青年団と裁縫
1945年11月10日、境中学校では‘44年度「四年生在学中に、特別幹部候補生や飛行予科練習生を志願して、国のために命を捧げようとしたが、終戦によって復員した」8人に卒業証書を授与した。が、「三年生から学徒出陣した岸本和夫君、木村久喜男君、中村和典君、森久雄君たちは、同級の卒業名簿に名前がない。」(島田昭三『昭和に生かされて』1997)境中学校で軍国主義の教育をうけて、中学3年生で特別幹部候補生を志願し、中学4年生になった‘44年8月15日に入隊して、朝鮮で終戦となり復員した島田昭三(猿島郡猿島町、1928生まれ)は、「長い間の戦争と、敗戦のショックもあって、復員はしたもののこれから何をして生きていけばよいのか、悩みの期間が続く。・・・学徒出陣のために、四年生の一学期で終わった中学校も卒業できた。昭和二十一年の春を迎えて、これから何をしたらよいか悩んでいた。」
島田昭三は、在郷軍人会生子菅村分会長であり、村の青年学校の教員である父の勧めで、青年師範学校へ進み教員となる。

動員から戻った村の娘たちは、裁縫所に通った。
幸島村諸川(現三和町)で1937年から和裁を教えていた卯木くにさん(1918年三和町生まれ)の裁縫所は、戦争の激化した‘44年から‘45年にかけての冬には生徒は僅か7、8人だった。
「終戦なって、生徒が増えちゃったんです。工場行った人が習いに来て、いっぺんに100人になった、昭和21、2年ですね。ワッサワサ、便所の前でも、物置の前でもやってました。庭にムシロ敷いてやってました。」
月謝を100円にしたら、100人の持ってくる百円札が菓子箱に入りきらず、月に米1升としたら、農家である親達は喜んだ。
「そしたら、役場かどっかから、故障が来た、『供出の時代に、米を月謝として受け取るとは何事か』って。で、現金にしたんです」
卯木裁縫所の針供養記念写真では、‘45年の11人と、‘46年の約100人との対比が鮮やかである。(『三和町史 民俗編』p.315)
「指導者の役割は重大 新生青年団に明暗二相 既に二百七十余団体結成」(46.7.3)
と、‘45年9月21日の閣議決定に基き解散した官製青年団にかわって、新生青年団は県下の村々の74%で結成されつつある。
青年団の団長は、明治末以来、小学校長がつとめる団が多かったが、新しい団では青年自身がつとめるものが多い。「男子団は読書会、討論会、女子団においては洋裁活花の講習等より高き文化人として生きようとする真摯さが窺はれ」る事業が、旧来の増産・道路補修などの村の共同作業に加わっている。(参照
第22回☆20‐1‐8「沓掛愛郷青年会」)
「夜遊びやめて珠算の練習 悪風一掃に”共学会”」猿島郡八俣村米倉部落(46.12.4)
「泥棒のいない村へ 静村の青年達 夜遊び自粛申合せ」(46.10.12)
ミシンと洋裁ブーム
「女性三題 女学生 看護婦 洋裁生徒・・・水戸市内に経営される洋裁教授所は大小十五、県下では九十ヶ所といふおびただしい数にのぼり、これらの教授所に通ふ若き女性の数は五千名をくだるまいとみられているが、彼女たちがとぼしい資材にもめげず母の古着から父の洋服、ワイシャツ等々から創意工夫をこらして縫ひ上げて行く色とりどりのワンピース、ツーピースにはその日その日を豊かにしやうとする涙ぐましい青春の夢が匂やかにこめられている・・・(写真・水戸服装学院にて)」(46.10.15)
「郷土帳 猿島郡静村では鶴見国民校長や国府田駐在巡査の提唱により昨年十月から村内の女子青年百三十名に花嫁教育を毎週一日づつ国民学校で実施生花礼儀、マッサージ按摩その他家庭主婦の心得等について講習を開いているが按摩やマッサージは本職も顔まけするといふ上達振りで嫁を貰ふなら静村の女青をと隣村では好評を博している」(47.2.20)
と、旧態依然とした地域もあるが、水戸などの都市部から洋裁ブームが始まっていた。
洋裁とミシンは都市生活の象徴であった。ミシンは疎開者が疎開先へ運んだ荷物のうち、最も生産的な家財であった(
☆59-1)し、戦後、洋裁生徒募集の広告と、「焼ミシン修理請負」の広告(46.2.22)が並ぶように、貴重品だった。
「ミシンを盗まる」(46.3.23)と盗難記事が目に付く。
「幸運児"甘い正月” 福徳貯金で見事に大当たり」(47.1.25)と、水戸市での景品は、「ミシン、サッカリン145グラム」とある。ミシンは課税対象である(
☆59-2)。
引揚者や未亡人・戦災者などへの授産事業の作業種目の一つが、ミシン縫製である。
「下館授産所」ミシン台数に限りがあるので、手縫物部を強化する方針。(46.10.7)
兵器産業から平和産業に転換した日製日立工場は「ミシン機械の製作にも着手する」(46.1.25)(
☆59-3)。
まず和裁次いで洋裁を習いたいという需要に、古河では井上栄子が洋裁教授を始めた。‘47年4月に井上ドレスメーカー研究所として発足し、140〜150人に膨れ上がった生徒たちは、国鉄で栃木県・埼玉県からも通い寮に入る者もいた。(
☆59-4)
「終戦後における私立学校の特色は、学校教育法第83条に規定される各種学校として、洋裁関係の学校が最も多く設置されたことである。しかも県下各地にひろく設置を見、現在(昭和33年)240校の多きに及んだことは、私立学校発達史上、特筆すべき現象である。」(
☆59-5)
‘49年には、「洋裁学校激増(2,000校、生徒20万人)」(『近代日本総合年表』1984)の「洋裁ブーム」となり、幸島村の卯木裁縫所も需要にこたえて洋裁部を設け、各種学校「卯木高等裁縫学校」として認可を受ける。
幸島村諸川には、5軒以上の裁縫所があったが、各種学校の認可を得たのは、卯木くにさんだけである。和裁の裁縫所が各種学校の認可を得たのは全県でも珍しかった(
☆59-6)。
結城郡名崎村で、ニワカ百姓に専念していた染野ミツさんと姑薫世のもとにも、裁縫を習いたいと娘達が来て、ミツさんが、学校式の教え方を始めるのも、1950年頃である。(
☆59-7)
青年のエネルギー・素人演芸会
一部の青年たちは、自宅に文庫を開き読書会や雑誌発行をしている。
「民主文庫を 騰波ノ江青年校生徒が醵金」(46.12.3)
『いばらき女性のあゆみ』p.252は、結城郡西豊田村(現八千代町)の「蘭交会」を『八千代町史 通史編』から紹介しているが、猿島郡幸島村(現三和町)でも、お大尽層の高学歴青年の文芸サークルがあった(赤荻敏夫談)。
戦地や動員先から村に帰った青年男女は、祭・盆踊・素人演芸会にとエネルギーを発散させる。
茨城県でも、
「暴れる”お神輿デモ” 山根村の青年騒ぐ」(46.6.20)の記事を皮切りに、この夏「各地に”暴れる神輿”頻発」(46.7.11)。
7月14日には、「境町でも御神輿暴行事件」(46.7.20)と、堤防詰所新築寄付・常会長の配給不正への不満を、オミコシをかつぎ暴れこむ行動で表明していた。
『家の光』1946年5月号には
「結城哀草果氏をかこんで村の素人演劇を語る」
「最近、 村々では素人演芸が大変に流行しているといふことですが、・・・浮薄な流行歌や、浪花節や、まんざいや、あるひは清水次郎長や国定忠治や、さうかと思ふと歌舞伎のまねごとや、 戦争中翼賛会あたりがおしつけた演劇や、 ひっくるめて封建制の助長といふ─民主主義の今日にすれば、 憂ふべき傾向にあるやうですが・・・ 」
という記事がある。この記事は山形県についてであるが、素人演芸会の流行は、全国的なものだった(
☆60-1)。
巴村(鉾田)の市村一衛が村政改革運動の宣伝に素人芝居を利用した(
☆60-2)、というのは稀な意識的な活動であり、ほとんどは娯楽であり、若者が祭を仕切るという村の習俗に沿ったものであった。
沓掛村愛郷青年会(第20回☆1‐3)では、1948年11月1日に、幹事会で「洋裁講習会・村民運動会・移動映画会・農産物品評会」を相談し、氏子青年会として秋祭の「山車・素人芸能会」を相談している。
「茨城新聞」の紙面にも、戦争中抑圧されてきたイベントの復活・競馬・花火・素人演芸会の流行が報じられ、それに対する批判の投書も現れる。
「デカタン的遊戯を追放 閑な農村青年を仕事で指導
◇下妻地方農村の青年男女間に最近素人演芸会が盛んに行はれ、この風潮は燎原の火の如く拡がり毎夜深更まで練習の太鼓を打ち鳴らしている」(46.2.10)
「目に余る素人演芸 夜更しや寄付強制 県の親心・農村青年に注意
最近県下各農村地方で男女の青年などの主催で演芸会が盛に開催され娯楽に飢えている農民の間に歓迎されているが・・・」(46.4.3)
「四年ぶりで"大宝の菊”」(46.11.1)
「菊薫る 笠間稲荷見物人で賑ふ」(46.11.10)
「取手競馬 大穴期待外れ 初日、超満員の盛況」「巨人軍来る 十八日全茨城と一戦」(46.11.12)
「九年ぶりで古河の提灯祭り」(46.11.16)
☆59-1 むらき数子「疎開とは女にとって何であったのか」『銃後史ノート』復刊5号(通巻8号)「特集・戦場化する銃後」1983、JCA出版
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☆59-2 旧森戸村役場文書5税務154(境町史資料目録 第二集)「昭和23年度ミシン税台帳」「昭和24年度県税独立税( ミシン税) 」)
新潟女性史クラブ『光と風、野につむぐ一連譜 新聞にみる新潟女性史年表』2001、p.434
「1947.9.25 23日、新潟市は赤字財政克服のため営業用家庭用とも1台年額150円のミシン税、女中1人につき年50円の個人税など新税を決める。」
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☆59-3 谷口こずえ「家計を生み出した家財道具『ミシン』」小泉和子編著『洋裁の時代 日本人の衣服革命』農文協、 2004.3.百の知恵双書006、p.165‐173
p.167「戦後のミシン工業の発展 ミシン工業が飛躍的に発展したのは戦後のことであった。戦災で多くのミシンが焼失したことに加え、洋装化の急速な普及にともなって洋裁の需要も増大し、ミシンは平和産業として脚光を浴びたのである。軍需品生産を行なっていた会社が次々とミシン産業へ転換し、他の工業に先駆けて近代的な生産体制が整えられていった。
輸出が再開された昭和二二年以降、ミシンの生産量は急速な伸びを見せる。各メーカーはミシン工業を足がかりに、洗濯機、扇風機、冷蔵庫、掃除機といった他の工業製品の生産に移り、戦後の機械工業復興の担い手となっていったのである。」
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☆59-4 『いばらき女性のあゆみ』p.360
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☆59-5 樫村勝著、著作権・発行者茨城県教育会『茨城県教育史 下』1958 p.241
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☆59-6 里村洋子「第3章 農村の洋服化」小泉和子編著『洋裁の時代 日本人の衣服革命』農文協、 2004.3、p.31に―
「洋裁が和裁に代わって家庭裁縫の地位を獲得した。従来の「お針の稽古」は、モダンな洋裁学校にかたちを変えたのである。」
とあるが、「和裁→洋裁」へと一挙に転換したのではなく、茨城県西の農村においては、「和裁の普及」→「和裁+洋裁」→「家庭裁縫の衰退」という展開であったと考える。
洋裁を教えるのが「学校・学院・研究所」などの名称と椅子腰掛けを用いる学校式の施設が多かったのに対して、和裁を教える裁縫所は旧来の仕立て屋や寺・教員・地主などの主婦が自宅の一室で教える塾が多かったので、教育行政・課税・マスコミの目にとまりにくかったと考えられる。
『家の光』は、1947年から洋裁講座や洋服風の作業着の紹介記事を載せ始める。昭和一ケタ生れ以降の娘は小学校のころから洋服を着始め、ブラウス・セーター・スカートなどを手縫いしたり、親戚のミシンを借りて縫ったりしていても、「嫁」となったら姑と同じ和風の作業着を身につけるのが当然であった。衣服は最も着る者の立場に
制約される分野である。
茨城県西の農家の女性が、日常着・作業着まで洋服化したのは、ずっと後、高度成長期以降であったと考える。
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☆59-7 むらき聞き取り。ミツさんの作った雛形を展示した図録が、「下妻の裁縫所〜残された雛形を中心に〜」下妻市ふるさと博物館、1998、p。41
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☆60-1 岐阜県女性史編集委員会編、岐阜県発行『岐阜県女性史 まん真ん中の女たち』2000年、p.443「村芝居に生きて」には、―
「すわ子が17歳(大正14年)で嫁いできた安藤家は、農業の傍ら髪結いと嫁さんづくりや、芝居(歌舞伎)用のカツラと衣装を役者に貸していたため、周囲から「かつら屋」と呼ばれていました。芝居の声がかかると舅がカツラを結い、夫が衣装を立て、当日は2人で出かけて役者の着付けなどをしました。そのころのすわ子は、芝居とは
無縁の毎日で、昼間は家事と田畑と蚕の世話をし、夜なべに衣装の繕いや仕立てを手伝うだけでした。
太平洋戦争中は、芝居の仕事もなく食糧増産に励んでいましたが、終戦を迎えて一転。戦後の復興ムードとともに人々は娯楽を求めるようになり、昭和21年には、各地で青年団が主催する余興に呼ばれたり、村芝居も復活してきました。衣装とカツラの借り手はどんどん増え、年に400件を超える大盛況となりました。」
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☆60-2 「市村一衛(元常東農民組合書記長) 我が青春の常東農民組合運動 聞き手丹野清秋(茨大教授)」『茨城を語る』常野文献社発行、2000.20、p.55‐71(昭和20年9月半ばに軍隊から復員して、村へ戻った)「当時はなんでもかんでも配給制で、地下足袋から自転車のタイヤ、そしてマッチなどまで配給でしたね。ところがその配給物資を役場の職員がごまかしたりしていて、若い人達には非常な不満があった。若い人たちが私のところに、相談にきたりしてね。それで村政改革運動を始めることにした。・・・演芸会なんかやりましてね。自分達で劇なんか創りましてね。ヤミ屋とか、隠蔵物資を隠した者を揶揄する芝居などをやりました。そうしているうちに山口武秀さんの農民組合が北上してきましてね、私は若い人達をつれて、山口さんの話を聞きに、小学校であったのですが、行きました。その時、話を聞いて、頭を馬施(ませ)棒で殴られたような気をした。私の正義感を奮いたたせるものでした。これをきっかけにして農民組合に入り、運動で縦横に常東地域をかけ巡ることになった。
・・・演芸会などの時に、マイクを握って、村政改革の必要性の話をする。娘達に「一衛さんは、あの話をしなければいい人なんだが」とよくいわれました(笑)。
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