

| (745) 81年 王子電気軌道 | |
| アルフレッド‐ 女将さん、とげぬき地蔵から帰ってきてから、あれこれと本をひっくり返してます。 女将― JRの大塚駅が、駅舎も駅前広場もぜーんぜん変わっちゃってたんで… アルフレッド- 2005年から再開発・整備が進められたそうです。(※1) 女将― ふう~ん、それでも、都電の大塚停留所がJR(昔の省線・国電)の高架下にある形は古い写真みてもいっしょ。 アルフレッド- 女将さんとタイムスリップ。 時は、明治44年=1911年8月20日、王子電気軌道の開通式の日。 大塚駅前から飛鳥山までです、今の荒川線のうちのまんなかへんの一部分です。 高木助一郎さんの記録―(※2) (明治44年=1911)八月二十二日 晴天 火曜日 父ハ今朝板橋税務署ニ至リ所得金高ニ付キテ聞キ来ル、八時ニ出勤ス、今日王子電気軌道株式会社大塚飛鳥山間開通ニ付キ大塚飛鳥山間電車三十回回数巻ヲ役場員一同ニ贈ラル、カヘリテ江戸菊ヲコグ、夜王子ノ家ニ江戸菊ノ花ヲ持チ行キ其ヨリ良サント共ニ飛鳥山ノ王子軌道会社電車開通ヲ見シニ行ク、至レバ停留場前ニ大アーチアリ、其レニイルミネーションニヨリテ王子電車開通ト飾ラル花電車ヲ見ル、実ニ美シ、此ノ電車ハ飛鳥山ヲ発シテ滝ノ川・庚申塚・巣鴨新田ヲ経テ大塚ニ至ル也、此ノ間ノ往復ニテ九銭也、氷ヲ飲ミテ家ニカヘリシハ九時半頃ナリシ 助一郎さんは花電車を見た翌日、王子稲荷へ行ってます。 <王子軌道開通ニ付稲荷社大祭奉納アリテ同電車乗車巻持参ノモノニ限リ宝物ヲ見物セシムル由ニ付キ稲荷ニ行キ宝物ヲ見シ来ル> 家では、麦を俵に入れ終えてから、お母さんと妹たちが飛鳥山へ花電車を見に行きました。 写真(※3)は花電車を見る人々、助一郎さんもきっとこんな様子だったんでしょうね。 9月7日には勤務のあと、夜学に行った帰りに友達2人と飛鳥山へ月見に行き、電車で大塚まで行って大塚の街を散歩して、飛鳥山に戻り、帰宅は11時頃。 助一郎さんが翌年4月5日、飛鳥山の夜桜見物に行くと、王子軌道会社が寄付したアーク灯6個が輝き、花電車も出ていました。 戦前は、池袋よりも大塚が城北の繁華街だったそうです。(※4) 東京市内からの観光・通勤路線でもあり、王子の人々が大塚へ遊びに行く路線にもなったわけです。 女将― 王子電気軌道は、「王子電車」とか「王電」とか呼ばれてた、「王子電気」とも。 っていうことは、猫のウメちゃんのおかーさんのお祖父さんが就職した「王子電気」(※5)だったってこと? 猫のウメちゃんのおかーさん‐ 念のために、90過ぎた叔父―祖父の息子―に聞いてみました。 私が「王子電気」だと思っていたのは、「王子電気軌道株式会社」だったそうです。 祖父は明治27年(1894)生れ。最初は電柱の穴掘りから始め、後に監替に昇進、この作業は結構事故があったようですが、祖父の自慢の1つは監督時代に1人も死人を出さなかっ たことだったそうです。 その後変電所の主任技術者を担当し時間の合間を見て勉強を重ねたようです。 「王子電気軌道」では学歴が中央工学校では昇進に限度を感じて、鋳物の会社に転職したそうです。 おかあ- 「王子電気」って、路面電車の会社だとばかり思ってたけど、電力会社だったのね。 アルフレッドー 明治期の電気関係の会社は、交通事業(軌道)と電気事業(電灯・電力)を兼業していました。(※6) 「王子電気軌道」も、「飛鳥山―大塚」間の電車を開業するのとほぼ同時に電気供給事業をはじめました。「王子電気軌道では、収入全体の7~8割は電灯・電力収入で、電車収入はせいぜい2~3割にすぎなかった(王電三○年史104-105ページ)」そうです。 21世紀の今、荒川線と京王線は全く違っていますが、創業してから昭和の戦時中に統合されるまで、両方の会社は共通点が多かったそうです。レールの幅といい、郊外型の電車を電力会社が運営していたことといい…(※6解題) 女将― 明治末から大正・昭和初期にかけて、照明・熱源のうつりかわりとして、一般には、ロウソク・菜種油・薪炭から石油ランプ→電球・蛍光灯へと、書かれてる(※7)。 都市近郊農村が宅地化・都市化しつつある王子界隈では(※8)、大正期に電気会社どうしの競争が激しくて、「地域協定も結ばれぬままに会社ごとの電線網が形成され、街路には各会社の電柱が入りまじって立てられるという状態が続いた。」 当主が、新しもの好きな或る家では石油ランプに次いでガス灯をつけて豆ランプも湯殿(=浴室)で併用した、次いで東京電灯会社から引いた電灯を使うようになった。 その隣の家では、新しいものに慎重で、ガス灯を使わないまま、石油ランプから電灯になった。電灯を引くときに王子電気軌道株式会社と契約したので、「停電の時もいっせいに真っ暗になるのでなく、明るい家と暗い家とが入りまじって、おかしい程の眺めを呈した。」 アルフレッド― 「王電が敷設した当時、官鉄の東北・山手線は地上を走っていた。このため王子・大塚駅では王電の電車が踏切を渡ることは危険とされ、王電レールは地上線を挟んで分断状態にされた。」(※9)王電の乗客は、踏切を徒歩で渡らなければなりませんでした。 1928(昭和3)年、東北線・山手線が高架化されて初めて、その下のガードをくぐる形で王電の線路が敷設されて、ようやく、三ノ輪~王子~大塚~鬼子母神を乗ったまま、行けるようになったのでした。 日中戦争開始、総動員体制化で、電気(電灯用、電力用)も、電気軌道つまり路面電車も、統制・企業統合が進められました。 「電力管理法」「配電統制令」によって、市営電気供給事業(従業員1121名)は「関東配電」に委譲されました。 王子電気軌道は1942(昭和17)年に東京市電気局に買収されて市電の一部となり、1943(昭和18)年都制施行で東京都交通局の都電になりました。 1945(昭和20)年8月15日の敗戦までに、空襲の被害は甚大で、都電は、営業路線163km(戦前の81%)、運転車両数296両(同26%)、運転キロ57.453km(同19%)、乗客数は戦前の3割となっていました。(※10)
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| (744) 81年 おばあちゃんの原宿 | |||
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アルフレッド- ※1 (743)81年 それぞれの年越し
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| (743) 81年 それぞれの年越し | |
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アルフレッド- ※1 (742)80年 |
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| (742) 80年 大根 | |
| アルフレッド- 女将さん、大根と奮闘しています。 女将― 年末になると、「ナマス」だけは作る気になって。 アルフレッド- 「な・ま・す」? 検索すると「ナマス」って、大根のせん切りと何かを組みあわせる食べ物です。 白い大根と赤い人参とで「紅白」で縁起が良い、と日本のヒトは感じるんですね。 「変わりナマス」には、ハム・鶏胸肉・干しエビ・塩鮭・レンコン・リンゴ・カニ缶など、 いろいろな魚・肉を入れる例があります。 学校給食には、大根も生のままじゃなくって、加熱・冷却してから調味するんだそうです。(※1) 女将さんのは「かきナマス」だそうですが、牡蛎を入れるんですか? 三太― 違う違う、おかあのは「柿ナマス」、干し柿を入れる。 女将― ずうっと前、明治生まれのおばさまに「油揚げナマス」を戴いたことがあった。 油揚げの袋にナマスを入れるんじゃなくって、油揚げをせん切りにしてまぜる。 私は作らないけど。 アルフレッド- 「大根」のおまつりがあるそうです。検索したら、 広島県の世羅高原農場の「大根まつり」は今年は10月25日でした。(※2) 12月20日には、箱根西麓・「三嶋大根祭り」では、ふろふき大根・おでん・たくあん。 期間限定で大根干しのやぐらを再現されていたそうです。 このやぐらというのは、大根を縦にぶらさげて干すんですね。(※3) 三太― 巨大な白い縄のれん、みたいだ。 アルフレッド- 東京・浅草の待乳山聖天の「大般若講・大根まつり」は、毎年1月7日にふろふき大根が 振舞われるそうです。(※4) ナマスを作り終えた女将さん、寝込んじゃいました。 インフルエンザだとお医者さんに言われました。 年内はひとに会わないほうがいいとも言われたので、今号はここまで。 みなさん、良いお年を! ではなく、良いお年に! ※1 学校給食献立のナマス |
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| (741) 80年 測量 | |
+ ![]() アルフレッド ― 女将さん、王子駅から亀山へ行く途中に、もう一つ学校がありますね。 女将― そうそう、「順天学園」(※1)。 昭和30年頃には「王子ドレスメーカー女学院」と「王子英語学校」だった所だと思う。(※2、←写真) 敗戦から15年ほどの間、空前の「洋裁ブーム」だった(※3)。 そもそも、順天学園は、191年前、1834(天保5)年に大阪で福田理軒が開いたときは、和算の塾だった。明治初め「本邦最初の測量技術者養成校」となった(※4)。 校誌をたどると、その後、男子の中学校になり、女子高等学校へ、さらに男女共学校になり、今では中高一貫校です。 アルフレッド- 高木助一郎さんの日記によると、大正4(1915)年8月20日から26日まで、板橋税務署主催土地測量講習会に出席しています。会場は板橋小学校です。(※5) 女将(=おかあ)― 北豊島郡の中心の板橋町に、郡下の町村役場の若手吏員を集めて受講させたんでしょうね。 助一郎さんの住んでる大字下十条は、王子町のなかでも板橋町に隣接してるし、板橋小学校も近いから、往復は歩いたんでしょう、昔のひとは健脚だから。 講習会の講師は東京税務監督局技師倉田幸蔵氏。 7日間、日曜も無休で、朝8時から午後3時ないし5時頃迄。日割は 第一日 講話 第二日 実習 第三日 同 第四日 同 第五日 実習 第六日 同 第七日 講話 最終日の8月26日木曜日は、全日程を午後3時に終了して、「紀念撮影ヲナシ其ヨリ証書授与式」。「開会ノ辞」、「講師ノ講評」、「修業証書授与」、「講師ニ対スル講習生ノ送付式」演説(郡長、税務署長、郡視学、板橋校長)が全部終ったのは午後5時30分。 助一郎さんは、講習の一週間後から、時々、“測量した”と記しています。 業務として小学校の「測量ヲ命ゼラル」という日もあれば、某さんが来て「〇〇番地ヲ測量シクレズヤトノ事ニ付キ」測量し図面を作った、という日もある。 王子町は、鉄道用地や軍用地、民間会社の工場用地、学校の新設、校舎の増改築にと、田畑・山林の買上げが頻りで、地主の側も代替地を求めたり、宅地化して家作(貸家)にしたり、電柱建設の件で寄合ったりと、浮足立っている。 アルフレッド- 大正期の王子町は、日に日に《開発》が進み《都市化》していってるんですね。 女将― 昭和42(1967)年、中央工学校は、明治44(1911)年以来ほぼ60年ぶりに測量科を復活設置しました。 「地域開発が盛んで、どの都道府県・市町村でも公共投資による仕事が多かった」時代に「測量技術者に対する需要が頂点に近かった。」「測量科の設置が、王子校舎時代の発展 をもたらし、中央工学校の黄金期を築く一つの契機となったことは特筆すべきであろう。」とあります(※6)。 アルフレッド- 測量の歴史に残る学校が2校も、神田から王子に移ってきて現存しているんですね。 女将― 偶然の結果なのかな… たまたま「測量士」養成をたどってみて、日本の近現代社会は、私塾・各種学校・専修学校で学んだ人たちが担ってきたんだな、って改めて思う。 私のあたまの中の教育史は、【学校令】中心だったんだ、って。(※7) ※1 順天中学校・順天高等学校 |
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