'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

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第二部第一章(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争(7)農業・農地改革・供出―その1

農地改革の前後

農地改革直前の1945年11月現在、茨城県の小作地率は、56.1%であった。県内には50町歩以上の大地主が、1924年には105戸あり、「県西の三郡についてみれば、五○町歩以上地主数は、真壁郡一二、結城郡一九、猿島郡一○となる。県内一○五人の大地主の四○%がこの三郡に集中しているのであり、まさに大地主地帯と呼ぶにふさわしいであろう。」(『茨城の歴史 県西編』p.233)

同時に、茨城県は中小地主の多い県であった。1921(大正10)年、小作地率は、「真壁郡で四九・八%、結城郡で五三・四%と高く、猿島郡で四二・八%と低くなっている。三郡合計では四八・九%で、県の平均をやや上回る。耕地の半分近くが小作地になっていたのである。・・・結城郡では三三・九%が小作農家であり、真壁郡では二八・七%、猿島郡では二七・四%である。しかし猿島郡においては自作兼小作農家が他の二郡に比して高い値を示している・・・」この頃、全国の5町以上の耕地を所有する地主数は北海道を除いて各町村に10人という数字に対して、茨城県では1町村で18人。県西3郡についてみれば、真壁郡は22人、猿島郡は17人、結城郡では21人となっていた。(『茨城の歴史 県西編』p.244-245)

「田の小作料率についていえば、・・・一九二一年には真壁郡五二%、結城郡五○%、猿島郡五一%となる。・・・猿島郡の一九二一年の調査書では「田小作ニアリテハ総生産ヨリ肥料代種子代其ノ他諸費ヲ控除スルトキハ小作料ヲ納メ得ラルルニ止リ毫モ小作人ノ所得ナキモノスラアリ」と述べられている・・・。県内では一般に畑小作料は金銭で納められていたが、一九二一年の調査では県西三郡のうち、結城郡と猿島郡においては、現物納地代が普通とされる。大麦と大豆を組み合わせて納入されたのである。特例として、結城郡では金納の例が若干みられるとしているが、猿島郡では金納、大麦のみ、畑糯米(もちごめ)、小豆・大豆の組み合わせ、果ては労力までみられる。」(『茨城の歴史 県西編』p.247)


香取村(現猿島郡総和町)の場合には、佐々木寛司「近代総和地域の農業と地主制―旧香取村を中心として―」(『そうわ町史研究』第3号、1997年、p.27-55)によれば―

香取村は1940年現在の戸数767のうち92%が農業関係戸である純農村である。小作地率は1926年の最高時で37.3%と、猿島郡内では低いが、「何らかのかたちで地主―小作関係に組み込まれている農家は、七、八割にもおよぶ」。大地主の存在はみられない、「典型的な中小地主地区」である。

「小作料額は、田地で収穫の四八〜五○%にもおよぶ高率である。その納入形態は現物納であるが、代金納の場合もあった。畑地にあっては現物納が中心であり、大麦作で収穫の三二〜四○%、大豆作で五○%である。代金納の場合もあり、また小麦・陸稲作では、代わりに大麦・大豆を納める事例も多かった。いずれにせよ、契約小作料は物納か代金納であり、金納契約による小作料は存在しない。」(p.51)

「農業県であるにもかかわらず、大正年間の茨城県内の小作争議件数は三一件と少なかった。関東地方各府県のうちでは最少で、埼玉県が四○七件と最多である。」それは茨城県では「地主会」の組織が早く、小作争議の先鋭化を抑止していたからである、と佐久間好雄は分析している。(「小作争議と女性たち」『いばらき女性のあゆみ』p。127)

猿島郡の町村でも、零細な小地主から大地主までを含む地主会が組織されていた。
1911年結成の香取村地主会は、「一町以上の耕作耕地所有者と小作地五反以上の所有者から成っていた」(『そうわ町史研究』第3号、p.55)。

同じく1911年設立の幸島村(現猿島郡三和町)地主会の有資格者は、村内に「一町五反歩以上ノ耕地ヲ有スル者」である(「幸島村地主会会則」『三和町史 資料編 近現代』p.504)。

「大尽(でえじん)どん」と呼ばれる50町歩以上の大地主たちは、酒・醤油などの醸造業・肥料商・呉服商・金貸し業などを兼ね、金融投資も行う多角経営をおこない、東京や水戸という遠隔地と取引・進学・縁組を行う。多数の奉公人を使い、冠婚葬祭や村づきあいにおいても村の生活からは浮いた存在であった。

「大百姓(おおびゃくしょう)」と呼ばれる、数町歩〜30町歩前後の在村中小地主は、部落の「草分け」とか「本家」であり、住み込みの農雇と日雇いを使う手作りと小作で経営する。子供に中等教育を受けさせ、村落の上層3分の1を占めて村の生活のリーダーシップを握ってきた。町村長・助役・村委員・町村会議員などの役職を、無給の「名誉職」として務める彼らは歴史学界で「地方名望家」と呼ばれる層にかさなる。当主が役場吏員や教員などの勤め人となり、家族が農作業しないで小作料に依存する例もある。

1945年幣原内閣は農地改革に取組み、12月19日第一次農地改革要綱案が成立した。

‘45年12月28日改正農地調整法第九条によって、小作地取上の禁止・小作料の金納化・小作料引上停止が定められた。地主にとっては、第二次農地改革による耕地買収・売渡が始まる前にすでに、インフレの中で、低額に抑えられた小作料を現金で受け取るしかなくなった。

地主による「土地取り上げ」が激増した。戦時下の労力不足で貸し付けていた小作地を取り戻そうとしたり、飯米を求めてニワカ百姓になろうとしたのである。いっぽう、地主側が有利に売り抜けようとする「売出し」を買い急ぐ小作人の「耕地買入れ熱」も各地で頻発した。

「土地を売出す
  下館地方の大地主中には農地調整法改正案の決定を見越しその以前に小作人と相談づくで土地所有権の移転を図らうとする者が現はれている・・・」(45.12.8)
「土地売却漸く活発  真壁地方許可申請続出」(46.1.13)
「土地買入れに無理算段 真壁郡、貯金の払戻しが激増」(46.1.21)
「耕作権の確立急務 小作人の地位不安定化」(46.2.15)
によれば、全国地主の土地返還要求が戦時中の5−6倍に激増している。
「土地取上げ深刻化す 農民解放に逆行 表面の現はれ ほんの一部」(46.5.10)

「農地改革の開始当時、茨城県内の全農地にしめる小作地の割合は五六%であったが、改革の結果、県下の農地はその八八%が自作地となり、寄生地主制は完全に崩壊した。・・・農地改革によりほとんどの農家が自作農」となった。(『いばらき女性のあゆみ』p.190)

1950年、農地改革後の猿島郡では、農家総戸数16,619戸、総戸数の57.5%を占め、自作農が87%、農家1戸当り耕地面積は9反歩となった。主な供出農産物は、麦・甘藷・米・馬鈴薯・雑穀である。麦が50〜60%を占め、県の生産割当ての約一割近かった。養蚕・桑栽培を行なう農家は戦後は1割以下となった。水田の乏しい森戸村(現境町)では、米よりも甘藷・麦・馬鈴薯の供出が多く、現金収入源としては、総戸数の64%が煙草生産に従事していた。(猿島地方事務所編『猿島郡勢要覧 昭和25年版』)

猿島地方は、岩井市を中心に「猿島茶」の産地でもある。畑の境界(けいかい)に植えられた茶の多くは自家用だが、生葉(なまは)を販売する家もあった。茶摘・製茶の手間稼ぎの「茶金(ちゃがね)」は、米麦の端境期の貴重な現金収入となっていた。




自作農創設

農地改革は、GHQによる経済面における三大改革の一つとされる(☆46‐1)。

たしかに、概説書では、農地改革は1945年の第一次と1946年の第二次とをあわせて、占領期の改革と記されている。軍国主義の基盤となっていた寄生地主制がマッカーサーの強権によって解体され、農村民主化がもたらされた、という認識である。
実際には、日本の資本主義体制の基盤となってきた寄生地主制は、すでに大正期に行き詰まりが論じられていた。
第一次大戦後の、小作争議の頻発・地主側の収益の低下・農業生産の低迷という「社会不安」が深刻化していた。すなわち、持たざる者=小作・貧農層の不満が、持てる者にとっての「革命の恐怖」となって深刻化していた。
そうした中で、日本独自の農地改革が「自作農創設維持政策」として、進められていた。それは、

「第一次大戦後、小作争議がさかんとなり、深刻となった小作問題への対応策として登場し、一九二六年(大正十五)五月二十一日公布の自作農創設維持補助規則によって開始される。紛争の原因となる小作関係を縮小するため、小作地の自作地化と自作地の維持を目的として、政府が小作農に土地購入資金を低利で融資する政策である。」(大門正克『日本史大事典』平凡社、1993)

この政策の実績は、1946年までの21年間を通じても、全小作地面積の1割余を自作地化したにとどまっていた。この制度による融資を利用して小作地を自分の所有地とすることができた小作農はわずかだった。
『紀元二千六百年記念 猿島郡郷土誌 下巻』((猿島郡教育会編、1940)には次の例が見られる―

猿島郡七郷村(現岩井市)では、1937(昭和12)年12月現在、農家593戸の内、自小作・小作が67.12%を占めているが、次のように記されている―

「本村に於ても自作農創設維持計画たる勧業銀行農工銀行等より資金利用せる篤農家数戸ありたり。」(p.124)
猿島郡猿島村(現猿島郡境町)では、「最近県の指定により出征記念自作農創設開墾事業も青年学校生徒の手により着々進捗しつつあり。」(p.105)
自作農創設は、農民運動の側からも、治安維持を求める国家・政府の側からも掲げられていたスローガンであった。
戦時下、食糧増産を求める政府によって、1937年と1943年の二回にわたって、規則を改正し強化されていた。
農地が欲しければ、営々と働いて小作地を地主から買い取り「自作農」になるか、小作地を借りることも難しい者は満州移民となって「二十町歩の地主」になるか・・・

そして、敗戦後、日本政府の独自の動きが、第一次農地改革となった―
「自作農創設に本腰 地主の土地開放へ積極措置 政府、臨時議会へ新法案」(『朝日新聞』1945.10.27)

日本の農地改革とは、農地を国有化することでも、共有化することでもなく、「自作農創設」であり、なお残る小作地に関しては地主の権限を制限するものとして開始された。
しかし、地主の保有地を5町歩とする第一次農地改革では、不十分とする連合軍対日理事会の意向を受けて、GHQはさらに徹底的な改革を求める勧告を出した。
吉田内閣は和田博雄を農林大臣に起用して、GHQ勧告に基づいた法案を整備して、第二次農地改革に取り組む。
「農地調整法改正法案」と「自作農創設特別措置法案」という二つの法案による第二次農地改革案が、いまだ国会で審議中に、
「一筆毎に農地調査 解放面積の実態把握 十月一日現在」「農地改革推進運動 四段階で趣旨を徹底」(「茨城新聞」1946.9.11)

と、「県農政課では早くもこの画期的な農地法の通過公布を見越し実施に必要な諸般の基礎調査や趣旨の徹底をはかるため強力な農地改革推進運動を展開することになった」。その宣伝要領は

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   農地制度改革の趣旨関係法律の内容等を平易に解説した各種の印刷物パンフレット等の作成配布△ポスター、壁新聞の配布△映画、紙芝居、漫画(?)等の利用△新聞の活用△講演会、□□会、講習会等の開催△優良事例の認可表彰△事業推進指導員講師等の巡回派遣△各村別解放実績の公表△土地改革資料等の展覧会説明会の開催等」
 
と、戦時中の戦争遂行と同様に、上意下達の地方組織・行政機構によるキャンペーンが法案が成立する前から進められた。
(杉浦明平「農地改革、その光と影」『昭和日本史9 占領下の時代』暁教育図書、1977、p.73)

 県の調査によれば、茨城県には、百町歩以上の地主が24名、五十町歩以上が81名いる。(「地主しらべ」46.9.26)
 現猿島郡三和町にあたる地域では、百町歩以上の地主として
猿島郡八俣村 初見新太郎 二四二、三
猿島郡幸島村 渡辺盛作 一八一、□
猿島郡幸島村 山中吉之助 一○三、一
同  大橋定次郎 一○二、八
という名が見られる。
「那珂郡木崎村 中崎□ 一○三、○」とあるのは、『茨城新聞』社長である。
 議会審議の様子を『茨城新聞』(1946.10.6)は次のように伝える―

「議会展望 農村の民主革命 波に乗った社会党の追打
・・・政府原案が既に大化の改新以来の大規模な土地改革と言はれる程急進的な内容を持ってゐるのだが社会党がこれに追打ちをかけて地主の根絶により更に六十万町歩の土地を小作人に開放しやうと企てたのは時代の波に乗った得意の攻勢である、唯だこの改革があくまでも農村民主化を前提として上から与へられたものであって農村の民主主義が自から闘ひ取った結果でないといふ事実は社会党の人々も夢忘れてはならないであらう、討論で自由党の代表は『本法案提出の由来を考慮して賛成する』といひ進歩党代表は『法案の根拠として土地国有を目指す社会主義的理念でない事を確認して賛成する』といひ最も甚だしい奇妙な理由で賛成を表した・・・社会党代表との討論の感情に走った罵声と怒号で議事を妨害しやうとした同党委員のやり方はこの法案によって没落の運命を宣告された地主勢力の□□(鬱憤?遺恨?)としては頷けやうが民主主義を標榜する天下の大政党の態度としては遺憾至極であった」

法案の成立をうけて、マッカーサー声明が発表された
「第二次土地改革 マ元帥声明
 古い農業組織の終焉 民主社会創造への道程標」(46.10.13)
その内容は「第二次農地法案の議会通過は経済的には安定し政治的には民主主義的な社会創造の過程を辿ってゐる日本が達した重要な道程標の一つである・・・健全にして中庸を得た民主主義に対するこれよりも確固たる基礎はなく又極端な思想の圧力に対するこれよりも堅固な防塞はあり得ない」と、高い評価を与えていた。

 「農地改革」は、勝者に指図される前から敗者=日本の旧来の支配層・官僚によって開始され、その不十分さに対して勝者=マッカーサーから徹底的な改革案をつきつけられ、それに沿った改革が実現された。
この経過は、憲法の場合と同様だった。
この経過を「押しつけ」として、「日本国憲法」そのものを否定しようとする人々が勢力を得つつあるのが、成立後58年の現在の日本である。いっぽう、農地改革に対しては、「押しつけ」であるゆえに、その成果を否定し、寄生地主制復活を唱える声は聞かない。



「解放」のそれぞれ

農地改革の体験を紹介する。(☆47‐1

 『いばらき女性のあゆみ』には、農地改革で理不尽な経験をした八郷町の地主の「一○○町歩解放の痛み未だ」(p.373)と真壁町で解放を受けた小作側の「農業一筋に」(p.374)が掲載されているが、ここでは、現猿島郡三和町の例を見る。

 『三和町史 資料編 近現代』p.70-72によれば―

「農地改革の実施に先立ち、幸島・八俣・名崎の三村では、一九四六年一二月二一日にそれぞれ農地委員選挙が行われた。資料293・314のように、名崎村・八俣村では農地委員の選出はスムーズに行われたが、大地主地帯であった幸島村では地主と小作の階層対立が激しく、委員会の事務開始は翌四七年三月になってからであった。・・・農地改革をめぐる階層対立のなかで、重要な役割を果したのが農民組合であった。幸島村では組合員数五○○名を擁して日農幸島支部(支部長・百戸藤太郎)が結成され、名崎村でも組合員三六六名をもって日農名崎支部(支部長・阿久津善一)が結成された。組合側は名崎村の松沼米吉に示されるように、組合幹部を農地委員へ進出させるほか、幸島村では一九四七年三月四日の農地委員会議において部落補助員は「日農側より一名選定致したき旨を含み交渉すること」を決定するほどの力を有していた。

 所有権の移転をともなう農地改革は、その実施過程で地主・小作間にさまざまな対立を生み出した。このため名崎村では小作調停委員を選出して委員会を設置し、耕作権・小作継続・小作地返還などに関する地主・小作双方の申し立てを調停していった・・・こうして実施された農地改革によって、幸島村では六○三町八反五畝二四歩の農地が買収され、六○三町九反四畝一九歩が売渡され、名崎村・八俣村においてはそれぞれ五三一町五歩、五六六町一反二畝二○歩が買収され、四八七町七反二畝二八歩、五六九町四反一七歩が売渡された。」

「夢の自作農実現 和田さん招き盛大な農地祭

八俣村で、全国のトップをきって全村一括売渡完了、前安本長官和田博□氏を招いて、・・・」(「いはらき」48.4.18)
「猿島郡八俣村農地委員会 かくて我等成功 農地改革に知事から表彰」(「いはらき」48.5.13)
4月15日に行なわれた農地祭に、八俣村の東山田公園に建てられた『農地改革記念碑』(☆47‐2)には、「国務大臣 和田博雄」の名がある。

この碑の裏側の「八俣村農地改革完成の辞」を見ると、「封建的圧制の下日本農民を奴隷化して来た経済的桎梏を打破し」とか、「農業構造を永き間病的状態に置いた幾多の根源を芟除すべき大目標に□(卿+向)って」「農村の封建的絆を断裁し農村民主革命の基盤の確立を謳歌」などと、今の目で読めば農民組合側の「アジビラ」だと思ってしまうような“過激な”表現にびっくりする。

それが、猿島地方事務所農地課長というれっきとした官僚によって撰文され、茨城県主事によって清書され、村長以下多数の村人の名前が並び、国務大臣が表書きをした石碑に刻まれた、というのが、この時期の雰囲気を現わしている。

名崎村の農地改革記念碑

八俣村に隣接する結城郡名崎村(現猿島郡三和町)にも、1948年11月23日付の『農地改革記念碑』が建てられた。こちらは、2004年現在、藪に覆われていて、碑文を読みとるのは至難の有様である。
生子菅村(おいごすがむら。現猿島郡猿島町)では1948年11月10日、「農地改革記念式典」を開催した。(『猿島町史 通史編』1998、p.995)

表向きは法律通り、2年間で農地改革は完了した。現実には、各地で農民組合結成と、調停の試みが続き、耕作権をめぐる地主と小作農民の紛糾など、さまざまな紛争が頻発していた。

『三和町史 資料編 近現代』p.866‐881、p940には、名崎村の1947年から52年にまでわたる、耕作権をめぐる耕作妨害、小作継続の申立、小作地返還の申立、などの紛争の文書が収録されている。八俣村農地改革の訴訟事件が和解に至ったのは、1955(昭和30)年7月16日である。
筆者を含めて、当時の農村を知らない者には想像がつきにくいのだが、小作地の貸借というのは、一対一の契約という単純なものではなかった。

契約が口約束だけの場合もある。

一ヵ所の耕地について、地主Aがいて、小作人Bがいるだけでなく、BがCに又貸ししていたり、小作料を未納だったりする。
地主Aが貸している小作人はBだけでなく複数いる。また、Bも自作地を耕作しながら、A以外の複数の地主からも少しずつ借りている自小作農であったりする。
不在地主は強制買収の対象とされた。不在地主というと、遠く離れた都会で暮している地主と思いがちだが、居宅と耕地の間に町村の境界線が通っていたに過ぎない場合もある。

在村不耕作地主にも、多角経営している大地主もあれば、男が農会や学校に勤務していて飯米を小作料として得ているだけの小地主もあるし、食糧増産の国策のもとで遊休させておくのを許されず他人に耕作をまかせた女世帯もある。
保有地については、子供達に所有名義を分散する駆け込み登記もあれば、戦時中に二三男を分家させ耕作させていたのに登記しないままだった例もある。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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第二部第一章(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争(7)農業・農地改革・供出―その4
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☆46‐1 たとえば、竹前栄治「GHQの戦後改革」『朝日百科 日本の歴史12現代』朝日新聞社、1989年、p.70―

 「財閥解体・農地解放・労働三法

 経済面における改革派、財閥解体・農地改革・労働改革として現れた。GHQはこの三つの改革を、日本の不公正な国際競争力の除去に不可欠と考えた。つまり、封建的経営形態の財閥を解体し、労働組合運動を助長し、農地改革により低賃金労働供給源を絶てば、日本の労働者の賃金上昇、商品価格上昇をもたらし、不当な競争力は除去されると考えたのである。」
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☆47‐1‐1 『朝日新聞』「声 読者が作る記憶の歴史シリーズ」2004.3.24は、「農地解放」のテーマで次の二編を掲載している。

 「小作農は惨め 黒い飯が常食 無職 白塚三千雄(三重県鈴鹿市 85歳)」
 「慣れぬ農作業 怒鳴られて涙 無職 中澤栄二 (東京都東久留米市 69歳)」

前者は、収穫の半分を年貢米として納めなければならない小作農家として、「『米を作る農家に米がなく、米を作らない地主に米がいっぱいあるなんて』。理にかなわない社会の仕組みに強い憤りを感じていた。」農地解放を指令した「進駐軍は小作農家に大きな贈り物をしてくれた。占領軍の政策の中では最良の改革だと思った。この改革で農村も農民も大きく変わった。」と評価している。

後者は、地主の側から、農地解放で残った田畑を、教職の両親と新制中学一年生の筆者の3人家族がニワカ百姓となって初めて耕作した辛さの記憶である。(ブラウザの「戻る」をクリックすれば、本文の☆に戻ります)

☆47‐1‐2 東敏雄編著『女性の仕事と生活の農村史 叢書聞きがたり農村史?』(御茶の水書房、1989年、p.94−201)に、解放を受けた小作農の例を紹介している。前渡村(現茨城県勝田市)の永井酉之介(1909年生まれ)に1926(大正15)年に嫁にきたあさ(1900年生まれ)は、

「小作納めっときはあだしゃしどくって、涙こぼれるんだよ。これ、働(はだ)らいだみんな持ってっちゃわれで、これはしでえと思って。」という毎年の中で少しづつ所有地をふやしてきたが、農地改革で

あさ「作ってた土地は、ぜんぶ家に引っ返ったの、畑も、田んぼも。」
酉之介「そんとき、うれしかっただね。」
あさ「うれしかったねえ。いやあ本当にうれしかった。」
酉之介「いやあ、これ大金(おおがね)出して買あねげなんねえと思ったのが。」
あさ「みんな買うべと思ってだわけなんです。」
酉之介「安ぐ、貰ったようなもんでしょうよ。」
あさ「んだがら有難てえがら忘れでなんねえと思って、毎年餅持って行ぎやんした、その地主さ」
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☆47‐2‐1 八俣村の東山田公園に建てられた 『農地改革記念碑』

東山田公園・八俣村の農地改革記念碑

表『農地改革記念碑
     国務大臣 和田博雄  』
裏「八俣村農地改革完成の辞

昭和二十一年十二月二十一日自作農創設特別措置法の施行と共に農地調整法に基き八俣村農地委員会の誕生となり過去数世紀に亘り封建的圧制の下日本農民を奴隷化して来た経済的桎梏を打破し耕作農民に労働の成果を公正完全に享受せしめ均等の機会を保障し農業構造を永き間病的状態に置いた幾多の根源を芟除すべき大目標に□(卿+向)って農地委員会会長関亦右衛門以下各委員及び補助員協力員の諸氏は大和協同寝食を忘れて本業務の達成に尽瘁したこの農地解放により本村委員会にて買収せる農地三四九町七畝四歩同じく宅地四二、一七五坪二合三勺財産税物納管理換農地一九九町三反一畝同じく宅地一、○五九坪売渡農地五四八町三反八畝四歩この買受人七八八名同じく宅地四三、二四三坪二合三勺買受人一九七名斯くして自作農に精進する見込みのある者に本村小作地は解放せられ農地の所有型態は地主制度から自作制度へと一変した
本日茲に農地改革の完全に達成せられたるを卜し吾々八俣村民は此の事実を確認し農村の封建的絆を断裁し農村民主革命の基盤の確立を謳歌し農業生産力の飛躍的発展を希求すると共にこの困難な荊棘の道を開拓した諸氏の嘗めた辛酸を永く反芻し更に農業改革への高き情熱を傾け子孫の相携ひて保全せんことを誓ひ以て記念碑となす
  昭和二十三年四月十五日

     猿島地方事務所農地課長   木下謙恵撰
             茨城県主事    神林七郎書

村長  増田隆市 [以下、農地委員、書記、補助員、協力員の氏名略]

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☆ 47‐2‐2 この記念碑の前に立って碑文を見入る和田博雄の写真が、『戦争と庶民4 進駐軍と浮浪児』(朝日歴史写真ライブラリー、朝日新聞社、1995年、p.87)に収録されている。

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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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