'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第二部第一章(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争―(5)軍隊・衛生・性


占領軍対策

日中戦争開始以降、事変景気に賑わう享楽街・風俗営業に対して、しだいに統制が強められていった。1939年に貸座敷・銘酒屋の閉店時刻の繰り上げ、40年には「国民奢侈生活抑制方策」が「享楽的飲食店営業及び貸座敷営業其他奢侈享楽用営業を漸減する」ことを求めた。店数だけでなく、従業員である女給や芸妓などの転廃業が進められた(☆39-1)。

“戦時下”なのだから緊張せよ、と、「風紀改善」「消費節約」そして、女給などの女工への転向が美談とされた。失業に追い込まれた彼女たちの実態は、戦地での慰安所に関すると同様、新聞紙面からうかがうことはできない。(☆39−2

敗戦直後、茨城県では、占領軍を迎えるにあたり、県庁内政部・県警察部に担当を決め進駐対策を講じた。進駐予定地区である水戸・日立・土浦・古河の四地区とさらに数市町に慰安施設が設置された。(『いばらき女性のあゆみ』1995、p.184)

土浦警察では

 「終戦直後の八月二十日ごろ、かつて南方占領地の司政庁で佐官待遇の軍属をしたことのある筑波郡出身の右翼主義者杉田省吾が来訪し、次のような話をした。・・・いままで、彼我の占領行政を実地にみてきたが、実に酷なものである。・・・被占領地の警察として手のだしようのないのは当然である。しかし、そうかといって、治安を維持しなければならない警察として、手を拱いて黙視することはできないのである。そこで現地交渉ということが必要になってくる。・・・明治維新前夜の下田奉行となることが必要であろう、と。・・・大きな示唆であった。」(池田博彦『警察署長の手記―終戦前後のこと―』上下、ふるさと文庫、筑波書林1983、p.117)

杉田の示唆を受けて、腹を決めた土浦警察署長池田博彦は、占領軍に対して、「要求がなくとも市街地外に、予め慰安施設を準備すること」と、慰安所開設に奔走し、9月20日、占領軍が土浦航空隊に進駐した当日、土浦市、阿見町の中間に慰安所を開設し、その後も充実をはかる。

茨城新聞は、軍都から観光地への転換をはかる土浦の様子を次のように伝える―

 「”観光土浦”に衣更へ」
 「明るくなる土浦市

   進駐連合軍を始め一般外人観光客の来遊を予想して土浦市では「街を明るく市民は毅然と」を指標とするやう市民の心構へを八日具体的に指示した。主なる点は

   ▽外人自動車は超速度で走るから防空壕その他障害物を撤去して路幅を広くすること▽子供を絶対に路上で遊ばせぬこと▽街灯門灯を点け街を明るくすること▽婦人はモンペを必ず着用すること▽赤色を避けその他ケバケバしい服装は厳禁のこと▽夜間は外出せぬこと▽戸締りを厳重に就寝のさいは消灯すること▽万一の場合にそなへ隣組の連絡を完全にしておくこと(土浦)」(「朝日新聞」45.9.10茨城県立図書館蔵マイクロフィルム)

『いばらき女性のあゆみ』(p.429)には海軍についで進駐軍を接待した側の堀越うめの「霞ヶ浦海軍航空隊と霞月楼」が掲載されている。

「戦時措置によって営業を停止されていた各種の慰安施設は終戦後かなり復興しつつあり、・・・」(「朝日新聞」45.10.22 茨城県立図書館蔵マイクロフィルム)

と、いう状況にあって、1945年11月17日、茨城新聞に掲載された広告―

広告「 急告
     芸妓三千名募集 進駐軍慰安
              経験の有無を問はず。旅行転出には便宜を与ふ。
              契約後は食事其他生活を保証す。収入多し。
      特殊慰安施設協会
      全国芸妓屋同盟会 慰安婦組合
      貸座敷組合    接待婦組合

         東京都京橋区銀座七丁目
         電話銀座 九一九  二三八三」(「茨城新聞」45.11.17)

特殊慰安施設協会(RAA)の「芸妓」募集の広告は、以後11.18、12.9、12.10、12.11、12.12、1946年に入って1.9、1.10、3.6、3.9まで確認できる。(他に見落としがあるかもしれない)。46年1月21日、23日には、「麗人・ダンサー」の名称による女性募集も行なう。

広告「 キャバレー熱海近日開場

    美人ダンサーヲ求ム

    国際社交場ノ女王トシテ女性最高ノ収入ヲ得ントスル
    教養アル新女性!経験ノ有無ヲ問ハズ

        連日銓衝10時・・・3時

   京橋区銀座八丁目
   新橋橋際      RAA協会キャバレー係宛」(「茨城新聞」46.1.21)

特殊慰安施設協会(RAA)とは何か、『岩波女性学事典』(岩波書店、2002、p.1)によれば―

「RAA Recreation and Amusement association;RAA 占領軍向け性的慰安施設.日本名は特殊慰安施設協会.敗戦直後の1945年8月18日政府が要請し,同月26日設立."一般婦女子の貞操"を守るため"性の防波堤"を築くという名目で,内務省の指令で,警視庁が指導し,大蔵省の融資により貸座敷業者を使って設立させた.しかしその本当の目的は,"特殊女性"の犠牲により,"民族の純潔"と国内秩序の保持を図ることにあった.東京銀座のRAA本部前に"新日本女性に告ぐ!""女性事務員募集.年齢18歳以上25歳まで.宿舎・被服・食糧など全部支給"という募集広告が出され,生活難のなか多くの女性が応募した.地方にも慰安施設がつくられ,最盛時には約7万人が働いたと言われる.将兵の性病感染を恐れたGHQは,日本の行政を使って女性への性病検診を強制したが、性病は蔓延.46年3月10日占領軍兵士の施設内立ち入りを禁止した.これにより5万5000人の女性が街頭へ流れ出し,パンパンと呼ばれる街娼発生の要因となった.(平井和子)」

『いばらき女性のあゆみ』(1995、p.287)には、「それまで娼妓をしていた者を中心に集められたが、売春が生業であることを気づかずに一般婦女子の応募も数多くみられた(第二編第一章第二節参照)。」とある。

この広告に対して、どれだけの応募者があり、どの地域で働き、その後どんな人生を歩んだのかなど、むらきは追跡できないでいる。



「慰安」とは

広告主に「全国芸妓屋同盟会 慰安婦組合 貸座敷組合 接待婦組合 RAA協会事業部第二課キャバレー係 RAA協会享楽部第一課」などが並ぶ求人広告が、「芸妓・麗人・ダンサー・新女性」などの名でさせようとしている仕事がどんなものか、当時の女性がどれだけ理解できただろうか? 

現在でこそ、「慰安婦とは、十五年戦争(1931−45年)時に日本軍の占領地等で、軍管理下に一定期間拘束され、日本軍将兵の性奴隷にされた女性を指す。」(『岩波女性学事典』)ということが、その存在を否定しようとする人びとにまで広く知られている。

けれども、敗戦前後の人々にとって、「慰安」という語は、男の性欲処理に限らず、広く娯楽、ときに演芸の意味で用いられていた。特に、行政や諸団体が行うイベントのうち、男手を軍に召集された留守家族や戦死者の遺族を対象とするものに冠した。遺家族の不満・厭戦気分を忠誠にすりかえるものだった。

たとえば、―

1920年1月15日、森戸村長の本郡出身西伯利亜出征軍人慰問の報告会は「右家族ニ対シ慰安ノ資ニ供スル為メ戦地ノ実況ヲ講演シタリ・・・」(「幸島村在郷軍人分会史」『三和町史 資料編 近現代』p.719)

猿島郡教育会編『紀元二千六百年記念 猿島郡郷土誌 下巻』大橋尚家蔵、(1940)には、「七郷村・・・次に調理法であるが、日々多忙の為め調理の繁雑を厭ふ風があり、千遍一律で三食共に殆ど同一食をとり、一日中最も慰安となるべき夕食ですら味噌汁と香の物ですますといふ場合が少くない。・・・」(p.124)

また、「勝鹿村 ・・・尚三月六日を中心として毎年各大字毎に母姉会を開催する際、映画会を催して一般婦人を慰安す。又この映画会の度毎に応召軍人遺家族は特に招待して慰安するも、特別に遺家族慰安会を催すことあり。」(p.76)

 新聞の見出しにも、次のように使われている―

「生花で慰安 境町産婆組合員が 警察へ大花瓶寄贈」(「いはらき」1937.9.5)
「遺家族慰安映画会」森戸村で若林蓮台青年団が25日、事変ニュースを上映(「サシマ新報」1938.12.26)

 関本町女子青年団員の田中ミツ子は、関本町女子犂耕隊を率いて1943年3月馬耕の指導員となったが、次のように記している(『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.471)―

「・・・兄が出征して手不足のため馬を使ふ様になったのですがはじめ恥かしくてなかなかやれなかったのですが次第に出来る様になりました、農村文化と云っても私達はただ働くことで一杯なのです、本を読むことも俳句や歌をつくることも好きだったのです、そして投書などしてやっと掲載された時の嬉しさは今でも覚えて居りますし大事に保存して居ります、しかし朝早くから夜九時、十時まで働く農家では本を読むことを禁ぜられだんだん遠ざかってしまひました、一昨年から幸ひ銃後援護の慰安会が出来、各分団いろいろ演るものを工夫することになり分団毎に練習もして居りますが、休み日とか夜を利用して練習しますが分団員が行動を共にして居りますから夜でも何の間違ひも起りません、一人一人で帰るとか途中で帰るとかすれば間違ひのもとにもなるでせうがまた経費など分団員が働いたお金でやって居ります。」

1944年9月9日境町軍人分会主催の「出征軍人遺家族慰安会決算書」(遠藤弘 町政494)に記されたのは、支出総額652円のうち「演芸買金」が520円である。

1945年3月8日河内村(現関城町)が国民学校で開催した「出征軍人遺家族慰安会」の内容は、「興行種目ハ島千代子一座(剣舞踊、舞踊劇其ノ他)」である(『関城町史 史料編二 戦時生活史料』1984,p.717)。

これらの例を見るとき、RAAの広告にある“慰安”が何を意味するのかを、当時の未婚

女性が、どれだけ理解できたか疑問である。

境町立高等女学校を卒業後、伊達裁縫所の内弟子となった門谷一枝さん(1933年、境町生まれ)は、伊達裁縫所でのしつけを、次のように回想する。伊達裁縫所は、当時「境イチ」と言われ、百人ほどの弟子の中には、周辺の村々から和裁のプロをめざして来た娘もいた。(2000.12.18談)―

「坐ってて、何か取るのにも、お尻持ち上げて取ると、たーいへん! 女は人にお尻を見せるもんじゃない、って。私は上向いて寝ると叱られた、男に対して隙を見せることになる、って。坐ってても、先生に「あんたらが、安心して足を開けすぎる」って、ちょっとでも(膝が)あいてると怒られた。どうして悪いのか、分からない。知らないから、男の人と話をしただけで、妊娠するんじゃないか、って思ってた・・・。男の人と目を合わせるの、怖かった・・・好奇心よりも」

門谷さんの言葉に、同席した同年代の3人の女性は大いに共感して頷いた。

敗戦後は新聞雑誌映画が「性の解放」や「恋愛の自由」を大々的にとりあげていたが、当の娘たちは、恋愛どころではなく、性についてまったく無知のままだった。妊娠・出産の専門家である産婆・助産婦さえも、受精の仕組は教わっても、男と女のどんなふるまいによってそれが起るかについては無知であった(☆40-1)。敗戦時に18歳だった女性が、 “新生児のへその緒が母体のへそとつながっているのではないことを、子どもを産んでも知らなかった”と75歳になってから、述懐した例もある(☆40-2)。


娘、そして結婚出産した女性の多くも、「慰安」の語が、男の性欲処理である「性的慰安」を意味するとは知らなかったのではないだろうか。

一方、軍隊経験のある男性は、その意味を知らないことはなかったであろう。
銃後と戦地の隔たりは大きく、男の世界と女の世界の間も遠かった。



「公娼廃止」の現実

‘45年11月末からは、「茨城新聞」は、
  「浮び上る享楽街 待っていましたと 石岡町に許可願ひ」(45.11.30)
と、石岡での飲食店38軒、芸妓置屋4軒、待合3軒を始め料理店40軒の申請の動きや「土浦に新盛り場」(45.12.7)と花街の復活を伝え、「接待婦」「接客婦」「従業婦」などと呼ぶ女性を使った売春業者の営業活動を伝える。

戦前は「遊郭」というほどの規模に至っていなかった境町でも、

「享楽街復活 境署管内の二十五軒
企業整備により廃業となっていた境警察署管内二十五軒の享楽面も復活する事になり業者は組合長を通じてこれが許可願を提出した」(45.12.4)

古河町では、進駐軍との接触を示す記事が見られる。

「古河に進駐軍の乗馬クラブ」(45.12.7)
「慰安演芸練習
 古河町の進駐軍慰安所では・・・近く進駐軍の将兵を招待し慰安演芸会を開催することになり目下古河小唄をはじめ各種舞踊の猛練習を行っている」(45.12.7)
「米兵暫く酒場とお別れ
 マックアーサー司令部からの命令マ警視庁管下のビヤホール、食堂、慰安所等に対する米兵の立入りは十日より当分の間禁止された、・・」(「朝日新聞」45.10.12、茨城県立図書館蔵マイクロフィルム)

日本側の売春業者の思惑に対して、GHQは自国兵士の性病対策を講じていく。

「憲法の自由主義化 人権確保に五大改革 婦選、労働組合の助長等 マ元帥 政府に要求」(「朝日新聞」45.10.13茨城県立図書館蔵マイクロフィルム) 

と、女性解放を掲げ、男女同権・男女共学・婦人参政権・家族制度廃止、と女性の人権をキャンペーンしているGHQも、自国兵士の衛生管理が最優先課題であった。
‘46年1月21日、GHQは、「公娼廃止に関する覚書」を発し、翌月日本政府は公娼制度を廃止した。
厚生省の立場からすれば、関心は女性の人権とか生活ではなく、性病にある。
「昭和21年1月には「日本ニオケル公娼廃止ニ関スル件」なる総司令部覚書が発せられ、翌月娼妓取締規則が廃止された。こうして形式的には公娼制度廃止の建前がとられたが、実質的には大きな変化はみられなかった。なお、終戦以来増加の一途をたどってきたいわゆる街娼に対して、同年一月東京において初めて一斉取締が実施された。

これらの努力にもかかわらず、性病は広く一般国民の間に蔓延し、性病の患者数も、昭和21年の24万から22年には2倍近い40万を越えるに至り、22年3月には、日本性病予防協会より性病予防法制定の建議が提出される等強力な性病予防行政の推進が要望された。」(『医制百年史』記述編 p478)
米軍兵士相手の売春は日本女性の堕落とみなす視点から、「茨城新聞」紙上にも、『夜の女』がとりあげられるようになり(「洞観」(46.2.2)など)、一方占領軍の側では

「日本婦人への 『愛情公開』禁止 占領軍地上部隊に命令
・・・米軍将兵が日本婦人と腕組で散歩したり大衆の面前で愛情を示したりした場合憲兵は之を秩序を紊す行為と見なして行動する旨強調した」(46.3.24)
「怪しげな家へ 立入り禁止 ヴ代将 軍紀維持の告示」(46.5.20)
と、米軍は、売春行為を業とする家への米軍人の立入を禁止した。これを受けて、「茨城新聞」は、古河特殊飲食街について
「進駐軍に嫌はる」(46.5.30)
と書いた。
「私娼に自粛命令 街を横行しては成らぬ 進駐軍、取締り方針を厳達」(46.7.3)
 占領軍が、現地女性を性病感染源とみなして、自軍将兵に接触を禁止するのは、満州事変以来の日本軍(☆41‐1)と同様である。
「籠の鳥 解放されるか けふ特殊飲食店存廃協議」(46.6.6)、「名案浮ばぬ”籠の鳥”解放」(46.6.9)との記事は、県内料理店組合の経営者側の、?いかに解放するか、?今後の経営をどうするか、という模索を伝え
「放たれる籠の鳥 前借二十万円は棒引 土浦組合本極り
・・・土浦特殊飲食店組合では・・・現在抱へられている篭の鳥は七十六名でこの前借総額は二十万円であるが上司からの指令を待たず借金を棒引して解放することに意見の一致を見たものの結局指令の出る前夜まで営業を継続多少でも棒引額を軽減する肚で解放した後に自由の立場で各自が生きんがための新規営業に対しては何ら束縛しないとのこと」(46.6.10)
「磨きをかける籠の鳥解放 女は”下宿人” 自由拘束堅くご法度」(46.6.22)
「解放された行方 自由の悩み深し 酌婦さん組合を結成」「真壁町 ぜひ置いて呉れと嘆願」(46.6.30)
「放たれた”籠の鳥”再調査 封建の桎梏未だし 解放は名のみ 営業主の圧迫」、
「保菌者はカン詰 酌婦達の有毒伝播封殺」(46.8.19)
「廃業を拒み 稼ぎ高誤魔化す 境町にも籠の鳥虐待」(46.8.24)
  「あの町この村 境に給仕婦組合  境署管内の旅館飲食店、カフェー等の酌婦、給仕婦四十五名が一丸となり去る二十八日に組合結成式・・・」(47.3.6) 

と、県−警察による、県下の該当酌婦八百数十名に対する「解放」と不正業者摘発・営業停止や、各地の従業婦組合結成の動きを報じている。
これらの記事を通じて、建前上の「公娼制度廃止」が、本人の意志による自由営業をよそおい、人身売買・業者に管理される売春を存続させるザル法であり、当の女性たちの職業選択の自由には遠いことがうかがわれる。
公娼廃止も、「夜の女」狩りや兵士への統制も、性病対策である。GHQも、日本政府も、その関心は、「道徳」でも女性の人権でもなく、「性病の蔓延」にあり、既成秩序の維持にあった。(☆41−2
 ‘46年11月14日、警視庁は集娼地域を指定地域として赤線で囲み、「赤線地域」を指定する。それは「まさに1872(明治5)年の「娼妓解放令」時の当局や業者の対応と軌を一にするものであった。公娼地域を私娼地域、貸座敷を接待所、娼妓を接待婦といいかえただけで、実質的には発令前と変らぬ集娼政策の存続を図るものであった。やがて千住遊郭の業者たちも疎開先からつぎつぎに戻り、もとの商売を再開していった。敗戦の前年には二五軒だった業者が、戦後三年目の四八年には二九軒、四年目の四九年には四六軒にと増えていった。ザル法とはいえ、売春防止法が公布されたのは、公娼廃止の覚書が発せられてから、実に一○年後の一九五六年だった。」(『葦笛のうた―足立・女の歴史』p.286)

 戦争体制が完成されつつあった1940年(昭和15)5月20日に、茨城県では「芸妓税賦課徴収ニ関スル条例」を制定していた(『茨城県警察史 下』年表)。
戦時下の、享楽禁止を経て、敗戦後の1947年になっても、この税目は存続し、森戸村(現境町)のK.T(17歳)とK.O(21歳)の二人の酌婦が、この年7月8月の二か月分として二人合わせて56円を課税されている(☆41-3)。
公娼制とは、国家が売春を“営業”として許可し課税し、納税しない私娼を禁圧する制度であった。

「郷土帳」県で性病撲滅に「性病接触者調査員」
36名を各保健所におき憲法公布のよき日から活動開始(47.5.18)
「結婚には診断書 性病の母親が授乳しても懲役 画期的な予防法案成る」 
性病予防法。人口の1割700万人に達すると・・(「いはらき」48.4.1)

1948(昭和23)年7月25日、「性病予防法」が公布される。
『医制百年史』(記述編 p479)によれば―

「昭和23年7月単に花柳病としてではなく、国民に対する伝染病としての性格を明らかにして国民を保護するために、これが徹底的な撲滅と治療を目的とした画期的な立法として「性病予防法」の公布・・・9.1から施行され、同時に花柳病予防法及び同特例は廃止された。」

 この法律の特色は、売淫常習の疑いある者に対して強制健康診断を実施し得ること、性病患者に強制治療又は強制入院を命じ得ること、都道府県に性病病院又は診療所の設置を義務づけ、国が費用負担し得ることとした、などである。

 こうしたGHQ・占領軍、日本国政府・県・警察の性病・売春に関する政策の変転のはざまにあって、パンパン・夜の女・接待婦・慰安婦などと呼ばれ、売春以外の方法では生活の資を得られなかった当の女性たちについて、むらき数子の調査研究ともまったく不十分であることを告白してこの項を閉じる。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆39-1 足立女性史研究会著・鈴木裕子編『葦笛のうた―足立・女の歴史』1989、ドメス出版、p.46「千住遊郭における貸座敷引手茶屋娼妓累年比較(1883〜1944年)」によれば、茨城県西と東京との途中にある千住では―

 貸座敷は、42年に64軒だったものが、43年には32軒、44年には25軒、と減少した。

p.284「戦時中の新聞記事を通読してみると、風紀取締りが厳しく行なわれた印象を受ける。しかし反面、たとえば三八年の取締りにおいて、「当局でも其の救済策につき近く業者と懇談する筈で〔中略〕営業様式方法等を考査の上適宜便法を講ずる模様である」(『東京朝日新聞』一九三八年七月一○日付)という記事や、四三年の「帝都の料理屋半減、転廃業者には就職の斡旋や共助金の支給を考慮」(『朝日新聞』一九四三年二月一八日付)、四四年の「業者の立場十分に考慮、料理屋等の租税減免」(『朝日新聞』一九四四年三月二三日付)といった記事があるのをみると、業者が当局と接触を図り、共存の態勢をとり、一種の「かけひき」をしながら、戦時下をしたたかに生き抜いた姿がみえてくる。それにひきかえ、そこで働く女たちは、素手に近い状態で厳しい銃後の生活に身を晒し、とどまるのにも転身するのにも、大きな困難を味わったと思われるのである。」
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☆39−2 総動員体制下、風俗営業は新規開業・移転は認められず、44年3月には、貸座敷・料理屋・カフェー・芸娼妓置屋などは全国一斉に休業させられたはずであった。

実際には、強制連行した朝鮮人労務者を「慰問」する「労務慰安所」が朝鮮人酌婦を置いて新設されていたことを、西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人『労務慰安婦』の成立と実態―強制連行との関係性において―」(『女性史研究 ほっかいどう』創刊号、札幌女性史研究会、2003.8、p.16−36)が検証し、次のように記している。

p.34「企業の要請にもとづいた朝鮮人「労務慰安婦」は、重要産業に従事する朝鮮人「産業戦士」を慰安するという大義名分を得たことによって、警察権限による許可制の範囲内で成立した。・・・国家総動員体制の枠組みのなかで成立し、拡大したのである。

「慰安所」を可能にした基盤は、日本の公娼制度および料理屋飲食店制度という許可制の売買春システムの存在である。両制度は、日本「内地」から植民地台湾、さらには朝鮮にまで移植・拡大された。・・・」

2003年9月に開催された「第9回全国女性史研究交流のつどいinにいがた」において、西田秀子は

「軍隊が動けば必ず慰安所ができるとこれまで言われてきましたが、軍隊だけではありません。男性労働者の集中した所には必ず慰安所がつくられています。」と述べている。

(「第9回全国女性史研究交流のつどいinにいがた 報告集2」実行委員会、2003.12.8、p.63)

茨城県の場合、「戦時下、県内の炭鉱と鉱山の増産体制は、強制連行した朝鮮人・中国人によって維持されていた。四五年には、県北の炭鉱三か所では、坑内労働者の三分の一以上が朝鮮人であり、日立鉱山では坑内労働者の約六割が朝鮮人・中国人・連合軍俘虜であった。」(『茨城県の百年』p.257−260)
北海道と同様に、茨城県でも、重要産業や軍事施設には労務管理上、慰安所が設置されていたことが推測されるが、むらき数子は未確認である。

女性史研究において、戦時下の慰安所・戦後占領下の性売買・RAA・軍事的性暴力といった領域は、ようやく全国各地で取り組みや研究が始まっているところであり、日本人「慰安婦」から証言を得るにはぎりぎりの時期にあることが、「第9回全国女性史研究交流のつどいinにいがた」において、認識された。
 影山澄江は、次の論文で神奈川県の昭和期の売買春の歴史を検証している。
  「『性の奴隷』解放への闘いと苦悩と―神奈川県廃娼運動の史的考察―」『史の会研究誌』第3号「時代の目覚めをよむ」1996.7.1、p.179―207

  「基地に生きる女性たち―横浜・横須賀の基地と売買春―」『史の会研究誌』第4号「女たちの物語を再生する」1996.7.1、p.5―47

影山によれば、横須賀の私娼街では、“戦時中、娼妓たちは昼は挺身隊員として工場に狩り出され、夜は戦場に赴く軍人たちの慰安婦として敗戦まで働かされた。そして敗戦後は、占領軍兵士のための慰安婦として、慰安所に身体を拘留されることになった。”(第4号、p.13)。
  
占領軍向け特殊慰安施設の開設に関しては、内務省から通牒が発せられるよりも前から横須賀警察署長が動いたこと、神奈川県の警察が「全機能をあげて」(第4号、p.9)取り組んだことを紹介している。
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☆40-1むらき数子「茨城県猿島郡の産婆たち」古々路の会『当世風と昔風』、2000)。
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☆40-2「へその緒ってどこを繋ぐの  主婦 加藤敏子(東京都東村山市 75歳)」『朝日新聞』2003.2.5 「声」欄。
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☆41‐1 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』全5巻(龍渓書舎、1997-1998)
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☆41‐2 参考
?海保洋子「米軍基地チトセの売買春の実態と住民の動向―売春防止法施行以前を中心に―」『女性史研究 ほっかいどう』創刊号、札幌女性史研究会、2003.8
?2003年9月に開催された「第9回全国女性史研究交流のつどいinにいがた」「分科会7 性と生と政 平和、性、女性の人権をもとめて」における報告
    高雄きくえ「広島とRAA(特殊慰安施設協会)」
    奈良女性史研究会「朝鮮戦争下、奈良RRセンターと女性」
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☆41-3 旧森戸村役場1.国・県・郡政21−10「昭和22年度 地方事務所財務関係綴 森戸村役場」「昭和22年度随時七、八月分課税物件報告書(芸妓税 酌婦二人 )」
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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