'45〜47年茨城新聞</

第二部「1945〜’47年の茨城新聞を読む」

目次
第一章 なぜ茨城新聞をとりあげるのか(その五)



(その五)敗戦前後の茨城県―銃後の戦争―

茨城県の「歴史好き」の人々の人気テーマは、水戸学であり、幕末の「天狗党の乱」である。筑波山より西では、「平将門」が加わる。

本稿では、次のような本を参照しながら、敗戦前後の茨城県の概略を記し、具体的な事例を、県西・猿島郡、さらにそのうちの三和町・境町に見てみる。
わずらわしくなるが、敗戦前後の町村名には、1955年の町村合併後の現市町村名をカッコ内に示すようにする。

?いばらき女性史編さん事業委員会編『いばらき女性のあゆみ』茨城新聞社、1995。
(この本は絶版となっていて、県外では容易に見られないので、引用を多くして紹介する。)
?『茨城新聞百年史』1992
?茨城地方史研究会編『茨城の歴史 県西編』、茨城新聞社、2002
?大江志乃夫『戦争と民衆の社会史』現代史出版会、1979
?金原左門・佐久間好雄・桜庭宏『茨城県の百年 県民百年史8』山川出版社、1992
?『三和町史 資料編 近現代』茨城県猿島郡三和町、1994
?『三和町史 民俗編』茨城県猿島郡三和町、2001
?長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社、1997


(1)概況

茨城県には日立鉱山・日立製作所・常盤炭田があるが、米麦と繭・葉煙草の農業県であった。農業県からの脱皮をめざす開発県政によって、昭和30年代から鹿島開発、昭和40年代から筑波研究学園都市の建設がはじまり、県西では猿島郡の境町・五霞町・総和町・岩井市などに工業団地が誘致され、県南では東京のベッドタウン化が進んだ。

猿島郡は、茨城県の最も西に位置し、栃木・群馬・埼玉・千葉県と接している。関東平野のまん中にあり、沼と台地のなだらかな起伏がくり返し、平地林と畑が続く畑作地帯であった。現在では畑・平地林(地元では「やま」と呼ぶ)と、住宅と工業団地とが入り混じって広がっている。

『猿島郡勢要覧 昭和25年版』(猿島地方事務所編)によれば、「冬より春先の『猿島の空っ風』といって西風が烈しく吹く。夏には雷雨によって雨量に大差がある。」長塚節の『土』の舞台である現結城郡石下町と隣接し、気候風土民俗とも共通する地域である。
郡内の交通は、1970年代までは人は自転車とバスが主であり、物はリヤカー・トラックだった。郡内唯一の鉄道の駅である東北本線古河駅は、県内でも水戸・日立に次ぐ大量の貨物を扱っている。2002年現在に至るまで、取引・出稼ぎ・就職・進学・娯楽などの生活行動は、西・南の埼玉県から京浜地方に向かい、県内ではあっても、筑波山より東方とは縁が薄い。

古河町(現古河市)はかつて土井氏の城下町であり、日光街道の要衝であった。明治以降、製糸工業を持つ商工都市となっている。
  境町(旧境町。現境町の一部)は利根川沿いの町で、江戸時代には鬼怒川と江戸を結ぶ河岸(かし)として物資集散地となった。明治以降も各種の官公庁が置かれてきた郡の政治的中心である。1912(明治45)年現在、郡役所・税務署・警察署・下妻区裁判所出張所・東京専売支局出張所・茨城県第五工区事務所・茨城県米穀検査出張所・郵便局・株式会社境商業銀行、株式会社阪東銀行、小嶋館製糸所がある(『猿島郡中部郷土誌』猿島郡中部教育会、1915年)。

2002年現在の猿島郡は、総兼業化がほぼ完成し、農家では家族の誰かしらが農外就労している。混住社会での家族・集落の生活リズムはすべて週単位であり、消費生活も東京と異ならない。都市と異なるのは、「家」を単位とする交際と、18才以上1人1台の車であろう。(☆1) >>




(2) 軍事施設


 戦争はいかなる大義名分によるものでも、民衆の生活を破壊する。 大江志乃夫『戦争と民衆の社会史』(現代史出版会、1979)は、幕末1864(元治元年)から現代にいたるまでの、茨城県勝田市という特定の一地域の民衆史を「兵士と戦争」というテーマにしぼって叙述している。

 総力戦の時代となった20世紀に日本がおこなってきた戦争(公式には「出兵」「事変」と呼んだものも含めて)は、すべて、「戦地=前線」と「銃後(じゅうご)=後方」が遠く離れていた。領土内での戦闘は、例外的に沖縄戦のみである。戦地と銃後がはっきり隔たっているということは、すなわち侵略戦争ということである。
 総力戦は、直接戦闘に関わらない銃後に、「後方支援」のための体制を要求する。

 本稿では、茨城県のうち、主として、内陸である県西・猿島地方の銃後を見ていく。
 日中開戦(1937=昭和12)前後の数年間の猿島郡とくに境町周辺については、ローカル紙「サシマ新報」(境町・忍田和己家蔵)によるところが大きい。「茨城新聞」の記事引用の場合には紙名を省略して日付のみ(西暦下2桁.月.日)とする。

 『茨城県の百年』には―
 「日中戦争の拡大とともに、県内にはあらたに百里原飛行場(現、東茨城郡小川町)をはじめ、多くの飛行場が建設され、航空隊や飛行部隊が設置されていった。」(p.242)と、「おもな軍事施設」27施設の表を載せている。
 県西では、真壁郡の「下館飛行場」、猿島郡の「古河航空機乗員養成所 猿島郡岡郷村・勝鹿村」があげてある。
 この表にはないが、北茨城市大津町には、1944年、風船爆弾の放球基地が設けられた(☆2)

 軍事施設は、土地収用の一方で、建設ブームと飲食業や下宿などの新たな稼ぎももたらした。やがて、攻撃目標とされ、危険な存在となった。

 真壁郡の「下館飛行場」建設について、松永昌三「解説 第一章 農村不況のなかで」(『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984年、p.39−43)に― 
「下館飛行場建設は、昭和一三(一九三八)年五月に陸軍より、河内、黒子両村長に買収予定地が内示されることで始まった。五月一七日、河内村小学校に、関係の全地主が召集され、陸軍の係官から用地買収の提示が行われ、同日、地主は売渡しを承諾した。」
  地主たちは、突然買収予定を申し渡され、2時間位で契約させられた。買収・立退きについで、建設工事に部落会・消防団・青年団等が連日勤労奉仕を割り当てられた。さらに拡張工事が繰り返され、「昭和一九(一九四四)年の秋以降、アメリカ空軍の本土空襲が本格化すると、下館飛行場は迎撃基地となった。戦争末期には、特攻隊の出撃基地となり、関東の農村の一隅の飛行場が、文字通りの前線基地となった。」
 1945年7月5日には下館、西筑波にP51が100機来襲している。(『関城町史 史料編?戦時生活史料』 p.49)

   敗戦後の飛行場跡地は―
「復員軍人に耕作権 下館飛行場敷地の跡始末 農家は払下げを要望」(‘45.11.13)
「軍配は耕作者へ きまった下館飛行場の処分 復員軍人は立退く」(‘45.12.7)
「入植者へは一町五反 元下館飛行場の開発 測量殆ど完了」(‘46.1.15)
「”貧”が隘路の新百姓 元下館飛行場跡の開拓 苦しい復員者達」(‘46.8.24)

 1945年、東京などの大都市を焼払った後、米軍は中小都市と海岸沿いに本格的な攻撃を行った。
 北茨城市大津町は、’45年4月12日の空襲で49人の死者を出した(『いばらき女性のあゆみ』p.409)。
 6月10日から8月2日までの間に、土浦・霞ヶ浦の海軍基地、海岸沿いの日立・勝田の鉱工業地帯、県庁所在地の水戸などへの、4回にわたる大規模な空襲と艦砲射撃が行われた。
 16歳の予科練・米田吉二が戦死したのは、6月10日、土浦海軍航空隊への米軍の空襲による。(米田ひさ『雲よ還れ』新樹社、1995年改訂4版。米田佐代子『ある予科練の青春と死―兄をさがす旅』花伝社、1995)
 水戸市では全市の8割以上が焼失し、死者242人、重軽傷者1293人にのぼった。茨城新聞社もこの空襲で社屋を焼失したが、8月3日号外には
 「市民の死傷亦極めて僅少であった。この戦災にも拘らず軍官民の意気軒昂、宿敵撃滅の決意を固めて雄々しく復興に起ち上ってゐる」と書いた。(『茨城県の百年』p.268) >>





猿島郡では、飛行場と送信所が標的とされた。送信所については、第二章でとりあげる。

岡郷(現総和町)の飛行場「古河航空機乗員養成所」について、「聞きがたり近現代史2 岡郷入植の頃」『そうわ町史研究』第3号、1997年、p.56-77・注(石川治)によれば―
「(1)逓信省所管の古河地方航空機乗員養成所〔一・525〜〕が岡郷村(現総和町)小堤(現大字丘里〔四・131号〕)にあったが、昭和一九年四月に宇都宮陸軍飛行学校古河分校〔二・164〕が伴置されていた。これらは終戦に伴い閉校となっていた。」(p.76)

「古河航空機乗員養成所」について、当時子どもだった染野浩(1932年、三和町尾崎生まれ)の回想『三和悪童奮戦記―昭和も遠くなりにけり―』(日本図書刊行会、1997、p.124)を紹介する―
「三和町の西隣りに位置するのが総和町である。旧町村は、岡郷(おかごう)、桜井、勝鹿(かつしか)、香取(かとり)村の四か村である。
 その岡郷に飛行場があった。現在の小堤(こづつみ)から関戸(せきど)にかけて、飛行場であるからかなり広かった。「小堤の飛行場」と呼んでいた。
 この飛行場は、パイロットの卵(たまご)の練習が目的だったらしく、「赤トンポ」と愛称された二枚羽根の飛行機があり、若い人達が訓練を受けていたのである。
 小生が小学五年生の時、行軍(こうぐん。遠足のことをこうよんだ。こんな所まで軍事色がしみこんでいた。―原注)があり、出かけたのがこの飛行場であった。
 名崎小学校から尾崎の十字路のちょっと西に出、先生の引率のもと、ぞろぞろと125号線を歩いていったものである。
 砂利道でほこりが舞い立ち、歩きにくかったことを覚えている。
 諸川(もろかわ。旧幸島村、現三和町)から片田(かたた)、上大野(かみおおの)を通り小堤の飛行場に着いた。[むらき注:名崎小学校から格納庫まで約10km]
 大きな格納庫で、赤トンボに乗せてもらったり、案内の飛行隊長さんの話を聞いたものである。
  敗戦の色濃くなった昭和二十年の初夏、この飛行場が空襲されたのである。
 当時の日本は、もう実戦に使える戦闘機など余りなかったのである。
 この小堤の飛行場でも、実戦に使える本物の戦闘機は飛行場の北側にたくさんある松林などに巧妙に隠して置いたのである。
 そして、念を入れて、やって来るアメリカの艦載機のグラマンF6F、トムキャットやワイルドキャットの目をこっちへ向けようと、そっくりの大きさの木造の飛行機をけずって造り、滑走路の端や、格納庫の前などに並べて置いたものである。
 木造はもちろん囮(おとり)である。
 さて、空襲が始まった。グラマンは、何度も急降下し、地上の施設へ銃撃を加えたのであるが、
「おとりのひこうきを撃ってくれ。」と防空壕の中で願う隊員達の願いとはウラハラに、空襲警報、解除で防空壕から飛び出してみると、あっちこっちに火の手が上がり、もうもうと煙を吹いているのであるが、燃えているのは山林に隠した実戦用の飛行機ばかりであったのである。
 滑走路の囮達は、至ってピンピンしており、何回銃撃くらったって、「俺は不死身(ふじみ)だ。いや、飛行機だから不死鳥(ふしちょう)だ。」
などとほざいていたのである。
 夕方、こわごわ、自転車で実戦観に行った悪童達は、機銃掃射し地面にきちんとした間かくでささっている機関銃より大きい機関砲の薬キョウ(やっきょう)を拾ったものである。
「あんなに、ちゃんとめっけて、燃やしてしまうんだもん。この辺にもスパイいるんじゃないかな。」
などと声高(こわだか)に語り合い、グラマンのように無事に帰宅の途についたのであった。・・・
B29の一機が三和の上空で一つのエンジンから白煙をあげた時は、下で、こわごわ見ていた少年達も、茶の木の陰からとび出してしまい、
「やったあ。ビーが落っこちるぞっ。」
と、拍手しそうになって見ていたら、いつの間には消火してしまい、足早(あしばや)に大編隊に追いついてしまい、筑波山の上空あたりから、東の空に見えなくなってしまったのである。・・・ふと、我に返り、先ほどの友軍機どうなったかと目を こらすと、突如、黒煙に包まれ、急下降しながら、土浦方面へ消え去ってしまったのである。・・・」

 長田村長井戸(現境町)の大百姓の娘・木村つねさん(1927年生れ)は、長田小学校高等科2年卒業後、1942年から2年間境町立商業青年学校に通学した。1年間は羽織袴の制服で通ったが、2年になる‘43年には標準服になった。
卒業後は挺身隊には行かないで自家農業に従事していた。その頃を―(2001.1.5聞き取り)
「(1944年、青年学校卒業後)住吉町(境町)の綾部先生に行きました。裁縫だけじゃなくていろいろ教えてくれる、っていうので(割高だった)。免状を「1年であげますから」って。月謝のほかに、農家の場合は餅持ってったり、赤い砂糖持ってったり、だね、“おけはく”だねエ。裁縫行くのは花嫁修業だねエ。けど、せっかく裁縫所行っても、空襲空襲で、縫えなくって、1年で辞めちゃった。
境には空襲はなかった。岡郷の関戸に飛行場があったんで、飛行場めがけてB29がゴンゴン、ゴンゴン飛んでくる。ザーザー、ザーザー落としてく。
 名崎に爆弾落ちたって時、私は防空壕入ってた、落ちたって聞いて見に行ったら、大っきな穴があいてた。
 長井戸あたりじゃ、防空壕掘るったって、少し掘ると水の出るほどだけど、裏山は台地になってるから、(横穴ではなく、平地林の地面を掘り下げて作った)。警報出ると、“疎開(=疎開者のこと)”と一緒に入ってた、一時しのぎだけど。私は当座の物、半纏(はんてん)とか襦袢(じゅばん)とかを風呂敷包みにして持って入る、で、「また、風呂敷包み持ち込んだ」って、“疎開”に笑われた。東京の“疎開”はギリギリまで入らない。」

敗戦後、飛行場の兵舎は、新制中学校の校舎や、緊急開拓入植者の住いにあてられた。
門谷(もんや)一枝さん(1933年旧境町生れ)たち、境町立女学校の生徒たちは、1946年春、入学早々、岡郷の飛行場の兵舎を壊した古材を運んだ。女生徒たちの勤労奉仕でようやくできた校舎は新制中学に宛てられてしまい、働いた学年は入れてもらえなかった。
(2001.1.5聞き取り。参照:第一部第三章(その三)(第31回予定))

中島公也(ともえ。1934年生)「思い出の新制中学一回生」『いばらき女性のあゆみ』1995、p.403によれば―
八俣村立中学校では、「小学校の間借りで校舎もなく一、三年と二年が一日おきに交互に通い、・・・二年生になって岡郷の飛行場の建物を移築し、校舎ができ本などもいくらか増えてきました。」 >>





 兵舎に入居したのは、政府が1945年11月9日決定した緊急開拓事業実施要領により、1946年3月頃から翌47年にかけて入植してきた50世帯である。
この入植地の変遷を「聞きがたり近現代史2 岡郷入植の頃」(『そうわ町史研究』第3号、1997年3月、p.56-77注(石川治))によってたどってみる。

敗戦で海外領土を失い移民送出どころか、復員者・引揚者・失業者と食糧難に直面した政府は、国内に100万戸の開拓入植を図る。対象とされた茨城県内の旧軍用地、16地区の一つが岡郷の飛行場跡地だった)。(☆3)

「二百町歩の大開拓 さらりと消える強者共の夢の跡」稲敷郡女化原・・・(47.2.6)
1951年7月1日現在、茨城県へ入植した戸数は、県内3708、長野364、新潟169、山形154、山梨79、栃木72、神奈川67、福島61、東京46、富山36、其他445、計5165となっている(☆4)。 

満州移民を推進していた「茨城新聞」は、戦後は「引揚者」となった満州移民の「更生」を称える。戦争という国策遂行による失業者・罹災者・引揚者の「自力更生」の道が国内の「緊急開拓」への入植である。
「開拓民を何と見る 公約を無視した冷淡極まる政府 開拓帰農者大会の叫び」(46.8.5)
「努力で築く開拓王国 橘村帰農団を見る 戦災者引揚者に活路 目指す一戸一町歩営農」(46.8.7)
「百姓嫌ひな女房を離婚 念願の開拓へ半生のスタート」(46.8.7)
「土と戦ふ”第二の人生” 原始林のやうな藪地を開墾 頑張り抜く十家族」(46.8.17) 
「開拓民に一戸一万円を融資」農林省では・・・(46.8.18) 
「開拓音頭募集」 各開拓地に県農業会で贈ることになり・・・(46.8.18)
「引揚者戦災者等援護の農地 田畑四百町歩を開拓」 県では筑波郡に・・・(46.10.7)
「雪の北海道へ開拓第一陣」 外地引揚者や戦災者など200世帯が上野駅から出発(46.11.19)
「お百姓になって更生の歩み 現原村に開拓帰農組合」(46.11.22) 
「にわか百姓でもこの収穫 成績のよい河内村の開拓団」(46.12.8)

   国内に100万戸が入植できる開拓適地が155万町歩もあるならば、10年前、なぜ満州農業移民「二○ヶ年一○○万戸送出計画」が立案され実施されたのか、素朴な疑問が湧く。
  
  国策はわずか10年前には満州を開拓せよと送り出し、敗残の逃避行をようやく生きのびて帰国した人々を、今度は国内を開拓せよと送り込む。また戦場から復員した失業者、軍需生産に挺身した産業戦士をも農業経験の有無を問わず送り込む。

「県民運動を展開 引揚者救済を徹底」(46.10.25)
「越冬同胞援護運動 近く全国各地に展開」(46.10.26)
「同胞救援、口先ばかり 冷淡極まる”選良” 引揚連盟カンカンに憤慨」(46.11.6)
「引揚者は何を望む 県当局との座談会」上・中・下(46.1126-28)
「開拓帰農同盟結成」(46.12.26鹿島支部、46.12.27谷田部)
と、新聞は、救済・援護の動きを伝え、引揚者の不満を載せることはあっても、国民をそうした窮状においやった国家の責任(それは国策を宣伝した新聞自らの責任でもある)を問う姿勢は読みとり難い。

「大地と取組む開拓者達 新春の陽に麦が青々 友部農場 滑走路潤す玉の汗」(47.1.4)
という見出しに地名が入っていなければ、2年前までの満州開拓団の記事と思って見過ごしてしまうだろう。

岡郷飛行場跡地については次のような記事が見られる。
「八十一町歩を開放 猿島郡岡郷村□□□□(飛行場跡、か?) 先づ五十戸が入植」(45.12.12)
「冬の副業には藁工品を 岡郷村の五十家族」(46.11.19)
「入植既に六百戸 予定の半分開墾 新嘗祭に開拓一周年の感謝祭
新農村建設の一環として県農業会が 県内十六ヶ所旧軍用地・・・」(46.11.20)

「聞きがたり近現代史2 岡郷入植の頃」の語り手・山本清孝一家は、軍需産業であった東京計器の仕事がなくなったため1946年3月、神奈川県から入植した。
山形県など、各地から入植した50世帯のすべてが、「とにかく農業を全然やったことがない人ばかりでしたから、何月に何を播いて何月に何が収穫できるか分らないんです。」
「サツマを作っても、その床の作り方も知らないわけですから」というほど農業には全く無知だった。
割り当てられた土地は、1町5反ぐらいあったが、「凸凹のあった所を飛行機が離着できるようにローラーで締めて固めちゃった所なんで、それこそ万能(まんのう)も通らないような所ですからね、場所によっては芝も育たないような所もかなりありました。」
「スコップ一丁、鎌一丁、それだけだったから」しかない貧弱な農具で、挑んだ土地は、元来、地元農民が「あんなポカジソで食えるもんかってみんな言ってたって」作物がとれるようにはならないだろうと開拓しようとしなかった土質だった。
開拓融資法によって「借金で食いつないでいたんですよ。ほとんど全員がね」離農する人もあり、冬には「出稼ぎに行くか、代わりに古河の町へ行ってゴミ引き、溜上げをやる人とだいたい分かれてました」
岡郷開拓農業協同組合でも、割当地を開拓しきったのは、3尺から4尺もの深起しをやり、配給肥料の不足を堆肥材料集めに古河へ通った山本家ぐらいだった。試行錯誤を経て、1960年頃に酪農を始めた山本家などの3軒が「何とか生き延びていくまできた」が、山本家の借入金が「本当になくなったのは昭和四十六年頃だったでしょうか。借金の借り変え借り変えで生活費に充てて生き長らえてきたわけです。」

 岡郷飛行場跡地は、現在は丘里工業団地となっている。(☆5)
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


Links to other sites on the Web

第二部 第一章 なぜ茨城新聞をとりあげるのか (その五)(1)概要〜(2) 軍事施設に戻る
第二部第一章(その五)(3)戦死者・未亡人 に進む
目次
ホーム


☆ 1 参照:
・むらき数子「観音講とクルマ」『神奈川大学評論』23号、1996年。
・むらき数子「ムラの交際と贈答の変化」(宮田登編『談合と贈与』小学館「現代の世相」6、1997年。
・ むらき数子「いきる・くらす―高度経済成長と暮らし」『三和町史 民俗編』2001年。
(ブラウザの「戻る」をクリックすれば、本文の☆に戻ります)

☆2 吉野興一『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』(朝日新聞社、2000、p.192)には―
「・・・基地予定地の地権者が大津の公民館に集められたのは一九四四(昭和十九)年五月二日であった。陸軍第二造兵廠の将校が壇上にあがり、十日以内に家と土地を軍に明け渡すよう通告した。うむをいわせぬ命令であった。・・・
基地予定地から追いたてられた一人が渡辺いくであった。
渡辺家の三人は、大急ぎでわずかな家財を大八車に乗せ、近所の知り合いの倉庫の土間に引っ越しをした。借用書が手渡され、借地代金三カ月分が渡されたが、結局あとにもさきにも借地料が払われたのはこのときだけであった。一九四五年八月の敗戦までの、残り十三か月分は未払いのままとなった。
自宅をとりあげられた渡辺一家は倉庫での生活がつづいていた。
もとのわが家は器材置き場のように使われたほか、畑も水田もすべて基地の柵の中なのである。しかし、田植えが終わっていた田んぼにだけは、秋の刈り入れ時まで基地の中で作業することを許してもらえたという。食糧が不足していた時期である。
渡辺いくは二歳の子を背に、いまは基地となった自分の田に通った。・・・」
敗戦後、「渡辺いくの家族は、兵隊が引き揚げてもすぐには自分の家に戻ることができなかった。基地として使われた十五カ月のあいだ、よほど荒っぽい使われ方をしたためであろう、家は相当に傷んでしまっていた。敷地の一部には大きな水素発生装置が放置されたままの状態だったが、いつのころか誰かがクズ鉄として運び去った。
その基礎部分はコンクリートが深く打ち込まれていていまだに埋没したままの状態になっている。その他、頑丈なコンクリートは耕作地の「ふ号」の放球台だったところにも点々とむき出しで残ったままになっていて、すぐには耕作を再開できない状態だった。
 渡辺一家が、再び自分の家に戻ったのは戦後も八年ほど過ぎてからである。
「コンクリートを全部こわして元の畑にするのに、だいたい十年はかかりましたかねぇ。家の敷地に残っているコンクリート部分は、結局、いまだに壊せないで残ってます」」
(ブラウザの「戻る」をクリックすれば、本文の☆に戻ります)

☆ 3 「聞きがたり近現代史2 岡郷入植の頃」『そうわ町史研究』第 3号、p.76
注(2) 「政府は昭和二○年一一月九日、緊急開拓事業実施要領を決定。五ヶ年計画で全国に一五五万町歩の開墾、干拓、土地改良を伴う百万戸の開拓者定着を図った。これに依って、乗員養成所用地は茨城県内にあった旧軍用地、一六地区の一つとして開拓の対象となった〔三・184〕」
(ブラウザの「戻る」をクリックすれば、本文の☆に戻ります)

☆ 4 p.77注(6)

☆5 p.77注(13)「丘里工業団地は昭和36年8月7日に総和村(現総和町)が都市計画法の指定をうけるため、総和村首都圏整備委員会を結成、首都圏整備法にいう市街地開発地域に伴う工業二団地(小堤周辺<のちの丘里工業団地>並びに釈迦山周辺<のちの北利根工場団地>90万坪の用地確保を掲げて浮上。同年10月21日には小堤周辺団地の地主212名の第一回懇談会が開催され、全面的協力が約束された〔四・78号〕。なお、用地買収は昭和38年1月には殆ど終了し、同年8月31日には工業開発地区(工業衛星都市)として指定をうけている〔四・116号〕
(ブラウザの「戻る」をクリックすれば、本文の☆に戻ります)
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


Links to other sites on the Web

第一章 なぜ茨城新聞をとりあげるのか (その五)(1)概要〜(2) 軍事施設に戻る
第二部第一章(その五)(3)戦死者・未亡人 に進む
目次
ホーム


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ