茨城軍政部
『茨城新聞百年史』1992、p.296によれば―
「茨城軍政部
茨城県に進駐軍がやってきたのは、マッカーサーが厚木に降り立った一ヵ月後の二十年九月十一日。進駐するための宿舎、交通など調査する先遣隊であった。九月二十日、霞ヶ浦航空隊に二千人が進駐したのを皮切りに、十月四日に水戸市外吉田陸軍航空通信学校に四十人、その後水戸、日立、土浦、古河の四地区に計二千六百人が進
駐。二十一年十月、茨城軍政部が県庁前の水戸地方裁判所跡に設置される。茨城軍政部は第一騎兵団の関東地区軍政本部に直属、司令官はエドウィン・リンボー少佐。将校八、下士官・兵士三二、計四十人の職員で構成された。このほか県内に進駐したのは対敵諜報隊(CIC)で、二十年十一月大洗に駐屯、県内では「大洗情報部」と呼んでいた。
茨城軍政部は、県行政の監督と助力を主任務とし、CICは教育、思想、治安や生活安定の情報活動が任務であった。茨城軍政部による県行政の監督は二十四年七月まで続く。この時茨城民事部と改称され、十一月三十日に同部が閉鎖されると業務は関東地方民事部に移管された。その理由を十一月十七日付の本紙は「占領目的も大体達成されたため」(米八軍司令官談)と紹介している。CICは軍政部が民事部に改編されても存続した。」
川俣英一「占領政策の地方的展開」(『茨城県立歴史館報』第17号、1990.3.20、P.110‐115)によれば、軍政部の機能は次のようであった。
「司法権を有する軍政部隊が各府県に配置されたのであるが、・・・軍軍政局、軍団軍政部、地区軍政本部は、公式には、日本のいかなる政府機関と接触することはない。日本の地方行政機関が政府の受けた指令を遵守しているかどうか、監視するのが府県軍政部に課せられた任務である。・・・連合国軍最高司令官は、報告書に基づき、日本政府に是正指令を発し、政府が地方行政機関に対し、是正措置を命ずるのである。
府県軍政部は「指令遵守監視機関」として機能した。・・・是正行為がとられるまで、かなり長い時間が経過するのである。このため、府県軍政部では、上級機関への報告を省略し、府県職員に対し、直接命令を伝達し、自由な裁量権を最大限に行使して、是正処置を求めることになる。・・・
府県軍政部の裁量権の行使を見事に見せたのは、米の供出における彼らの介入ぶりである。・・・一九四六年から四七年にかけて、「農民は公然と政府に反抗し、割当量の米の供出を拒んだ。このさいに軍政部職員が監察を行なった。アメリカ軍政部職員が日本の収納官を伴って農村に行き、処罰という脅しをかけて収納官をバック・アッ
プした。米の供出は成功した」といわれる。」
川俣は、同論文で、1948年11月分の「月例軍政活動報告書」を訳出している。それによれば、軍政部の監視活動は、公衆衛生・福祉・経済産業・公教育・民間情報・財政および公有財産の各分野におよんでいる。
公教育職員マクタガートが、この月視察・訪問した12校のうちに、古河小学校・県立古河女学校も含まれている。報告書によれば、小学校では二部授業を布いており、県教育部は当軍政部と密接に仕事をすすめ、婦人会議が11月に8回12月に5回開かれる。
陸軍民事部民間情報職員ホーケンドルフは、11月に7町で行われた「選挙・納税・新憲法・刑法および民法」に関する集会に出席した。出席者は約4千名であった。日本人を再指導・再教育するために、視聴覚教育計画を奨励し、「今月当初より一六ミリ映写機三○台、スクリーン三三張、幻灯機三台、教育用フィルム三○本および必要機器が、県視聴覚センターに貸与された。」
軍政部は、「茨城新聞」の紙面では「学校給食本極り 結核予防へ児童の体格強化」(46.12.4)と、防疫・医療・衛生を指導し、「軍政部員も講演 下館で社会教育研究大会開く」(47.7.7)では、視覚教育について茨城軍政部係官が実地教示とアメリカ映画上映を行う様子が報じられている。(
☆55‐1)
民主主義の普及のために、婦人会を結成させた様子が、久慈郡金砂郷村で米軍との通訳をした塩谷きわの証言によって知られる(『いばらき女性のあゆみ』p.405)。
猿島郡の「町村長会議に於ける連絡事項」(1947.5.12)では、次の項目が見られる。(『境町史資料目録 第二集 旧森戸村役場文書』1国・県・郡16「自昭和二十年度 町村長会綴 森戸村役場」)
一、茨城軍政部からの注意事項
1.男女共学の励行について
2.便所の清潔徹底について
3.重要通牒の趣旨徹底について
4.校舎の修理及設備等について
二、公民館について
三、新学制の実施について
「沓掛村愛郷青年会記録誌(抄)」(
第20回☆1‐3)に、軍政部員が次のように猿島地方へ出張講演していることが記されている―
| 1948.7.13 |
講演会 |
於生子菅小学校 |
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関東軍政部 リー女史「レクリエーション」について指導、茨城軍政部ローケン「青年に対する組織のあり方に対し」 |
| 1948.7.23 |
地方自治法普及講演会 |
於境高等学校 |
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茨城軍政部 フロスト軍曹、来場 |
| 1948.9.29 |
教育委員会法施行趣旨徹底協議会 |
於境高等学校 |
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軍政部よりマック先生「教育委員選挙の重要性」 |
| 1949.2.25 |
青年団幹部講習会 |
於境町清水岡中学校 |
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軍政部ローケン氏「良き指導者の資格について」 |
「またアメリカ第五空軍の無線通信隊が猿島郡八俣村(やまたむら)(現、三和町)に、旧前渡(まえわたり)飛行場(現、勝田・那珂湊市)には、航空部隊と地上対空部隊がそれぞれ駐屯していた。」(金原左門・佐久間好雄・桜庭宏『茨城県の百年県民百年史8』山川出版社、1992、p.280)
八俣村と隣の結城郡名崎村(なさきむら)には、海外放送・国際電話の送信所があり、その高い鉄塔が空襲(現在のマスコミの言う「空爆」)の目標とされ、戦後は米軍の進駐下におかれた。(前掲・染野浩『三和悪童奮戦記』p.129、『三和町史 資料編 近現代』1994、p.63.『三和町史 民俗編』2001、p.604.)
当時の世相を、名崎村の子どもだった染野浩(1932年生まれ)は次のように回想する(『三和悪童奮戦記』p.193―
「10.終戦から戦後へ、不安定な社会情勢のこと 昭和二十年八月、日本政府はポツダム宣言を受諾し、八月十五日の正午、天皇陛下の玉音放送により、無条件降伏で終戦を迎えた。
「日本は、遂に負けちゃったんだよ。」と悲痛な、ことばを吐いている大人達の表情はさばさばしており、下向いて、にんまりしているような顔も見られるし、笑いを、無理にかみ殺しているように見えてしまうお方もあったようである。
放心と安心をとりかえてしまって、はっきり喜んでいるような姿も見受けられた。
自分の感想も、正直言ってほっとした心境であり、天にも昇るような、とも言えないが、
「今夜から、防空壕へ飛び込まないですむ。ランプや電球のまわり、黒い布切れでおおわないですむ。」というようなことをすぐに考え、大人達のまねしたくなったのか、はずんでくる心を、おさえることができなくなってしまうのである。
翌日になると、空母の艦載機、グラマンF6F・ワイルドキャットが、バリバリと低空で飛来して、我物顔なさったのである。
ワイルドキャットは主翼がV(ヴイ)を長くしたような形で折れるようにできているが、それが実によく見えた。
胴体の丸に星のマークも鮮やかであり、低空飛行で一直線に、誠に壮観であった。
日本の敗戦をよく聞いた上での、訪問威嚇飛行、デモンストレーションであるから、まちがっても機銃掃射などなさらない。
真上へ来た時、伸び上がってよく見たら、パイロットの顔がよく見えた。
もちろんアメリカ人であるが、気のせいか、デモンストレーションを楽しんでいるように見えたから、気持ちの持ち方はふしぎなものである。
日々がたち、厚木へマッカーサー司令官進駐ということで、大勢の連合軍(実質は、アメリカ軍)が日本に進駐し、「日本占領」の時代に入ったわけである。
引揚船とか、復員とか、闇市(やみいち)とかの聞きなれないことばがたくさん入って来たのも、この頃である。
当時、我々この農村に住む者の耳に入って来た噂を最後に書きつづり、全巻の終了とさせていただきたい。
農村には、農作業の大切な担い手に牛馬(ぎゅうば)がいた。
日本に上陸、進駐してきたアメリカ人は肉食であるということであった。日本人は、草食動物であるから、米、麦、野菜等があればそんなに肉食べたくないし、欲しくない。
ところが、肉食中心のアメリカ兵は、手当たり次第に日本の牛馬を食いつくしてしまうだろうというのである。
牛馬は貴重な動物で、買うのは大へん高価である。戦地では、人間より大切にされた。
「どうせ、食われっちゃうんだったら、もったいないから、俺達で牛馬処分して、おいしい肉食っちゃおう。」
と相談がまとまり、本当にポカンして、ばらして、食べてしまった人々もかなりあったそうである。
もっと、おっかないことも耳に入った。
わざわざ、この紙面にのせるのもどうかと思われるが、本当に真剣に噂されたのである。
「女性は、皆レイプされ、男は、皆、去勢(きょせい)されてしまうん・・・らしい。だ。だとよ。」
が、或る程度、まじめにささやかれ、「ほんとかな。」「そんなこたああんめ。」「ひょっとすると。」「まさか。」というような反応が、少しだけど、きかれたそうである。
こうしたことについて、其の後の成り行き、(結果)は、其の後の進駐軍の姿、行動であり、戦後の復興に地道に進んできた大勢の日本人の目によって証明されたのであると考えたい。・・・」
新聞が作る占領軍像
『茨城県警察史(下巻)年表』には、次の記述がある―
1948年(昭和23年)9・1 国家地方警察茨城県本部、茨城軍政部から表彰さる
1950年(昭和25年)7・20 米軍機、海水浴中の学童を射殺(阿字ヶ浦)
「アメリカ兵は何を考へている」「『キモノ』に集ふ米兵」「アメリカ映画 まづ年内に劇物廿本」(45.9.13)
「本社座談会 アメリカ民主主義 ?学ぶべき社会訓練 家族間にも真の自由」
(45.10.3)
文部大臣前田多門、賀川豊彦、終戦連絡中央事務局次長西山勉、舞踊家伊藤道郎、本社細川編集局長
「本社座談会 アメリカ民主主義 ?裏付けは社会的統制 時と共に進むその内容」(45.10.4)
「日米写真交歓 組立住宅や朝食製造器 羨しいではすまぬ生活文化」(45.10.4)
「能率的な米国の生活」 ウイスコンシン大学、トレーラー・キャンプ村。洗濯車トレーラー。(写真)(45.12.5)
「自由なアメリカ女学生 彼地を聴く鉾田高女座談会」
進駐軍のチャールス・ジョセル学校査察官一行六名を迎え四年生百三十名に講演と座談会(45.12.5)
「鍛へるアメリカ女学生」 写真キャプ(46.3.4)
「アメリカの婦人から日本の婦人へ」 マッカーサー司令部民間教育情報部のウイード少尉(46.1.21)
「日本婦人殺害 米兵に□身刑」 日本少年を轢殺、日本婦人を殺人強姦殴打した米兵に、米軍法委員会で死刑宣告、終身刑に減刑(46.7.24)
「女学生にアメリカ式体操」 都立第六高女で(46.7.25)
「進駐軍茨城軍政部 改装の水戸新庁舎へ」「「明るいアメリカ色 ・・・裁判所が早変り」(46.10.17)
進駐軍茨城軍政部が、裁判所の暗くユウウツな壁を、クリーム色の明るい壁に、「驚くべきスピードでスマートなアメリカカラーに生れかはったのだ」
「端麗なアメリカ奥さん クレーグ大尉夫人を訪ふ」(46.10.21)
記者は秋晴れの一日、本県に現住するたった一人のアメリカ婦人、水戸市外大洗C.I.C(情報部隊)司令官クレーグ大尉夫人ジーン・クレーグさん(□三)を大洗の宿舎に訪問した、・・・宿舎にあてられたC.I.Cオフィスの一部(旧大洗ホテル)は純然たる日本間である、・・・『日本間が好きです』・・・黄色のセーター、コゲ茶色のスカート、絹のストックキング、髪はきれいなブロンドで、貞淑そのものの典型的なアメリカ婦人のタイプである・・・」
「アチラの話」アメリカで一番高級取りの女優、ジェーン・パウエル(46.11.7)
などと、欧米の豊かな生活ぶりに憧れさせる連載コラム。
「七五三もアメリカ調」 アメリカの兵隊さんのやうな可愛い服をつけた・・・水戸市(46.11.16)
「日本女性に望む グレース・S・ヴィーヴァ キモノを捨てぬこと 人真似はいけません」(47.1.1)
「水戸はよいとこ 思ったより静かなよい街 ペルスさん初印象記」
進駐米軍茨城軍政部勤務のコノリー中尉の奥さん(47.1.31)
占領軍兵士による犯罪が、新聞紙面に報じられることはきわめてまれである。