軍隊と伝染病
日本列島は、幕末開国期から明治十年代までしばしばコレラの流行に襲われた。
1877(明治10)年、鹿児島での西南戦争中の、8月から10月にもコレラが流行した。
茨城県下総国猿島郡百戸村(もどむら。現境町)出身の小島吉五郎は「明治十年十月三日凱陣之際西京ニ於テコレラ病ニ相罹リ入院中死亡」した
(☆37-1)。戦闘による戦死ではなく、病死である。軍隊の移動に伝染病はつきものであった。
日本では、軍隊外の一般社会(=「地方」と軍関係者は呼んだ)の衛生は、内務省―警察が管轄した。富国強兵のために、健康な肉体を国民に要求し、特に徴兵対象である「壮丁(そうてい)」の体位・健康状態には重大な関心を寄せ続けた。
W.H.マクニールは、日露戦争で示した日本軍の衛生管理が、世界の主要国に広まり、従軍中の病死者を減少させたという。
(☆37-2)
敗戦後、日本国中に痘瘡(天然痘)・発疹チフスが大流行し、戦前からの赤痢・百日咳なども発生が続いた。
東大医学部を卒業目前に敗戦となり、宙ぶらりんの身分となった山本俊一が、「在外父兄救出学生同盟医療班員」としてのボランティア活動の経験を記した『浮浪者収容所記?ある医学徒の昭和二十一年?』(中公新書、1982年)によれば―
p.129?135
「伝染病の脅威」
戦争が伝染病の大流行をもたらすことは、何千年にわたる人間の歴史において、一つの法則となっているが、流行病の本態が明らかにされ、防疫方法も既に確立された時代に戦われた第二次世界大戦も、やはりその例外ではなかった。
各種伝染病の流行は世界的規模で起こったのであるが、わが国について言えば、戦場が海外にあったので、戦時中にはそれほど大きな流行は起こらなかった。ところが、戦争が終って海外からの引き揚げが始まると、多数の患者や保菌者が流行地から帰国して来たため、国内に多極的(p.130)な流行が起こり、伝染病患者数は急増していった。そして、その状況は、特に戦災地である大都市に顕著であった。
わが国の各種伝染病患者数の年次別変動をみると、昭和二十一年に発生数の極大をもつものが多いが、その中でも特に検疫伝染病がこの年を中心に急峻なピークを示している。それは、痘瘡(天然痘)、発疹チフスおよびコレラの三つの伝染病である。
昭和二十一年におけるこれら三つの伝染病の流行状況をみてみると、痘瘡の流行が先行し、引き続いて発疹チフスがこれを追い、最後にコレラが到着したという順序になる。ただし、コレラだけは上陸を水際で阻止することに成功した。
さて、痘瘡については、すでに戦時中から毎年数百人程度の患者発生が続いていたのであるが、防疫陣の活躍により、その大発生は抑えられていた。ところが、戦争直後の社会混乱のため、抑制力が低下したので、大流行の状態に至り、昭和二十一年の全国患者数は一万八千人に及んだ。なんと言っても、予防上不可欠の種痘用痘苗の生産量が、戦争末期から終戦直後にかけて著しく低下したことが、この大流行を誘発する直接の原因になったと考えられる。」
ようやく生き延びて帰国した人々には栄養失調、マラリア、肺炎を病む者が多く、その上に、さらに、天然痘・発疹チフス・コレラの恐怖が重なった。それは、引揚者・復員者・戦災者の移動とともに全国あまねく、広がっていった。
たとえば、1946年8月の「茨城新聞」紙面を見ると、
「巴村から赤痢」「勝田町に悪疫」「笠間に赤痢三名」「日立多賀で清掃」(1946.8.4)
と、連日、県内各地の赤痢の発生、百日咳・ジフテリアの不安も報じている。その上に
「対岸にコレラの脅威 河川の使用・交通を厳重禁止 鹿島署防疫対策に懸命」(「茨城新聞」1946.8.13)
「渡船も禁止 鹿島地方 コレラの対策」(「茨城新聞」1946.8.16)
「きれい好きな日本人へ・・・進駐軍 衛生教育を命令」(「茨城新聞」1946.8.16)
「病医院から先づお手本 蝿や蚊を退治応援にDDT」(「茨城新聞」1946.8.16)
「防疫職員が乗車 コレラ予防に車内検疫」(「茨城新聞」1946.9.2)
山本俊一によれば、天然痘の減少は、痘苗の緊急生産・流行地住民に対する種痘実施によるものであり、発疹チフスについては、「ワクチンの効果もさることながら、やはり殺虫剤DDTによるシラミ駆除が有効であったためであろう。」(p.130?132)
この時期、駅頭などでDDTを撒布された経験者は多い。猿島地方での例は―
三和町東諸川の木村吉雄さん(1916年生まれ)は、
「足かけ8年、戦争行ってました。昭和12年、北支(ほくし)の第一線行って、15年に凱旋して昭和16年2月結婚して、その年8月に再召集で、終戦まで。
終戦の時は、南方行くわけだったんですが、私はマラリアで熱出して2ヶ月入院してたんで、原隊はニューギニア行ってました。軍隊から帰って来る時、南支(なんし)からの船がなかったんで、半年おかれて、やっと千人位乗った船で来たんですが、八日間で船ん中で8人死んだんですよ。
コレラの疑いで、浦賀沖で隔離、で40日おかれたら、シラミがいっぱいなって。船ん中じゃ風呂どころか体拭くこともできない、垢だらけ、シラミがシャツの脇の下、卵がピカピカ・・・寝たってムズムズして夜中に3回位目さまして、シラミ取る。毎日、甲板(かんぱん)出て裸なってシラミ潰しですよ。
それが、緑色の缶に入ってるDDT、ちり紙一包み貰って体じゅうなすりつけて、三日ぐらいしたら、1匹もいなくなった。(シラミがいなくなったら)することなくって、暇になっちゃった。
(食事は)雑炊みたいなもんで、二食だから、皆顔見ると真っ青ですよ、栄養失調直前で。
弟は幹候(かんこう。幹部候補生)で征って、終戦前、満州で腸チフスなって、内地送還されて、終戦の時は内地にいました、大尉で帰って来ました
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花柳病(かりゅうびょう)=性病予防
軍隊は、花柳病(かりゅうびょう)=性病を恐れる。兵士の質を低下させるからである。
徴兵検査では、20才の受検男子すべてを、全裸にして身体検査し、性病の有無も厳しくチエックした。慢性伝染病であるトラホームと性病の撲滅は、国・県・軍の重大関心事であり、毎年の徴兵検査の患者数の増減は報道され、町村・青年団の成績として競争材料ともなっている。
「梅毒は、第一次大戦中、衛生隊の活躍をあざ笑うかのように、大いに流行した唯一の病気で、事実イギリス軍では梅毒が、疫病的と言ってよいほどの罹患率に達した。軍医たちは最初のうち処置に窮するほどだったが、それは、医学的理由よりも倫理的理由によるところが大きかった(原註85)。」(W.H.マクニール、佐々木昭夫訳『疫病と世界史』p.254)
1927年4月1日兵役法公布。4月5日花柳病予防法が公布され、翌年9月1日から一部を除き施行された。(『医制百年史』記述編 p239)
「猿島徴兵検査 概して良好」(「いはらき」1930.8.29)
この結果は、検査人員1134名、甲種284、第一乙種123、第二乙種197、丙種435、丁種94、戊種1。花柳病6、トラホーム277(昨年136)。
翌1931年2月10日、境警察署長は「壮丁花柳病予防ニ関スル件」を各町村長に発して、 徴兵検査前に町村医をして予備検診を行なわせ結果表を提出するように指示している。(
☆38-1)
「甲種合格率低下す 減少を辿った”花柳病”俄然増加 本年度徴兵検査成績」(「いはらき」1937.6.9)
結城・猿島では、検査人員2544、甲種783、第一乙種575、第二乙種317、丙種796、丁種71、戊種2。花柳病11(前年7)、トラホーム216(前年286)。
「「花柳病予防法」は昭和2年に公布されたが、その一部が施行されたままで、・・・施行されていなかった。しかし、日華事変の長期化により、花柳病問題は国家総動員計画の重要な部門としてその予防対策が強く要請され、昭和13年第73回帝国議会において診療所の設置に要する予算が承認され、花柳病予防法の全面施行となった。この診療所は主として市において経営され、診療を受ける者は娼妓を除く接客婦であった。
一方、戦争に伴う重工業の発展は、軍需景気をもたらし、青少年の遊里に通う者が増加し、性病患者の傾向がみられたので、その予防対策の必要が叫ばれるようになった。昭和14年3月花柳病予防法の改正が行なわれ(昭和14.3.30 法43)、いわゆる業態者以外の者に対しても性病診療所において診療を行うことができることとされた。」(『医制百年史』記述編 p333)」
性病を恐れる軍は、兵士に性病予防具を支給した(
☆38-2)。
1915年茨城県生まれ、1941年九州帝国大学医学部卒の医師・石濱淳美の著書によれば(『性摩訶不思議―老産婦人科医の診療白書―』彩図社、2002年、p.67)―
「このサックが「コンドーム」と改名され、性病予防の担い手として大活躍をしたのは、抗生物質のなかった第二次世界大戦中に、日本兵を淋病感染から守ってくれた時である。隊付き軍医や衛生兵には、日曜休日に兵が外出する際、コンドームを配給するという仕事があった。ところがコンドームを支給したにもかかわらず淋病をもらってくる兵隊が多かったため調べてみると、コンドームを節約し裏返して使っていたことが分かった。それではまるで役に立たない。
戦後、コンドームは性病予防から妊娠予防へと使用目的が変わり、年間約六百万グロス(約九億個)が生産されるようになった。・・・」
1980年製作の旧西ドイツ映画「ドイツ、青ざめた母(DEUTSCHLAND BLEICHE MUTTER)」に、兵士が外出の前にコンドームを支給される場面があった。どこの国も、どこの軍隊も、やることは同じ、と思った記憶がある。
性病予防具を配給されたのは、兵士だけではなかった。
戦時中、木船海運協会は、境町の船員に、さまざまな物を配給した(
☆38-3)。その中に、「花柳病予防具配給ニ関スル件」(1944.6.17)もある。衛生思想普及のため、希望者に無料で配給する、というものであった。
三和町東諸川の小林信意さん(1926年生まれ)の記憶では、東諸川の赤岩茂兵衛家で、門に看板をかけて、梅毒・花柳病に効くという自家製薬「瘡癒丸」(
☆38-4)を売っていた。1945年頃、終戦直後までだったか、と言う。(1995.6.9聞き取り)
「性病の予防を強化
戦時措置によって営業を停止されていた各種の慰安施設は終戦後かなり復興しつつあり、この機会に性病の根絶を図るため都と警視庁では都庁、警視庁令をもって二十三日性病予防規則を公布、即日実施する、新規則は従来の娼妓取締規則、私娼等に対する行政執行法、芸妓に対する花柳病予防法、とは別個に施行されるもので、これまで公娼にのみ行っていた定期の検診と接待婦(芸妓)慰安婦(私娼)はもちろん必要とあればキャバレー方面など凡そ性病伝播の虞ある総ての業態に適用され、都庁から交付される健康証明書なしには就業出来ないことになった」(「朝日新聞」45.10.22 茨城県立図書館蔵マイクロフィルム)
☆37-1 「西南の役戦死者調」境町・長野監治家文書 D 戸口・身分170‐5。
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☆37-2 W.H.マクニール、佐々木昭夫訳『疫病と世界史』新潮社、1985(原著1976)、p.253「軍事医学行政の飛躍的進歩は、20世紀の開幕とともに実現した。それまでは、最良の状態に管理の行き届いた軍隊が、しかも作戦活動に従事している最中でさえ、病気のために敵軍のいかなる軍事行動によるよりはるかに多くの死者を出すのが常だった。例えばクリミア戦争(1853年―56年)で、イギリス兵は、赤痢による病死者の方が、ロシア軍の武器による戦死者の合計より十倍も多かった。それから半世紀近く経たあとのボーア戦争(1899-1902年)でも、公式記録の報ずる英軍の病死者は、敵軍の軍事行動による死者の五倍に上った(原註81)。ところが、それからわずか二年後に、組織的な予防接種と厳重な衛生管理がいかなる成果を挙げ得るかが、日本人によって示された。すなわち、日露戦争(1904-05年)での日本軍の病気による損耗は、敵軍の軍事行動による死者の四分の一以下だったのである(原註82)。
この著しい成果を他の国ぐにが見逃すはずはなかった。その後の十年間に、世界の主要国の軍隊では、日本軍のした通りをするのが常道となった。つまり、腸チフス、天然痘、破傷風など、ありふれた感染症の一連の予防接種を制度として新兵に受けさせたのである。」
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☆38-1 旧森戸村役場文書 境町史資料目録 第二集 1国・県・郡 7 「大正拾五年拾貮月以降 秘親展書類綴 中村村長 」)
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☆38-2 日本軍が性病予防具を支給していた事実について、加納実紀代さんによれば―
「これについての資料は枚挙にいとまがありません。公文書を集めた『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』全5巻(龍渓書舎、1997-1998)にもしょちゅう出てきます。元漢口兵站司令部軍医大尉長沢健一の『漢口慰安所』(図書出版社、1992)、元兵站副官山田清吉の『武漢兵站』(図書出版社、1978)など、軍医・兵士の手記にも出てきます。」
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☆38-3 境町・松浦孝雄家文書 6。
1943(昭和18)年12月から‘44年11月の1年間に、木船海運協会と、境町の船員との間で、配給に関して書類がやりとりされたのは、味噌・醤油・砂糖調味料、船員用砂糖(1
人1ヵ月0.6 斤)、船員制服、特殊衣料切符(船員制服衣料切符)、船員用石鹸(1ヵ月1 人当 戦時石鹸2 個, 洗濯石鹸1 個. 80人分67円20銭)、戦果祝賀酒(昭和19.11.18
成年者一人当 1合→境 0石15。台湾沖航空戦・比島沖海戦ノ大戦果ニ対スル祝賀ノ為)などがある。「花柳病予防具配給ニ関スル件 昭和19.6.17」はそのうちの一例である。
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☆38-4 赤岩茂兵衛家の薬袋の表には次のようにあり、裏には「定価金七拾五銭」とある。
「効能 梅毒 胎毒 皮癬 □(人偏+婁)麻質斯
官許 瘡癒丸
茨城県 猿島郡幸島村
大字諸川新田 剤生堂本舗
赤岩茂兵衛 謹製 」
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