(4)人口・産育
茨城県の人口は約200万。1945年、敗戦のとき、1944573。女性100に対する男性の比率は、全国が89.0であるのに対して茨城県は87.5。(『茨城県の百年』p.248)
猿島郡の人口は、1933年に118751人。‘50年の猿島郡は約16万、女性100に対する男性の比率は、93.9。郡内では、古河市が約3万、配給米によるものが89.7%、境町(旧境町)が約7千、配給米によるもの68.5%という町場であり、その他の村々は、森戸村(現境町)が約5400、配給米によるもの12%であるように純農村である。
現三和町の地域の人口を「平成4年 統計さんわ」によってみると、日中戦争中の‘40年には16679。敗戦前後に疎開者と復員・引揚で急増した’47年には20579。ベビーブームの一方で疎開者が都会へ転出し始めた‘50年には、20472である。
若桑みどり『戦争がつくる女性像』(筑摩書房、1995、p.253)は、世界のどの時代どの国家でも、
「普遍的に女性に課せられた戦争役割がある・・・箇条書で言えば、それは第一に「母性(戦闘員を産みかつ育てること)」である。第二に、補助的労働力となることである。第三に、それは戦争を応援する「チアリーダー」である。」
と述べている。そして、母性が強調されるのは、
「戦争とは人命の大量消費である。生命の大量の消費が起これば、必ず大量の生産をもってこれを充填しなければならない。兵士と母親は対となってこそ戦争は遂行される。母親は兵士の供給源である。」(p.67)
「戦時の女性に要求される「優しさ」と「強さ」の双方が本来的に備わっている「母性」は、戦時の女性イメージの原型であり、そこからいくつかのヴァリエーションが生まれる。母に準ずる第一のものが「看護婦」像である。」(p.243)
境町の産婆・池田さとは、日赤(日本赤十字)救護婦長であり愛婦(愛国婦人会)茨城支部嘱託でもある。夫は竜ヶ崎出身の教員である。東茨城郡御前山村出身の池田さとは、夫の任地である猿島郡長田村(現境町)で産婆を開業し、ついで境町に転居して開業していた。
1937年、池田さとは、日中戦争開戦と同時に、
「境町の池田女史銃後運動に尽瘁 篤志に感激す!」(「サシマ新報」37.9.7)
と、夫が出征した応召家庭の出産費用を減額するなど、戦争協力に努めているが、10月14日には
「昨14日池田さん出征す!」(「サシマ新報」1937.10.16)
と、自ら召集を受けて13歳の息子を残して「黒衣の戦士として」出征し、日赤病院船に乗務しながらたびたび「サシマ新報」に「陣中信」を寄せる。
満州事変・満州移民の背景には、過剰人口問題があった。ところが、日本政府は1937年末、日中戦争の長期戦化の覚悟を国民に要請するとともに、人口増加政策を本格的に推進し始める。
まず、1938年1月に厚生省を設置し、兵士となる青年の結核などの疾病と、結婚・産育・体力管理など、人口の拡大再生産を課題とする。「母子保護法」を施行し、いっぽうで産児制限への弾圧を強める。初めて国家としての母性・乳幼児保護の方策が実施されるようになった。愛国婦人会による傷痍軍人への花嫁斡旋をはじめとして、結婚奨励策が次々に展開されていく。
1939年8月には人口問題研究所が設立される。国家による人口管理は強化される。
1940年には乳幼児検診が全国で開始され、乳児死亡率の低下が取り組まれる。
1941年1月の閣議決定「人口政策確立要綱」は、「生めよ、殖やせよ」キャンペーンとして展開され、一夫婦が最低五人を産むように子宝報国(こだからほうこく)を奨励した。7月施行の「国民優生法」は、一部の人に生殖を禁じる一方で大多数の女性には避妊・中絶を禁じた。
1930年前後、昭和恐慌―農山漁村経済更生運動の時期に、愛国婦人会は社会事業として農繁期に農村託児所を開設してきた。
1930年6月には
「猿島郡内の愛婦支部主催の農村託児所が幸島村(現三和町)大字下片田、八俣村(現三和町)大字吉影、新郷村(現古河市)大字大山の三ヶ所に開設、八俣、新郷の二ヶ所は初見謙助が所長」(「いはらき」1930.6.3)
この年6月18日には八俣村託児所に牛島県知事夫人が来て、幼児45名と記念撮影した。
茨城県では1934年の死亡者の37%は4歳以下であり、出生100につき乳児死亡は13.87である。
茨城県衛生課調査によれば、無産婆村が1935年現在48ケ村あり、猿島郡では境地域で七重・猿島・弓馬田・生子菅、古河地域で新郷・香取・岡郷・勝鹿が「産婆なき町村」である。また、県全体で無医村は1936年現在124ケ町村、境地域で静・長田・逆井山・猿島・七郷・飯島、古河地域で新郷・勝鹿・岡郷・桜井が「医師なき町村」である
(☆8)
産婆を頼むのは大地主層だけであった。99%の家では、姑や近所の気丈な経産婦をトリアゲバアサンとして頼み、難産になって初めて産婆・医師を頼んでいた
(☆9)。
森戸村(現境町)では、1937(昭和12)年度には、出生173人、死亡82人、死産11人である(旧森戸村役場文書「森戸村事務報告書 昭和12年度」)。
1937年に、関ふささん(1918年生まれ)は出身地・幸島村諸川(こうじまむらもろかわ。現三和町)で産婆を開業したが、依頼はなかなか来なかった。
農繁期託児所設置は、農山漁村経済更生運動からそのまま日中戦争の銃後運動に位置づけられる。1 町村1 ヶ所設置が、愛国婦人会茨城支部の目標とされ、県も県費並に社会事業協会から補助金を支出して奨励するようになる。
「愛婦分会託児所」(「サシマ新報」38.3.26)
「農繁期の労力奉仕 託児所は一町村一ヶ所開設 児童休校の範囲も拡大」(「いはらき」38.4.19)
森戸村では、1939(昭和14)年7月15、16日に小学校で前年4 月1 日―今年4 月30日生まれの乳幼児を対象に乳幼児体格検査を実施する。(中村正己家文書「依頼状( 乳幼児体格検査出頭方)」)
七郷村(現岩井市)も、同‘39年中に第1回乳幼児検診を実施し、「其の成績は未だ寒心に堪えざる状況にあり、保育指導、事変下人的資源の拡充強化を計るため、第二回乳幼児検診を施行することになった。」と、‘40年7月中旬に第2回を実施する。(「七郷村報」 第44号、1940.2.21『岩井市史 資料 近現代編?』1993、p.245、248)
茨城県は、1940年2月11日に、多子家庭表彰を行い、森戸村では10人以上多子家庭7戸が表彰されている (旧森戸村役場文書「昭和15年 森戸村事務報告書」)。
猿島村大歩(現境町)の石山重雄家蔵の表彰状は―
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表彰状
石山はま
多数子女ヲ擁シ能ク其ノ養育教養ノ重責ヲ全ウシ以テ邦家隆昌ノ根蒂培
養ニ寄与スルトコロ尠カラス仍テ皇紀二千六百年紀元節ニ際シ記念品ヲ
授与シ茲ニ之ヲ表彰ス
昭和十五年二月十一日
茨城県知事従四位勲三等吉永時次(印)
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七郷村(現岩井市)では、「七郷村報」第44号、1940.2.21付に―
「◆表彰の人々
皇紀二千六百年紀元の佳節を卜し、・・・同日蓮なみ女史は興亜の母として本県知事より表彰せられ、同日国民奉祝の時間を期して本村役場内に於て、村長より伝達式を挙行せられた。」
と、七郷郵便局長の貯蓄奨励功労者表彰と“興亜の母”の表彰とを伝える。この号で「七郷村報」は、統制経済が紙に及び、「村報用紙の配給の見込がつかず、尚之が国策である以上休刊する事がお国の為と存じまして、今月号を以て休刊致します。」との「休刊御挨拶」を載せて無期休刊した。
多くの体験者が「戦争」とは「大東亜戦争」開戦以後のことだと思い、語るのだが、農山漁村経済更生運動(通称、自力更生運動)の宣伝紙として創刊され、そのまま日中戦争の銃後後援運動を担ってきた村の広報紙は、開戦以前に、用紙不足から廃刊した。
1940年11月3日に厚生省が10人以上の子を持つ1万336軒の「優良多子家庭」を表彰する。国にさきだって、各府県で多子家庭表彰をおこなったのである。
関ふささんは「開業して、一年くらいして、生まれる前の診察(妊婦検診)が流行ってきたんです。それまでは(産婆にかかるのは)生まれるとき初めてだったのが。腹帯(ふくたい)が配給なったんで、皆さん診察に来るようになったんですね」
日中戦争開始後、繊維資源の統制が進められていた。輸入原料に頼る木綿は、軍需と外貨稼ぎにまわすために民需は厳しく制限された。スフの混用が強制され、木綿は糸も布も脱脂綿も自由に買えなくなった。
(☆10)
医師か産婆の妊娠証明があれば、晒(さらし)・脱脂綿・ミルクなどの妊婦特別配給が受けられることになって、農村でも産婆の産前診察を受けることが広まり始めた。
関ふささん、「昭和十五年なると、赤ちゃん増えて。そのあと、旦那さんが戦争に取られちゃって、減ったことあったですね」
開戦直後の、関本町(現真壁郡関城町)の回覧板は、‘41年12月18日、国民学校で開催される婦人部常会のテーマに防空実施、貯蓄、金属回収と並んで、出産用脱脂綿ガーゼの配給をあげ、その末尾には「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」と掲げている(「常会回覧板 関本町部落会婦人部常会」『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.276-278)―
「出産用脱脂綿ガーゼの配給に就て
出産用脱脂綿、ガーゼの配給実施要綱が変更せられて、左に依り購入券を交付することになりました。就ては御部内にお知らせ下さるとともに、御手数でも御部内の妊娠五ヶ月となりたる者以上の妊婦を御調査の上、別紙で本月二十三日迄に御報告下さるやう御願ひいたします
一 妊娠五ヶ月となりたる者に毎月購入券を交付致しますから、五ヶ月となったら医師か産婆の証明書を持って早速役場へ御出で下さい
一 配給量は一人に付ガーゼ三米、脱脂綿は五百瓦です
一 役場からは毎月二十日迄に県の方へ翌月分の配給申請をしなければ県から脱脂綿とガーゼの配給を受けることが出来ないのですから、妊娠五ヶ月となりましたら前申上げた通り証明書を持って役場へお出で下さい
一 出産用脱脂綿ガーゼの配給所は、中村薬局、大塚薬店、岩崎薬店の三ヶ所ですから購入票の交付を受けたら直ぐに購入して下さい」
1942年2月1日、衣料切符制度が実施される。1人1年に都市100点、郡部80点の点数までしか繊維製品の購入は許されなくなった。その例外として、婚約が整った女子・妊娠・出生については特別切符が交付された。婚約を証明するのは戸主・農事実行組合長・媒酌人であり、妊娠・出産を証明するのは産婆か医師である。
森戸村(現境町)役場の1942−43年の「衣料切符特別交付申請書」綴り(旧森戸村役場 文書)には、1942(昭和17)年2月7日から‘43(昭和18)年10月までの79件(婚約46、妊娠24、退営2、出生1、外6)の証明書が綴られている。その一例は―
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証明書
住所 茨城県猿島郡森戸村伏木□□□番地
姓名 染□□□妻 □□ 二十七年
右者妊娠八ヶ月ニ付脱脂綿及特別衣料切符御交付相成此段証明候也
昭和十七年七月十三日
茨城県猿島郡境町二一七三番地
産婆 池田さと(印)
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日付の早いものは1942年2月10日、衣料切符制度実施間もなくから発行されている。
『茨城県警察史 下』(p.34)が記す「昭和17.11.5 妊産婦手帳制実施 」よりも前から、産婆たちにとっては行政の下請けとしての書類処理の仕事がふえていた。
この綴りの森戸村の妊婦が証明を受けた8名の産婆は、麻生喜美(長田村(現境町)西泉田)、飯田みき(長須村(現岩井市)長須)、堀江わか(境町)、池田さと(境町)、田村まさい(森戸村伏木)、吉原たけ(長須村長須)、野口なか(逆井山村(現猿島町)逆井)、木村ちか(境町新吉町)。
1943年2月16日には、猿島地方事務所長から各町村長に、出生児向け綿配給(中入綿100匁、蒲団綿500匁)を通知している。配給を受けるには「出生児用製綿購入票(第3回)」を町村長から交付されなければならない。(『岩井市史 資料 近現代編?』1994、p.344)
1943年5月11日、大日本婦人会茨城県支部は、各支部・班に大日本婦人会勤労報国隊保育班を設けるよう通牒した(『岩井市史 資料 近現代編?』p.255)。農山漁村には、農繁期養蚕期漁獲期に季節的保育所を開設するというものである。
さらに6月7日には、大日本婦人会茨城県支部は、市町村支部に健民主任設置を通牒した。(『岩井市史 資料 近現代編?』p.256)
「健民主任活動のあらまし」によれば、「健民主任は班内で保健指導に関係している婦人、例えば女医、助産婦、保健婦、母性補導委員等がいれば、これらの人が最適任者であるが、もしこれらの人がいない場合は、健全な常識と熱意を持ち、よく専門家の指導をうけて積極的実践にのりだす婦人ならすべて適任者である。」
戦時下で農村部にも増え始めていた産婆は、出産介助という本来の仕事のほかに、健民主任として「届出をして妊産婦手帳をもらふやう教へること」から諸行政手続の解説、母子保健指導・育児知識普及・空襲への備えにいたるまでの啓蒙を担わされた。
健民運動における、妊産婦の保健と保護の狙いは「妊娠、出産は国家に対する婦人の大切なつとめであることを妊婦には勿論、家族、隣組員によくわからせ」「立派な子を産み、お国につくしませう。」という出産報国・子宝報国である。
この6月には、恩賜財団軍人援護会茨城県支部が、遺族乳幼児保健事業助成をしている(『岩井市史 資料 近現代編?』p.380)が、事業の対象は遺児すべてではなく、
(1) 生活困難者
(2) 母乳不足ノ母、身体虚弱ナル乳幼児
である。医師か駐在保健婦の証明によって、「一人一ヶ月五円」を標準とする栄養品を現品給与する。
10月に入ると、茨城県内政部によって、「国家ノ事業トシテ」女子体力章検定が実施される(『岩井市史 資料 近現代編?』p.185)。「健康ナル母体タルベキ女子青少年ノ体力章検定」であり、妊娠中・月経中の者は受検を控えさせるとまで注意書きがある。
>>
1944年に入ると、各地で玉砕(ぎょくさい)という名の全滅が続き、猿島地方でも戦死者が急増し始める。そして都市空襲の現実化に対して戦争続行のために“疎開”が国策とされる。
人員疎開の目的は避難させることではなくて、防空・生産に役立たない足手まといの老幼婦女を排除することである
(☆11)。
「厳寒の空襲に備へて 妊産婦の注意 避難に忘するな出産用具」(44.1.12)
猿島地方にも、京浜地区からの縁故疎開者が転入し始める。
「森戸村事務報告書 昭和19年」(旧森戸村役場文書)には、農繁期保育所4か所(伏木・専修寺、伏木立正、伏木穴辺、桐ケ作)で、6月6日〜7月7日の間の10日から25日間、開設されている。そして1906(明治39)年に535戸だった森戸村に、「疎開」してきたのが世帯数47、人員283。森戸村の国民学校は在籍児童数1064のうち、疎開児童143となっている。
猿島町の疎開者転入の様子は、『猿島町史 通史編』1998、p.969によれば―
「沓掛国民学校では、すでに昭和十八年から疎開児童数が増加して十八年九月校舎の増築にかかり、十九年四月完成しているが、十九年に入ると疎開児童はさらに増加し、新入生一○八名中疎開児童は五八名を数えている。十九年八月、東京都から疎開児童用机、腰掛四○組が無償貸与された。
児童数の増加により、教師の負担はますます大きくなり、生子菅国民学校では、昭和十九年度の三年生は九五名で一学級、四年生は八五名で一学級、二十年度には四年生は一学級一一七名の児童を一人の教師が担任している。逆井山国民学校では、二十年度には一年生は一学級八九名の編成であり、沓掛国民学校にも、一学級七一名の学級がある。とても満足のできる授業は不可能であった。」
1944年から‘45年にかけての1年間に、生子菅国民学校では128名、沓掛国民学校、では173名が増加している。
1944年8月15日には、境町に東京から174名の学童集団疎開が到着した。
「第一夜の夢は何? 境町へ疎開児童到着」(44.8.15)
向島区(現墨田区)第一寺島国民学校の児童たちは、境町の旅館5軒に分宿し、境国民学校の校舎1棟に通学し、‘45年5月27日に秋田県秋田郡船越町へ第二次疎開して行った。
(☆12)
「二千余名増加 古河町の人口
・・・昨年よりも二千余名増加、東京都その他戦災者の移住で・・・」(45.11.25)
幸島村(現三和町)でも、『昭和十九年度 学校日誌 幸島国民学校』によれば、在籍児童数は、1944年4月6日に1078名だったものが、半年後の10月1日に1185名と、107名、1割が増えている。
1944年3月幸島村仁連(にれ)の夫の実家に疎開した産婆・栗田芳江さん(1910年総和町生まれ)が開業した頃には、出産介助に産婆を頼むことへの抵抗は少なくなっていた。
「県都戦列風景 十六 生めよ殖せよ」
・・・緊迫化した決戦下男子に代って男性の戦列にまで進出する女性たち、更に人的資源の確保の因である女性達の重宝こそ、マコト総力戦列の花形などといふ生やさしいものではアルマイ。・・・誇る鼠算的多産こそ大きな我が戦力を、生めよ殖やせよ、勝抜くために健全子宝を育成せよといふわけ・・・戦ふ銃後子宝報国戦列は一路好調、ここにも嬉しい凱歌が高鳴っている」(44.8.11)
戦争が終わって、「生めよ殖やせよ」の声は聞えなくなったが、
「赤ちゃん体力調べ 県では今年も乳幼児の体力検査を実施する。保健所愛育会が・・・」(46.7.14)
「死産の届出制度実施」 ・・・厚生省では十月一日から全国一律に実施・・・(46.9.22)
と、国家・県は戦時中の人口管理政策を継続し、戦時中1942(昭和17)年5月1日に発足した「乳幼児体力手帳」は同年11月5日実施の「妊産婦手帳」とともに継続され、戦後は‘48年5月に「母子手帳」に一括して継続され、単なる育児記録ではなく、配給を受けるための必須書類として存続する。
たとえば、手編糸(純毛ではないから、「毛糸」とは言わず「手編糸」と称した)の配給を受けるには、母子手帳と認印持参で役場に行き、購入券の発行を受け、現金を添えて購入するのである。(「昭和24年度乳児用手編糸について」(旧森戸村役場文書)
母子手帳制度は、1965年母子健康手帳に改称して継続していく。
(☆13)
「民生安定の反映か 最近グンと殖えた妊産婦」「例年の二倍 下館町の妊婦届出」
「生む、殖える 太田戸籍係繁昌」(46.9.16)
「一日に百八十人 結婚も四十組 県の人口動態」(46.12.15)
「千三百余が増加 昨年度県の出生数」(47.2.13)
と、結婚妊娠が急増する。
戦争が終われば結婚出産が増えるのはあたりまえで、決して「民生安定」というような育てやすい状況ではない。
たとえば、
「乳児の面倒が足らぬ 農村に多い消化不良児」(46.9.21)
と、笠間町(現笠間市)での乳幼児の体力検査の結果が報じられているが、農村の母親の状況は戦争が終わっても、後に助産婦・相沢喜久子さんの証言にみるように、戦前戦中と変っていない。
「飢へる赤ちゃん 細る母親のお乳」(47. 11.10)
「茨城新聞」の「観洞」というコラムに「・・・乳小児のお母さん達の鼻粘膜に適当な刺激を与えたら乳が出はしないか・・・」(1946.11.16)とあるのには怒りを禁じえない。
旧来の「観音講」で共同祈願して共同飲食するほうが、はるかに母親の心身に有効である。が、そうした共同飲食は戦時下で抑圧されてきたし、疎開者や配給受給者は持ち寄る材料もないから加われない。
また、
「配給のお知らせ 笠間町
人口栄養乳幼児に対するミルクの配給券交付は三月五日から
十日まで、また嬰児用石鹸の特配は 五日以降何れも役場で」(46.3.2)
ミルクに加える砂糖も、「老人幼児にお砂糖」(46.9.22)と、まれに7才未満60才以上対象の配給があっても、1人あたり20匁であり、次回配給がいつかはわからない。
このように、育児用品は何もかも配給でなければ入手できない、ヤミで入手できるのは幸運な少数者である。暖衣飽食の1980年代以降の日本社会のように、もらい物・リサイクル品がありあまっているから新品を買わないですむ、のとは違う。中古衣料=家庭の備蓄は、戦時中に使い果たし空襲で焼失し、残っているものは戦後の物々交換の物資となっている。食糧には「中古」はない。
>>
「一二号物資の配給打診 勘定足らず物もなし 心細い生必品家庭配給」(46.5.13)
には、市場から姿を消した日用品の必需物資の配給状況について、
鍋、釜 配給はまだまだ縁の遠い状態
マッチ 一人当り小箱二箱半が四、五、六の三ヶ月分を一緒に遅くも五月下旬までに配給される
石鹸 特殊用配をのぞいて配給の見込がない
バケツ 全然見込なし
電球、学用品、文房具は入荷なくここしばらくは配給がない
繊維製品・自転車チープ及タイヤ−・学童布靴・地下足袋・和傘については、僅かな数量が配給予定、とある。
石鹸は、貴重品となっていて「終戦時の石鹸生産は16年の一割強にしか過ぎない。開戦時1世帯16個受け取ることができたとして、終戦時にはようやく1個を手にするだけであった。」
(☆14)。
1946年の全国石鹸生産量は戦前の10分の1、1947年には戦前の約20分の1以下で、闇市の花形である。
河内村関館(現真壁郡関城町)の岩岡玄蕃家が1944〜‘45年の2年間に石鹸の配給を受けたのは、4回である。(「岩岡玄蕃金銭出納簿 昭和十九年度<支出>」『関城町史史料編? 戦時生活史料』1984、p.483-507)
森戸村若林蓮台(現猿島郡境町)の中村時三郎
(☆15−1)が1942〜‘49年の8年間に石鹸購入について記載をしているのは、9回である。
戦後の石鹸配給について、『ライオン油脂六十年史』p.88には「石鹸の配給が再開されたのは昭和21年6月であって、石鹸の種類は浴用、洗濯兼用のものであった。」『資生堂百年史』p.284には「(1946年)五月には、三年ぶりに浴用洗濯兼用石鹸が配給になった。」とあるが、「茨城新聞」には、笠間町での嬰児用石鹸の特配(‘46.3.2)、
「配給のお知らせ 多賀町
終戦初めて石鹸の配給があった、二人まで洗濯一個、三人以上洗濯と
化粧石鹸二個」(‘46.4.28)
とあり、下妻町では5月31日に「家庭用石鹸を、数量は四人まで二個、七人まで五個、八人以上七個」(‘46.5.30)とある。全国一斉に配給が行き渡ったとは考えにくい。
念のために記すと、「配給」とは、無償でもらえるのではなく現金の支払が必要なのである。封鎖されている預金を払い戻すにも妊産婦手帳を提示しなければならない。
「妊婦や乳児の栄養補給費 月百円まで自由支払
出産にいる諸費用はこれまで第一封鎖預金から自由支払が
認められていたが大蔵省では廿日から次のやうに改めること
になった、出産予定月およびその前後二ヶ月間に限り妊産婦
手帳などの書類を提出すれば個別申請許可をしなくても五百
円を限度として第一封鎖預金などから自由支払を受けられる
・・・」(46.11.22)
敗戦後満3年半たった時期にも、森戸村の「昭和二十五年一月 配給関係通知書綴」「昭和24年度衣料切符」(旧森戸村役場文書)には、乳幼児対象の「乳製品登録について」(49.3.15)、「キャラメルの配給について」(49.4.12)「放出湯上タオル配給について」(49.5.2)が見られる。
たとえば、キャラメルは、村内2軒の店で、4月16日に、ミルクキャラメル(単価27円60銭)は数え年61歳以上の老人1人1個、ココアキャラメル(単価22円00銭)は数え年2〜7歳迄の1人1個、だけが買える。
森戸村の中村時三郎が3才の孫のために、菓子を買ったのは、‘46年7月17日から‘49年8月7日までの満3年間に、8回である
(☆15-2)。
‘49年5月9日の「一般民生用国内放出綿布及びタオルの配給について」(旧森戸村役場文書)は、優先配給した妊婦・乳児を除き、1世帯1本の範囲内で抽籤で、浴用タオル1本。
当籤者は購入する「権利」を得ただけだから、品物を手にするには衣料切符4点と代金が必要である。
食糧難・住宅難、失業と募る生活苦に、社会不安を煽るような記事を禁じる検閲にもかかわらず、“子宝”は実は負担であることが、紙面に現われてくる。
「深刻化して来た失業苦 嫌れる家族沢山 地元職場はもう一杯 麻生勤労署の窓口に覗く」(46.8.10)
「藷穴へ捨てる 処置に窮した因果の子」(46.7.31)
「堕胎罪で送局」(46.9.22)
この事件は、A子26歳、義弟、義母、実母の4人が、「夫の不在中A子と義弟□□との仲に生れた不義の子の処置に窮し四名は去る八月二十四日□□医師に事情を□へ、七ヶ月の胎児を堕胎、□□医師は手術料百二十円を収受したものである」と、不義の結果と報じているが、戦死の公報を受けて嫁を弟と“逆縁”で再婚させ妊娠したところへ夫が生還した“生きている英霊”をめぐる悲劇と読みとれる。
各地で捨て子・堕胎・子殺しが報じられ、養育費目当ての貰い子広告も載る。
妊娠した女性の苦悩、夫を失った子沢山の母親の窮迫がうかがわれる。
>>
「『狭い日本』の生きる道 産児制限も一方法 サムス大佐の回答
狭い日本が朝鮮、台湾、樺太などを失ひ更に何百万の同胞を外地から迎へて衣食住総てが益々不自由になって来る、□の為人口問題が日本再建の重大課題になり産児制限が真剣に考へられているが米軍総司令部九日の新聞記者会見で総司令部公共衛生福祉部長サムス大佐との間に次の様な質疑応答が行はれた
答・・・千九百二十年(大正十一年)から二十年の間に日本の人口は約三割平均百万人以上増加した、この人口激増が戦争の根本的原因の一つとなった
問 戦争を避けるため人口問題はどういふ方法で解決されるか
答 その解決策として次の三つがある
一、高度に工業化された日本経済を確立する事
二、大規模な日本労働者の海外移住
三、出産率を低くする事
・・・
問 日本が高度の工業化及び海外移民を認められなかった場合その人口問題の解決方法は産児制限しかないと思ふが、これに対するマ司令部の見解如何
答 産児制限は全く日本の問題で日本人が自ら解決すべき問題である」(46.2.12)
1年前には「子宝報国」を謳いあげていた「茨城新聞」は、GHQのサムス大佐との問答という形で、領土拡張が不可能になった日本は産児制限するしかない、という世論誘導を始めた、と読める。
増加から抑制へと、人口政策の180度の転換を望んでいるのが誰なのかは、紙面からうかがうのは難しい。
この頃には、「恋愛の自由」「性」の解放・混乱が風俗としてしきりに伝えられ、性教育(女性に対する純潔教育。あるいは性教育の名を借りるセックス情報)が強調される一方で、妊娠しないための産児制限・産児調節、避妊法と器具が記事にも広告にも登場し始める。
広告「産児調節の正しい方法を詳しく知りたい方はスグ振替十五円を封入申込れよ
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東京都渋谷区笹塚町一二八 黒川まさ」(46.7.17)
「経済と人口を均分 人口政策の基本問題建議」 人口政策委員会(46.11.22)
「人口扶養力の拡大 産制は可、ダタイは排撃 人口問題研究助長 岡崎文規」(47.1.6)
この人口問題研究所は、「昭和14年に設立されて、昭和17年厚生省研究所に統合」されたものが、「昭和21年5月再び独立して人口問題研究所となった」(厚生省医務局『医制百年史』1976、本編p.292、.391)ものである。
「妊娠中絶や断種も強制 自由意志はご法度 改正優生法案の登場」(47.1.16)
「産児制限は必要 米婦人記者を囲む会」(47.2.23)
「産児制限是か否か 座談会(1)」(47.3.1)
この「産児制限の是非をめぐる座談会」は、3回連載された。不安な国内事情においては、必要な制限の時期が到来している、との認識に立って、法的に出産を規制することはさすがに困難であるから、性教育の徹底を説き、県民の良心に委ねる、とする。
1947年6月6日、「厚生省人口問題研究所、初の産児制限実態調査結果発表(産児制限実行者は教員、理由は経済上からが多い)。」(『日本婦人問題資料集成 第十巻 近代日本婦人問題年表』ドメス出版、1980)
1947年8月号の『家の光』も、「妊娠の知識 柴山幸一」を載せている。
「こんな場合に優生手術 合法的に妊娠中断 参議院から今国会に提出」(「いはらき」48.4.7)
「正しい性の知識 ゆがめられない美しい恋愛を 文部省いよいよ乗出す」(「いはらき」48.4.26)
1948年7月13日、「優生保護法」が可決公布され、「国民優生法」は廃止された(『医制百年史』記述編p.484)。人工妊娠中絶等の条件緩和、すなわち胎児を出生させないという形で人口抑制の国策は始動した。
「堕胎罪で送検」(48.5.27)
この記事は、東茨城郡の産婆(42)が43才の妊婦に頼まれて妊娠5ヶ月の胎児を堕胎したところ、妊婦が死亡し、産婆は堕胎致死罪で身柄を水戸検察□に送検された、というもの。
国策も世論も人口抑制を認める方向に動いている間にも、堕胎罪は厳存し続ける。
1949(昭和24)年4月11日の「世論調査 子供と産児調節」では、産児調節に、賛成67.6%、反対14.4%(新聞世論調査連盟『調査一覧』1953、p.53)
以後、世論調査を重ねるごとに、産児調節を容認する率は高まっていく。
1949年6月24日「優生保護法」一部改正によって、人工妊娠中絶の適用範囲の拡大、身体的・経済的理由を認める。
人口問題として海外移民への関心は依然高い(→(6)満州移民・引揚)が、妊娠という差し迫った苦悩の解決には、多くの女性が人工中絶を選んでいく。
戦後の出生率の劇的な低下は、何によると思うかとの質問に、助産婦・関ふささんは 「中絶のせいでしょう。中絶は、危険はありますよね」
いっぽうで、1951(昭和26)年10月の受胎調節の普及に関する閣議諒解事項に基いて定められた「受胎調節普及実施要領」によって、実施が推進され始める。
家族計画が国策としてとりあげられた世界最初のことである
(☆16)。
1952(昭和27)年再び優生保護法の一部を改正し、受胎調節の実地指導に関する規定を新設し、受胎調節の実地指導を行う者の資格を、医師及び都道府県知事の指定を受けた助産婦、保健婦又は看護婦に限定した。(『医制百年史』記述編p.484)
この規定に基づいて、1953年、茨城県は厚生大臣が指定する避妊用器具を使用する受胎調節実地指導を実施する。保助看(保健婦助産婦看護婦)を対象として講習し、指導員1199人となる(『昭和37年県民衛生の動向』)。
この講習を受けた助産婦たちが、猿島地方でも受胎調節の指導を始める。
茨城県では、“生活科学化運動”の一環として受胎調節運動に取り組み、各町村に宛てて1953(昭和28)年、次の案を送付している。(旧森戸村役場文書「生活科学化関係綴」)
「計画産児推進要綱案
一、趣旨
・・・「こだから思想」といわれるものは、こどもを宝物のように大切にするというよりはこどもを財物とする考え方が見られるのである。・・・ 幸福な家族計画は小家族を希望する傾向が強くなった。・・・
さらに農村の二、三男対策も現在の日本の大きな問題である。・・・自らの家庭を健全に育成するとともに、日本人口政策の一環として国家計画に結びつける計画産児の普及推進を図らんとするものである。
二、基本方針
1.「こだから思想」の観念を排除して、家族計画の思想に立脚した受胎調節運動につとめる。・・・
三、調節法」
この「三、調節法」には、?抜去法(性交中絶法)?コンドーム法?ペッサリー法?避妊薬?定期禁欲法、調節方法による効果(成功率)、まで具体的に記述されている。
はじめて見たときには、これが役所の文書か、と仰天してしまった。婦人雑誌は「衛生」と称して、戦前から性・婦人科の知識をとりあげてきたが、婦人雑誌のページにも、ここまで具体的・露骨な記述はまれなのではないか。
僅か8年前にはこんな文書を人に見せるだけで「非国民」とされたであろう。同じ綴りには「あなたの家の生活科学化のために」と題した受胎調節・優生保護相談のリーフレットもある。
1956年の「岩井町建設計画基礎調査書」(『岩井市史 資料 近現代編?』1993、p.499)には―
「産児調節の状況
産児調節については県より岩井地区(旧岩井町)が指定されて、本年度は婦人会をとおして度々講習会が催された。現在被保護者が13名、要保護者が23名個人指導を受けている。被保護者に対しては無償、要保護者にたいしては一部無償で器具を交付している。」
とあり、岩井市の母子保健策は、乳児検診1才未満を対象に年1回、妊婦検診年1回。 茨城赤ちゃんコンクール参加。大部分が自宅出産であり、過労その他による死産が56件ある。乳幼児の死亡率は1.2%。季節保育所は1ヶ所のみであり常設の保育所はない。「昭和32年 岩井町全図」に掲載されている広告は、医院は10軒あるが、助産所・助産婦はない。
岩井市域では、1952年に戸数5893、人口35689、出生1027であったのが、1955年には戸数5860、人口35153、出生855 と、出生数は減少し始めている。―
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1956(昭和31)年2月15日、古河保健所は境町森戸地区の5ヶ所で家族計画についての説明会を開催している。保健所員(田村助産婦)による説明と映画「黒い太陽」鑑賞のこの催し案内は、町婦人会・衛生班長・農協婦人部などに会員の出席を要請し、「尚此の件については未婚者の方は御遠慮願います」としている。(旧森戸村役場文書「自昭和29年至昭和三十年通知文書綴」)
三和村(現三和町)でも、8月6〜8日、厚生課が各地区において受胎調整並びに赤痢予防の映画会と講習会をおこなう。(「三和村報」第17号、1956.8.1)
この年、茨城県の乳児死亡率は50.7であり、古河保健所管内は80.7である。
「家族計画 本県の実態 中絶は全国15位 22.6%が受胎調節」(「いはらき」56.11.6)
境町では、1961年に保健婦として採用された前島さたさん(1929年生れ)が、中絶での死亡事故をきっかけに助産婦と組んで家族計画に取り組んだ。
有線放送・回覧で広報して集落ごとに希望者を集めて指導する。講話・幻灯・実物展示の道具一式を入れた行李(こうり)を自転車につけて、毎日毎日、3年間にわたって集落を回った。
人口政策の変遷に筆が先走ったが、‘45〜’47年に戻る。
戦後のベビーブームはこれからである。学校・就職・・・と人生の各ステージで激しい生存競争を生きのびてきて最大の人口を擁する団塊世代は、胎児・乳幼児期にすでに多くの淘汰を経て生き残った人々である。
猿島地方の母親は4〜5人生めば1人は幼いうちに亡くす、という状況が改善し始めるのは1950年代半ば以降である。
1947年5月1日「産婆規則」は「助産婦規則」と名称を改め、‘48年7月30日には「保健婦助産婦看護婦法」(略称・ホジョカンポー)が制定公布された。
全国的に、この頃の出産は圧倒的に助産婦の助産による自宅分娩だった。1950年、「自宅・その他」での出生は、市部で88.7%、郡部で98.9%。助産婦による立会は、市部で88.8%、郡部で90.8%である。自宅分娩は1955年以後‘65年までの10年間に施設内分娩・医師の立会いにとってかわられる(『母子衛生の主なる統計』1992年版・1997年版)。
産婆から助産婦へと名称が変更されたこの時期、猿島地方でも、看護婦が助産婦資格を取得する例が見られる。
境小学校の養護婦・栗原かねは、1948年4月14日、土浦霞ヶ浦国立病院で行われた学科試験に合格した(「いはらき」48.4.29、「昭和二十三年度 学校日誌 茨城県猿島郡境町立境小学校」(境小学校蔵))。
八俣送信所(現三和町)の寮母兼看護婦だった鶴巻綾子さん(1924年名崎村生れ)は、送信所を辞めて、1948年9月埼玉県浦和市の看護婦学校の産婆科に入学した。午前中は看護婦として勤務し、午後は学校、夜は先輩について自転車で自宅分娩後の沐浴に走った。
1948年9月11日には、境小学校で「郡下助産婦講習会 二ノ一教室貸与」(「昭和二十三年度 学校日誌 茨城県猿島郡境町立境小学校」(境小学校蔵))
戦後、境町の池田さとは、産婆として多忙を極めていた。1947年、相沢喜久子さんを見習いとして迎える前にも助手が2人いたようである。
相沢喜久子さん(1932年水戸市生れ)は、戦災で焼け出されて移った那珂郡の山村で高等科を卒業した。新制中学へ行かずに親戚の手伝いなどしていた相沢喜久子さんは、母の従妹にあたる池田さとに誘われて、境町の池田助産所に住み込んだ。見習い兼女中のような養女候補のような立場の相沢喜久子さんに、池田さとは個人教授をして県の検定試験を受けさせて、1949年11月に助産婦資格を取らせた。
相沢喜久子さんによれば、猿島郡のベビーブームの頃の様子は(1999.2.17聞き取り)―
「住み込みの見習いでしたけど、夜も寝られなかった。1年に5〜600人も生まれたのね、夜も寝られないの。全部、自宅往診ですから、1人につき産後1週間は行きますから。生まれれば、1人につき1日おきでも、3〜4回行くわけですから、毎日数軒も駆け回ったわけです。
自転車でしたよ、岩井から迎えに来られて行ったり。自転車で行ける範囲でしょうね、どこかのクルマ=三輪車借りて乗せてくれたり・・・。岩井は実家へ帰って来た人ぐらいですが、猿島・三和・関宿(せきやど。千葉県東葛飾郡)・五霞村(ごかむら)・総和・・・生子(おいご。現猿島町)にダットサンの後ろに布団敷いて来て、夜中に乗せて貰って行ったことありますね。
関宿へは、橋が、台風の時期になると、ないのよね。(船橋
☆17なので)流されないようにはずしちゃうのね。船で渡るの、ギッチラコ、棹で。動力船じゃなくて、自転車ごと載せる。私、橋渡るの楽しみだった、ゴンゴンして、角材並べた橋なのね。バスは向う岸とこっち岸とで止まって人は歩いて渡る。乗用車は通ってたけど、数が少なかったから。ピンポン橋だ、って言ってました。
さと先生は自転車、人力車使ってましたね。人が引っ張るのでなく、自転車が幌のついた座席部分を引っ張る。人が引っ張るんじゃ遅いでしょ。私は自転車が引っ張るのしか見てないです。
お産は緊急だから、迎えに来ますね。おうちの方がリヤカー持ってこられたり、人力車で行ったり。助手は自転車で先行って準備したり。自転車には、冬は夜中のほうがいいんです、冬は道が(霜解けで)ドロドロでひどかったから、夜中なら凍っていて。
私が来た頃は、まだいましたよ、(助産者を頼まないで)一人で産む、って方。お産も軽いし、始末は誰かに頼むけど。一人で産むのが、そういうもんだと思って。
田舎のほうは、1回(助産婦が)お産に行ったきり、あとは(沐浴も洗濯も)近所のオバサンなどが順番決めてやるとか・・・
昔は髪洗うのは1ヶ月もしないとできなかった。
昔は産後すぐはお粥だけだったのに、今は普通のご飯おかずですから。昔は、妊娠中に栄養状態を落としてた、ふだんから良くないのに妊娠で取られて落ちてるわけだから、そこへ産後はお粥・塩だけ
(☆18)、だから、むくむ人、貧血、低蛋白が多くて、妊娠浮腫、中毒症なって血圧があがったり、妊娠腎になったり・・・。産婦さんを見ると判るんです、真っ白で。(貧血と)日に当らない、産むのだって納戸(なんど)で、動かない。食べものだって、お粥にお塩―焼いて焼き塩のこともあるし、そのままのお塩もあるけど―鯛味噌くらいで。梅干とか漬物ってなかった。味噌汁に干瓢(かんぴょう)というのはあったけど。
さとさんが助産婦会の会長でしたけど、年一回総会やって。でも、総会も集まる人多くなくて。その頃は助産婦だけでしたから、ものすごく忙しかったんですヨ、ベビーブームだったし。昭和25〜6年が出産数のピークでしょ。
優生保護法が昭和23年にできたんですが、昭和32年に受胎調節の講習を水戸で受けまして。水戸の助産婦会館でやったんですよね、講習に、医者の先生が来たり、役所関係の人がきたり。
昔は、育ちにくかったから、一人だけじゃ、で、何人も生まなくちゃならなかったんですね。乳児死亡が減ると出産数も減るんですね。
戦争時代は『生めよ、殖やせよ』で、政府がドンドンすすめたんですから。」
相沢喜久子さんが資格取得した1949年、無産婆村だった静村(しずかむら。現境町)で島根あささん
(1923年三和町生まれ)が開業した。
島根あささんは、「野良仕事はしなくていい、オカッテとお裁縫だけしてくれればいい、職業やらせてくれる」という約束で、女手のない農家に嫁入りした。農作業こそしないものの、家事全般はもちろん本家のおかみさんの役割を担いながら、助産婦として自転車、のちにはオートバイで1日に3〜4軒を駆け回る。
1949年、猿島郡には医師が88人、助産婦が89人いる(『猿島郡勢要覧』)。
戦争をはさんだ10年間に、純農村でも、産婆に診せるのがあたりまえになっていた。