供出
戦時中、1944(昭和19)年4月以降、農家の人々は「戦時農業要員」に指定され離農を禁じられ、作付を指定され供出を課されて食糧生産を担わされていた。軍務外で、「戦時農業要員」指定外の人が、徴用の対象とされて炭坑などへ送られ、あるいは女子挺身勤労令によって選抜された女性が工場などへ送り出された。
たとえば、河内村(現真壁郡関城町)では、1944年10月31日現在の「戦時農業要員」は、男511、女690。21-35才では男97、女272。(『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.440「二・13・9 戦時農業要員現況調」)
敗戦前後の農業は圧倒的に「かあちゃん農業」になっていた。
村にいた人々に課せられたのは、食糧生産ばかりでなく、ガソリン代用品の松根油(しょうこんゆ)採取作業(
☆52‐1)もあった。
「未利用資源を供出
古河食検支部管内古河ほか四ケ村の未利用資源の供出期限は三月末日までとなっているが、粉食として利用される物資の主なるものは甘藷蔓五万貫、大根葉二万貫を初めドングリその他で、期日までには完納を予想されている」(46.3.2)
「未利用資源も学校へ 採取して飢餓突破 押しつけずお願ひ申す」
・・・供出の対象となっているものは海草類、蓬、どん栗、残桑、甘藷蔓、いなご等・・生徒児童による食糧化運動の目標物は蓬で児童一人当り概ね生葉三貫匁、青年学校、中等学校生徒は五貫匁と・・・」(46.5.23)
「家庭でも供出 古河町では農家以外の各家庭からも大小麦馬鈴薯等の供出を行はせることになり隣組を通じて各戸に耕作反別の届出方を通知した」(46. 5.19)
「新憲法精神で回覧版 闇や供米サボ止めよう 大田村で村民の利己主義追放」(46.11.14)
ところが、この46年秋は米も甘藷も豊作となり、食糧危機突破用未利用資源の食糧化は宙に浮いた。
「氾濫するお藷の始末 早期供出だけで総体量突破 移出や加工へワンサと流す」46.10.1)
「滞貨一掃当分困難 輸送は四倍でも出荷は十数倍 腐る心配、無計画出荷」(46.10.7)
「氾濫するお藷の始末 蔬菜用として特配 余ったら焼イモに」「なんとか活用 ”未利用資源”を配給」(46.11.5)
境町農業会では、「馬鈴薯超過供出割当と甘藷早期供出割当に関する件」(1946.9.5付、戸張富雄家文書 産業299)などを農家に出して促して割当て達成に努めた。
「お藷も完納 境町で三万六千八百余貫 猿島郡境町では郡下のトップを切って供米割当百四十二石を去る二十六日に完納、引続いて甘藷の供出に全力をあげていたが、四日これも三万六千八百八十六貫を完納した」(46.12.10)
森戸村若林蓮台(現猿島郡境町)の中村時三郎(
☆52‐2)の「森戸役場納租支出諸費収入金控帳」(中村正己追313、318)に
「昭和廿二年十月廿四日ヲ以テ土地買収ノ農地委員ヨリ通知アリタリ十一月 二日ヲ以テ買収ノ土地引上ニナル」(昭和二十二年度、中村正己追313)
「昭和廿三年度分 サツマ苗トリハジメ
五月十四日 十四把太白・・・
二十三年度生茶代
・ ・・春夏秋三回分売上代
計金壱万五千百七円七拾五銭
生サツマトホシサツマ代
一金弐万四千七百六十九円五十銭
二口合3987725」 (昭和二十三年度、中村正己追318)
とある。当時、中村家の基幹労働力は若夫婦2人であり、ここに記されているのは、シンショーを息子にまかせた時三郎が担っている部分である。
☆52‐1 松根油(しょうこんゆ)について紹介する―
☆52‐1‐1 「1944.10.23農商省、松根油緊急増産対策措置要綱を決定(ガソリン代用品増産のため)」(岩波書店『近代日本総合年表 第二版』 1984)
☆52‐1‐2「1944.12.13「茨城県松根集荷配給統制規則制定」 (「茨城県警察史下」p37)
☆52‐1‐3 在郷軍人( 海軍関係者ヲ除く) にして、松根油関係者( 松根油生産専任指導員、 乾溜工場の作業員・指導者)として指定を受けた者は、連隊区への申告を要求されている。(1945.4.3「諸動員調整重要職種従業者職業申告ニ関スル件 極秘」旧森戸村役場文書 (境町史資料目録 第二集 1国・県・郡14))
☆52‐1‐4 暮しの手帖編『戦争中の暮しの記録 保存版』1980、p.145に、「松ヤニ取りに働く疎開の主婦たち 福島 朝日新聞」という写真が掲載されている。
『家の光』第21巻第3号(四・五月合併号・戦時版第一号)、つまり1945年4・5月号の表紙は「松根と戦う 林唯一」である。(吉田裕監修『「家の光」目次総覧(二)』大空社、1991年)
☆52‐1‐5『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.57 武藤正
「「松根油」というのは、松の木の根っこからとれる「重油とガソリンのような油」のことであるが、戦争末期になると農商務省はこの大増産(精製しない松根原油と松根タール)を企てた。老若男女を山へ追いこみ、松の切株をみつけてこれを掘り起こしたのである。このことは現在の四○歳代後半以上の者なら、たいてい(農村では)知っているか、体験した。
一九年一二月七日付「茨城新聞」によると、真壁郡の松根油製造計画は郡下七工場で来年三月までに四○○石を製造すると、六日、町村に通達が出され「河内工場」の割当は二六石で、原油供出数量は河内、関本、大田、上妻、下妻が各二○○○貫、黒子、騰波ノ江が一○○○貫であった。二○年一月二六日付「朝日新聞」によると松根
油増産に県勤労動員は課工場技術者の第一次割当一○四名を決定し、同月三一日付同紙によると日製工場で松根の乾溜に着手したことが伝えられている。また、二月一日には県下の松根油割当突破をめざし三六九釜に増設し県割当(生産額)七○○○石(原木にして三五○万貫)を三月までに完了、となっているが、実体はかけ声通りには運ばなかった。
二○年五月九日、河内村長から下館税務署長あてに、清酒七升の特配申請書が出された。内容をみると、「来ル五月十三日、本村役場ニ於テ松根油工場設立発会式ノ為」となっており、参集人員は五○名で、その内一○名が海軍勤労隊員と但し書きがついている。つまり、河内工場で生産がはじまったのは、この日以降ということになるわけで、遅れは否めない。労力もさることながら、技術が追いつかなかったのではないだろうか。」
☆52‐1‐6 採取に動員された記憶―
?「戦争中の暮らし 千葉県 川名冨枝」(全国地域婦人団体連絡協議会編『母たちの昭和史』読売新聞社、1976第一刷、p.169)
・ ・・マツの根っこ掘りの勤労奉仕は、ふだん入ったことのない、うっそうとした山の中に入り、男でも重労働の作業を、女の手で大きな根を掘り起こすのだった。私は三人の子を背中に一人、うば車に一人、もう一人を歩かせての勤労奉仕だった。・・・
? 「9.松根油(しょうこんゆ)とり、樫の実(かしのみ)拾いのこと」(染野浩『三和悪童奮戦記―昭和も遠くなりにけり―』日本図書刊行会、1997、p.162)
不足してくるのは食糧だけではない。
戦争末期ともなると、「松根油とり」というのが宿題になってきた。松根(しょうこん)といっても、根っこではない(
?)。
松の樹皮をカマなどで傷つけ、松の樹液、松ヤニをとるのである。缶詰の空き缶など、樹木の幹に針金で巻いてくくりつけ、ポトリ、ダラリと時間をかけて集めるのである。
この松根油、何に使うかと聞くと、「航空用」とだけ教えてくれたが、まさか、飛行機の、ハイオクタンの航空用ガソリンの代用が勤まるとは思えない。
航空機には使えなくても、燃料としてりっぱに役立つと思うのだが、「戦意を向上させるための一環のキャンペーン」ともとれなくもない。
松根油の他に宿題になったのが、「樫の実拾い」であった。
?染野浩と同じ名崎小の、高等科1年だった鳩貝ふじ江は、松根掘りと記している。(古河市役所市長公室女性政策室『女性たちの戦後五十年史』1996年、p.54)
☆52‐1‐7 境町住吉町の実台寺には松根油釜が2基設置され、松根油を製造した。酒井義博「松根油のはなし」 『町史だより ふるさとの歴史』78. (「広報さかい」?425 2002年3月)
”・・当町でも実台寺(住吉町)にの境内の一角に松根油釜二基が設置され、松根油製造が行われた。手元に、境町農業会による「松根油関係日誌」(昭和20年3月〜同年9月)という資料があり、また当時の作業に従事した人の話も聞く機会を持てたので、ここにその概要を記してみたい。・・・
原油とタールはドラム缶に、木炭はカマスに詰めて出荷された。期間中の生産高は、松根原油57斗(1キロリットル強)、タール12斗(218リットル)、木炭1400貫(5トン強)である。因みに、同じ期間中の全国の松根原油生産高は約4万キロリットルである。
○松の根掘り スコップや鍬などを用いた手作業で、女性や高齢の男性が主なので一つの松の根に半日を要することもあったようである。それでも、日誌によると旧境町、静・長田・猿島・森戸の各村から、4月の一ヶ月間に、合計2万9千貫(110トン)の松の根が集められている。うち、2万2千貫は長田地区からのもので、この地区を通る結城街道に松並木があったためであろう。
また、これらの作業は地域の人の奉仕作業であったらしい。
○小割作業 この作業には、専任の作業員が毎日五〜六人で当たっている。日当で六円だったとのこと。一日平均40〜50貫を生産していた。鋸に脂(やに)がつくので注油したり、目立てをするのに苦労があった。また、終戦に近い7月26日から数日間、「国民学校生徒原木運ビ奉仕」の記述が見える。それに、作業従事者も10数人に増えている。
「日本占領期年表」(石川寛仁・編)によると、「七月二五日、政府、本土決戦に備えて『松根油増産完遂運動』を開始」とあり、これに、ちょうど附合しているのが分かる。
○松根油計画は、陸軍と海軍で地域を分担・・・関東地区は海軍の担当で、日誌には「海軍係官視察」の記述が三個所ある。・・・
☆52‐1‐8 終戦後の松根油―
「松根油竃で焼芋」(「茨城新聞」1945.11.12)
「漁用に自由販売 松根油、設備を活用」(「茨城新聞」1945
.12.9)
「1945.9.3 新井町では食糧増産のため家庭婦人を中心に、松根油を採った跡地を開墾する。」(新潟女性史クラブ『光と風、野につむぐ一連譜 新聞にみる新潟女性史年表』2001、p.421)
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☆52‐1‐9 52‐1‐6 ? で紹介した、茨城県結城郡名崎小学校の児童が宿題に課された「松根油とり」(実際は松ヤニ採り)について、読者から、現物があると教えていただいて撮影した。

名崎村(現三和町)の南隣にあたる、猿島郡猿島町沓掛中北(なかきた)の農家に保管されていた松の幹の一片である。
「松根油とり」ではなく、「松ヤニ採り」のためにナイフのような物で刻み込まれた傷の様子からは、何年も続けて樹液を採取するのは無理と見られる。
皮を剥かれて傷つけられた部分は成長が止まり、無傷の部分は成長を続けたこの松は11年後に切り倒されたことが年輪から知られる。
保管していた家では、この木片に釘穴をあけて壁掛けのように使った時期があったそうである。
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☆52‐2 中村時三郎については、第17回☆15‐1、☆15‐2、第44回「引揚者」を参
照。
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