'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第一章 なぜ茨城新聞をとりあげるのか

(3)戦死者・未亡人

「“満州事変”以降、兵士あるいは軍属として参加した茨城県人は、一○万人あまりにのぼり、うち五万三二二三人の命が失われた。」(『茨城県の百年』p.248)
 鈴木聿子「茨未連の歩み」(鈴木聿子編『未亡人たちの戦後史―茨未連『母子草』から―上』ふるさと文庫・筑波書林、1983)によれば、1950年(昭和25)、全国の戦争未亡人の数は約180万、茨城県には戦争が原因である未亡人が、約1万人以上いた。
1950年6月現在、猿島郡の総未亡人数は1707人、うち、「戦(病)死・戦災死・抑留中」と、戦争を直接の原因とするものが508人いる。(『猿島郡勢要覧』)
        
 「茨城新聞」は、出征者たちの安否について、次のような記事を載せている。
 「生きてた英霊が描く波紋」(45.12.19)
 「論説 生存英霊悲話に就て」「愛妻は再婚 還った英霊めぐる新話題」(46.3.23)
   「愛児二人を道連れに 夫の復員を待ち兼ねた妻 疎開先で投身自殺」(46.5.6)
「遺族も半信半疑 宙に迷ふ遺骨 お盆にも淋しい三千柱 闇買ひ材料で整理に汗だく」(46.7.18)
 「猿島地事所で遺骨伝達式」(「いはらき」55.11.29)

   こうした悲劇は、三和町域にも起こっていた。大綱坪(おおつなつぼ)の例を見る。県西では集落を「坪」と呼ぶ。
 現在三和町となっている八俣(やまた)村の大綱は高度成長後も60戸前後、町民が自他ともに「変化の少ない地域」と認める純農村の行政区である。戦前から苗木畑が多かった。2002年現在はメロン・レタスなどの野菜畑が広がり、専業農家は少なくはなっているが、農家の庚申講(こうしんこう)、女性の観音講(かんのんこう)などが健在である。
電気は1937年には「あった」と言う家もあり、‘50年頃に「ついた」という家もある。
大綱の鎮守・香取神社の祭は高度成長前からのしきたりを守り続けている。その社殿には、1817(文化14)年から1990年代に至る伊勢参宮記念の額が多数掛けられている中に、
 「故尼港殉難者霊神  大正九年六月廿四日 祭主 森善行」
と、いう額がある。だが、大綱の「歴史好き」として知られる鈴木馨さん(1932年生まれ)も「尼港」がニコラエフスクであり、1918年(大正7)8月からの「シベリア出兵」の一環であるとは意識していない。鈴木馨さんが「シベリア」と聞いて連想するのは1945年以後のシベリア抑留である。
鈴木馨さんは、米麦集荷・肥料・苗木商、町議など役職多数を経て大綱の元老的存在であり、父太一郎は在郷軍人会八俣村分会長であった。シベリア出兵は太一郎が近衛連隊に現役兵として入営中のことである。

ロシア革命に干渉し侵略を意図して1918年8月2日政府は「シベリア出兵」を宣言、米騒動の引き金となった。
1919年4月8日、茨城県の郷土連隊・水戸歩兵第二連隊がシベリアへ送られた(『茨城県警察史 上』p.56)。8月「いはらき」新聞は出征兵士への慰問文を全県の小学生から募集し、水海道市五箇尋常小学校の生井せん(1907年生れ)は一等に入選し学校中から祝福された(『いばらき女性のあゆみ』p.392)。
1920年1月に猿島郡出身シベリア出征軍人慰問から帰国した森戸村(現境町)長佐怒賀修一郎は八俣小学校で講演している(『三和町史 資料編 近現代』p719−753)。
‘20年3月から5月の尼港事件に水戸歩兵第二連隊が出動し、戦死者が、県281、うち猿島郡12、結城郡14。現三和町域で4となった。大綱香取神社の額は、当時八俣村東山田の小林七三郎を祀ったものである。
尼港での損害の大きさに、陸軍は水戸常盤公園で招魂祭を行なうほか慰霊行事を特に念入りに行なっている。(☆1)

「鉾田(旧鉾田町)からは三人が尼港で亡くなりました。『尼港惨劇』という活動写真までできました。」(☆2)
この尼港事件を、『百年のあゆみ 別冊年表』(日本赤十字社茨城県支部、1988、p.49)は、「郷土の将兵、シベリアで虐殺される( 尼港事件)」と、一方的な被害として記している。
   
 大綱には、明治末からの、入営出征者への餞別を贈ってきた坪の記録が残っているが、日中戦争開戦直後の1937(昭和12)年8月31日に、次の申し合わせを行なった。

「昭和十二年八月三十一日 出征軍人家族慰問寄附帳 大綱坪」(大綱区有文書)
          記
  出征軍人家族慰問ニ関シ坪一同ノ集会ヲ求メ左ノ事項ヲ協議ス

一、 一戸当リ金参拾銭也ノ寄附ヲ募ル
一、 篤志者ノ寄附ヲ募集スルコト
一、 家族慰問金ハ各々金弐円也トス
一、 労力援助ヲ金銭ニ代ヘテ援助スルコト
一、 千勝神社ニ毎月二人宛代参シ武運長久祈願ヲナシ小札ヲ迎ヘテ贈ルコト
右要項ヲ決議ス

この決議によって、出征家族を除く42戸から36円が集められ、出征者6名のうち5名に「労力奉仕トシテ」2円ずつが贈られた。
 ‘42年に「昭和拾七年度出征家族ニ対スル労力奉仕代寄附 年壱回」を集めたときには、寄附は36戸、出征軍人は17名となっている。
 ‘45年8〜10月の時点の戦死者は4名、寄付者は63名、まだ生死不明の未帰還者もある。
大綱の戦死者は‘39年〜’45年の7年間で16名にのぼった。(☆3)
三和町の、15年間の戦死者は630名、およそ5軒に1人の戦死者が出た。(☆4)

戦死者の5〜6人に1人は既婚者であったから、妻は戦争未亡人となった。亡夫の弟と再婚して「逆縁(ぎゃくえん)」で戦後を生きてきた女性もある。
「逆縁」は、一般には親が子の供養をする類を意味するが、この地方では、「亡夫の弟との再婚」=「亡兄の妻との結婚」をさすことが多い。 >>




三和町の戦争未亡人の場合―
Tさん(1912年生れ)は古河高等女学校を卒業後、1931年に、大百姓のT家の一人息子に嫁いだ。
「支那事変で一回、大東亜で一回、召集されて・・・帰らないちゃった。
 私は子供がいなかったから。兵隊に召集されて出てく時『俺が死んだらどうする』って言うから『私は(弔う人がいなくなるから)ここにいる』って言ったんです、そうなっちゃった・・・。
しばらく、大変な思いしましたよ、男の仕事でも何でもやったし・・・舅がいたけど、(家族に男がいなくなったので)兵隊に行かない人がいたんで、住み込みでやって貰いましたけど・・・戦時中、夜だって、農協の人が来て責めて『余ってんなら、出してくろ』って(供出を督促された)、戦争中も、戦後も。」
夫は1944年1月に戦死した。舅は、自らの甥であり、Tさんにも甥にあたる重縁の男子を跡取とした。
甥が一人前に働けるようになるまでの10年間、Tさんは農作業も家事も、婦人会・母子福祉協議会などの交際もすべて担ってきた。

Oさん(1919年生れ)は、尋常小学校卒業後、自家農業の手伝いをして、1940年に同じ集落の男性と結婚した。夫婦だけの「新宅シンショー」なので、農家としては小規模な暮らしだった。
「この子が1才9ヵ月の時、昭和18年11月20日に出たっきり。亡くなったのは昭和19年に、南方アトミラル諸島だったんだけど、(戦死)公報は4年もこなかった。(集落には復員してきた人もあるし)死んだんじゃないか、って言われてたけど、公報が来たのは昭和22年なって、4年もたってからだった。
親子二人っきりで、二十何年暮してきた。」
Oさんの実家でも兄と弟が独身のまま戦死した。30軒の集落から9人の戦死者が出た。(☆3)

 Tさん(1921年生れ)は小卒後、下妻の湯田裁縫所に通って学び、1943年に結婚した。
当時、夫の次弟は海軍におり、三弟は都会で働いていた。
「春、(嫁に)来て、秋11月19日出てっちゃった、それきり一回位面会行ったきり、でナー。
(「産めよ増やせよ」の時代にあって)子供、欲しかった・・・人のが、連れてきたりもしたくらい・・・。
 ここは、オジチャン(舅)は仕事しない、働くの嫌いな人で、オバチャン(姑)が働きもんで、ご飯だって噛み噛みしながら出てっちゃう、『オムツなんか毎日洗わなくってもいい』って言うふうで・・・。
 (夫の戦死で、子供なしの嫁の自分を)おいといてくれた。『ここんては代々、貰ったら、追ん出したことねえんだ』って。
 作ってた、3町歩あった、田圃1町に米作って畑1町も。あと貸してた、兵隊行っちゃって作れねえから。2反ぶり、『食えねえ』て、貸したら、それっきり(農地改革で返ってこなかった)。」
姑がTさんにシンショーを任せたのは、復員した次弟と逆縁で再婚させてからだった。農地改革の混乱への対応を若夫婦に任せたのである。
「親達はうんとカネあるけど、『田圃と畑とこれだけあればやれるから、1年はやってみろ』って、お金(現金)は預からない。麦小麦なんか安かったからなアー・・・(日用の出費だけでなく、家の交際費・光熱費などまで)何から何までやったんじゃないか。
(逆縁が決まっても入籍は)葬式やってからすぐってわけに行かなかった。今のオトーサン、見たことなかった、(自分が嫁に)来た時、兵隊行ってたから。」
戦死した先夫との結婚は入籍されないままだった。後夫との結婚を婚家が入籍したのはTさんが妊娠してからだった。
後夫(1922年生れ)によれば
「昭和21年5月13日にうちへ帰ってきたんです。終戦から復員まで、うちと手紙やりとりできたから、兄の戦死はだいたいわかってました、命はないだろうなと思った、兄の中隊が行って遮断されて全滅食ってるから。
兄が子供ないもんだから、逆縁になって。子供2人3人いて逆縁、けっこういるんだよね、子供3人いてオバアサン(逆縁の妻)が十いくつ上、ってのもある。
(嫂との逆縁は)我慢しなくちゃならないかなーって感じだったね。兄たちは、移動(住所の移動届)だけ持って来てて、届(婚姻届)が出てなかったんだね、昔は、子供できそうだから届けるか、って。腹にあるんじゃ、(入籍を)やんなくちゃってのが、大部分だったね。」

 Kさん(1914年生れ)は、1939年2月、夫に戦死されて未亡人となった。
翌1940年に逆縁で再婚した後夫との間に子が生れた。
後夫は1944年8月に戦死し、Kさんは再び未亡人となった。

 以上、紹介したのは、年中行事などについて聞くあいだに聞きえた断片である。
それぞれの未亡人としての人生を深く聞くことは私にはできなかった。恐らく誰にもいえない辛酸をなめたであろう彼女たちの心の中に立入って聞き取りをするだけの力がなかった。
 資料として紹介するには不十分なものであるが、歴史の事実として伝えさせていただく。

 「森戸村役場日誌」(旧森戸村役場文書)を見ると、1946年の森戸村では、戦死者に関わる記事が毎月、下記のように見られる。
1月 戦死公報12(ペリリュー島10、南方1、台湾東方1)
2月 英霊・遺骨出迎2
4月 遺骨・英霊出迎5
5月 村葬17柱、英霊出迎14、戦死公報2
6月 戦死・戦病死公報3
7月 戦病死公報2、英霊出迎7柱、村葬9柱
8月 戦死公報2
9月 戦死公報14
10月 英霊無言ノ復員9柱、自宅葬7柱、戦死公報5(ニューブリテン島1)、英霊出迎2
11月 戦死公報2(硫黄島)、英霊遺骨受領3
12月 戦死・戦病死公報16

茨城県出身者は、水戸歩兵第二連隊に多く、ペリリュー島玉砕(☆5)での戦死者が多い。

1946年5月7日に水戸市で慰霊祭、10日に森戸村の隣の長須村(現岩井市)で17名の公葬が行なわれ、
「猿島郡出身者の戦没者慰霊祭」(46.5.15)
と、二□日に猿島郡の234名の合同慰霊祭が猿島地方事務所によって境町吉祥院で執行されている。県全体では、ニューギニヤでの戦死者545名が、
「遺骨還る」(47.2.7)
と報じられている。

 敗戦のまぎわに捨石とされた沖縄戦までは、日本の「戦争」はイコール海外派兵であった。新聞が「戦果」をたたえ、「戦地」と呼び、日本兵が戦死した場所は、他国民の暮す土地・海であった。
中国大陸をはじめとするアジア各地に、日本軍が膨大な戦死傷者・行方不明者・未亡人・孤児を作り出していたことを、当時の新聞が報じることはない。
どんなに眼光紙背に徹して読んでみても、「戦地」の現実を知ることは不可能である。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆ 1『三和町史 資料編 近現代』p719−753、
三和町役場旧蔵文書「幸島村在郷軍人分会史」、生沼泰家文書M-2「西伯利出征忠死者人名簿」。
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☆ 2佐藤和賀子「鉾田に生まれ、暮らして九四年―戸井田ことさんからの聞き取り
『鉾田町史研究 七瀬』8、1998年、p.172)
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☆ 3『鎮魂 三和町戦没者写真記録帳』、
「満州事変 日華事変 太平洋戦争 戦没者名簿 昭和二十五年十一月  茨城県」(境町史資料目録 第二集「旧森戸村役場文書」16兵事−67))。
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☆4小澤眞人+NHK取材班『赤紙―男たちはこうして戦場へ送られた』創元社、1997、p.236
「人口一二○○人ほどの(富山県)庄下村にも、二四七通の赤紙が届けられ、一六八人が出征した。・・・そのうち戦没者は五三人にのぼった。当時の村の戸数が二五○戸であることを考えると、五軒に一人の割合で犠牲者を出したことになる。こうした庄下村の数字は特別なものでない。当時全国で同じような悲劇が繰り返された、普通の村の「ありきたりの戦争の記録」である。」
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☆ 5-1 ペリリュー Peleliu Island
 「西太平洋、ミクロネシアのパラオ諸島(アメリカ信託統治領)南部に位置する隆起サンゴ礁の島。人口898(1974)。・・・」(『大百科辞典』平凡社、1985)

☆5-2舩坂弘『ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦』光人社 2000.11(「血風 ペリリュー島」(叢文社 1981年刊)の改題)など。
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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