができて、こどもにもいい、って言われて。(いわしの缶詰以外の)魚は、なかった。

『猿島町史 民俗編』(※4)に、イワシの缶詰やタイ味噌の瓶詰は「産見舞」としてもらう、って書いてある。 


さらに東隣・結城郡の中学校のG校長先生から―
「産後にイワシの缶詰の件」
常総市豊岡町、常総市内守谷町、坂東市猫実(ねこざね)町でも贈ったそうです。理由はわかりませんが、当時(おそらく皆さん70才位ですので、敗戦直後の生れと思われますので)物資のきわめて不足した時代と思います。一人の方が多分缶詰は相当高価なものだったことによるのではと申しておりました。

水海道の、商店街のある「町場」ではその様な話はききませんでした。ただ化粧箱に入れた生卵を送ることは農村部でも町場でもありました。


 利根川を西へ遡って、群馬県邑楽郡の板倉町。関東平野の中央、群馬県の最東南端にあり、埼玉県と栃木県に接してる。渡良瀬川と利根川に挟まれた三角地帯にある町だ。昭和初期頃、ここでの「産人の食事」(※5)も、お粥中心。鰯の缶詰はいいけど鮭や鯖はダメだと。

魚でも、生や塩干物とかはダメで、缶詰ならいい、てえことらしい。



※1 「猫じゃらし」 その2 「おいら、こまる?〜?」
※2 (95) 三太ねずみと猫
※3 アボカド 南米原産で、すごーく大きくなる木の実なんですね。うちの庭に植えたら三太の居場所がなくなっちゃう。http://www.dewa.or.jp/koba/kueru/Avo.html
※4 『猿島町史 民俗編』茨城県猿島郡猿島町、1998 
 「出産したとの知らせを受けた産人の里方では、産見舞といってカツオ節を届ける。産人は当分のあいだ粥と、焼塩や焼味噌か玉子味噌、味噌漬ぐらいしか食べられない。これが産人の食事と決まっていた。玉子味噌は味噌・砂糖・玉子・カツオ節で作る。家の人の手前、産人は実家からカツオ節が届かないと肩身の狭い思いではらはらしながら待つ。
 親戚や近所の家からも、イワシの缶詰やタイ味噌の瓶詰など産人の体に触りのないものが産見舞として届けられる。」
※ 5『板倉町史 別巻8 資料編 板倉の民俗と絵馬』1983
1978年春、明治生まれの人で夫婦揃っている家77地点の調査結果。
p。260「産人の食事
「里から持ってきた産立米(うぶたてまい)でお粥を作り、その中に干瓢と鰹節を入れる。お数(副食)には 鰯の缶詰ぐらいだった。昔は(昭和初期頃)麦飯が常食だったから、お産の時の米のお粥はうまかった。・・・また産人に鮭(シャケ)や鯖(サバ)を食べさせると血がさわいで、産後の肥立ちが悪いと言われ禁忌とされていた。」
(178) 三太レトルト

花大根が咲き始めた、紫金草だ(※1)。
おかあ、冬の間積み上げてきた「むらき富士・第二」を完成させた。富士山型じゃなくって、馬の背型だ。峰にずうっと、紫金草を植えて、「紫金山」ってえ名前付けた。
本場の紫金山がどんな形か、知ってる人、教えてやっとくれ。


「多摩のかぐや姫」さん―に、ぼやかれた
「缶詰情報提供したのに、まだ掲載されない、ボツにされちゃった」
おかあ「とーんでもない! ボツになんて、もったいないことしません!
どう料理して盛り付けようか考えてると、まとまらなくって・・・」
もうしばらく、待ってやっとくれ。
何んたって、保存しとけるのが、缶詰のいいとこだ。


缶詰、びん詰、レトルト食品ってえのは、イッショなんだと。
日本缶詰協会のホームページに「かんづめサンバ」って歌が載ってる(※2)―

ツナ缶サバ缶イワシ缶
ミカンにコーンにイチゴジャム
カレーに中華 パスタソース

それは 缶詰 びん詰 レトルト食品

おかあ、紫金山の完成祝いに、スパゲッテイ茹でて、レトルトのソースかけるらしい。
ソースに玉葱(※3)が入ってねいか、ちゃんと確かめて買ったんだろな。



※1 花大根 (70) 三太紫金草
※2 (社)日本缶詰協会
※ 3 犬には玉ねぎが有害だという情報は、いっぱい掲載されていますね。たとえば、
 犬の玉ねぎ中毒について(たまねぎ中毒/タマネギ中毒)
(177) 三太産後のイワシ缶

おとうが、「マンガだけど」って、おかあに手渡した。ウツ見舞いらしい。
『この世界の片隅に』上中下、3冊もある。1943(昭和18)年から47(昭和22)年までの「昭和、軍都呉に生活する北條すずと戦争の物語」だ(※1)。
おかあ、こうの史代さんって、よっく勉強してるし、絵もうまいなァ、って感心してる。
自分も、こんなに絵が描ければいいのに、って、またまた沈みかける。
おかあ、おらを世話するってえ、余人をもって代え難い役割を果たしてるだろが。


産後の食べ物について、茨城県西の農村、古河市(旧三和町)・境町の続き―


終戦直後、ベビーブームの頃に婚家で産んだミツコさん(1921年生まれ)から―

田舎の風習で、産後は白粥と梅干しが定番でしたが、今では聞かれなくなりました。
缶詰のイワシは安価で、料理の手間がはぶける。親元も、姑も求めやすかったようです。
イワシは「祝し」をもぢったとも言われます、さだかではありませんが。
「生(なま)もの」は体に障るということでした。
 干瓢を味噌汁に入れたのは、細く長く、長命を願ってのことらしいです。



へえー、お産したあとって、「お米だけの白いお粥と梅干」しか、食べさせてもらえなかったんだ。あと、カンピョウ入りの味噌汁だけだって。
それなら、イワシ缶はすっごく美味かっただろうな。


少しあとに境町で生まれた高校の先生から―

産見舞の「イワシの缶詰」の件、早速母に聞いたところ、確かにもらったとのことでした。
 ただ、産後というよりは、病気見舞全般だったように思うと言っていました。タイ味噌など海産系が多かったようです。



ぐんと下って、三和町の農家も兼業化が進み、新住民も増え始めた1970年代―

境町の産婦人科に入院して産んだ「さくらの友」さん(1949生まれ)―

「いわしの缶詰」は「たい味噌の缶詰」と一緒に産見舞いに戴きました(古〜〜〜〜)
イワシと鯛味噌の缶詰をくださったのは婚家の近所の親戚のおばあちゃんです。
 昔は、食べるものが無かったので、栄養をつけるため、そして、産後すぐに普通の食べ物を食べるのはいけないということで、鯛味噌の缶詰やイワシの缶詰だったような気がします。この缶詰さえも、お姑さんに食べるように言われないと、嫁は自由には食べられなかったです。
 産んだのは、昭和48(1973)年、50(1975)年、58(1983)年、いずれも隣の境町のI産婦人科医院でした。
 そうそう、I産婦人科で出産したとき、その日から、お刺身やら、煮物やら、普通と変らない食事が出て、明治43(1910)年生まれの姑はびっくりしてましたね〜。
 病院で食べたご飯のおいしかったこと。(笑)
 退院したら、実家に帰りたかったのですが、「近所の人が産見舞いに来るから、赤ちゃんも『産と(お産した人を産と(サント)と呼んでました)』も家にいなさい」といわれ実家には帰れませんでした。

同じI産婦人科で昭和49(1974)年に産んだ「茨城のさくら」さん―

いわしの缶詰! そういえば、わたしも出産した日、昼飯のおかずがまさに「いわしの缶詰」でした。
まだ微熱もあったのに、なんでこんな物! と思った記憶があります。
これでなんとなく疑問が解けたような気がします。



おかあ、「産後にイワシ缶」という土地が他にもあるんじゃねいか、ってこだわり続けてる(※2)。
聞いたことある人、おかあに教えてやっとくれ。



※1 こうの史代『この世界の片隅に』上中下、双葉社、2008.2第1刷。
   こうの史代は1968年9月、広島市生まれ。著作『夕凪の街 桜の国』など。

※2 むらきが、今まで聞いたり読んだりしたところでは、茨城県の西のほうの猿島郡・北のほうの那珂郡、福島県の中通りや会津地方があります。事例をご存知の方はご教示ください。
!(176) 三太農村の貰い物

おら、「おかあを褒めてやっとくれ」って頼んだ。
西部の魔女、おかあを見て言った、
「今日は可愛いねえ」
おかあ「今日【は】? 今日【も】でしょ?」
西部の魔女「そうか、今日【も】可愛い、です。【は】と【も】の違い、ちゃんと使い分けなくっちゃァね。日本語もヒト褒めるのも難しいねェ」
二人、キャッキャッ笑いながら握手した。


戦前、昭和10(1935)年頃の農村で―

おかあ、『聞き書 東京の食事』(※1)って本読んでたら、農家の嫁さんがすっごいハイカラ料理をしてた例にであった。
久留米村で養蚕やってる大っきな畑作農家の嫁さん=住吉ルイさんは、1913年生まれ、娘時代に東京の女中奉公で体験した洋風料理をとり入れてた。
てんぷら、ライスカレー、マヨネーズ、コロッケ、スープ(野菜炒め+鶏肉やさばの缶詰)、かやく飯―どれも、うまそうだ。
舅さんは「朝っぱらから油のにおいなんかさせんじゃねえ」って叱って、ルイさんこと『くず嫁』って言ったりしたんだと。ほんとは、ルイさんの洋風料理を気に入ってたに違いねい。舅さんが本気で箸をつけねいで残したら、嫁さんは二度と作らねいだろうから。

ルイさんの集落には店もねいし、行商人も来なかったんで、魚は田無や埼玉県の所沢の店まで行って買う干物や塩ものばっかり。お歳暮に貰う新巻鮭も塩ものだ。ルイさんがさばや鮭の缶詰を使えたのは、義弟がやってた店や近所・親戚から貰ったからだ。

ルイさんの缶詰料理は、「野菜の汁ものや煮だんご、小麦粉をこねて薄くのして煮たのしこみ、ぞうすいに加えて使う。缶をそのまま開けて食べたのでは、年寄りや夫たちの口にしか入らないので、なるべく、家族全員で食べられるものに使うように心がけている。」


同じ頃、茨城県西の農村、古河市(旧三和町)では―

1936(昭和11)年、大百姓のSさんちでは、病気見舞いに、「砂糖、缶詰、玉子、菓子、カステラ」を贈られて、お礼に風呂敷を配ったって「病気見舞覚え帳」(※2)に記帳してる。缶詰の種類が書いてねいのは残念だ。


同じく、古河市(旧三和町)、1925年生まれの牛飼いさんから貰った手紙―

昭和10-15(1935−40)年頃、「産見舞」には、米や卵が多かったようです。鰯缶や鯛味噌を頂いた事もあります。
当時は冷蔵庫がなかったので生ではなく缶詰にしたものと思います。干物より缶詰の方が軟らかくて食べ易かったのではないでしょうか。
鰯缶は手頃な値段だったので誰でも気軽に買えたものと思います。親元・親戚・近隣から頂きました。
缶詰の生産は大手水産会社、販売は酒店や乾物や海産物等を手広く扱っていた大手の商店でした。



出産の見舞いにイワシ缶貰ったんだと。
もし、上の子がお裾分けに預かれたなら、ファースト缶詰になったわけだ。



※1『日本の食生活全集 13 聞き書 東京の食事』農文協 1988、「武蔵野台地の食」 p。214
※2 茨城県猿島郡三和町、鈴木利夫家文書O-70 「病気見舞覚え帳」
(175) 三太都会のファースト缶詰

おかあ、恒例、ウツの季節。
ヒトに会うのが億劫だ、会合を終えるとドヨ〜ンと落ち込む。
おら、アニマルセラピストだ。適度な刺激を与える工夫を続けている。
今朝は「クゥ〜ン、クゥ〜ン」って声かけて起こしてやった。
「まだ6時前なのに」おかあ、ぶつぶつ。


富山のアキコさんからメールが来た、件名「イケメンの三太君!!」だと。
「むらき数子の情報ふぁいる」を初めて読んで、おらの写真に感動したって。
親馬鹿おかあ、にこにこ。
ウツにゃ、褒めゴロシが効くみていだ。
読者のみなさん、おかあを褒めてやっとくれ、なんでもいいから。


ところで、缶詰だ。

戦前、都会育ちのヒトたちの「ファースト缶詰」って、けっこういろいろあったらしい。



1934年生まれのDogさんから―

缶詰はハイカラなおいしいものを食べるという印象が残っています。
オイルサーデン とかソーセージとか・パイナアップルなどなど。



「1935年生まれのハングリー世代」さんから―

ミカンは食べられましたが、ほんとにたまさか家族で空けて食べたミカンの缶詰の味は忘れられません。砂糖がたっぷり入っていたあの甘いジュースが魅力だったのでしょう。 丸い背の高い缶詰でした。



「東京のお嬢さん」から―

東京育ちの私の缶詰の記憶の最初は、4,5歳ころの風邪程度の病気の時、食べさせられた果物の缶詰です。パイナップルや桃などであったと記憶しています。熱があって口が不味く食欲が無いため、冷たくて口当たりの良い物を与えてくれたのでしょう。

昭和9、10年ころ、幾ら位であったか、全く分りませんが高かったのではないでしょうか。普段は食べさせてくれませんでしたから。

同じ頃食べた物に、牛肉の大和煮の缶詰とタラバ蟹の味付け無しの缶詰があります。大和煮は美味しいと思いませんでした。大人には美味しかったのでしょうか。缶詰特有のくせが有りました。蟹のほうは子ども心にも美味しいと思いました。

映画「蟹工船」を観た時、あのようにして造られた物だったのかと、複雑な思いを感じました。蟹以外、人間の命までも食い潰していたのかと。考えてみたら口にする物の総てが他人の命の産物でした。

あの頃には、缶詰はそれに手を加え何か作るのではなく、急のお客や急のお酒の席のために用意して置いたような気がします。

そのうちに姿を消し、戦時中には闇で買い、非常時用の保存食として、防空壕に入れていました。食べた記憶が無いので、空襲で焼いてしまったものと思います。他にも砂糖や米や衣料品など、大事がって高いお金を払って買い置いた物を、皆焼いています。
((174) 三太ファースト缶詰

子どもの頃、缶詰って何だっただろ?
  おかあ、自分で思い出せねいと、すぐ、人に訊く。
「あなたにとってのファースト缶詰は何でしたか?」


荒川区のTさん―
風邪をひくと祖母が桃の缶詰を買ってきてくれました。
あのつるんとした感触が忘れられません。


丘の上のオバサン―
そうそう、病気になって、「何がいい?」って聞かれると「桃」って言った。
つるっとして、ね。


80歳の人からも、50代の人からも、子ども時代のなつかしの缶詰は桃、ミカン、ってえ答えだ。おかあも同類だった。
果物の缶詰は、病人食、病気見舞いの品だったらしい。
おら、病気じゃなくてもフルーツ缶のシロップは大歓迎。


Sinceさん―
缶詰のミカンは、今、ふだんのおかずに、スパゲッティサラダに入れてます。少しお砂糖を加えたマヨネーズ和えのサラダにね。


千葉県のROSEさん―
くだもの缶のシロップ、今までほとんど捨てていたのだけれど、先日小泉武夫氏(朝日新聞でコラムを持ってる農学者)がそれを飲むと書いていたので「ああ良いんだ!損した!」


もったいねい〜
(173) 三太缶詰の「盛り籠」?

群馬県前橋市の倅さんから―

缶詰の盛り合わせですが、私の父曰く、

「それは葬式のときにやってるよ、今でも、最近は花輪の中に缶詰が埋め込んだタイプのとかがある。」



なーるほど、祭壇に飾るタイプと、花輪の中に缶詰を埋め込んだタイプがあるらしい。
軒の高さにある花輪じゃあ、おらにゃとっても届かねい。



岐阜県可児市の娘さんから―

「盛り籠」はうちのほうの葬式にもあります。
香典や「淋し見舞」とは別に果物の籠詰めを祭壇に飾り、親族か親しい人が用意をします。盛り籠は葬儀屋に注文します。カタログ見たのですがメロンとかリンゴとか、生のフルーツだけでしたよ。



生のフルーツなら、すぐ食える。
けど、生は、おら、好みじゃねい。
煮たのは、おかあがメロンでもリンゴでも刻んで「三太メシ」に入れちまうから、いやおうなし食ってるが。
缶詰ならいい。フルーツ缶のシロップは好きだ。おかあが滅多にくれねいのが難点だ。
(172) 三太ジャカルタの缶詰今昔

ジャカルタ駐在員の家族だったS.I.さんから―

40年前、インドネシア、ジャカルタで缶詰、って見なかったわね。日本製の缶詰は高くて買えない、日本製には高い関税かけてたのね。
地元の缶詰は、悪いけど、信用できなかった。水だって、良い水かどうかわからないから。衛生的に作られてるかどうか。
買う場合は、オーストラリア産が、比較的安くて買えたから。子どもにサンドウィッチ作るときにはオーストラリア産のツナ缶買って作ったわね。
ジャカルタでは、新鮮なお魚もエビも食べられたのよ。だから缶詰使うってなかった。


   *   *   *   *   *   *   *


朝7時、窓の外の寒暖計は0度。雪はねいが、池にゃ氷、庭にゃ霜が降ってる。
ジャカルタさんにいまどきの缶詰事情を聞いてみた。


ジャカルタさんから―

こちらは日中は30度で、朝晩も木綿製の半そでシャツで十分です。

鰯の缶詰は、私の記憶では、1970年代には、確かに中間層の家庭に食用されていました。
今でも、インドネシアの庶民にとっては、鰯缶も含め、缶詰の食品(たいていは肉類の食品)は、高くてなじみ薄いものです。
下層階級には、今も肉類が食べられるのは、ほとんど年一回で、たいていはイスラム教の断食明けという祭日です。
普段は野菜や大豆の加工食品や卵で食事を済ませているのです。
また、断食明けなどの場合、庶民レベルでは、たいていは各自の家の手料理を贈答品とします。わざわざ金を出して商品を買って人に贈るのは、役所の人に贈る<賄賂>の意味合いがこめられている、という感じがします。
ただし、見栄っ張りの中間層や上流階級はまた事情が違います。
前々号で紹介された日本の「盛り籠」(※)は、故人への供物とは違うのですか。
インドネシアの華人の場合は、故人のご霊前には、供え物として色々とゴージャスな料理を出すのですが、要するに生きている者が食べたい物をご霊前にしばらく置いて、儀式が終わったらすぐに平らげるということです。
サラダオイルや醤油だと、その場で食べられないのではないでしょうか。ちょっと不思議に思いますが。



ジャカルタさんに同感!
やっぱ、その場ですぐ食えるもんがいい。
おら、缶切り、うまく使えねいし。



(170) 三太缶詰の「盛り籠」
(171) 三太つぅな缶

「茨城のさくら」さんから―

三太君。クリスマスには何か貰いましたか?
あなたはサンタだから、あげるほうだったかな?


うん、クリスマスにゃ何も貰わなかった。
元旦なって、おとうが、小皿をさしだした。
舐めてみた、初めての味。
なんか、とろーんとした気分になった。
おかあ「お酒なんか飲ませて。三太、酔っ払ってるよ」


「茨城のさくら」さん―
三太君の好きなツナ缶ですが、昨年末に3週間くらい沖縄に滞在したときに良くみかけました。
もちろんツナ缶は日本全国どこにでもあるでしょうが、お歳暮用のツナ缶(シーチキン)の箱詰めが沖縄のスーパーに山積みされていたのには驚きました。
沖縄は豚肉をよく食べる土地なのでポーク缶ももちろんありましたが、わたしはツナ缶の山積みに驚きました。
ツナ缶は沖縄では「つぅな」と英語風な発音で呼ばれているようです。
豆腐ちゃんぷるや、そうめんチャンプルなどのチャンプル料理にポーク缶同様に使われているようです。
そういえば、沖縄料理店でそうめんチャンプルを食べたときにシーチキンが入っていましったっけ。


沖縄の人たちの缶詰消費は、全国でトップクラスなんだと。ポーク缶やランチョンミート、コンビーフハッシュなど・・・(※1)
おかあ、沖縄行ったとき、缶詰に気づかなかった。
読谷村役場の、鯨みていな紅イモ(※2)に圧倒されて、目に入んなかったんだ。



※1日本一の消費を誇るポーク缶とツナ缶
   
※2 紅イモの写真→ (105) 三太ハンスト、 (106) 三太読谷村レポート