第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第一章 なぜ茨城新聞をとりあげるのか(その一)〜(その四)

むらき数子


 (その一)『銃後史ノート』の経験

 私たち・小園優子とむらき数子は、かつて、「女たちの現在(いま)を問う会」の一員として勉強してきた。十五年戦争の期間、満州事変から敗戦後までを対象に、新聞カードを採り報告しあう共同作業を軸に、勉強した成果を『銃後史ノート』戦前編10冊(1977〜’85年)に発表してきた。
 『銃後史ノート』では、中央紙の「東京朝日新聞」(=朝日)と地方紙の「信濃毎日新聞」(=信毎)とを対比させて検討してきた。
 なぜ、信毎を採り上げたか、加納実紀代は、次のように記している。

理由1,自由主義的な青年運動の伝統とその体制内化
  長野には、1920年代、下伊那自由大学など民主的青年運動があり、’30年代には新教育運動(’33年「教員赤化事件」として弾圧)、八木秋子たちの農村青年社運動など反体制運動があった。しかし恐慌脱出のため政府が音頭を取って始めた自力更生運動のリーダーシップを、’20年代の民主的青年運動のリーダーがとっている。

理由2,昭和恐慌の影響
     長野は養蚕・製糸県として国際市場に直結していた。その結果世界恐慌の影響を激烈に受けた。

理由3,戦争協力と戦争被害
     全国一の満蒙開拓団を送り出し、最大の死者を出した。

理由4,「信濃毎日」には、桐生悠々がいた。

つまり、以上を貫く長野県人の「勤勉さ」と「進取の気性」は、ある意味近代日本の縮図であり、また日本の近代化を支えた女性労働が典型的に見える点で、他の地域には代えられない特徴があった。

 『銃後史ノート』には、私も「信毎」を素材として、「銃後風景―新聞にみる農村と都会―」(復刊2号、JCA出版、1981年)を書いた。その他の号でも、「信毎」の記事を思い浮かべながら農村に触れてきた。
 フルタイム勤務の年休を使って国会図書館に通い、一生懸命読みカードに採ったのは事実であるが、しょせん、イナカを持たない都会出身者である私には、頭の知識でしかなかった。農家の暮らしにまったく経験がなく想像力が及ばなかった。まして、紙面に書かれていないことを想像する材料も力もなかった。地名から風土を思い浮かべることもできなかった。
 『銃後史ノート』戦前編を終えて、会から離れて一人で勉強し始めた時、農村を対象にするのは農村出身者にまかせて、私は東京出身の女性の生活史をやることにした。 >>



(その二)茨城県との個人的かかわり

 10年前、たまたま宮田登・筑波大教授から茨城県西・猿島郡の三和町史の民俗部会に加わるようにと声をかけられた。従来の民俗学にとらわれずに、高度成長前後の暮らしの変化を担当するようにとのことである。農村は無理だと思い定めていた私には、ゼロ以下からの勉強のチャンスであった。

 民俗学や農村社会学を読みかじりながら、近郊農村である三和町を歩き回って、人の集まる場を観察し、顔を覚えてもらって、聞取りをしていった。
 『銃後史ノート』でやってきたことが、都会と農村を対比させるという意図にもかかわらず、都会の側に身を置くものであったことを実感する日々であった。
 生活改善を担った生活改良普及員について尋ねた私に、境下館地区農業普及所長だった酒井東吾さん(1927年、結城市生まれ)は言った、
「ちょうど、今のあんたみたいだったナ。何ーんにも田舎のこと知らない、都会育ちのお嬢さんで。ろくに自転車も乗れねえ、って。」
ひやかされても、自分が骨の髄から都会人であることをかみしめるばかりである。

 ただ収蔵庫の中で文書を見るだけでなく、ひたすら三和町を歩き回って字名(あざめい)を聞けば景観が思い浮かぶようになり、3年ほどで老若男女500人近くの人々と接してきた。
 その間、三和町内に住み込んで、混住社会の「新住民」という立場も経験してきた。
 「農薬」と聞くと、消費者として無農薬野菜の産直を連想していた私が、同時に、マスクに身を固めてキャベツ畑を消毒する野沢さん夫婦の姿を思い浮かべるようになった。野沢さんは、数週間後には、規格外のキャベツをトラクターで潰さなければならない。
 雪印乳業の不祥事を聞くと、年中無休で乳牛の世話をしている増田茂さん一家の顔が浮ぶ。増田さんは、息子に、’39年に祖父が始めた酪農を継いで欲しいと言えないで苦しんでいる。
 役場文書や農家の土蔵で埃にうもれていた生の資料に載っている人名と、現存する人とのつながりも連想するようになった。
 しょせん、ヨソモノでしかないが、ヨソモノだからこそ聞ける話があり、見えるモノがある。
 そうした10年を経た目で「茨城新聞」を見るとき、「信毎」を見ていた頃よりは、僅かながら、その地域の景観が浮かび、その記事を読んでいる人たちの反響が想像できる。
 それが、私が「茨城新聞」を資料とする個人的理由であり、具体例を県西の猿島郡に求める理由である。 >>




(その三)茨城県と茨城新聞

 茨城県と茨城新聞については、後に詳しく見ていくが、茨城県は炭鉱と鉱山を持つ農業県であり、十五年戦争期を通じて、満州移民送出の基地であった。
 ‘45年、敗戦直前の空襲・艦砲射撃の被害は、海軍基地や海岸沿いの鉱工業地帯と水戸市などに集中したが、首都圏からの疎開・買出しを受け入れる側であり、食糧を供出(きょうしゅつ)させられる側である。
 ‘37年「支那事変」を報じて躍進した「いはらき」新聞は、’42年に一県一紙の「茨城新聞」となり、「全国に鳴る勤皇新聞」として戦争体制を翼賛していた。
 県財界に基盤を置き権力に協調した「茨城新聞」は、敗戦後には占領軍という新しい権力に協調して存続していく。 >>

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(その四)『茨城新聞百年史』に見る、敗戦前後の茨城新聞

 「茨城新聞」の前身は、1891(明治24)年7月5日創刊の「いはらき」である(☆1)
 1942(昭和17)年2月1日、常総新聞と合併し、題号は「茨城新聞」となり、本稿が採り上げる時期は「茨城新聞」である。
 ‘28(昭和3)年「いはらき」社長となった中崎憲は、1890年那珂郡木崎村の大地主の生まれで、京都帝大卒、裁判官を‘20(大正9)年に退職して帰省後、銀行・鉄道・耕地整理などにかかわり、村長ともなっていた。
 中崎社長は、’32(昭和7)年の血盟団事件の井上日召らと親交があり、五・一五事件の橘孝三郎は「いはらき」の常連の寄稿者だった。中崎のもと、「いはらき」新聞は右傾化を進め、戦争経済体制にも「時流に先んじようという社の姿勢」(p.240)を示していく。
 ‘36(昭和11)年9月には、東京上野松坂屋で勤皇事績展覧会を開催し、“勤皇思想発祥の地・水戸”を宣伝し、10日間で50万人の見学者を得た。
 ‘37(昭和12)年8月、支那事変への郷土部隊・歩兵第二連隊の出征は、「いはらき」にとって躍進の機会となり軍国熱を煽った。
 ‘39(昭和14)年2月から3月、水戸で開催した支那事変展覧会は陸軍省、横須賀鎮守府、外務省、拓務省、茨城県の後援を得て、101万1700人という空前の観客動員数を記録した。
「本社はこの事変展の成功後、社是の制定、排英県民大会の開催、護国神社大鳥居奉納募金活動―と、戦時体制の一翼を担う方向に突き進んでいく。」(p.252)

 国家総動員法に基づく新聞用紙制限令により、「いはらき」が用紙削減の対象となったのは’40(昭和15)年7月。
 新聞の統廃合が進められ、’42(昭和17)年2月1日には、「いはらき」が水戸市の常総新聞と合併し、土浦で発行されていた常南日報と古河の関東毎日新聞を買収し、一県一紙(☆2)としての「茨城新聞」となった。国粋主義者の巨頭・頭山満が題字を揮毫し、「全国に鳴る勤皇新聞」(p.260)と評される、国粋色の強い新聞となった。

 太平洋戦争突入以来、ローカルスポンサーの広告出稿量が激減していった。
 ‘43(昭和18)年4月1日から「翼賛運動欄」を特設し、’44(昭和19)年の夕刊廃止(☆3)まで続いた。
 ‘41(昭和16)年9月に朝刊4頁、夕刊2頁、定価1円だった紙面は、’44年3月6日には夕刊を廃刊し、’45(昭和20)年7月には、朝刊2頁、夕刊ナシ、定価2円70銭となっていた。

 用紙不足に加えて、戦争遂行のための労力不足から、新聞共販制がしかれ、’43年11月からは、一般読者は一戸一紙制を強いられた。「併読が可能なのは軍、官、軍需工場に限られ、読者が転居する時は、移動証明書がなければ転居先で新聞の再購読ができなくなった。」(p.267)
 ‘44年2月からは国民学校児童による配達(p.266☆4)が広まる。
水戸市新荘国民学校には新聞配給挺身隊が結成された。
 ‘45年8月2日、空襲で社屋を焼失した。3日に号外を出したが、以後発行不能となり、戦後の紙面で確認されているのは11月1日以降である。 >>




私たちがコピーを採った茨城県立図書館のマイクロフィルムも、8月から10月は「朝日新聞」であり、同じ「朝日新聞」であっても、東京都立日比谷図書館蔵の縮刷版とは記事に異同がある。
 敗戦時、茨城県民は、「茨城新聞」という名の国策宣伝紙を、月額2円70銭で購入していたのである。

 戦時中、新聞報国に邁進した「茨城新聞」は、
 「言論統制が厳しかった戦前、本紙はいく度となく発行禁止の処分を受けた。・・・発禁の対象は思想的なものばかりでなく、戦地通信など、戦闘地や戦闘部隊が特定できるような個所はどんどん削られ、検閲のすさまじさを物語っている。」(p.260)と、言論統制の被害を語りながら、同時に、
「戦時下において、政府や軍部は新聞の果たす役割について十分に認識しており、それゆえに戦争遂行 にも新聞を利用した。このため、新聞発行を続けるために、新聞社から応集(ママ)されていく者は他の産業に比べて少なかった。」(p.264)と、国策協力ぶりも記している。
 政府や軍部にかわって権力を握った占領軍は、茨城県でも、新聞社の解散や発行禁止を命じることはなかった(☆5)。  茨城新聞社も、物的条件が整い次第、戦中と同じ題号の新聞発行を当然として再開した。

 敗戦後、中崎憲は「敗戦と米軍統治に大きなショックを受け、那珂郡中町の自宅に引きこもり、」’46(昭和21)年5月死去した。
 常総新聞出身の渡辺弘が社長を継ぎ、’47(昭和22)年3月までの間に文化的な事業を再開している。この間’46年10月5日の新聞ゼネストに、茨城新聞従業員組合は「独自の見解を有し不参加を決意するものである」(p.286)と声明。
 渡辺弘に代わって’47年3月社長となった後藤武男は1893年生まれ、時事新報社で国際政治記者・取締役を勤め、’35年からの10年間は教職・政治評論・実業にかかわっていた。社長在職27年余、経営と制作全般にあたった。自ら連日のように社説を書き、茨城大学発足、日本原子力研究所建設、原子力平和利用、水戸射爆場返還を説いた。
 ‘47年3月、後藤を社長に招いて自らは会長となった竹内勇之助は1893年太田生れ、東京帝大卒後、茨城県の鉄道・自動車など交通業・ホテル業に従事し、戦後は県経営者協会会長など県経済界の重鎮である。

 戦後、茨城新聞は「“Now read this”」という軍政部情報記事欄を設けている。「民主的憲法の本文を熟読するように」(47.7.24)などの告示が多い。
 『茨城新聞百年史』p.297には「『ナウ・リード・ジス』は二十二年九月三日付から英文と和訳文を掲載している。」とあり、社側は「新聞用紙をね削減されちゃ困りますので、やっぱり面従腹背(☆6)ですね。ああそうですか、承知しましたって言いなりになっているほかなかったのです。」と「GHQの新聞統制、検閲はもちろん戦前とは性格を異にするものの厳しかった。」と回顧しつつ、「しかし、本社が検閲により発行停止処分を受けたり、記事の削除を命じられることはなかった。」

 ‘47年7月5日に題号を「いはらき」へ還元するに際して「わが『いはらき』は決して一政党政派の利害を弁護する機関でないし、一階級の利益を擁護する道具にならぬ。更に極右極左の全体主義を絶対に排撃し、常に茨城県人民の最大な数の意思と利益を勇敢に守護する公器なのである」(p.299)と宣言した。

 「茨城新聞」は、「新聞報国」のスローガンを「我が地方独自の民主主義」(p.298)昭和24年元旦号掲載「社是」)の確立にかえた。
 マスコミ関係者の公職追放では、編集局長など8人が対象となったが、社長・副社長は対象とされなかった。
 ‘45年9月13日読売新聞から始まった新聞の民主化運動は、「朝日、毎日などでも、社内民主化と戦争責任追及の動きが起り、全国に波及して、全国の新聞社で代表者を更迭したのは56社中実に44社に達した(『新版新聞五十年史』1948年刊)。」(日高一郎『日本の放送のあゆみ』有限会社人間の科学社、1991、p.120)。
 この時期に、茨城新聞の代表者が交代しているのは、「社内民主化と戦争責任追及の動き」によるのではなく、代表者の交替後4ヶ月で題号を「いはらき」に変えたように「常総」系を排除するという社内派閥抗争の表われだったように思われる。

 1991年1月1日、創刊百周年を期して、題字を「いはらき」から「茨城」に変更した。

 『日本新聞年鑑 平成2年(1990)版』(電通)によれば、「いはらき」の発行部数は、12万1230部である。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆ 1 山本武利『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局、1981)は、次ぎのような数字を紹介している。
 (p.230)東京高等商業学校生徒佐藤輝雄の1921年の卒業論文「足尾銅山に於ける労働問題研究」を参照すると、1919年頃の東北地区(場所不明)の炭鉱労働者2000人の購読新聞の調査結果は、『報知新聞』150(22.8%)についで、『いはらき』117(17.8%)、『やまと新聞』69(10.5%)、『国民新聞』61(9.3%)『東京日々新聞』58(8.8%)、『福島民報』53(8.0%)、『河北新報』38(5.8%)、『時事新報』32(4.8%)、『福島民友新聞』31 (4.7%)・・・となっている。
 (p.334)電通編『新聞名鑑』(明治42年)により、茨城県内の新聞の部数は、 いはらき 1.45万、茨城日報 (記載なし)、常総新聞 1万。
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☆ 2-1 茶本繁正『戦争とジャーナリズム』三一書房、1984年、
p.324 「一県一紙体制の狙い・・・
新聞の整理統合は、まず選挙のときなどに出没する泡沫新聞、経営難に陥った小新聞などからはじまった。・・・
昭和13年7月ごろからはじまった整理統合は、月刊ないし週刊の小新聞を手はじめに、15年には日刊紙へと発展した。警視庁検閲課は群小新聞社の内情を調査し、とくに広告料や購読料の強要をおこなう悪徳新聞に解散を命じて、整理を急いだ。
さらに、それまで企画院や商工省を中心におこなっていた用紙統制の手を内閣に移し、情報局に新聞雑誌用紙統制委員会を設置。新聞、出版の生命である用紙の配給をテコにして、地方紙の“一県一紙”制をすすめた。
この“一県一紙”制の狙いは、<地方庁の指導する国策新聞の必要と「朝日」「毎日」「読売」の三紙が世論を壟断(ろうだん)するがごとき体制にあるのを押えようとしたからであるといわれた(小野秀雄『新聞の歴史』)。こうして昭和13年5月末に1万3429社あった新聞社(非日刊をふくむ)は、同16年4月末には5190社と、約3分の1に急減していた。」
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☆ 2-2 『日本新聞年鑑 昭和22年』p.7
「全国新聞は日華事変勃発直後約千七百なりしもの今や、僅に五十五紙となり、五年を経過してここに統合整備された。」

☆3  p.270「夕刊廃止、扁平活字と十六段制
大正十四年九月以来発行を続けてきた夕刊が戦時統制の用紙不足と配給労務の節減のために廃刊に追い込まれたのは昭和十九年三月六日だった。夕刊の廃刊は日本新聞会の決定事項であったため、本社ばかりでなく全国各社一斉に廃刊となった。」
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☆ 4-1 この時期の児童による新聞配達を、家計補助や自立のためのアルバイトと同一視することはできない。
戦時体制下、労力不足を補うために、「教育」の名によって未成年が動員され、ボランテイア「美談」に仕立てられて無償労働させられた。
中等学校以上の生徒による農家への勤労奉仕や太平洋戦争期の工場への学徒動員、小学校児童の自家生産・軍需物資供出のための農繁期休業やヒマ栽培・兎飼育・干草作り・松根油採取の原木運び・学校農園作業、また、火の用心の夜回りや清掃などの生活維持の活動などなど。
未成年の動員は、敗戦後にも、
「未利用資源も学校へ 採取して飢餓突破 押しつけずお願ひ申す
 ・・・供出の対象となっているものは海草類、蓬、どん栗、残桑、甘藷蔓、いなご等・・生徒児童による食糧化運動の目標物は蓬で児童一人当り概ね生葉三貫匁、青年学校、中等学校生徒は五貫匁と・・・」(46.5.23)と、相変らずである。
この新聞配達も、また、第二部で紹介する小学生の「家の光」配達も、無償で使える子どもの動員であり、大人が戻ってくれば廃止されるものであった。
「古河の新聞配達
  古河町新聞共販所では・・・少年団の勤労作業を廃止大人の配達が・・・解体式・・・。」(45.11.17) 

☆ 4-2 猿島郡沓掛少年団(現・猿島町)では「少年団の経費一五○園はすべて作業収入によってまかなわれ、十九年五月からは新聞配達はすべて児童たちが担当し、その賃金は経費に繰り入れられた。」(『猿島町史 通史編』1998、p.968)
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☆ 5 茶本繁正『戦争とジャーナリズム』三一書房、1984年、p.364 「戦後、おなじ敗戦国であるドイツやイタリアなどでは、戦争に協力した戦前の新聞はすべてつぶされ、フランスではドイツ支配下のヴィシー政権のもとで発行していた新聞は、これまたぜんぶ廃刊にされた。
 日本の場合は、同盟通信の解体などごく一部をのぞくほか、すべての新聞、出版、放送(といってもNHKだけしかなかったが)は無キズのままのこされた。そしてそれらは占領軍の直接統制下におかれて、占領政策の遂行に利用された。それは天皇制が占領政策のために残されたのと、まさに軌を一にするものだった。そしていま、日本のジャーナリズムは、戦前からの大企業を中心にして、空前のいんしんをきわめている。」
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☆6 川俣英一「占領政策の地方的展開」(『茨城県立歴史館報』第17号、1990年)は、こうした茨城新聞の「面従腹背」の成果は、茨城軍政部から次のように高い評価を得ていると、1948年6月分の「月例軍政活動報告書」を紹介している(p.143)。
「茨城新聞(発行部数約3万2千部)は、茨城県内で発行される唯一の新聞であるが、当司令部も実行している連合国軍最高司令官の政策に関するニュースを見事に報導している。とくに教育、経済および地方政治の分野において、顕著である。また、県に割当てられた報償物資の全品目を市町村段階まで、記事にしたことでも、当紙は推賞されるべきである」
W・C・ホーケンドルフ陸軍民事部民間情報職員による’48年11月分「月例軍政活動報告書」によれば(p. 133)―
「「茨城新聞」は、11月10日以降、炭鉱版(☆7)8000部の刊行のため、新聞用紙の追加配給を受けた。現在の総発行部数は4万6000部である。」
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☆7 『茨城県の百年』p.257−260に―
「戦時下、県内の炭鉱と鉱山の増産体制は、強制連行した朝鮮人・中国人によって維持されていた。四五年には、県北の炭鉱三か所では、坑内労働者の三分の一以上が朝鮮人であり、日立鉱山では坑内労働者の約六割が朝鮮人・中国人・連合軍俘虜であった。」
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---むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」---

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