

| (750) 81年 木炭車 | |
アルフレッド―女将さん、混乱してます。 女将― 前号で、アルフレッドに、「自動車が木炭で動くんですか?」(※1)って聞かれて、 図書館のジロちゃんに相談に行ったら、 絵本の『もくたんじどうしゃもくべえ』(※2)を見つけてくれた。 「このじどうしゃときたら、ふるいじょうようしゃをかいぞうして、うしろはんぶんが、にだいになっているばかりか、しゃたいのよこの、ステップのうえに、おかしなかまがついていました。」 「このおじさんは、カウボーイのぼうしを、かぶっていました。」 カウボーイの帽子をかぶったおじさんは、時代遅れと笑われながら、木炭車のもくべえを東京の下町から走らせる。 渋滞する道路には都電も外車も走ってる、高速道路も新幹線もあり、4-5階建ての集合住宅が建ち並ぶ団地には焼き芋屋も豆腐屋も自動車で出張販売に来てる。 1970(昭和45)年くらいのことでしょうね。 もくべえはスピードが出せないから高速道路は断られるし、エンストはするし、途中でエンジンを冷やして木炭を補給してもらって、急坂はバックでやっと登りきって… カウボーイの帽子をかぶったおじさんは、足柄山牧場の牛や馬がガソリンの臭いを嫌いだからと、もくべえを連れてきたのでした。 アルフレッド― ガソリンでなく石油代用燃料を使う自動車を代用燃料車=代燃車と呼んだんですね。 1934(昭和9)年に商工省が奨励金を出したりして、改造形式は7種類も開発され、代用燃料には、木炭・薪・アセチレンガス、石炭、コークスもあったそうです。(※3) 女将― 代燃車は、エンジン始動に「最低8分から最大50分、平均して20分を要したという」 始動作業に携わる運転手らはこの間、常時一酸化炭素中毒の危険があった。 「運行経路を通じた乗車率や道路の勾配等を先読みし、送風機や、煙突に設けた弁を操作する高度な技量が求められた。急勾配を控えるルートでの運行は、事に困難を極めた。」 名古屋市電気局では「ガソリン自動車ト異リ木炭ノ詰込、瓦斯発生炉ノ取扱其ノ他種々煩瑣ナル操作ヲ要スルヲ以テ」運転手には特別手当を支給した(※3-1)。 東京市電気局では、昭和8,9(1933,34)年よりガソリン価格高騰に、市バスの運転手に「燃料節約手当」までだしていましたが、ガソリン規制・代用燃料化という国策に沿って、昭和12年から木炭車に切り替えて行きます。 「木炭車の増加を数字で示すと、昭和13年度末に356両、同14年度には728両、15年度末には870両と増加し、16年度末には在籍車両1981両の75%を占める1516両にまで達し、昭和18年度末にはガソリン車がわずか50両にまで減少した。」(※3-2、『60年史』p334) 木炭も不足して、東京市電気局は自家製炭事業も開始しました。 ![]() (左):1947(昭和22)頃、木炭車『東京都交通局50年史』 1961、p213 (中):1935-1958(昭和10-33)「自動車事業 燃料別車両数の推移」『東京都交通局100年史』2012、p147 (右):『女車掌の手記』氏家富美子、厚徳社、1942 1938~41(昭和13~16)年頃の市バスの営業所の朝、木炭車を担当する乗務員たちの会話―(※4『女車掌の手記』より) 朝6時に出勤カードを捺した車掌・百合ちゃんに、運転手・田口さんが 「おい百合ちゃん、今日は車の調子が良いぜ、一昨日はどうも調子が悪くて苦心したよ、昨日の中休にやっと故障の原因がわかったんだよ、車の調子が悪いと僕まで神経衰弱になりそうだよ」 同僚が次々と出庫していくのを見送りながら、二瓶運転手と組む車掌・ふみちゃんは 「出庫時間はもうとっくに過ぎてゐるのにまだ私は呼ばれないわ」 「二瓶さん故障なのか知ら、まだ呼ばないのよ」 「まあ二瓶さんなの、私昨日組んだけれど故障ばかりして嫌になっちまったわ、二瓶さんの木炭車近頃調子が悪いのね、ぢゃお先へ、路線で逢ひませうね」 ふみちゃんが、送車掛に言われて車庫の奥へ見に行くと、 作業服を着た二瓶さんは木炭車の釜に炭を入れて長い金棒(かなぼう)でさかんに突ついてゐた、車の傍には炭俵が五俵ばかり積んであった。幾台か並んだ木炭車の所々に掃き寄せられた粉炭が山になってゐる。空俵や油できたなくべろべろによごれた襤褸(ぼろ)が二号車庫とのさかひの隅に無造作におっぽり投げられて重なってゐた。炭をあけるたびにパッパッと上る炭煙(すみけむり)のひどい埃を浴びながら釜に炭を入れる作業服姿の運転手さんの顔は誰も彼も皆んな炭だらけであった。 「二瓶さん、お早う御座居ます。どうまだ出られそうもない?」 二瓶さんはひょいと振り返って 「やあ、お早う、今日はふみちゃんか、まだまだ三十分ばかり待ってもらはうか、その内エンジンも掛ると思ふが」 「まあひどい埃、此処に居ちゃ顔が真黒になってしまふわ、二瓶さんの顔はまるで黒ん ぼ見たいよ、木炭車は大変ね」 半布(ハンカチ)で口をおほひ乍ら、思わず二瓶さんの炭だらけの顔に同情してしまった、二瓶さんはやうやく釜のふたをしめ乍ら 「エヘヘヘヘヘ」 と独特の嬉しげな笑ひ方をした。 「ふみちゃん、二瓶さんも国策にそって木炭車を運転する様になってからは、もうもう色男も台なしだよ、鼻の穴から耳の穴までこの通り真黒だよ、あははははは」 囲炉端に引返し車の出来るのを待つ。 アルフレッド― 1981年、思いがけない姿の三太君に出会いました。 むらき家の三太君は犬ですが、出会った三太君は、なんと≪まきバス≫、代燃車!! 女将― 神奈川中央交通というバス会社が、1981年に復元したバスの名前が「三太号」。(※5) 木炭ではなく、薪をもやす、だから木炭車でなく「代燃車」≪まきバス≫。 元祖「道志川の三太」(※6)の舞台だった道志川流域―神奈川県津久井郡が神奈川中央交通のエリアで、「三太物語」の作者・青木茂さんも、モデルになった村の人たちも代燃車に乗っていたであろうと、「三太号」と名づけたんですって。 で、三太号を実際に動かしたときの動画を見たら、薪に着火してから、エンジンがかかって車体が走り出すまで、相当時間もかかるし苦労してる。 オートマ限定免許がはじまったのが1991年、オートマ車しか運転したことない私には、気の遠くなるほど遠い別世界。 ※1 (749)81年 王子バス |
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| (749) 81年 王子バス | |||||
| アルフレッドー 1929年=昭和4年5月20日の王子です。 王子駅前から赤羽へのバス路線の開業日です。車はシボレー7人乗り。(※1) 女将― え? 王子電気軌道という会社は、電車だけでなくって、バスも運行していたんだ… アルフレッドー 乗合自動車事業は路線延長・拡張を重ねて、クルマは11人乗り・27人乗り・32人乗り・ 33人乗りになっていきます。 「昭和5年乃至同10年の年平均収入10万3千円が、同11年乃至14年の年平均 は42万2千円となり、マサに4倍以上の膨張である。」 乗客数も、約4倍の激増となり、 「全く時局産業拡充に伴ふ工場地帯の発展によること大である。」 女将― バスもあったということは、女性車掌がいたということかな… 『二十五年史』の「従業者員数」を見ると、「運輸乗務員」にあたるのだろうと思うけど、 大正15年上期に370人、昭和4年上期353人、とあるだけで、その職種も性別もわから ない。 前に『三十年史』の写真ページを見たときには、女性は、「印書係、電話交換係」、つま り、タイピストと電話交換手が、和服に上衣を着て働いている姿が目に残ってた。
アルフレッドー
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| (748) 81年 電車図書館 | |
| アルフレッド― 女将さん、何探してるんです? 女将― 廃止された都電の車両はどこへ行ったのかと思って。 1台は飛鳥山に展示されているのをこないだ見てきたけど…(※1、写真) 図書館のジロちゃんに聞いたら『ふたごのでんしゃ』(※2)って絵本を教えてくれた。 2台のふたごの路面電車「うしわか」と「べんけい」のおはなし。 2台が走っていた町も市になり、人口が増え自家用車が増え、路面電車は邪魔者扱いされるようになった。 とうとう市議会で廃止と決定されたとき、市長さんが2台の引退後の仕事を思いついた。それが、子ども図書館。 アルフレッド― 東京都日野市の多摩平団地に作られた電車図書館がモデルだそうです。(※3) 当時の日野市長は、有山崧(たかし)さん(※4)。 女将さん、前に、日野市の学校の給食を紹介してました(※5)。 で、日野市へ行ったんですか? 女将― JR中央本線日野駅で降りて、甲州街道・日野宿のあたりを歩いてみた。「新撰組」ゆかりの日野宿本陣や旧日野銀行(有山家店蔵)とか… 有山崧さんは、日野市長になる前は日本図書館協会の事務局長だった、公共図書館のジロちゃんたちの大先輩にあたるわけね。 電車図書館はみつからない。 歩き疲れたころ、ひょっこり、日野のまおさんに遭遇した。 日野のまお― 移動図書館「ひまわり号」が、南の坂の上まで来てくれたことはよく覚えています。 今でも走っています。 アルフレッドー 日野市の「ひまわり号」は、1965年にスタート、以後、移動図書館が日本全国に普及していったそうです。 日野のまお― でも、都電を使った「電車図書館」のことは覚えていません。 アルフレッド― 日野のまおさん、女将さんと一緒に「電車図書館」を探してくれました。 1966(昭和41)年8月、都電の廃車を再利用した多摩平児童図書館(通称電車図書館)が開設された。 1971(昭和46)年4月には、痛みの激しい電車図書館は「お別れ会」、独立した建物で広さ5倍の児童図書館に建替えられた。 日野のまお― 1971年には私は小さかったので。 女将― 実物は見られなかったけど、日野のまおさんといっぱいいっぱいお話ができた。 良い日でした。 ※1 (744)81年 おばあちゃんの原宿 「飛鳥山3つの博物館」>散策ガイド」>「都電6080(飛鳥山公園内展示)」 ※2 『ふたごのでんしゃ』渡辺茂男、絵堀内誠一、あかね書房、1969.12 あとがきに “この物語にでてきたのとそっくりの電車図書館が、東京都日野市の団地の中にあります。 先代の市長さんの有山崧(たかし)さんの発案で作られたものです。” “(この絵本を)今は亡き有山たかしさん」に捧げます。 (なお、日野市の電車図書館は、1971年に廃止されました。)” ※3 日野市「みんなのふるさとこぼれ話49」、電車図書館の写真が見られます。 ※4 日野市立中央図書館の産みの父「有山崧(元日野市長)」を語る 「日野宿発見隊 まちかど写真館inひの」>「有山家(屋号「綿十」)前―下町 明治期」 ※5 (707)給食―パンか米かー (710)給食のおじさん 日野市では、2026年2月現在、日野自動車工場跡地への 巨大データセンター建設から暮らしと環境を守る署名 が呼びかけられています。 |
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| (747) 81年 荒川線 | |
![]() アルフレッドー 女将さんが先月、乗ってきた荒川線は、愛称「東京さくらトラム」なんですね(※1)。 都電で、現在唯一運行されている「ひとりぼっち」路線だそうです(※2)。 おみやげ、「都電もなか」ですか。(→写真) 女将― 都電をずうっと利用していた。定期券には都電の「網の目」の路線図が印刷されていた。 或る時期、定期券を買い替えるたびに、路線図の線が減っていった。 ついに、荒川線だけになり、路線図はなくなってしまった。 アルフレッドー 都電が撤去される時期だったんですね。 女将― 「王電」(=王子電気軌道)が「市電」になり、「都電」になり、「荒川線」になる歴史をたどってみた。(※3) 戦災(※4)から戦後、復興した都電網は東京の街を縦横に覆って、昭和30年頃は「都電の黄金期」と言われていた。 その同じ頃から、路面電車を撤去せよとの圧力が、政府や都の審議会などからかけられてくる。 エネルギーの石炭から石油への転換、鉄道からトラック・道路への転換、自動車産業育成へと、国策のもと、路面電車は邪魔者になっていった。 ![]() クルマ社会化でひどくなる一方の渋滞に巻き込まれて、都電は、速度は低下するし不規則になるしで、人気がなくなっていった。東京都交通局は巨額の不良債務をかかえるようになった。 1967(昭和42)年1月1日、東京都交通局は、自治省から財政再建団体指定(都電撤去をふくむ)を受けた。 その3か月後、4月23日の都知事選挙で初当選した美濃部亮吉は、自主再建の途をあきらめ地公企法にもとづく再建にふみきった。 すなわち、都電・トロリーバスから地下鉄・バスに代替する。人件費圧縮・ワンマンカー化で、路面電車従業員5720人・トロリーバス従業員591名を配転する。 以後、都電撤去が具体化するとともに、定期券から路線網が消えていった。 「最後まで残っていた荒川線も廃止計画に組み入れられていたが、沿線住民の強い要望や都電を惜む都民の声によって、路面との併用軌道であった王子駅前~赤羽間を短縮しただ けで廃止をまぬがれた。そして、昭和49年には三ノ輪橋~王子駅前の(27)系統と荒川車庫~早稲田の(32)系統を統合して「荒川線」と改名し、永久存続が打ち出されたのである。」( 『ひとりぼっち荒川線』 p6) 高度経済成長期の、「新しいことはいいことだ」「まだ、やってるの?」という、従来からのモノ・コトを否定し侮蔑する風潮も、都電から地下鉄への転換をあとおししたように思う。 美濃部都知事については、「都電の廃止を決めた」と記すもの(※5)、「荒川線の存続を決めた東京都知事」と評するもの(※6)がある。 美濃部が当選して就任した時、すでに国・都ぐるみで都電撤去に動き出していた。革新知事であろうと、保守知事であろうと、動きを止めることは不可能だったと思う。(※7) 《自分が関与していなかった過去》についての責任を、どう考えるべきだろうか? 都電の路線が消えていくたびに、その路線で働いていた人々が「配転」や「退職」という人生の大事に直面していたのだ、と、今さらに思う。
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| (746) 81年 うま年のモグラ | ||||||
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アルフレッドー
女将― そうね、メール賀状にしました、とか、卒業します、という流れのなかで、手作りの図柄は年々希少価値が高まってる感じ。 今回は、民俗的な馬たちのパレード (→パワポを開いて見てください) 写真が小さ過ぎたり、暗かったりで、紹介できない諸君、ゴメンナサイ。 調布のデコちゃん、今年も期待に応えて華やかな「木曽の花馬」を作ってくれた(※2)。 お盆の前にワラ馬が仏様を迎えに船に乗っていく、って初耳。最近では馬より速いからって、おもちゃの飛行機を乗せるとか。 中国の剪紙は、さすが、世界を駆け回って取材してきた方のコレクション。 三太― 観客席もにぎやかだ。 昨年、骨折に落ち込んだ読者さん。 24年前の本を読み返して、すごーい発見した、って興奮してるオネエサン。 「いつもの三人」の「娘」さんのイラスト、年々、ウマくなってる、っておかあ、感心しきり。 おらの散歩圏の星娘さん「ひょっこりお会いできるのを楽しみに」。 アルフレッドー で、女将さんからは? 女将― この冬、うちの庭で健闘しているモグラさんのお仕事を紹介します(※3)。 池のまわり、踏み石沿いに、一日おきくらいに、ポコッ、ポコッ、と出現するモグラ塚を計測してみたら、5個の平均重量約700グラムでした。 作者(モグラ)に会ったことがなくて、身長も体重もわからないんだけど。 三太― モグラの体重は40~180グラムだと、AIが言ってる。 うちのモグラの体重を仮に70グラムとすると、一日に4メートルくらいトンネルを掘進して、体重の10倍の土を地表に押し上げてることになる。
アルフレッドー 女将さん、ヒトが炭鉱で一日掘る量は? 女将― 人力だけ、つるはし・スコップだけ、だと… 一日のノルマが、0.5トンから1トンという数字を見つけた。 単純に、ヒトの体重を50キログラムとすれば、体重の10~20倍を掘り出すことになる。 三太― おかあは、バケツ1杯掘ると腰が痛くなってリタイアする。 バケツ1杯の土って、おかあの体重の1割くらいだろ? アルフレッドー 巨大モグラ(=シールドマシーン)が掘るのは、大深度地下・40メートル以深だから、地表には影響ない、というタテマエです。(※4) 女将― 調布の巨大モグラは、目視できる範囲にモグラ塚は作らないけど、陥没や空洞を作った。 巨大モグラの飼い主は、地上の住民約50軒を立ち退かせて、「ヤード」にしてしまった。 品川の巨大モグラは道路に高さ13センチのモグラ塚を作った(※5)。 アルフレッド- 日本は、「タテマエ」と「ホンネ」の国なんですね。 ※1 (712)乙巳 |
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| (745) 81年 王子電気軌道 | |
| アルフレッド‐ 女将さん、とげぬき地蔵から帰ってきてから、あれこれと本をひっくり返してます。 女将― JRの大塚駅が、駅舎も駅前広場もぜーんぜん変わっちゃってたんで… アルフレッド- 2005年から再開発・整備が進められたそうです。(※1) 女将― ふう~ん、それでも、都電の大塚停留所がJR(昔の省線・国電)の高架下にある形は古い写真みてもいっしょ。 アルフレッド- 女将さんとタイムスリップ。 時は、明治44年=1911年8月20日、王子電気軌道の開通式の日。 大塚駅前から飛鳥山までです、今の荒川線のうちのまんなかへんの一部分です。 高木助一郎さんの記録―(※2) (明治44年=1911)八月二十二日 晴天 火曜日 父ハ今朝板橋税務署ニ至リ所得金高ニ付キテ聞キ来ル、八時ニ出勤ス、今日王子電気軌道株式会社大塚飛鳥山間開通ニ付キ大塚飛鳥山間電車三十回回数巻ヲ役場員一同ニ贈ラル、カヘリテ江戸菊ヲコグ、夜王子ノ家ニ江戸菊ノ花ヲ持チ行キ其ヨリ良サント共ニ飛鳥山ノ王子軌道会社電車開通ヲ見シニ行ク、至レバ停留場前ニ大アーチアリ、其レニイルミネーションニヨリテ王子電車開通ト飾ラル花電車ヲ見ル、実ニ美シ、此ノ電車ハ飛鳥山ヲ発シテ滝ノ川・庚申塚・巣鴨新田ヲ経テ大塚ニ至ル也、此ノ間ノ往復ニテ九銭也、氷ヲ飲ミテ家ニカヘリシハ九時半頃ナリシ 助一郎さんは花電車を見た翌日、王子稲荷へ行ってます。 <王子軌道開通ニ付稲荷社大祭奉納アリテ同電車乗車巻持参ノモノニ限リ宝物ヲ見物セシムル由ニ付キ稲荷ニ行キ宝物ヲ見シ来ル> 家では、麦を俵に入れ終えてから、お母さんと妹たちが飛鳥山へ花電車を見に行きました。 写真(※3)は花電車を見る人々、助一郎さんもきっとこんな様子だったんでしょうね。 9月7日には勤務のあと、夜学に行った帰りに友達2人と飛鳥山へ月見に行き、電車で大塚まで行って大塚の街を散歩して、飛鳥山に戻り、帰宅は11時頃。 助一郎さんが翌年4月5日、飛鳥山の夜桜見物に行くと、王子軌道会社が寄付したアーク灯6個が輝き、花電車も出ていました。 戦前は、池袋よりも大塚が城北の繁華街だったそうです。(※4) 東京市内からの観光・通勤路線でもあり、王子の人々が大塚へ遊びに行く路線にもなったわけです。 女将― 王子電気軌道は、「王子電車」とか「王電」とか呼ばれてた、「王子電気」とも。 っていうことは、猫のウメちゃんのおかーさんのお祖父さんが就職した「王子電気」(※5)だったってこと? 猫のウメちゃんのおかーさん‐ 念のために、90過ぎた叔父―祖父の息子―に聞いてみました。 私が「王子電気」だと思っていたのは、「王子電気軌道株式会社」だったそうです。 祖父は明治27年(1894)生れ。最初は電柱の穴掘りから始め、後に監替に昇進、この作業は結構事故があったようですが、祖父の自慢の1つは監督時代に1人も死人を出さなかっ たことだったそうです。 その後変電所の主任技術者を担当し時間の合間を見て勉強を重ねたようです。 「王子電気軌道」では学歴が中央工学校では昇進に限度を感じて、鋳物の会社に転職したそうです。 おかあ- 「王子電気」って、路面電車の会社だとばかり思ってたけど、電力会社だったのね。 アルフレッドー 明治期の電気関係の会社は、交通事業(軌道)と電気事業(電灯・電力)を兼業していました。(※6) 「王子電気軌道」も、「飛鳥山―大塚」間の電車を開業するのとほぼ同時に電気供給事業をはじめました。「王子電気軌道では、収入全体の7~8割は電灯・電力収入で、電車収入はせいぜい2~3割にすぎなかった(王電三○年史104-105ページ)」そうです。 21世紀の今、荒川線と京王線は全く違っていますが、創業してから昭和の戦時中に統合されるまで、両方の会社は共通点が多かったそうです。レールの幅といい、郊外型の電車を電力会社が運営していたことといい…(※6解題) 女将― 明治末から大正・昭和初期にかけて、照明・熱源のうつりかわりとして、一般には、ロウソク・菜種油・薪炭から石油ランプ→電球・蛍光灯へと、書かれてる(※7)。 都市近郊農村が宅地化・都市化しつつある王子界隈では(※8)、大正期に電気会社どうしの競争が激しくて、「地域協定も結ばれぬままに会社ごとの電線網が形成され、街路には各会社の電柱が入りまじって立てられるという状態が続いた。」 当主が、新しもの好きな或る家では石油ランプに次いでガス灯をつけて豆ランプも湯殿(=浴室)で併用した、次いで東京電灯会社から引いた電灯を使うようになった。 その隣の家では、新しいものに慎重で、ガス灯を使わないまま、石油ランプから電灯になった。電灯を引くときに王子電気軌道株式会社と契約したので、「停電の時もいっせいに真っ暗になるのでなく、明るい家と暗い家とが入りまじって、おかしい程の眺めを呈した。」 アルフレッド? 「王電が敷設した当時、官鉄の東北・山手線は地上を走っていた。このため王子・大塚駅では王電の電車が踏切を渡ることは危険とされ、王電レールは地上線を挟んで分断状態にされた。」(※9)王電の乗客は、踏切を徒歩で渡らなければなりませんでした。 1928(昭和3)年、東北線・山手線が高架化されて初めて、その下のガードをくぐる形で王電の線路が敷設されて、ようやく、三ノ輪~王子~大塚~鬼子母神を乗ったまま、行けるようになったのでした。 日中戦争開始、総動員体制化で、電気(電灯用、電力用)も、電気軌道つまり路面電車も、統制・企業統合が進められました。 「電力管理法」「配電統制令」によって、市営電気供給事業(従業員1121名)は「関東配電」に委譲されました。 王子電気軌道は1942(昭和17)年に東京市電気局に買収されて市電の一部となり、1943(昭和18)年都制施行で東京都交通局の都電になりました。 1945(昭和20)年8月15日の敗戦までに、空襲の被害は甚大で、都電は、営業路線163km(戦前の81%)、運転車両数296両(同26%)、運転キロ57.453km(同19%)、乗客数は戦前の3割となっていました。(※10)
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| (744) 81年 おばあちゃんの原宿 | |||
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アルフレッド- ※1 (743)81年 それぞれの年越し
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| (743) 81年 それぞれの年越し | |
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アルフレッド- ※1 (742)80年 |
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| (742) 80年 大根 | |
| アルフレッド- 女将さん、大根と奮闘しています。 女将― 年末になると、「ナマス」だけは作る気になって。 アルフレッド- 「な・ま・す」? 検索すると「ナマス」って、大根のせん切りと何かを組みあわせる食べ物です。 白い大根と赤い人参とで「紅白」で縁起が良い、と日本のヒトは感じるんですね。 「変わりナマス」には、ハム・鶏胸肉・干しエビ・塩鮭・レンコン・リンゴ・カニ缶など、 いろいろな魚・肉を入れる例があります。 学校給食には、大根も生のままじゃなくって、加熱・冷却してから調味するんだそうです。(※1) 女将さんのは「かきナマス」だそうですが、牡蛎を入れるんですか? 三太― 違う違う、おかあのは「柿ナマス」、干し柿を入れる。 女将― ずうっと前、明治生まれのおばさまに「油揚げナマス」を戴いたことがあった。 油揚げの袋にナマスを入れるんじゃなくって、油揚げをせん切りにしてまぜる。 私は作らないけど。 アルフレッド- 「大根」のおまつりがあるそうです。検索したら、 広島県の世羅高原農場の「大根まつり」は今年は10月25日でした。(※2) 12月20日には、箱根西麓・「三嶋大根祭り」では、ふろふき大根・おでん・たくあん。 期間限定で大根干しのやぐらを再現されていたそうです。 このやぐらというのは、大根を縦にぶらさげて干すんですね。(※3) 三太― 巨大な白い縄のれん、みたいだ。 アルフレッド- 東京・浅草の待乳山聖天の「大般若講・大根まつり」は、毎年1月7日にふろふき大根が 振舞われるそうです。(※4) ナマスを作り終えた女将さん、寝込んじゃいました。 インフルエンザだとお医者さんに言われました。 年内はひとに会わないほうがいいとも言われたので、今号はここまで。 みなさん、良いお年を! ではなく、良いお年に! ※1 学校給食献立のナマス |
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| (741) 80年 測量 | |
+ ![]() アルフレッド ― 女将さん、王子駅から亀山へ行く途中に、もう一つ学校がありますね。 女将― そうそう、「順天学園」(※1)。 昭和30年頃には「王子ドレスメーカー女学院」と「王子英語学校」だった所だと思う。(※2、←写真) 敗戦から15年ほどの間、空前の「洋裁ブーム」だった(※3)。 そもそも、順天学園は、191年前、1834(天保5)年に大阪で福田理軒が開いたときは、和算の塾だった。明治初め「本邦最初の測量技術者養成校」となった(※4)。 校誌をたどると、その後、男子の中学校になり、女子高等学校へ、さらに男女共学校になり、今では中高一貫校です。 アルフレッド- 高木助一郎さんの日記によると、大正4(1915)年8月20日から26日まで、板橋税務署主催土地測量講習会に出席しています。会場は板橋小学校です。(※5) 女将(=おかあ)― 北豊島郡の中心の板橋町に、郡下の町村役場の若手吏員を集めて受講させたんでしょうね。 助一郎さんの住んでる大字下十条は、王子町のなかでも板橋町に隣接してるし、板橋小学校も近いから、往復は歩いたんでしょう、昔のひとは健脚だから。 講習会の講師は東京税務監督局技師倉田幸蔵氏。 7日間、日曜も無休で、朝8時から午後3時ないし5時頃迄。日割は 第一日 講話 第二日 実習 第三日 同 第四日 同 第五日 実習 第六日 同 第七日 講話 最終日の8月26日木曜日は、全日程を午後3時に終了して、「紀念撮影ヲナシ其ヨリ証書授与式」。「開会ノ辞」、「講師ノ講評」、「修業証書授与」、「講師ニ対スル講習生ノ送付式」演説(郡長、税務署長、郡視学、板橋校長)が全部終ったのは午後5時30分。 助一郎さんは、講習の一週間後から、時々、“測量した”と記しています。 業務として小学校の「測量ヲ命ゼラル」という日もあれば、某さんが来て「〇〇番地ヲ測量シクレズヤトノ事ニ付キ」測量し図面を作った、という日もある。 王子町は、鉄道用地や軍用地、民間会社の工場用地、学校の新設、校舎の増改築にと、田畑・山林の買上げが頻りで、地主の側も代替地を求めたり、宅地化して家作(貸家)にしたり、電柱建設の件で寄合ったりと、浮足立っている。 アルフレッド- 大正期の王子町は、日に日に《開発》が進み《都市化》していってるんですね。 女将― 昭和42(1967)年、中央工学校は、明治44(1911)年以来ほぼ60年ぶりに測量科を復活設置しました。 「地域開発が盛んで、どの都道府県・市町村でも公共投資による仕事が多かった」時代に「測量技術者に対する需要が頂点に近かった。」「測量科の設置が、王子校舎時代の発展 をもたらし、中央工学校の黄金期を築く一つの契機となったことは特筆すべきであろう。」とあります(※6)。 アルフレッド- 測量の歴史に残る学校が2校も、神田から王子に移ってきて現存しているんですね。 女将― 偶然の結果なのかな… たまたま「測量士」養成をたどってみて、日本の近現代社会は、私塾・各種学校・専修学校で学んだ人たちが担ってきたんだな、って改めて思う。 私のあたまの中の教育史は、【学校令】中心だったんだ、って。(※7) ※1 順天中学校・順天高等学校 |
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