'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第二部第一章(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争(6) 満州移民・引揚


満州移民の送出基地

 茨城県には、1925年に日本国民高等学校が創立され、農本主義者・加藤完治(☆42−1)校長が農村教化と農村指導者の養成をめざしたが、日本が中国東北部を侵略して植民地「満州国」を建国した‘32年以降は「満州」への移民を訓練し送出する本部となる。


1936年、広田弘毅内閣は、「満州」への移民「二○ヶ年一○○万戸送出計画」を確定する。

1938年には東茨城郡下中妻村内原(現、内原町)に移転した日本国民高等学校に、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所が設立され、16歳から19歳の青少年を‘45年までに86,530人(うち、茨城県在籍者は1,760人)「満州国」へ送り出した(☆42−2)。

「いはらき」新聞は‘38(昭和13)年10月10日号に「移民紹介特輯号」として、
 
「青少年義勇軍 入所手続から現地訓練まで」「満蒙の曠野は招く」「農業移民本隊 第七次締切は十一月二十五日」「訓練所の一日 田山君の北満だより」「花嫁さんお迎へ 探しに来る働き者達 家族招致帰郷」「皇軍慰問と移民地視察 田崎編輯次長を特派」

などと、「本社に於ても”国策移民”に協力、機会ある毎にこれが普及徹底に努めて来たが・・・」(「いはらき」1938.10.10)と記す。

茨城県は植民地「満州」に入植する移民を養成し送出する基地だったのである。

 境町長・遠藤弘(初代。1882(明治15)年生れ、荒物商=雑貨商)は、猿島郡町村長会長でもあり、1933(昭和8)年9月〜10月に満州派遣軍慰問使として渡満した。遠藤弘家には、「満州茨城村建設資料」(遠藤弘家文書「町政514」)をはじめ、「満州国」に渡った町民からの軍事郵便が多数残されている。

 境町で発行されたローカル新聞「サシマ新報」は、

「行け拓け大満州 茨城村建設に拍車」(「サシマ新報」37.12.6)

と、八俣小で県学務部が主催する「満州移民映画座談会」(「サシマ新報」38.8.31)を報じ、‘38年11月〜12月には長田小学校長竹野内久などの「北満茨城移民村視察して」を4回連載した。

「過剰人口を、未開耕地が待っている」と移民熱を煽る「サシマ新報」紙面のどこからも、現地での耕地収奪や他民族抑圧の現実をうかがうことはできない。日本人は指導民族であるとして他民族に差別政策を実施し、日本人個々も横暴にふるまう実態は、「五族協和」の美名に隠されていた。

森戸村に残された文書によれば、中央融和事業協会が、今確められる限りで1928(昭和3)年から「北海道、樺太、台湾、満州蒙古、南米其他ノ海外」への移民を、県を通じて、助成金交付して奨励してきた。(「移住奨励助成ニ関スル件」「旧森戸村役場文書」『境町史資料目録』第二集 1国・県・郡 7 「大正拾五年拾貮月以降 秘親展書類綴 中村村長 」) 

中央融和事業協会は、総動員体制下の1938(昭和13)年8月以降、製革製靴業の原料難・統制による苦境に陥った業者の転業・満州移住を提示する(高橋幸春『絶望の移民史』毎日新聞社、1995、p.180)。
「満州国」へ移民として送り出された中には、転廃業者・空襲の罹災者など、戦争遂行の過程で生活基盤を奪われた人々もいたのである。


 結城郡名崎村(現・三和町)では‘39年1月、満州分村移民(☆42−3)を決定し、6月には4名が先遣隊として渡満した。

「名崎村に“土の道場”」(「読売新聞」39.1.29)
「分村の先遣隊決る 農民道場で一ヶ月訓練」(「読売新聞」39.4.28)
「「名崎」分村の先駆=山川三郎氏から土の戦信=後続豊田、五箇促進」(「いはらき」39.9.26)

山川三郎は村長の息子であり青年団副団長であった。山川三郎は大陸花嫁を迎えて結婚した。



大陸花嫁


移民定着のために、大陸花嫁送出がすすめられる(☆43−1)中で、‘43年には笠間町に茨城県女子拓殖訓練所が設置された。

『満洲「大陸の花嫁」はどうつくられたか―戦時期教育史の空白にせまる―』(相庭和彦・大森直樹・陳錦・中島純・宮田幸枝・渡邊洋子、明石書店、1996、p.19)は―
 「あらゆる角度からの「雰囲気づくり」や世論操作、団体組織や人的係累を活用して投網のように張りめぐらされた「花嫁」候補者獲得・確保の機会の設定、そして政府・民間の協力体制や連携による多岐にわたる「花嫁」ルートづくりなど、間接的かつ誘導的な包囲網の確立とその機能の活性化」
を検証している。同書によれば、
「「大陸の花嫁」になる可能性としては、政府・民間による「女子拓殖事業」を経て開拓団員の結婚相手が斡旋される場合と、そのような機会なしに、親戚や近隣関係を通じ「縁談」の一つとして開拓団員との結婚が決まる場合の二つが考えられる。」(p.154)(☆43−2
「農村移民と“花嫁さん”二十名 経更指導班長会議決定」((「いはらき」37.6.4)
  「大陸花嫁希望者 猿島郡幸島村に現る 前沢みつ子さん頑張る」(「いはらき」41.1.16)
「茨城にも“大日向村” 一家族満州開拓へ 猿島郡幸島村の感激移住物語」(「いはらき」41.1.25)

島村よしさん(1920生れ)の場合(三和町史編さん委員会の聞取りから)―
結城郡名崎村(現三和町)に生まれて山川三郎の生家で女中奉公をしていた島村よしさんは、名崎小学校の恩師の斡旋で猿島郡境町出身の松太郎の大陸花嫁となり、‘42年3月、隣の八俣村(現三和町)出身の2組の夫婦と一緒に渡満して開拓団に入った。開拓団では、山川三郎の隣家に住んだ。
1960年代まで、「縁組は三里四方」と言われたように、徒歩圏内で、小作農の娘は小作農家の嫁になるのがあたりまえだった。
島村よしさんは、「満州のほうさ行って、な。やってみたいと思ってよ。皆からね(満州はいいよ、と聞いていたし)そんなに怖いとは思わなかったね。希望を持って行ったから。」

農作業には、「満人(まんじん。当時の日本人は現地住民をそう呼んだ)では、うち、金っちゅうは払わなかったね。食べもの食べさしてくれればいいなんちゅってね。あとほれ、配給になった物なんかも少しやり、やり、ね。穀物出すと(農産物を出荷した農民に特別配給される木綿の)きれなんかが来るわけ。そうゆうの、少しやったり。」
中国人とは仲よくしていたと語りながら「満人の豚なんかもぶち殺して、食べちゃったり何か」と、いう経験もしている。
「満州国」では、中国人農民にたいしては土地を略奪した上に、苛酷な農産物収奪政策をしいていた(☆43−3) が、日本人には衣食の不足を感じさせない配給があったから、戦時統制下の日本内地での生活よりも、物心ともにずっと暮らしやすかった。

島村よしさんは、‘45年7月、名崎送信所を狙った米軍機の爆撃によって、実父を喪った。そして‘46年末、引揚船が博多に停泊している間に、子どもを栄養失調で喪う。夫と合流してから満州での開拓団の仲間の紹介で‘47年緊急開拓政策により、玉造の開拓団に入植する。
敗戦の日からの苛酷な日々を経て、「満州は終戦までは良かったわ」と言う。

「三十八年ぶりの里帰り! 中国から原田千代さん(長井戸出身)
7月12日、中国から三十八年ぶりに悲願の里帰りをされた人がいます。この人は、長井戸出身の原田千代さん(旧姓小島、長井戸の小島とみさん(要方)の姉)で、現在四人のお子さんがあり、ご主人、長男ご夫婦、それにお孫さんの計六人でお暮しです。
原田さんは、大正四年十一月五日お生まれの六十二歳。昭和十四年に石岡市の原田さんと婚姻、ご主人と共に第六次茨城村開拓団員として満州に渡られ、三江省に入植されました。その後、ご主人は現地で応召、以来音信不通。また千代さんは千代さんで、現地人の襲撃にあい、団をちりぢりにされ、放浪の生活を送っていたところを中国人(現在のご主人)に助けられ、今日に至っているものです。千代さんはいま、親戚や開拓当時の県内の知人などを訪ね、旧交を暖めておられます。
いま人々は『戦後』はすでに終ったと言いますが、現実にはいまなお、この千代さんのようなかたがおり、その痛恨の念を思うにつけても、私たちは戦争の傷あとがとわに癒えるものではないことを思い知るばかりです。
いま、私たちにできるのは千代さんのご健康を祈ることであり、平和であることの幸わせを噛みしめ、これをたいせつに守っていくことです。それが、この世に生きる私たちみんなの役目だと思います。」(「広報さかい」1977.8.1)
 
八俣村(現三和町)の服部松之助さん(1925年生まれ)は、5町弱の自作農=「大百姓」の長男であった。3級上の男子が青少年義勇軍に行き、知り合いの女子数人が大陸花嫁となって渡満して行った。
70歳を越して「跡取でなければ、満州へ行きたかったですか?」との質問に「ああ、義勇軍、行きたかった。満州ってのは、広い荒野があったから、な。」と答えた。



引揚者

 「満州」には敗戦当時(‘45年8月)、約155万人の日本人が居留しており、そのうち「『茨城県戦後処理史』によると、敗戦時の開拓関係者総数は、前述の約二七万人のうち戦死または自決者が一万人、病死六万七○○○人、消息不明一万一○○○人とある。県内開拓団関係者は応召も含めて約二三○○人、そのうち死亡が約九○○人、帰国者一四○○人と記されているが、男女の別は記載されていない。」(『いばらき女性のあゆみ』p.211)

「解散した『日本の内原』 満州へ送る九万人 蕎麦の花咲く日輪兵舎」
  (「朝日新聞」45.10.20茨城県立図書館蔵マイクロフィルム)

「茨城新聞」の紙面には、一年前までの満州移民の輝かしい姿は、一転して引揚者の悲惨な情況となり、帰国後の自力更生・国内開拓地への再入植が美談として報じられる。(→第13回☆3)
「九月中には全部帰還か 在満県人六月中旬迄に約千名」(46.7.6)
「還らぬ二百名 大子町の満州開拓民」(46.7.10)
「天は働く者に幸す 見事な海外引揚者の作柄 元下館飛行場開墾地の農作況」(46.7.22)
「気遣はれる満州開拓民 依然不明の三千余 帰還僅かに百三十五名」(46.7.23)
「冷たい”ふるさと”の風 悲惨な戦争犠牲 涙をのむ引揚者の群」(46.8.12)
「抱れて五十の遺骨 悼まし満州開拓の夢 還って来た北満大子分村の人々」(46.8.16) 
「惨・北満死の脱出 幾度か自決の相談 二人の愛娘も犠牲」猿島郡弓馬田村・・・(46.8.26)
「無償で世帯道具 引揚者援助軌道へ

 同胞援護会県支部及び県海外引揚者連盟では裸一貫の引揚者に世帯道具を無償配給することになりその第一回として一世帯あたり鍋二個、釜一個三千六百世帯分を既に各地方事務所、□□郡市支部に発送した。第二回分としては丼、きうす、傘、かうもり、□□□、第三回分として毛布を全引揚者に一枚宛、その他□□、褌、外套、布団など何れも無償配給の準備中でかけ声ばかりの引揚民援護もこのところ漸く軌道にのってきた感がある」(46.9.4)

「まだ十二万が残留 満州開拓団の近況」(46.9.18)
「県民運動を展開 引揚者救済を徹底」(46.10.25)

 猿島郡森戸村(現境町)には、1946(昭和21)年10月、少なくとも14家族38人の引揚者がいる。うち、6歳以下の小児は11人、60歳以上はゼロである。家族数・人数は書類ごとに異なり、引揚者が流動的であることをうかがわせる。

そのうちの一家族・加藤梅之さん(1918年生まれ、28歳)と3歳の男児は、‘46年7月4日午前10時、生家にたどり着いた。

‘36年に結婚して古河で新世帯をもった加藤正・梅之夫妻は、‘40年渡満した。
梅之さんの父・中村時三郎の「森戸村役場納租支出諸費収入金控帳」(中村正己家文書「追加285-316」)を見ると、‘45年8月の記述は戦況終戦については皆無で、盆の行事・交際のことばかりである。
加藤梅之さんが帰宅したのは、2件の「兵隊香料」を支出した翌日である。
時三郎は娘と孫の帰着を、東京の婚家と古河の親類宅へハガキで知らせ、村親類5軒にはハガキ20枚ずつを配って挨拶した。

以後、加藤梅之さんへの引揚者用配給が、7月24日にアルマイト鍋1個。10月14日に雑嚢1個、障子紙1本、小鍋1個。12月6日に麻蚊帳1吊、と記されている。農業経営を息子に譲った時三郎は、養鶏や甘藷苗栽培をしながら、消息不明の夫を待つ娘と孫の扶養にあたる。

森戸村役場文書によれば、加藤梅之さんは「生家ニ居住ス夫ハ満州ニ於テ召集ヲ受ケ未帰還」という状況にあり、‘46年9月13日に森戸村役場から、応急家財物資配給として受け取ったのは、釜1、鍋2、支那鍋1、針5本である。10月2日に配給されたのは、毛布2、水兵服1、ふんどし2である。同月中の「陶器類」、飯茶碗、湯呑、キース(急須)は、加藤梅之さんには配給されなかった。(旧森戸村役場文書(境町史資料目録 第二集)21その他2「昭和二十二年度引揚同盟書類綴 」)

加藤梅之さんの夫・正は、シベリア抑留中に死亡した。娘時代の裁縫修業を活かして新制・猿島中学校(当時、猿島村。現境第二中学校)に勤めた加藤梅之さんは、‘50年病死し、遺児は伯父の養子となった。遺児が茨城県主催のシベリア墓参団に参加して父の死を受け入れたのは、半世紀後の1999年である。

1951(昭和26)年10月15、16日全国調査「人口問題をどう思うか」(朝日新聞社世論調査)海後宗臣・清水幾太郎編『資料・戦後二十年史 5 教育・社会』日本評論社、1966、p.103)によれば―

都市は産児制限、郡部では移民論が高率。”堕胎を許す”4割余り。 
「海外移民ができるようになったら」行きたい25%、20代の若い人々、給料生活者の男。
「昭和二十九年 普通事務処理簿 猿島郡森戸村役場」(旧森戸村役場文書  (境町史資料目録 第二集旧森戸村役場 2村政99)によれば、ブラジル、アルゼンチン、ボリビヤなどの南米諸国への移民、海外移住者の募集が、茨城県・猿島地方事務所・茨城県海外協会から送付されている。

 1955(昭和30)年以降、農協・全国中央会がブラジルへの移住を推進し始める。(『茨城県農業協同組合四十五年史』p.40)
「三和村報」(1958.9.1)は、
「青年よ 北海道入植はいかが? 今年も募集中です」

と、農林省で満20〜30才・単身の次三男に土地1戸当り10町歩内外の耕地など配分すると、よびかける。

 敗戦によって植民地を失った日本は、満州事変の前と同じように、過剰人口の解決を南米などへの海外移民に求めた。海外移民のその後について、2002年現在、次のような記事がある。
「石と塩 ドミニカ『新天地』 『カリブの楽園』と宣伝され、日本人が移住した地は、約半世紀を過ぎても不毛のままだった。残るも帰るも地獄、苦痛の選択」(『朝日新聞』2002.3.1夕2版(16、17))

海外移民は、日本国による棄民だった。(☆44−1
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆ 42−1『現代人物事典』(朝日新聞社、1977)には―

加藤完治(かとう・かんじ) 農本主義者、「満州」開拓移民の指導者。1884(明治17)年1月22日東京生まれ。1967年3月30日死去。東京府立一中、四高を経て東大工学部を志したが入試に失敗、3年間の浪人生活ののち農学部に入学。卒業後、一時役人生活を送りやがて愛知県安城農林学校(農本主義者山崎延吉が校長)に奉職。15年、山形県に県立自治講習所が開設されると、藤井武(内村鑑三の門弟、山形県理事官)の推薦で初代所長となる。ついで25年、茨城県内原に日本国民高等学校が創立され、校長として招かれた。石黒忠篤、那須皓、橋本伝左衛門らがブレーンとなった。が、やがて満州建国となるや関東軍の東宮鉄男大尉とタイアップして移民計画に乗り出し、内原に満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設、筧克彦の説く古神道にそった独特の農本主義にもとづく満州農業移民を展開していった。敗戦時における満州開拓移民の数は約22万人であった。戦後は一時公職追放をうけ福島県に住んだが、解除後は日本高等国民学校の校長、名誉校長の職にあった。(判沢弘)
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☆ 42−2−1上 笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書、1973)に、1933(昭和8)年、埼玉県の秩父山地の山襞の村で、貧農の三男として生まれ工員か商店奉公かと考えていた上笙一郎は、次のように記している。
「そんなわたしにとって、満蒙開拓青少年義勇軍という存在の、おお、何と新鮮に見えたことか。片手に鍬、片手に銃を持つそのイメージは、軍人になりたいというわたしの夢を満たすに十分であった。」(p.6)
p.74には、内原訓練所が満州へ送り出した少年たちの数は全部で86,530人、うち、24,200人が死亡という数字をあげている。

☆42−2−2 桜本富雄『満蒙開拓青少年義勇軍』(青木書店、1987)は、数字が異なる各種の資料を紹介しているが、茨城県については、7年間の「割当人員3500、送出人員1878」(p.75)、府県ごとの送出情況が1位長野県5,904、23位茨城1,788(p.146)、という数字をあげている。
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☆42‐3‐1 農林省農政局『昭和17年3月 農山漁村経済更生特別助成町村名一覧』
   昭和11年度以降昭和16年度の6年間の特別助成町村名、総数1595.
「○印ヲ付シタル町村ハ特別助成事業計画トシテ分村計画ヲ樹立実行中ノ町村ニシテ、主トシテ渡満支度、残留家族援護、財産(土地家屋)処分ニ特別助成ヲ受ケタルモノナリ」として、結城郡では、昭和16年度に「○結・名崎」とある。

(武田勉・楠本雅弘編『農山漁村経済更生運動史資料集成』第一集第7巻、1985、柏書房)

☆42‐3‐2 満州分村移民第一号となった大日向村(現・長野県南佐久郡佐久町大日向)の、渡満から引揚後にいたる事例は―

    加納実紀代「<移民の村>の女」『女たちの<銃後> 増補新版』インパクト出版会、1995、p.338−349
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☆43−1 『茨城県の百年』p.221には、「茨城県からは、昭和十三年と十四年については不明だが、十五年以降十九年までに四四一人の花嫁を送りだしていた(『勝田市史』近代・現代編?、同時代研究会編『茨城昭和時代年表』)」という数字があげてある。
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☆43−2−0 内閣情報部編輯『写真週報』1940.3.13「満蒙行きの花嫁一年生」など。

大陸花嫁であった個人の聞き書き・証言はさまざまにあるが、花嫁養成・送出のシステムに論及した事例をいくつかあげる―

☆43−2−1 むらき数子「『満洲「大陸の花嫁」はどうつくられたか』を読む」(戦争への道を許さない北・板橋・豊島の女たちの会編「今、女たちは平和を語る」(文集)?17、1998。)は、『満洲「大陸の花嫁」はどうつくられたか―戦時期教育史の空白にせまる―』を紹介し、茨城県の事例を述べた。

☆43−2−2 安井恵子「花嫁道具はボロとつけもの石―横浜の『大陸の花嫁』訓練所―」『史の会研究誌』第4号(2001)は、神奈川県における「大陸花嫁」養成を検証している。

☆43−2−3 新潟県の場合
新潟女性史クラブ『光と風、野につむぐ一連譜 新聞にみる新潟女性史年表』
「第9回全国女性史研究交流のつどいinにいがた」(2003.9.6−7)「戦争と平和」分科会において、次の発表があった。
  笹川幸子(新潟女性史クラブ)「『大陸の花嫁』−新潟満蒙開拓館の周辺で―」

☆43−2−4 岐阜県の場合、満州に設けた開拓団に開拓女塾「興亜凌霜塾」を開設した。
  岐阜県女性史編集委員会編、岐阜県発行『岐阜県女性史 まん真ん中の女たち』2000年。
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☆43−3 風間秀人「「満州国」における農産物収奪政策」『連続小法廷の記録?植民地・占領地経済支配にみる戦争責任パート1』アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編、発行・樹花舎、1995。
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☆44−1 今野敏彦・高橋幸春編『世界人権問題叢書? ドミニカ移民は棄民だった―戦後日系移民の軌跡』明石書店、p.284、3000円
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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