'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第二部第一章(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争(7)農業・農地改革・供出―その4

本稿では、1990年代におこなった聞き取りから、名崎村(現猿島郡三和町)の事例を紹介する。


結城郡名崎村恩名丸山の中山マサノさんは、1908年、現総和町の大百姓に生まれ、古河まで「村で一人の女学校」に通った。さらに1年、古河の岡村裁縫所に住み込んで習った。生家では、娘に手伝わせたのは蚕の世話だけだった。

 1930年2月に嫁入りした中山家は、小作にも出し、若い衆を2人使って手作りもする大百姓だった。麦・小麦・養蚕・茶・陸稲・サツマイモ・大豆、あらゆる物を作り、養蚕は年5回掃きたてていた。

婚家は、大姑・舅姑から若い衆まで13人の暮らしだった。舅は村会議員など役職に忙しく、夫も義弟も農学校を卒業し、村の役職をこなしながら詳細な「農業日記」を記し野良仕事の先頭に立つ精農だった。

「小作にもいろいろ居て、小作料貰わねえで手伝い来て貰ってた(場合もあった)。(納期になると)小作料1銭も持って来ねえで、泣いてる人、多かったぞ。『勘弁してください』って。陰で、うちの若い衆が『芝居師が来た。オカミサン、負けんじゃねえぞ』って笑ってた。けど、(私は負けてやってしまった)そういうの、何人かいたね。」

 中山マサノさんは、「修身の本は、教育勅語があんだから、お嫁に持って行った、修身の本だけは一生持ってようと思ったのに、具合悪くて寝てた時、トシヨリオバサン(=大姑)が、(燃やしたか、捨ててしまったか)裁縫の本から何からナーンニモなくなった、子ども何人もいた頃だ。」

 1937年、戦争になって、夫は終戦までに3回も召集された。大姑・姑に子ども5人をおいて征かれた上に、戦争末期には夫の妹達が子どもを連れて疎開してきた。野良仕事をしたことのなかった中山マサノさんが、女世帯のオカミサンとして、供出(きょうしゅつ)割当をこなすために、自ら作業せざるを得なくなった。

「スルス(すり臼)で挽いて、俵を編んで、供出すんだもの。私が俵編んだら、小作持ってきた人(=小作料を納めにきた小作人)が、『なんだ、オカミサンが俵編みしてんの! いくら、世の中変わったって・・・』って言われたんで、ここ(=母屋の土間)じゃなく長屋門でランプつけてやることにした・・・

 『村で一人、女学校行った』私が、やったことない、私が作った米で、私が編んだ俵に詰めて、・・・『私が作ったお米ですから、受け取ってください』って言ったら、検査の人も何も言わないで受け取ってくれた。

 縄の供出だって、女手一つのとこへ、三十玉とか割当てられて、子どもら寝かせてっから、ここで綯(な)って・・・。」

 農地解放のとき、「(夫はまだ復員して)居なかったなあー。私が一人であれこれやったんだから。」

 「農地解放じゃ、自分で使ってた(小作人が)兵隊出られて(=出征したので)、『ここは何が何でも、返して貰いたい』って言ったら、組合長が、『書き出せば自分の物なるんだから』って言うから(書類に)書き出したのに・・・『札(ふだ)立てろ』って言うから立てたら、解放なっちゃった、・・・口惜しかったぞ。

 7町ぐらい解放した。山が8町電々公社・送信所に買上げられたし。山と畑で残ったのが3町だったんだよ。

 戦争が終わったでしょ、主人が帰って来た時、小作の人、(小作料を)持って来た。『旦那さん、マッカーサーて人はたいした人ですね、偉い人ですね』って言うんですよ。『玉子十粒(とつぶ)で、お釣りが2円来た』って言うんですよ、『オカミサン、本当にマッカーサーはたいした人ですよね』って。私は受け答えができなかった・・・

 玉子十粒分が200円だった、それを小作料として払ったら、2円のお釣りが来た、ってんですよ。」

 名崎村農業会では、第二次農地改革による農地委員選挙の前に1946年11月9日、「農民懇談会」を国民学校で開いている(☆48‐1)が、午後1時から4時のこの会に、男手のない家を背負って供出に追われている中山マサノさんは出席できただろうか? 一戸一人として出席したとしても、発言できただろうか? 村の小作調停委員会に調停を申請して争うことが可能だっただろうか? 県に問い合わせたりできただろうか?

 結城郡地方事務所では、農地改革の啓蒙のため、1947年9月11日から10月6日まで、「一ケ村平均二ヶ所において紙芝居を実演」する紙芝居巡回計画書を作成した。「農地改革早わかり」というパンフレット・ポスター・「売渡リーフレット」が配布され、1947年11月には移動映画班による宣伝映画の映写も行なわれた(☆48‐2)。

 「農婦、自殺で抗議 大国村に小作地取上げ問題」(「茨城新聞」46.11.2)

 猿島郡幸島村新和田(現三和町)の染谷とみさん(1909年生れ)の場合―

染谷とみさんは、境町大歩(わご)の大百姓の家から、1932年、染谷家に嫁いだ。婚家では3町7反もの養蚕を夫婦と日雇いで盛んにやっていたが、戦争で手が足りなくなってやめた。何回も軍隊に召集されていた夫は1941年に再召集され、1943年9月13日には戦死してしまった。さらに、1945年舅・姑が亡くなり、染谷とみさんは未亡人として国民学校6年生の一人息子と遺された。

 「戦争中、私一人になっちゃった。私は一人暮らしになっちゃった。(遺族の家で、女手一人しかない家に対しても、供出の割り当ては)同んなじに来た。このうちは麦いっぱいあったから、分家の分1俵まで出してやった。(手がないのに)区長までやれ、って言われたから。苦労しましたよ・・・

(農地改革では)うちは作るほうだったのに、(出征・戦死と手不足で)作る人がいなかったから、貸しておいたために取られちゃった。登記だって、自分で書いてきたんだよ。金ねえから、(代書を頼むどころでなく)自分で、古いの見て書きゃいいでしょヨ、三日かかったね。役場へ持ってったら、(親類が係にいて、持参した書類を見て)「表紙ねえから」って、表紙付けてくれて、出した。登記は、舅から夫にして、息子名義にした、夫は死んじゃっていなかったけど、中継ぎにして。」

 役場へ行って、吏員に対して堂々と主張した染谷とみさんの様子は、親族の間で「今だったら議員なってた」と語り草になっている。女が正当な権利を主張することが、「押しかけてった」などと「女だてらに」と非難されるのが村社会だった。

地主・小作双方にとって、すでに、第一次農地改革の、小作地取上の禁止・小作料の金納化・小作料引上停止を定めた改正農地調整法第九条が、生活そのものを変革する大事件だった。

『茨城新聞』の紙面では、1946年秋は、農地改革の進行状況より、同時進行していた憲法改正・公布のほうが、大きく扱われている。中山マサノさん・染谷とみさんが、当時新聞を読んでいたかどうか、残念ながら取材できていない。

当時、新聞を読んでいた階層にとっては、憲法改正よりも、農地改革・公職追放・財閥解体のほうが我が身にふりかかる大関心事であった。

そして、購読する余裕のない多数にとっても、大きな“事件”は、11月18日から19日に天皇が茨城県を訪れた行幸であった。

「天皇陛下本県に行幸 十八、九の両日 清算、復興状況ご視察」(46.11.16)
「天皇陛下御来県第一日 十七年振りに仰ぐ御姿 二百万県民、感激に沸く」「”明るくお暮し下さい” 遺家族未亡人をご激励」「感涙に咽ぶ老婆 孫をつれて徹夜で頑張る」(46.11.19)
「土浦 沿道楮列の群衆 万歳を連呼して迎ふ」(46.11.20)
「土浦 沿道楮列の群衆 万歳を連呼して迎ふ」(46.11.20)

  「茨城新聞」紙面にあらわれた民衆は、戦災被災者も、夫を戦死させられた未亡人も、増産・供出に責められている農民も炭鉱労働者も、「人間天皇」を万歳連呼で迎え、感涙にむせんで増産を誓った。

民衆慰撫に大成功をおさめている間に、天皇は占領軍の大洗C.I.C(情報部隊)司令官クレーグ大尉とガッシリ握手してリュウチョウな英語で友好を確認している。(「クレーグ大尉と御握手」46.11.20 )



   名崎村瀬戸屋敷の関幸一さん(1928年生れ)は8人きょうだいの長男である。小作農家の暮らしは―

 5反を小作していた関家では、父は土建業を主にしていた。「親父は兵隊ばっかりひっぱられてた。現役のあと、満州事変で行って、支那事変でも行って・・・子供3人残して出征してる、その頃に母親が病気で倒れた。

 あの頃は小学校5年でソロバン始まったんだな、あしたっからソロバン(の授業が始まる)って、ソロバン買ってきた、その時、「赤い紙(=召集令状)」来ちゃった。親父が宇都宮へ入隊しちゃった、おふくろは病気、年寄りと小さい子どもらで・・・だから、俺は農業は早くっからやってた、小学校5、6年から、長欠児よ、五反百姓で食糧難だったから。」

 瀬戸屋敷新田(=北部)7戸は名崎尋常小学校の校区のなかで最も遠く、約4km歩かなければならない。農繁期休暇はあったが、ご飯炊きも農作業もしなければならない関幸一さんは長欠せざるを得なかった。

 「親父はもう少しいれば恩給ついたわけね、あと1ヶ月もいれば戦地加算ってのがあったから。だけど、『お前は帰るか? 残って恩給つくほう取るか?』って聞かれて、帰って来ちゃったから、恩給ない。3人も子供残してれば、帰りたくなっちゃうよね。

 親父は昭和14(1939)年に帰ってきて、大東亜戦争起きて、また召集危ないんじゃないか、って・・・俺は昭和20(1945)年3月10日は、徴用で、炭坑で石炭掘ってた。停電になっちゃって、どうしたんだ、って文句言ったら、上は空襲で大変だったんだ、って。ちょうど、俺が検査(繰上げによる徴兵検査を‘45年8月に)受ける時、負けたから、飛び上がって喜んだよ。

 うちは恩給なくっても、無事帰ってこられたが、帰れなかった人にすれば、何億円貰ったって・・・

 あのまま、日本が勝ってたら、日本は消滅しちゃったと思うよ。原爆だって、どんどん落されて。いずれにしたって、戦争に巻き込まれちゃダメだよな。戦争するってのは、指導者が悪いから。戦争になんないような政治やる指導者の責任ってことからすれば、東条さんが死刑になったのも、気の毒だけど、当然だと思うな。

 小作の暮らしってのは・・・米と麦とまぜて、米3に麦7で上等だよなー。俺なんか、成長期はそれだよ。それが、戦争に入って、サツマ入れたり、ジャガイモ入れたりして食べたんだよね。

 戦争中、米もサツマイモも供出で。うちじゃ、サツマイモは7、8反作ったかな、女性陣が5人いたから。

 俺の時代は、小作と農地改革の、変わり目だったんだな。今は、一反ぶり一万円、田圃だと二万くらいで借りられる(☆49‐1)けど、昔は滅多に貸してくれなかった。

 うちは農地が、麦作ってる畑が7反ぶりあったものを、農地改革で、“放棄”だね。地主に返しちゃって交換することになっちゃった。農業委員会の斡旋で、元の地主には返して、うちに近いほうへ違う地主から7反借りることになった。

 新しい借地は、山(やま。平地林のこと)だったから、唐鍬(とうぐわ)で林を開墾したんだ。いっぺんにはできないっから、毎年1反、1反5畝ずつ、開墾してきた、俺の汗がしみこんでる土地だ。開墾して初めの年は陸稲(おかぼ)。根っこ切ると、水、吸い上げてくるから、陸稲が良くできるんだな。二年目になると、根っこ腐っちゃって、水上げなくなるから、サツマ作る。
 米もサツマも統制されてたが、サツマを7反も作ると、8貫匁が35キロか、藁(わら)も俵だからね。半分くらい供出すれば、割当分、完了しちゃう。残った分は、食糧事務所が超過分を(供出価格より)高く買い取ってくれるっから。アルコール取る、とか、うちでも、干し芋にして。

その頃、農業技術研究会ってのができて、麦の増産、ってやってた。一つの部落が単位で、12〜13人(当主が参加していた)、俺が一番若いほうだった。土地良くするには、って、今で言う、有機農業ってやつだ、俺ら肌身もってやってきたんだな。肥料やるのに、陸稲作るには反当たり7貫匁って言うんだが、俺は大体、倍使う、貯金のつもりで入れてきた。

 その頃は、取れれば(食管法で)買い上げられたから、安全だよな。小麦で5〜6俵、麦(=大麦)で8俵ぐらい取れば、出荷した残りで、飼ってた牛や豚にも食わせて、人間も食べて暮らせたから。

 うちは、家族が、一番多い時で14人いた。部落で一番、多い家だった。俺は長男で、きょうだいは弟2人、女5人。その頃は働きに行く場所がないから、どうしても土地にこだわる。遊ぶ場所もないから、皆よく働いたけど。

 うちは働き手が、いつも3、4人、多いときは5人いたから。女のきょうだいは、真面目なんだよな、草刈、ってっと、こんな籠(直径60?深さ60?位)に、一人が一日8個刈ってくる。午前中に4個、午後4個で。すると、5畝を一日で入れられる。草は堆肥にもするし、畑にじかにも入れてた。

 きょうだい(姉妹)も、高等科出てっから嫁行く前だから、今の中2出た年か。よっく働くから、売上げも上がる。供出を完了すると、報奨物資ってのもあったからな、ズボンとか衣料品だとか。最初は砂糖も来た、赤い砂糖だったんだが、砂糖の味、知らないんだな、サツマの飴ばっかりだったから。

 (姉妹は)家のためによっく働いてくれたんだから、嫁に行くったって、俺も、できる限りしてやった、自分の物はごく簡単なまかないで済ませて。」

 手作業の農業の時代には、働き手の数が経営規模拡大=上昇に直結した。
関家の毎日の食事が、麦飯から“米ばっかり”になったのは、1955(昭和30)年を過ぎた頃である。
新住民の急増著しい瀬戸屋敷行政区で、1980年、関幸一さんは区長を勤めた。北部からの区長は初めてだった。



解放の成果

 暉峻衆三は、『日本史大事典』(平凡社、1993)の「農地改革」の項で、

「この農地改革によって、地主的土地所有制度は基本的に解体され、それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制とも言う)が広範に創出されることとなった。」耕地の零細さ、山林原野の未解放、残存小作地などの不徹底という限界を有しながら、「改革前の状態に比べるならば、それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。」と、評価している。


 これまで紹介してきたように、農地改革は茨城県西の村の隅々にも大きな「光と影」(☆50‐1)を投げかけた。
概していえば、「農業生産力と農民の生活水準の上昇」をもたらし、農村の社会関係を変えた。農業の機械化と高度成長期以降の総兼業化を経て、半世紀後、どこの家にも住み込みの使用人はいないし、冠婚葬祭・教育・衣食住・クルマ、どれをとっても貧富の差は目立たなくなった。町村政治における勢力は、土地所有と必ずしも正比例しなくなった。」

 農地解放を受け、農民組合運動が興隆した農村が、「戦後50年、一貫して保守の大票田でありつづけるのは、どういうことなのか?」という疑問が読者から寄せられた。


農地改革は、占領政策の成功例となり、一般には「マッカーサーのおかげ」と、受け止められた。占領軍は、平和で豊かな生活をもたらす解放軍であった。

確かに、占領軍・GHQは、農地改革を重視し、立法を促すだけでなく、宣伝し(☆50‐2)、第二次農地改革案が成立した1946年10月にはマッカーサーの声明を発表した(参照:第46回)。その後も、実践の評価まで、強力に推進した。


たとえば、茨城軍政部のパーシー・E・スチュアートは、「四八年一一月分月例軍政活動報告書附属書類D」において、次の項目をたてて報告している。(☆50‐3

一 農業
a 行政組織
b 農地改革
c 農業会解散ならびに農業協同組合設立
d 農業改良

占領政策は、日本が独自に進めてきた「自作農創設」を完成させた。

「小作農民の要求や共産主義勢力の主張を言わば先取りし、占領軍の指揮下に日本の統治機構を利用しながら推進される「上から」の農地改革が実施されることとなった。」のであった。( 暉峻衆三「農地改革」『日本史大事典』平凡社、1993)

農地改革=解放によって、小土地所有者となった農民は、革命によって失うのを恐れる側に回る。保守化した農民は、農協を通じて自民党に圧力をかける存在となった。個々の集落・家の内部の人間関係が「民主化」されたかどうかは、一概に言えない。

その後の展開は、「マ元帥声明」が「極端な思想の圧力に対するこれよりも堅固な防塞はあり得ない」(「茨城新聞」46.10.13)と述べた通り、食糧暴動も共産主義革命も阻止された。

茨城県東部の鹿行地域で、農民組合の青年行動隊長として駆け回っていた市村一衛によれば(☆50‐4

「小作制度があった時代には、農民は貧しかったという原点がありましたしね。だから、革命的なエネルギーというのは潜在していた。しかし、農地改革によって、農民の革命的エネルギーは、マッカーサーによって流産させられた。彼は単なる軍政官ではなく、支配のテクノロジーをもっていた人だったと思う。農地改革後の結果を見ればそう考えざるを得ない。農民の革命的エネルギーが流産させられなかったら、日本の変革はあったと思う。

 昭和二十四年にはマッカーサーの農地改革は額面に近い終結を見る。その結果、近代性とはあい入れない、いわゆる農業の零細化が始まった。」

「当時各村に農協として、地主側の農協と農民組合側の農協というのが出来ますね。私達も、農民組合側の農協組合長というのをつくったりした。」が、農民組合出身者はカネを持つことに不慣れで経営感覚に乏しかった、と市村一衛は言う。

 日本独自の第一次農地改革を進めた松村謙三の狙い(☆50‐5)が当たったのが、その後の展開であった。

第一次農地改革案に対して、茨城県選出衆議院議員で、真壁郡上野村(現明野町)の大地主である赤城宗徳(1904〜1993。☆50‐6)は、推進すべく代表演説をした。地主制度はよくないというのが赤城宗徳の持論であった。
 
 農地解放が国策となる前に、独自に解放していた赤城宗徳は、財産税の物納で、「残ったのは宅地の一部と家屋と土地六反五畝でした。一転して大地主が貧農になってしまいました。」さらに、「公職追放によって、家業の百姓をやる以外に、”生きる術”がなくなってしまったのですよ(笑)。」

 村長・県議として耕地改良・治水工事に取り組んで来た赤城宗徳は、小作まかせだった農作業に、初めて取り組むニワカ百姓の一軒となった。「農民組合の人たちが気の毒に思ったか、手伝いにきてくれるということもありました(笑)。」

  「紅い気焔女村長 県で最初、ヒサさん当選」(「茨城新聞」47.4.7)

公職追放中の赤城宗徳

と、47年春の村長選には、公職追放中の赤城宗徳にかわって妻ヒサ子が当選した(☆50‐7)。地主層を代表する候補者に対抗して、元大地主である赤城夫妻を、農地解放を求める農民組合が擁立した、というネジレ現象であった。
40年後に、赤城宗徳は次のように述べた―

「しかし、こういう人たちも、時がたつにつれて、かなり権力の側に変っていっちゃった。だから、深い哲学とか、信念とかがない者は、闘うなんていっても、強い方についていく。」





結城郡名崎村(現猿島郡三和町)では、村長の山川行蔵家もニワカ百姓になっていた。山川家は、江戸時代には名主であり、明治期には県会議員となるなど、村きっての名家であり、作男を数人使う地主であった。1939年に満州分村移民として満州に渡った三郎(第42回)は行蔵の三男である。
1948年、山川行蔵が死去したので、跡取として長男の泰・喜久夫婦が帰郷した。山川泰は、東京帝大卒後、衛生技師として、内務省・京都府庁に勤務する官吏であり、サラリーマンの核家族暮らしであった。
八千代市の大地主の娘で、1904年生まれの妻喜久さんによれば―

「舅が亡くなったので、辞めて跡取に、ここへ戻って来たんです。
 戦争で、住み込みの若い衆は兵隊に行っちゃうし、女中は挺身隊とかで、いなくなって、一人も使用人はいませんでした。実家も親せきも、みんな、そうでしたね。

 ここへ来て、ニワカ百姓です。草取るなんて、楽だと思ってたんですよ。やってみたら大変なんです。田圃はやりませんでしたけど、麦作ってジャガイモなんかも作りました。私、43歳で戻ってきて、生まれて初めてでしたけど、何とかして覚えようと思って無我夢中でやりました。

 主人は帰ってすぐ、農協の専務やってくれ、って言われて、それから、村会議員を3期やって。村長は、そのとき他にいなくって、無競争で、いやだったら2年で辞めてもいいから、って言われて、1期だけやりました。
農協に出ても、役人で、威張りくさってるでしょ、ダメなの。小作だった一部落の人が、農協へ肥料買いに来て、『旦那さん、今日は暑いですね』って言うのに、主人は『うーん』ってしか言わない。」
広大な屋敷には、家族のほかに、疎開者が三世帯も入っていた。親戚と山川家の使用人だった人であり、朝鮮・満州からの引揚と、東京の焼け出されとが、二階に一組、納屋に一組、裏座敷に一組いて、統制のきかない状況になっていた。
喜久さんの息子・雅史さんによれば―
「昭和23年ごろが一番たくさんいて。
 疎開がたくさんいて、お風呂が二つ欲しい、って言ってましたね。20人から30人入るんだから、いつも夜中になっちゃう、って。米は小作から入るしかないんだし、出どこは一つ(母が分配して)、煮炊きはそれぞれだったんじゃないでしょうか・・・
結局、みんな、こっちで賄ったんですね。配給は(あてにならないし)。母がやったわけです。恨まれたみたいですよ、(食糧の配分を厳しくして)ドンブリであてがったりした、って・・・
モノが無いのに、だらしないから、母が、『食べるモノないから、ドンブリ一杯』って決めちゃって、『平等だ』ってやったから・・・あだ名が『マッカーサー』って。マッカーサーってのは、あの頃一番ひどい人間って意味で『女マッカーサー』って。」

当時、強引に仕切る女性が、多少の畏敬と憎しみをこめて『女マッカーサー』と呼ばれたようである(☆51‐1)。

農民文学運動に打ち込んでいた犬田卯と、妻住井すゑの家族は、1935年以来、牛久沼のほとりで、ニワカ百姓をしていた(☆51‐2)。『わが生涯 生きて愛して闘って』p.109に―

増田 敗戦になって、農地は占領軍の手によっていちおう解放されるし。
住井 そうしたらパパは『おれは失業した』って。
増田 失業した失業した、っていってね。いままでいったいなにをやっていたんだ、正しいことをやってきたんだけど、占領軍の手で農地解放が行なわれて、じぶんの出番がなくなっちゃったという。
住井 挫折。

p.161に、住井すゑは、
「ぜんぜんない人には農地は解放しなかったの、基礎三反以上耕作していないものには。だから被差別部落の人たちは該当しない場合が多かった。ほんとうの一○○パーセント農地改革ではなかったわけよ。」と、差別が温存されたことを指摘している。

宗道村(現結城郡千代川村)の農地委員会では、宅地について「供出関係とか将来農家としてたって行くものだけ」に買収して売り渡す方針をとった(☆51‐3)。
副業に頼らざるを得ない零細な農家は、農地改革によっては、宅地を入手できなかった。また、疎開者の多くが、1949年1月1日に大都市への転入抑制(☆51‐4)が解除されると農村から去って行ったのは、疎開者が宅地・農地という生活基盤を得られなかったことも理由の一つだったのである。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆48‐1 『三和町史 資料編 近現代』1994、p886 三和町役場旧蔵文書「自作農創設関係綴」
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☆48‐2 小野崎克巳「村の農地改革―茨城県結城郡宗道村・玉村・大形村を中心として―」『地方史研究』308(第54巻第2号)、2004年4月、p.22‐23

 小野崎は、この論文で、「農地改革は村の人々の日常生活にとってはどうであったか、という生活史の視点にたって」現在は結城郡千代川村となっている三つの村の農地改革を検証している。収録された各村の農地委員会の『議事録』『農地委員会記録』から、不在地主をどのように認定するか、買収した農地は誰に売り渡すか、宅地買収の申請者を妥当と認めるか、などの具体的なやりとりを知ることができる。

「生活する人々のいろいろなしがらみのため」隣接する村であっても、農地改革の進捗状況はさまざまであった。小野崎の概括によれば、「宗道村には五○町歩以上所有の大地主が二名いたが、農地改革にあえて異をとなえなかったこともあってか、農地改革はスムーズに進んだ。」「玉村は近隣では、最も農民組合と地主の活動が活発な地域であった。・・・農民組合は地主に対しての立場は弱かったが、総司令部のうしろだてという時の勢いがあり、玉村では過半数が農民組合に加入していた。」「大形村では農地改革の一環として、疎開者のための山林の解放・開拓が行われた。しかし、その実体は第4表にみられるように増反者九六名、開拓者一二名となっており、増反が主であったことは明らかである。」
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☆49‐1 「ふえる”請負い耕作” 兼業農家が3/4 請け負い料金一万三千円前後(10アール)」(「いはらき」1962.8.24)
 
   「遊休農地、水田裏作の有効利用を」(「広報さかい」1978.4.1)
   「農地を有効に活用しましょう」(「広報さかい」2004.4)

これらの毎年の記事は、境町が、『委託』と通称される耕作請負を推進する立場で、受託生産組織名とその年度の作業受委託標準料金表を掲げている。
農地改革までは、貸す側の地主が強者であったが、『委託』では借り手に「作ってもらってる」という弱者である。2004年には委託の理由は、「農業機械等の老朽化や機械がないために農作業が出来ない農家の皆さんに代わって農作業を行ないます。」とある。
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☆50‐1 杉浦明平「農地改革、その光と影」『昭和日本史9 占領下の時代』暁教育図書、1977年、P.72‐75)

 杉浦は「悲喜交々の地主様」の項で次のように述べている―

旧超大地主は「一時のショックが通過すると、根強い実力を地方財界で発揮するようになる」、不在地主や在村不耕作地主のうち、一部は没落し村の役職からもしめだされた。かわって「地主から転身した大百姓や広い小作地を手に入れて、やる気満々の富農があらゆる役職を分けあっている。・・・かつての小作争議の闘士は、広い農地を手に入れてよくかせぎ、今や世界に名高い農協の幹部や村の役職に就いて、保守党の牙城を形成している。」
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☆50‐2 『家の光』第23巻第4号・1947年6月号

     「日本の農地改革 連合軍最高司令部民間情報教育局提供」

『家の光』第23巻第6号・1947年8月号

     「農地改革こそ新日本建設のいしずえ ロバート・エス・ハーデイ」
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☆50‐3 川俣英一「占領政策の地方的展開」『茨城県立歴史館報』第17号、1990.pp.126―131
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☆50‐4 「市村一衛(元常東農民組合書記長) 我が青春の常東農民組合運動 聞き手丹野清秋(茨大教授)」茨城の近代を考える会『茨城近代史研究』5号、1990、P.13‐29
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☆50‐5 「地主制度崩壊へ 失敗した第一次農地改革とGHQ主導の第二次農地改革」『昭和二万日の記録 第七巻 廃墟からの出発 昭和20年→21年』講談社、1989、p.310

「二○年一○月九日、幣原内閣が成立すると、その農相に松村謙三が就任した。松村は長く農林省の参与官や政務次官をつとめ、農業政策に精通し、完全自作農論を主張していた。松村の起用によって、日本の自主的な農地改革が軌道にのった。松村にとって、農地改革が早急の問題であったのは、農村が共産主義の影響を受けるのではないかという恐れである。戦後の状況は、農村にとって平穏なものではなく、混乱が起きれば食糧不足は深刻度を増す。加えて二○年は、五○年来の大凶作であった。農民に土地を与えることで農村の混乱を回避し、さらに食糧増産のため、農民の生産意欲を高めようとしたのである。」
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☆50‐6 「赤城宗徳(元農林大臣・現衆議院議員) 昭和農政史を語る 聞き手丹野清秋(茨大教授)」茨城の近代を考える会『茨城近代史研究』3号、1988、P.2‐18)
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☆50‐7 『朝日新聞』2004.6.23に、「公職追放中の赤城宗徳さん」の写真が掲載されている。
   追放解除後に政界に復帰した赤城宗徳は、農相・官房長官・防衛庁長官・党政務政調会長などを歴任した。

 「防衛庁長官だった35年の安保騒動では岸首相からの自衛隊出動要請を拒否した。」(『茨城県人物・人材情報リスト2004』日外アソシエーツ)

 2002年小泉改造内閣の防衛庁副長官となり、2004年6月に小泉内閣不信任案に反対演説をした赤城徳彦(1959〜)は、宗徳の孫である。
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☆51‐1  柴永綾子『糸満の女マッカーサー』(未刊)
  当時、沖縄県糸満市でかまぼこ屋を仕切っていた女性の一代記である。
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☆51‐2 住井すゑ きき手=増田れい子『わが生涯 生きて愛して闘って』 岩波書店、1995第1刷、1998第14刷。
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☆51‐3 小野崎克巳「村の農地改革―茨城県結城郡宗道村・玉村・大形村を中心として―」『地方史研究』308(第54巻第2号)、2004年4月、p.30

 宅地買収の基準については、第一九回委員会(同二三年九月二三日)で「供出関係とか将来農家としてたって行くものだけ」に買収して売り渡すということになった。具体的にみてみると、

 lは駅に勤めており、息子も会社へ勤め、百姓は食糧事情困難なため始めたので、買収の申請は認められない。mは耕作面積が四反歩もあり、供出もしているので、買収の申請を認める。nは機械修理工であり、細君が二反歩位の田畑を耕作しているだけであるから、買収の申請は認めない。oは耕作面積が三反五畝あり、米の供出割当もある位だから買収の申請を認める。pは本業が建具屋であるから、買収の申請を認めない。qは学校の先生であるから、買収の申請は認めない。rは家族の一部が東京におり、将来農家としてやっていく意志が認められないので、買収の申請を認めない。
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☆51‐4 岩波書店『近代日本総合年表 第二版』 1984 によれば―

  1946.3.9 「都会地転入抑制緊急措置令公布(勅)(都市の人口増加、食糧事情悪化し、5月末まで東京など1都24市への転入禁止).1947.12.31まで延長。)
     1947.12.22「都会地転入抑制法公布(法) (1都13市への転入禁止。1948.12.31までの時限立法)
  1949.1.1 「大都市への転入抑制解除」


 参考:むらき数子「疎開とは女にとって何だったのか」(女たちの現在を問う会『銃後史ノート』復刊5号「特集◇戦場化する銃後―空襲・疎開・勤労動員」、1983)
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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