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<その27>


(750) 81年 木炭車
アルフレッド―
女将さん、混乱してます。

女将―
前号で、アルフレッドに、「自動車が木炭で動くんですか?」(※1)って聞かれて、
図書館のジロちゃんに相談に行ったら、
絵本の『もくたんじどうしゃもくべえ』(※2)を見つけてくれた。

「このじどうしゃときたら、ふるいじょうようしゃをかいぞうして、うしろはんぶんが、にだいになっているばかりか、しゃたいのよこの、ステップのうえに、おかしなかまがついていました。」
「このおじさんは、カウボーイのぼうしを、かぶっていました。」

カウボーイの帽子をかぶったおじさんは、時代遅れと笑われながら、木炭車のもくべえを東京の下町から走らせる。
渋滞する道路には都電も外車も走ってる、高速道路も新幹線もあり、4-5階建ての集合住宅が建ち並ぶ団地には焼き芋屋も豆腐屋も自動車で出張販売に来てる。
1970(昭和45)年くらいのことでしょうね。
もくべえはスピードが出せないから高速道路は断られるし、エンストはするし、途中でエンジンを冷やして木炭を補給してもらって、急坂はバックでやっと登りきって…
カウボーイの帽子をかぶったおじさんは、足柄山牧場の牛や馬がガソリンの臭いを嫌いだからと、もくべえを連れてきたのでした。

アルフレッド―
ガソリンでなく石油代用燃料を使う自動車を代用燃料車=代燃車と呼んだんですね。
1934(昭和9)年に商工省が奨励金を出したりして、改造形式は7種類も開発され、代用燃料には、木炭・薪・アセチレンガス、石炭、コークスもあったそうです。(※3)

女将―
代燃車は、エンジン始動に「最低8分から最大50分、平均して20分を要したという」
始動作業に携わる運転手らはこの間、常時一酸化炭素中毒の危険があった。
「運行経路を通じた乗車率や道路の勾配等を先読みし、送風機や、煙突に設けた弁を操作する高度な技量が求められた。急勾配を控えるルートでの運行は、事に困難を極めた。」
名古屋市電気局では「ガソリン自動車ト異リ木炭ノ詰込、瓦斯発生炉ノ取扱其ノ他種々煩瑣ナル操作ヲ要スルヲ以テ」運転手には特別手当を支給した(※3-1)。
東京市電気局では、昭和8,9(1933,34)年よりガソリン価格高騰に、市バスの運転手に「燃料節約手当」までだしていましたが、ガソリン規制・代用燃料化という国策に沿って、昭和12年から木炭車に切り替えて行きます。

「木炭車の増加を数字で示すと、昭和13年度末に356両、同14年度には728両、15年度末には870両と増加し、16年度末には在籍車両1981両の75%を占める1516両にまで達し、昭和18年度末にはガソリン車がわずか50両にまで減少した。」(※3-2、『60年史』p334)
木炭も不足して、東京市電気局は自家製炭事業も開始しました。

     

  
  (左):1947(昭和22)頃、木炭車『東京都交通局50年史』 1961、p213
  (中):1935-1958(昭和10-33)「自動車事業 燃料別車両数の推移」『東京都交通局100年史』2012、p147
  (右):『女車掌の手記』氏家富美子、厚徳社、1942

1938~41(昭和13~16)年頃の市バスの営業所の朝、木炭車を担当する乗務員たちの会話―(※4『女車掌の手記』より)

朝6時に出勤カードを捺した車掌・百合ちゃんに、運転手・田口さんが
「おい百合ちゃん、今日は車の調子が良いぜ、一昨日はどうも調子が悪くて苦心したよ、昨日の中休にやっと故障の原因がわかったんだよ、車の調子が悪いと僕まで神経衰弱になりそうだよ」
同僚が次々と出庫していくのを見送りながら、二瓶運転手と組む車掌・ふみちゃんは
「出庫時間はもうとっくに過ぎてゐるのにまだ私は呼ばれないわ」
「二瓶さん故障なのか知ら、まだ呼ばないのよ」
「まあ二瓶さんなの、私昨日組んだけれど故障ばかりして嫌になっちまったわ、二瓶さんの木炭車近頃調子が悪いのね、ぢゃお先へ、路線で逢ひませうね」
ふみちゃんが、送車掛に言われて車庫の奥へ見に行くと、
作業服を着た二瓶さんは木炭車の釜に炭を入れて長い金棒(かなぼう)でさかんに突ついてゐた、車の傍には炭俵が五俵ばかり積んであった。幾台か並んだ木炭車の所々に掃き寄せられた粉炭が山になってゐる。空俵や油できたなくべろべろによごれた襤褸(ぼろ)が二号車庫とのさかひの隅に無造作におっぽり投げられて重なってゐた。炭をあけるたびにパッパッと上る炭煙(すみけむり)のひどい埃を浴びながら釜に炭を入れる作業服姿の運転手さんの顔は誰も彼も皆んな炭だらけであった。
「二瓶さん、お早う御座居ます。どうまだ出られそうもない?」
  二瓶さんはひょいと振り返って
「やあ、お早う、今日はふみちゃんか、まだまだ三十分ばかり待ってもらはうか、その内エンジンも掛ると思ふが」
「まあひどい埃、此処に居ちゃ顔が真黒になってしまふわ、二瓶さんの顔はまるで黒ん  
 ぼ見たいよ、木炭車は大変ね」
  半布(ハンカチ)で口をおほひ乍ら、思わず二瓶さんの炭だらけの顔に同情してしまった、二瓶さんはやうやく釜のふたをしめ乍ら
「エヘヘヘヘヘ」
と独特の嬉しげな笑ひ方をした。
「ふみちゃん、二瓶さんも国策にそって木炭車を運転する様になってからは、もうもう色男も台なしだよ、鼻の穴から耳の穴までこの通り真黒だよ、あははははは」
囲炉端に引返し車の出来るのを待つ。

アルフレッド―
1981年、思いがけない姿の三太君に出会いました。
むらき家の三太君は犬ですが、出会った三太君は、なんと≪まきバス≫、代燃車!!

女将―
神奈川中央交通というバス会社が、1981年に復元したバスの名前が「三太号」。(※5)
木炭ではなく、薪をもやす、だから木炭車でなく「代燃車」≪まきバス≫。
元祖「道志川の三太」(※6)の舞台だった道志川流域―神奈川県津久井郡が神奈川中央交通のエリアで、「三太物語」の作者・青木茂さんも、モデルになった村の人たちも代燃車に乗っていたであろうと、「三太号」と名づけたんですって。
で、三太号を実際に動かしたときの動画を見たら、薪に着火してから、エンジンがかかって車体が走り出すまで、相当時間もかかるし苦労してる。
オートマ限定免許がはじまったのが1991年、オートマ車しか運転したことない私には、気の遠くなるほど遠い別世界。

※1 (749)81年 王子バス 
※2 『もくたんじどうしゃもくべえ』渡辺茂男・作、岡部冬彦・絵 岩波書店1972年
※3-1 笠井雅直 「戦争と企業 ―自動車工業:動員・代用燃料車・航空機製造への工場転用― 」
    名古屋学院大学総合研究所 Discussion Paper No.139 OCT 2021
  chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www2.ngu.ac.jp/uri/dp/pdf/dp139.pdf
※3-2 『東京都交通局60年史』(1972.3.31)など、東京都交通局の50年史、70年史、80年史、90年史、100年史、110年史
※4 氏家富美子 『女車掌の手記』厚徳社、1942
※5 「薪を燃やしてバスをうごかしてみた」
     
※6 元祖・「道志川の三太」
(1)三太自己紹介-茶色の犬(663)初心(664)馬どろぼう
(731) 80年 雨乞い(732) 80年 雨乞いの効き目



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(749) 81年 王子バス
アルフレッドー
1929年=昭和4年5月20日の王子です。
王子駅前から赤羽へのバス路線の開業日です。車はシボレー7人乗り。(※1) 

女将―
え? 王子電気軌道という会社は、電車だけでなくって、バスも運行していたんだ…

アルフレッドー
乗合自動車事業は路線延長・拡張を重ねて、クルマは11人乗り・27人乗り・32人乗り・
33人乗りになっていきます。
「昭和5年乃至同10年の年平均収入10万3千円が、同11年乃至14年の年平均
は42万2千円となり、マサに4倍以上の膨張である。」
乗客数も、約4倍の激増となり、
「全く時局産業拡充に伴ふ工場地帯の発展によること大である。」

女将―
バスもあったということは、女性車掌がいたということかな…
『二十五年史』の「従業者員数」を見ると、「運輸乗務員」にあたるのだろうと思うけど、
大正15年上期に370人、昭和4年上期353人、とあるだけで、その職種も性別もわから
ない。
前に『三十年史』の写真ページを見たときには、女性は、「印書係、電話交換係」、つま
り、タイピストと電話交換手が、和服に上衣を着て働いている姿が目に残ってた。
左:建設係、電話交換係、印書係      右:王電バス坂本二丁目停留場
『王子電気軌道株式会社三十年史』1940

アルフレッドー
『三十年史』を見直して、みつけました。
モノクロで色がわかりませんが、白い襟の黒っぽい洋服、ワンピースのようです。

女将―
『もぐらのうた』(※2)という本を読んで、「王子バス」に従業員会があった、って知
ったんだけど、王子電気軌道の社史は、従業員に関しては実にそっけない。
「従業員問題」という見出しで『二十五年史』p18に僅か3行―
    「大正7年7月、従業員の救済を目的とする王子電車共済会設立、同年十月電車監督に関する問題にて、乗務員同盟罷業の兆ありたるも、同監督の辞職に依りて無事解決す。」
p29に4行―
「大正14年10月車両職工四名を不都合なる廉により解職したるに、市電自治会よ
りその復職につき懇請し来りたるも応ぜず、更に待遇改善の要求あり、翌15年1
月に至りて解決す。
  昭和2年2月、従業員より又々待遇改善の要求あり、同月解決す。」
『三十年史』のp80に4行、
   「昭和12年5月従業員の一部が待遇改善の嘆願をなし紛糾状態を継続したが、創立以来我が社が標持する家族主義を以て終始したため、約半ケ月の後円満裡に解決を告げた。」
『三十年史』に、3ページにわたって写真入りで、1939(昭和14)年7月29日発会した
「王電産業報国会」を載せているのと対照的。

アルフレッドー
   「尚ガソリン消費規正強化により、昭和14年上期より車両52両のうち、25両を木炭車に変更したが、更に同下期には木炭車31両となり、ガソリン車は21両に減少した。」
とありますが、自動車が木炭で動くんですか?

女将―
木炭車、って、もっとあとの、対米英開戦後、たいていの人が思っている「戦争中」にな
ってから出現したように私も思ってた。
でも、日中戦争がはじまってすぐ、1938(昭和13)年5月1日に「揮発油及重油販売取締
規則」によってガソリンは配給制になってたんだ。
戦争になると、輸入に頼っている日本は真っ先にガソリンに困る―90年前も、2026年現
在も。(※3)
女性史とか世相史で、乗用車やバイクが不自由になったと読んできたけど、バスがまっさ
きに影響を受けたんだ。
車掌はどうしたんだろう?

アルフレッドー
女将さん、また図書館のジロちゃんに「電車・バスの車掌さんの写真が載っている本を見
たいんです」ってレファレンスお願いしました。

図書館のジロちゃん―
腕が鳴ります!


女将―
東京のバスに女性の車掌が乗務し始めたのは、1920(大正9)年に東京市街自動車で、
1924(大正13)年から東京市電気局の市バスも女性車掌に乗務させた。
以下、正木鞆彦さんの本によれば― (※4)
 「バスそのものが路面電車より高い料金を取る「高級な乗り物」であったこともあ
って、さっそうと洋服姿でバスに乗務する女子車掌は時代の先端をいく存在として
脚光を浴びることになった。」
「東京市街自動車の女子車掌が制服のカラーの色から白襟嬢と呼ばれていたのに対
して市営バスの女子車掌は赤襟嬢と呼ばれることになった。こうして首都(当時は
帝都という呼び方が一般的だったが)東京のバスは、女子車掌による乗務が一般化
し、これ以後、ワンマン化の時代までバスの女子車掌という職業が確立することに
なるのである。」 

車掌は、新しい女性の職種で、しかも珍しい洋服姿だということで注目され、その後もず
っと「白襟嬢」「赤襟嬢」として≪世相≫≪風俗≫に書き継がれてきたのを読みなれてい
た。(※5)
でも、始まりの頃のバスは、路面電車よりも≪高級≫な乗り物だと感じられていた、とい
う指摘は目からウロコだった。

アルフレッドー
図書館のジロちゃんが、写真集やいろんな本を10冊くらい積み上げてくれました。
女将さん、読んだり眺めたりしながらうんうん唸ってます。
女将さん、『女の休日』(※6)という映画は観たんですか?

女将―
観ました。
百聞は一見に如かず、だった。
何を読んでも何を観ても、同時代に生きてたはずなのに、知らなかったことばっかり…
50年前のアイスランドの女性たちの状況が重なって、涙ぐんでしまった…


※1 王子電気軌道 (745) 81年 王子電気軌道    (747) 81年 荒川線 
『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第10巻 王子電気軌道株式会社二十五年史他』 日本経済評論社、1983(『二十五年史』『三十年史』が収録されている)
※2 東京地下鉄争議55周年記念実行委員会編『もぐらのうた―1932年東京地下鉄争議記録集』学習の友社、1987、p。41
「王子バスの例は従業員会をつくり、これに全従業員が加入、役員は全協組合員がしめて、闘争によって合法性を勝ちとっていました。」
※3 「原油急騰、経済に暗雲 景気低迷と物価高、共存の恐れも ホルムズ海、事実上の封鎖」『朝日新聞』2026年3月3日 5時00分
※3 「原油急騰、経済に暗雲 景気低迷と物価高、共存の恐れも ホルムズ海、事実上の封鎖」『朝日新聞』2026年3月3日 5時00分
※4 正木鞆彦 『バス車掌の時代』 現代書館、1992
※4 正木鞆彦 『バス車掌の時代』 現代書館、1992
※5 たとえば―
『図説日本文化史大系 第12巻 大正昭和時代』 編集委員代表児玉幸多、小学館、1957(「風俗」大藤時彦)
   『こんな仕事があったんだ! 昔のお仕事大図鑑』小泉和子、日本図書センター、2020、p77
      「白えり嬢とよばれたバスガール。すてきな制服姿でてきぱきと仕事をこなすバスガールは、若い女性のあこがれの仕事だった。」
※6 映画『女性の休日』    日本の「女性の休日」プロジェクト 


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(748) 81年 電車図書館
アルフレッド―
女将さん、何探してるんです?

女将―
廃止された都電の車両はどこへ行ったのかと思って。
1台は飛鳥山に展示されているのをこないだ見てきたけど…(※1、写真) 
図書館のジロちゃんに聞いたら『ふたごのでんしゃ』(※2)って絵本を教えてくれた。

     

2台のふたごの路面電車「うしわか」と「べんけい」のおはなし。
2台が走っていた町も市になり、人口が増え自家用車が増え、路面電車は邪魔者扱いされるようになった。
とうとう市議会で廃止と決定されたとき、市長さんが2台の引退後の仕事を思いついた。それが、子ども図書館。

アルフレッド―
東京都日野市の多摩平団地に作られた電車図書館がモデルだそうです。(※3)
当時の日野市長は、有山崧(たかし)さん(※4)。
女将さん、前に、日野市の学校の給食を紹介してました(※5)。
で、日野市へ行ったんですか?

女将―
JR中央本線日野駅で降りて、甲州街道・日野宿のあたりを歩いてみた。「新撰組」ゆかりの日野宿本陣や旧日野銀行(有山家店蔵)とか…
有山崧さんは、日野市長になる前は日本図書館協会の事務局長だった、公共図書館のジロちゃんたちの大先輩にあたるわけね。
電車図書館はみつからない。
歩き疲れたころ、ひょっこり、日野のまおさんに遭遇した。

日野のまお―
移動図書館「ひまわり号」が、南の坂の上まで来てくれたことはよく覚えています。
今でも走っています。


アルフレッドー
日野市の「ひまわり号」は、1965年にスタート、以後、移動図書館が日本全国に普及していったそうです。

野のまお―
でも、都電を使った「電車図書館」のことは覚えていません。

アルフレッド―
日野のまおさん、女将さんと一緒に「電車図書館」を探してくれました。

1966(昭和41)年8月、都電の廃車を再利用した多摩平児童図書館(通称電車図書館)が開設された。
1971(昭和46)年4月には、痛みの激しい電車図書館は「お別れ会」、独立した建物で広さ5倍の児童図書館に建替えられた。

日野のまお―
1971年には私は小さかったので。


女将―
実物は見られなかったけど、日野のまおさんといっぱいいっぱいお話ができた。 良い日でした。

※1 (744)81年 おばあちゃんの原宿
 「飛鳥山3つの博物館」>散策ガイド」>「都電6080(飛鳥山公園内展示)」
※2 『ふたごのでんしゃ』渡辺茂男、絵堀内誠一、あかね書房、1969.12 
    あとがきに
  “この物語にでてきたのとそっくりの電車図書館が、東京都日野市の団地の中にあります。
   先代の市長さんの有山崧(たかし)さんの発案で作られたものです。”
  “(この絵本を)今は亡き有山たかしさん」に捧げます。 (なお、日野市の電車図書館は、1971年に廃止されました。)”

※3 日野市「みんなのふるさとこぼれ話49」、電車図書館の写真が見られます。
※4 日野市立中央図書館の産みの父「有山崧(元日野市長)」を語る   
    「日野宿発見隊 まちかど写真館inひの」>「有山家(屋号「綿十」)前―下町 明治期」 
※5 (707)給食―パンか米かー 
   (710)給食のおじさん 
   日野市では、2026年2月現在、日野自動車工場跡地への
   巨大データセンター建設から暮らしと環境を守る署名 が呼びかけられています。


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(747) 81年 荒川線

アルフレッドー

女将さんが先月、乗ってきた荒川線は、愛称「東京さくらトラム」なんですね(※1)。
都電で、現在唯一運行されている「ひとりぼっち」路線だそうです(※2)。
おみやげ、「都電もなか」ですか。(→写真)

女将―
都電をずうっと利用していた。定期券には都電の「網の目」の路線図が印刷されていた。
或る時期、定期券を買い替えるたびに、路線図の線が減っていった。
ついに、荒川線だけになり、路線図はなくなってしまった。

アルフレッドー
都電が撤去される時期だったんですね。

女将―
「王電」(=王子電気軌道)が「市電」になり、「都電」になり、「荒川線」になる歴史をたどってみた。(※3)
戦災(※4)から戦後、復興した都電網は東京の街を縦横に覆って、昭和30年頃は「都電の黄金期」と言われていた。
その同じ頃から、路面電車を撤去せよとの圧力が、政府や都の審議会などからかけられてくる。
エネルギーの石炭から石油への転換、鉄道からトラック・道路への転換、自動車産業育成へと、国策のもと、路面電車は邪魔者になっていった。



クルマ社会化でひどくなる一方の渋滞に巻き込まれて、都電は、速度は低下するし不規則になるしで、人気がなくなっていった。東京都交通局は巨額の不良債務をかかえるようになった。
1967(昭和42)年1月1日、東京都交通局は、自治省から財政再建団体指定(都電撤去をふくむ)を受けた。
その3か月後、4月23日の都知事選挙で初当選した美濃部亮吉は、自主再建の途をあきらめ地公企法にもとづく再建にふみきった。
すなわち、都電・トロリーバスから地下鉄・バスに代替する。人件費圧縮・ワンマンカー化で、路面電車従業員5720人・トロリーバス従業員591名を配転する。

以後、都電撤去が具体化するとともに、定期券から路線網が消えていった。

「最後まで残っていた荒川線も廃止計画に組み入れられていたが、沿線住民の強い要望や都電を惜む都民の声によって、路面との併用軌道であった王子駅前~赤羽間を短縮しただ
けで廃止をまぬがれた。そして、昭和49年には三ノ輪橋~王子駅前の(27)系統と荒川車庫~早稲田の(32)系統を統合して「荒川線」と改名し、永久存続が打ち出されたのである。」( 『ひとりぼっち荒川線』 p6)

高度経済成長期の、「新しいことはいいことだ」「まだ、やってるの?」という、従来からのモノ・コトを否定し侮蔑する風潮も、都電から地下鉄への転換をあとおししたように思う。
美濃部都知事については、「都電の廃止を決めた」と記すもの(※5)、「荒川線の存続を決めた東京都知事」と評するもの(※6)がある。
美濃部が当選して就任した時、すでに国・都ぐるみで都電撤去に動き出していた。革新知事であろうと、保守知事であろうと、動きを止めることは不可能だったと思う。(※7)
《自分が関与していなかった過去》についての責任を、どう考えるべきだろうか?

都電の路線が消えていくたびに、その路線で働いていた人々が「配転」や「退職」という人生の大事に直面していたのだ、と、今さらに思う。

※1  東京さくらトラム(都電荒川線) | 東京都交通局 
※2 『ひとりぼっち荒川線』 東京都交通局、1978.5.10
※3 荒川線に関する社史の例
1972 『東京都交通局60年史』 東京都交通局
1978 『ひとりぼっち荒川線』 東京都交通局
2021 『今昔写真と路線分析 都電荒川線の全記録』 中村建治・森川尚一、株式会社フォト・パブリッシング
2023 『東京都交通局110年史 平成から令和へ、新たな歴史を刻む 都営交通の10年』 
     「王子電気軌道二十五年史」「王子電気軌道株式会三十年史」「京王電気軌道株式会社三十年史」(1983 『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第10巻 王子電気軌道株式会社二十五年史他』 編集:野田正穂・原田勝正・青木栄一、解題者:和久田康雄、 日本経済評論社)  ※1  東京さくらトラム(都電荒川線) | 東京都交通局
※4 (745) 81年 王子電気軌道 
※5 鎌田慧は「私の東京物語 鎌田慧 全10話5」(『東京新聞』2025.12.11)に「1967年4月、美濃部亮吉知事の革新都政がスタートすると、都電の廃止を決めた。」
 (参考:鎌田慧 「首切りと統制処分-都電合理化問題をめぐって」(『新日本文学』1967.3、p86-77)を取材執筆したときの都知事は美濃部ではなく、前任者・東(あずま)龍太郎だった(在任1959.4.27―1967.4.22)。美濃部亮吉(在任1967.4.23―1979.4.22)。
※6 「【王電・都電びと】荒川線の存続を決めた東京都知事 美濃部亮吉(1904~1984)」
(『今昔写真と路線分析 都電荒川線の全記録』 中村建治・森川尚一、株式会社フォト・パブリッシング、2021.12.27) 
    …財政再建を掲げた前知事の都電廃止の公約を受けて、美濃部は都電の廃止を進めたが、もともと都電廃止には消極的だったようだ。そこで最後の3期目に「都電は公害を出すわけじゃないし、せめて2路線ぐらいは残せないか」と事務当局に指示、荒川線を残させたという(「読売新聞」)。…
※7「発刊によせて 東京都知事 美濃部亮吉」(『東京都交通局60年史』1972、巻頭)

「私が、都知事に就任したときの最初の仕事が、都電の撤去をふくむ交通局の再建計画でした。そのときには、さまざまな拘束条件のもとで、選択の余地もあまりないまま再建計画にとりくまなければなりませんでした。」

美濃部都政について、 無認可保育所の保護者だった私は、保育所充実を自分ごととして感じ、福祉政策・公害対策を支持してきた。
参考:「革新都政(1967-1979)誕生50周年 都民が主人公の都政をふたたび」 
から、見出しを並べると-
◆憲法をくらしに生かす ◆ポストの数ほど保育所を ◆15の春は泣かせない
◆障がい児の希望者全員入学 ◆おとしよりに温かい手をさしのべる ◆東京に青空をとりもどす ◆三多摩格差の解消 ◆東京から火薬のにおいをなくす



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(746) 81年 うま年のモグラ

アルフレッドー
女将さん、もう一月もおしまいですよ、恒例の年賀状机上展覧会をやりましょう(※1)。

2026机上展覧会
      

年もたくさんお話ししましょう・・・
  
      

    
     

観客席
 去年は骨折しまして…   思い出した24年前の人参!   いつもの3人    
   

 

女将―
そうね、メール賀状にしました、とか、卒業します、という流れのなかで、手作りの図柄は年々希少価値が高まってる感じ。
今回は、民俗的な馬たちのパレード
(→パワポを開いて見てください)
写真が小さ過ぎたり、暗かったりで、紹介できない諸君、ゴメンナサイ。
調布のデコちゃん、今年も期待に応えて華やかな「木曽の花馬」を作ってくれた(※2)。
お盆の前にワラ馬が仏様を迎えに船に乗っていく、って初耳。最近では馬より速いからって、おもちゃの飛行機を乗せるとか。
中国の剪紙は、さすが、世界を駆け回って取材してきた方のコレクション。


三太―
観客席もにぎやかだ。
昨年、骨折に落ち込んだ読者さん。
24年前の本を読み返して、すごーい発見した、って興奮してるオネエサン。
「いつもの三人」の「娘」さんのイラスト、年々、ウマくなってる、っておかあ、感心しきり。
おらの散歩圏の星娘さん「ひょっこりお会いできるのを楽しみに」。

アルフレッドー
で、女将さんからは?

女将―
この冬、うちの庭で健闘しているモグラさんのお仕事を紹介します(※3)。
池のまわり、踏み石沿いに、一日おきくらいに、ポコッ、ポコッ、と出現するモグラ塚を計測してみたら、5個の平均重量約700グラムでした。
作者(モグラ)に会ったことがなくて、身長も体重もわからないんだけど。

三太―
モグラの体重は40~180グラムだと、AIが言ってる。
うちのモグラの体重を仮に70グラムとすると、一日に4メートルくらいトンネルを掘進して、体重の10倍の土を地表に押し上げてることになる。
     


アルフレッドー
女将さん、ヒトが炭鉱で一日掘る量は?

女将―
人力だけ、つるはし・スコップだけ、だと…
一日のノルマが、0.5トンから1トンという数字を見つけた。
単純に、ヒトの体重を50キログラムとすれば、体重の10~20倍を掘り出すことになる。

三太―
おかあは、バケツ1杯掘ると腰が痛くなってリタイアする。
バケツ1杯の土って、おかあの体重の1割くらいだろ?

アルフレッドー
巨大モグラ(=シールドマシーン)が掘るのは、大深度地下・40メートル以深だから、地表には影響ない、というタテマエです。(※4)

女将―
調布の巨大モグラは、目視できる範囲にモグラ塚は作らないけど、陥没や空洞を作った。
巨大モグラの飼い主は、地上の住民約50軒を立ち退かせて、「ヤード」にしてしまった。
品川の巨大モグラは道路に高さ13センチのモグラ塚を作った(※5)。

アルフレッド-
日本は、「タテマエ」と「ホンネ」の国なんですね。

※1 (712)乙巳 
   ※2 年賀状の机上展覧会。毎年恒例です
※2 調布のデコちゃんの干支人形は (647)黒猫神出鬼没
    
※4 今まで紹介してきた「調布のデコちゃん」の干支人形
※3 (743)81年 それぞれの年越し 
※4 「陥没」その後―「外環道に破壊された町 調布市東つつじヶ丘」     
   2026.2.1「東京外環道訴訟提訴8周年集会~住宅の真下にトンネルいらない~」
   「陥没」その後―「東京外環道訴訟提訴8周年集会 集会宣言」
※5 「道路隆起の原因は?詳しい説明も情報公開もしないJR東海 リニアトンネル工事の真上で発生
    専門家の見解は」『東京新聞』2026年1月19日 06時00分



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(745) 81年 王子電気軌道
アルフレッド‐
女将さん、とげぬき地蔵から帰ってきてから、あれこれと本をひっくり返してます。

女将―
JRの大塚駅が、駅舎も駅前広場もぜーんぜん変わっちゃってたんで…

アルフレッド-
2005年から再開発・整備が進められたそうです。(※1)

女将―
ふう~ん、それでも、都電の大塚停留所がJR(昔の省線・国電)の高架下にある形は古い写真みてもいっしょ。

アルフレッド-
女将さんとタイムスリップ。
時は、明治44年=1911年8月20日、王子電気軌道の開通式の日。
大塚駅前から飛鳥山までです、今の荒川線のうちのまんなかへんの一部分です。
高木助一郎さんの記録―(※2)

(明治44年=1911)八月二十二日 晴天 火曜日
父ハ今朝板橋税務署ニ至リ所得金高ニ付キテ聞キ来ル、八時ニ出勤ス、今日王子電気軌道株式会社大塚飛鳥山間開通ニ付キ大塚飛鳥山間電車三十回回数巻ヲ役場員一同ニ贈ラル、カヘリテ江戸菊ヲコグ、夜王子ノ家ニ江戸菊ノ花ヲ持チ行キ其ヨリ良サント共ニ飛鳥山ノ王子軌道会社電車開通ヲ見シニ行ク、至レバ停留場前ニ大アーチアリ、其レニイルミネーションニヨリテ王子電車開通ト飾ラル花電車ヲ見ル、実ニ美シ、此ノ電車ハ飛鳥山ヲ発シテ滝ノ川・庚申塚・巣鴨新田ヲ経テ大塚ニ至ル也、此ノ間ノ往復ニテ九銭也、氷ヲ飲ミテ家ニカヘリシハ九時半頃ナリシ
助一郎さんは花電車を見た翌日、王子稲荷へ行ってます。
<王子軌道開通ニ付稲荷社大祭奉納アリテ同電車乗車巻持参ノモノニ限リ宝物ヲ見物セシムル由ニ付キ稲荷ニ行キ宝物ヲ見シ来ル>
家では、麦を俵に入れ終えてから、お母さんと妹たちが飛鳥山へ花電車を見に行きました。
写真(※3)は花電車を見る人々、助一郎さんもきっとこんな様子だったんでしょうね。
9月7日には勤務のあと、夜学に行った帰りに友達2人と飛鳥山へ月見に行き、電車で大塚まで行って大塚の街を散歩して、飛鳥山に戻り、帰宅は11時頃。
助一郎さんが翌年4月5日、飛鳥山の夜桜見物に行くと、王子軌道会社が寄付したアーク灯6個が輝き、花電車も出ていました。
戦前は、池袋よりも大塚が城北の繁華街だったそうです。(※4)

東京市内からの観光・通勤路線でもあり、王子の人々が大塚へ遊びに行く路線にもなったわけです。

女将―
王子電気軌道は、「王子電車」とか「王電」とか呼ばれてた、「王子電気」とも。
っていうことは、猫のウメちゃんのおかーさんのお祖父さんが就職した「王子電気」(※5)だったってこと?

猫のウメちゃんのおかーさん‐
念のために、90過ぎた叔父―祖父の息子―に聞いてみました。
私が「王子電気」だと思っていたのは、「王子電気軌道株式会社」だったそうです。
祖父は明治27年(1894)生れ。最初は電柱の穴掘りから始め、後に監替に昇進、この作業は結構事故があったようですが、祖父の自慢の1つは監督時代に1人も死人を出さなかっ
たことだったそうです。
その後変電所の主任技術者を担当し時間の合間を見て勉強を重ねたようです。
「王子電気軌道」では学歴が中央工学校では昇進に限度を感じて、鋳物の会社に転職したそうです。


おかあ-
「王子電気」って、路面電車の会社だとばかり思ってたけど、電力会社だったのね。

アルフレッドー
明治期の電気関係の会社は、交通事業(軌道)と電気事業(電灯・電力)を兼業していました。(※6)
「王子電気軌道」も、「飛鳥山―大塚」間の電車を開業するのとほぼ同時に電気供給事業をはじめました。「王子電気軌道では、収入全体の7~8割は電灯・電力収入で、電車収入はせいぜい2~3割にすぎなかった(王電三○年史104-105ページ)」そうです。
21世紀の今、荒川線と京王線は全く違っていますが、創業してから昭和の戦時中に統合されるまで、両方の会社は共通点が多かったそうです。レールの幅といい、郊外型の電車を電力会社が運営していたことといい…(※6解題)

女将―
明治末から大正・昭和初期にかけて、照明・熱源のうつりかわりとして、一般には、ロウソク・菜種油・薪炭から石油ランプ→電球・蛍光灯へと、書かれてる(※7)。
都市近郊農村が宅地化・都市化しつつある王子界隈では(※8)、大正期に電気会社どうしの競争が激しくて、「地域協定も結ばれぬままに会社ごとの電線網が形成され、街路には各会社の電柱が入りまじって立てられるという状態が続いた。」
当主が、新しもの好きな或る家では石油ランプに次いでガス灯をつけて豆ランプも湯殿(=浴室)で併用した、次いで東京電灯会社から引いた電灯を使うようになった。
その隣の家では、新しいものに慎重で、ガス灯を使わないまま、石油ランプから電灯になった。電灯を引くときに王子電気軌道株式会社と契約したので、「停電の時もいっせいに真っ暗になるのでなく、明るい家と暗い家とが入りまじって、おかしい程の眺めを呈した。」

アルフレッド?
「王電が敷設した当時、官鉄の東北・山手線は地上を走っていた。このため王子・大塚駅では王電の電車が踏切を渡ることは危険とされ、王電レールは地上線を挟んで分断状態にされた。」(※9)王電の乗客は、踏切を徒歩で渡らなければなりませんでした。
1928(昭和3)年、東北線・山手線が高架化されて初めて、その下のガードをくぐる形で王電の線路が敷設されて、ようやく、三ノ輪~王子~大塚~鬼子母神を乗ったまま、行けるようになったのでした。

日中戦争開始、総動員体制化で、電気(電灯用、電力用)も、電気軌道つまり路面電車も、統制・企業統合が進められました。
「電力管理法」「配電統制令」によって、市営電気供給事業(従業員1121名)は「関東配電」に委譲されました。
王子電気軌道は1942(昭和17)年に東京市電気局に買収されて市電の一部となり、1943(昭和18)年都制施行で東京都交通局の都電になりました。
1945(昭和20)年8月15日の敗戦までに、空襲の被害は甚大で、都電は、営業路線163km(戦前の81%)、運転車両数296両(同26%)、運転キロ57.453km(同19%)、乗客数は戦前の3割となっていました。(※10)

※1 「変化著しいJR山手線「大塚駅」で再開発準備組合設立。南口がさらに変わる!?」
大塚駅、「池袋よりにぎわっていた」駅前の変遷都電が発展させたエリア、再開発で新たな風
※2 『高木助一郎日記(第四号~第九号)調査報告書2 文化財研究紀要別冊第二九集』2021、p138
※3 「1911年8月、飛鳥山上~大塚駅前間の開通を祝う装飾電車。」『ひとりぼっち荒川線』 東京都交通局、1978、p25
※4 石川光陽写真、編集協力森田歴史写真資料室 『昭和の東京 あのころの街と風俗』 朝日新聞社、1987.8.10、p38
「大塚は戦前は池袋をしのぐ城北の繁華街でしたが、戦後は中心が西よりになるとともに停滞してしまいました」
※5 (743)81年 それぞれの年越し
※6 1983 『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第10巻 王子電気軌道株式会社二十五年史他』 日本経済評論社、1983、(p1 解題)
「解題「王子電気軌道二十五年史」「王子電気軌道株式会三十年史」「京王電気軌道株式会社三十年史」 和久田康雄」
電鉄会社の兼業のもっとも重要なものとして、第二次大戦中の電力統制以前は電気供給事業があった。初期の電気鉄道はその電力を自社の発電所でまかなうものが多く、そうした
ことから沿線の住宅や工場への電灯・電力の供給も兼営することが当然のように計画された。」
「王子電気軌道も京王電気軌道も、軌道としての特許を受けると間もなく電気事業の経営について申請し逓信大臣の許可を受けている。」 「王子電気軌道では、収入全体の7~8割は電灯・電力収入で、電車収入はせいぜい2~3割にすぎなかった(王電三○年史104-105ページ)。」
電気供給区域は、電車の沿線以外にも広く、埼玉県の川口市や北足立郡までを区域としていた。
(→添付地図は『王子電気軌道株式会社三十年史』1940、p148(『大正期鉄道史資料 <第2集>国有・民営鉄道史 第10巻 王子電気軌道株式会社二十五年史他』)
※7 例:『新版 昔のくらしの道具事典』監修:神野善治、小林克、岩崎書店、2014、p85-87
※7 例:『新版 昔のくらしの道具事典』監修:神野善治、小林克、岩崎書店、2014、p85-87
※8  『音無川 八木豊の周辺』、1981、p54
※9  『今昔写真と路線分析 都電荒川線の全記録』中村建治・森川尚一、株式会社フォト・パブリッシング、2021、p87
※10 『東京都交通局60年史』1972、p176
1911年8月、飛鳥山上~大塚駅前間の開通を祝う装飾電車。」『ひとりぼっち荒川線』 東京都交通局  鳥瞰図 『王子電気軌道株式会社三十年史』1940


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(744) 81年 おばあちゃんの原宿

アルフレッド-
女将さん、どこ行ってきたんです?

女将―
立川の先生たちに触発されて(※1)久しぶりに都電に乗ってきた。どうせ乗るなら、四の日、とげぬき地蔵の縁日に、と思って。
荒川線、立川の先生は全線乗りつぶしたけど、私は「大塚駅前」から。
都電には、最近こそ乗ってないけど、小さい頃から断続的に40年以上お世話になった。
最初の記憶は、王子駅前から日本橋まで、デパート「三越」に行った。
高校入学からは、通学そして通勤に、よっく乗ったわりに、あんまり記憶にない。
荒川線というと、工員・職人の下町を連想する人もいる(※2)けど、沿線にはいくつもの学校・大学があるから通学の思い出を持つ人も多いと思う。
毎年、四月、沿線の学校の新学期。新入生は乗り慣れないので、混み方がひどくなる。一
ヶ月もすると、乗り慣れておさまってくる。
毎月、「四の日」異なる客層で混雑する-「ああ、今日はとげぬき地蔵の縁日だ」(※3)

アルフレッド-
「と・げ・ぬ・き・じ・ぞ・う・の・え・ん・に・ち」?

女将―
そ。JR山手線や地下鉄三田線なら巣鴨駅下車、都電なら王子か大塚から乗って「庚申塚」下車。
とげぬき地蔵通り商店街の中に「高岩寺」、通称「とげぬき地蔵」がある。
お地蔵さんにお参りして、商店街にいっぱい出る露店をひやかしたり買い物したり、食べたりして2時間くらい過ごす人が多いらしい(※4)。

三太―
おかあも、トシだけは立派に「おばあちゃん」だ。
で、何をして来たんだ?

おかあ(=女将)―
高岩寺にお参りして、露店ウオッチング。
何しろ、小物、着る物、食べる物、極安から結構なお値段の店まで、とりどりで。
甘だって、200円の店も300円の店もあるし。
「どれも100円」とか「帯・きもの 500円、1000円」とか。
「スマホケース」専門の露店があった。いまどきの年寄りにはスマホが必需品だってこと。
「赤パンツの店」は、全店真っ赤っ赤。
下着が何色だって人に見えるわけじゃない、って、アタマじゃわかってる。34年も前に書いた<白いヒラヒラの下着という呪縛>(※5)から自由になれない自分に、妥協して赤い五本指ソックスを買った。
「学校給食の揚げパン」セットを食べて…。(※6) 

アルフレッドー
「縁日」なら、金魚すくいとか、おもちゃとかの露店も出るんですね?

女将―
それが、「とげぬき地蔵」の縁日には、子ども向けはほとんどないみたい。
この本の座談会に(※4 p160)
   古田―ご老人が目立ち始めたのはいつ頃からですか。
   西村―地下鉄ができた昭和43年(1968)、そのあたりからじゃないでしょうか。
   どっちにしても昼日中から来るというのは年寄りだし、男よりは女だよね。(笑い)

アルフレッドー
日本には「おじいちゃん」はいないんですか?

女将―
「おばあちゃんの原宿」って呼ばれるようになったのは、1987年だったらしい(※3)。
その頃、若者で賑わう所として「原宿」が有名だったのに対して、巣鴨は年寄、とくに女性が多い、ってことで。89年には『おばあちゃんの原宿』という本も出た。(※4)

その頃、都電を利用していて「庚申塚」で乗降する人たちを見ていて、本も読んでいたけど、遠い別世界のことだった。40代の自分は「おばあちゃん」じゃないから。
この本の編著・調査のリーダー(川添登さん)は1926年生まれ(60代)だけど、調査者たちは1940年から1959年迄の生まれ、つまり、30代~40代。調査対象を自分とは異なる世界の人と見ている距離感が、うかがわれる。

今、40年近くをおいて、この本を読み返してみる。と、イラストに描かれた1987年当時の「おばあちゃん」たちよりも、今(2026年)の「おばあちゃん」たちは若々しいと思う。
p31に1987年当時の観察結果があげてある。
   “ズボン  97人(55%)
    スカート 38人(21%)
    着物   42人(24%)
となった。ズボンが約半数、スカートと着物がほぼ4分の1ずつというその割合は、ヒアリング調査28人分の類型とも一致しており、さらには、とげぬき地蔵通りの老舗の衣料品店の冬の品揃えとも符合する。“

2026年現在、高齢女性はズボンスタイルになっており、スカート派は稀、和服はイベント衣裳。つまり、50代、60代の頃からの着衣習慣が続いているし、髪を染めるのはあたりまえ、白髪・グレーヘアはあえて言えば「自己主張」となっている。
付添なしで町を歩ける健康状態の人は姿勢が良いので「おばあさん」臭くない。
杖を持ち、背中が丸くなって動きが鈍くなって「年寄り臭くなる」のは70代半ば、「後期高齢者」と行政から決めつけられる頃から。
でも、40年前のおばあちゃんたちの“不安・孤独・貧困・怒り”は、今のおばあちゃんたちとは無縁なのかどうか…

1990年代、1913(大正2)年生れの女性Aさんに誘われてとげぬき地蔵の縁日に行った。
お参りとぶらぶら歩き、「お雑煮」などの軽食をとり、腰掛けて休憩。出費は往復の都電乗車賃と食事代だけ。
Aさんは、小学校卒業以来いろいろな仕事に就いてきた。病気で働けなくなって、息子夫婦に引き取られたマンションでは、役割がない。夜は孫たちと同室、昼は在宅仕事の邪魔にならないように、口実を探して外出する。
とげぬき地蔵の縁日は、特別に贅沢をする一日だった。
Aさんが漏らす言葉に、ただ、聞いていた。私に何ができたのだろう…

縁日を歩いていたら、アジアからの留学生たちに声をかけられた。
日本語学校の課題に
「とげぬき地蔵の縁日で『昔と今の違い』についてアンケートに答えてもらいなさい」
う~ん、『昔』っていつのことを話せばいいのかな…
誰にとっても、ものごころついた5才くらいより前のことは『昔』(※7)。
20代の彼らにとっては30年前は『昔』だけど、私にとっては『ちょっと前』。
服装の違い、を話して、写真を撮り合って、別れた。

そうそう、40年前には、縁日で外国人に会わなかった。
40年前、留学生とのつきあいはごく少なかった。
日本を留学先に選んでくれた人が、卒業後も「親日家」であり続けて欲しいと思う。


※1 (743)81年 それぞれの年越し
※2 例えば-テレビドラマ「男たちの旅路」山田太一作品、1976年。
   小説『いつか王子駅で』堀江敏幸、新潮社、2001年
※3 「とげぬき地蔵尊高岩寺  (曹洞宗萬頂山高岩寺公式サイト) 2026/01/11取得
※4 『おばあちゃんの原宿 巣鴨とげぬき地蔵の考現学』編著川添登、平凡社、1989年
   1987年3月から88年8月にかけて、日本生活学会有志が行った考現学調査の報告書で、
   ファッション・露店・商店街一覧など、たくさんのイラストが載っている。
※5 むらき数子「現代衣生活考「ヒラヒラの呪縛(下着その二)」」『くらしと教育をつなぐWe』1992.1 
※6 地蔵通り商店街のレストランには「懐かしの学校給食 揚げパン」と掲示がある。 
   「高度経済成長期の学校給食 東京都の学校給食喫食者と学校栄養士を対象とした調査研究」
    赤松利恵・渡邊紗矢 p156
   (『国立歴史民俗博物館研究報告 第241集 [共同研究]高度経済成長と食生活の変化』 2023.4)
   「好きなメニュー・苦手なメニュー」
     …どの年代でも、揚げパン、カレー、クジラが上位3位であった。」
※7 2017 藤井青銅『「日本の伝統」の正体』 新潮社
   (599)アルフレッド・三人きょうだい 


巣鴨地蔵通商店街15「マルジ赤パンツ



揚げパンセット


「巣鴨案内図」
(『おばあちゃんの原宿-巣鴨とげぬき地蔵の考現学』p。8)


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(743) 81年 それぞれの年越し

アルフレッド-
前号で女将さんが柿なますを作った後、インフルエンザで寝込んだと書いた(※1)のでお見舞いとお年賀をいっしょにいただいています。

米田佐代子さん-
高齢になり、「女性文化賞」(※2)もう出せないかと思いましたが、戦後80年の節目に「戦争の反省などしない」という女性首相が現れたことに腹を立て、歩行困難なのでアタマだけ走り回って出すことができました。

何人もの友人知人(賞をさし上げるご本人まで!)が「よってたかって」段取りをつけてくださって、満蒙開拓団でソ連兵に「性接待」要員として差し出され性暴力の被害に遭った女性たちが、帰国後「口外するな」といわれたのを「事実をなかったことに出来ない」と手を取り合って語り続け、戦後世代の支援も得てそのいきさつを大きな碑にして刻み込み、日本の侵略戦争を反省・告発する過程を映画『黒川の女たち』に撮った松原文枝さんにさし上げることができました
来年も生きていたら出せるといいなと思いつつ。

海辺のうづらさん
昭和16年の『主婦の友』の付録に、すりおろした長芋と、メリケン粉や上新粉をいれる
「代用餅」が載っていました。
作ってみます。

猫のウメちゃんのオカーサン-
暖かくしてゆっくり回復してくださいね、お大事に!
おせちは作らないけどなますは作るとか。
柿なます美味しそうですね。
私も今回は柿なますにチャレンジしてみます。


三太―
猫のウメちゃんのオカーサン、干し柿を何個入れた?
おかあは干し柿をいままで4個入れてたのをこの冬は5個入れた。
甘味が増して、売れ行きがよかった。

のウメちゃんのおかーさん-
干し柿5個に驚いています。沢山作ったのですね。
私は径18㎝、深さ3~4㎝程の丼に作ったなますに干し柿1個で良いかな?と思いつつ2
個入れてみましたが少なかったですか?
甘すっぱくて美味しかったので私的には満足でした。
レシピ情報もありがとう!


おかあ-
小さめの丼に一杯作ったんですね。
私は太~い大根10センチくらいと小さい人参1本、干し柿5個を刻んで、縦13センチ×
横20センチ×深さ4センチの容器に一杯作りました。
猫のウメちゃんのおかーさんの丼にして4杯分だったので、干し柿5個は、もっと多くて
もよかったわけね。

猫のウメちゃんのおかーさん-

中央工学校は京浜東北線の車窓から看板が見えましたね。(※3)

明治生まれの母方の祖父が通っていた学校と聞いていました。
10歳でロウソク屋に奉公に出された祖父は、「これからは電気の時代だ」とロウソク屋を
飛び出して電柱の穴掘りの仕事から始めたそうです。
中央工学校で勉強してから「王子電気」に就職したのか就職してから勉強をしたのかは不
明ですが、祖父の人生の節目にあった学校だったと思います。

北区民になって5年のヨーコさん―
今年もおせち作りました、きんとん、なます、黒豆、お煮しめなど。
名主の滝公園、整備工事で大変なことになっています(※4)。
名主の滝公園のみどりを守る会で活動、新しい友だちもできました。

立川の先生夫妻―
都バスフリーパスの旅で、王子稲荷へ初詣に行きました。(※5の地図参照)
昨年の圧迫骨折が再発するといけないので、雑沓を避けて、「狐の行列」(※6)が王子稲荷に到着してから一夜明けた元日に行きました。
境内の「御石様」と呼ばれている力石は持ち上げようとしないでさわるだけにしました。
亀山と中央工学校を確認して、石鍋商店でしっかりくずもち「久寿餅」とあんみつを味わい、狐のお面を買って、唯一残った都電荒川線に乗ってきました。
都電で王子から、一旦三ノ輪橋まで行き、早稲田まで引き返しました。
戦後生まれの僕が、叔父さんを訪ねる時は、渋谷から金杉橋行きの都電に乗った記憶がうっすらとあります。
本当に金杉橋行きの都電があったのか、自分の記憶を信じたくて複刻版「東京35区区分地図帖」で確認すると、渋谷発金杉橋行きの路線があることが確認出来ました。

アルフレッド-
都電荒川線の始点から終点まで、乗ったんですね。
うちの庭では、5年ぶりにモグラ塚が活発に出現しています。(※7)

おかあ‐
モグラさんの健闘を祝って、小豆粥を作ることにします。
「戦後」が続きますように…


※1 (742)80年 
※2 女性文化賞「米田佐代子さんによる受賞者紹介(第21回~)」『高良留美子資料室』
※3 (740)80年 亀山の学校 
   (741)80年 測量 
※4 (727)80年 名主の滝 
   「都市計画公園 名主の滝公園」   
※5 (726)80年 イチョウ 
※6 (319)三太狐の行列 
   王子狐の行列 
※7 (581)アルフレッド・もぐら打ち 



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(742) 80年 大根
アルフレッド-
女将さん、大根と奮闘しています。

女将―
年末になると、「ナマス」だけは作る気になって。

アルフレッド-
「な・ま・す」?
検索すると「ナマス」って、大根のせん切りと何かを組みあわせる食べ物です。
白い大根と赤い人参とで「紅白」で縁起が良い、と日本のヒトは感じるんですね。
「変わりナマス」には、ハム・鶏胸肉・干しエビ・塩鮭・レンコン・リンゴ・カニ缶など、
いろいろな魚・肉を入れる例があります。
学校給食には、大根も生のままじゃなくって、加熱・冷却してから調味するんだそうです。(※1)
女将さんのは「かきナマス」だそうですが、牡蛎を入れるんですか?

三太―
違う違う、おかあのは「柿ナマス」、干し柿を入れる。

女将―
ずうっと前、明治生まれのおばさまに「油揚げナマス」を戴いたことがあった。
油揚げの袋にナマスを入れるんじゃなくって、油揚げをせん切りにしてまぜる。
私は作らないけど。

アルフレッド-
「大根」のおまつりがあるそうです。検索したら、
広島県の世羅高原農場の「大根まつり」は今年は10月25日でした。(※2)
12月20日には、箱根西麓・「三嶋大根祭り」では、ふろふき大根・おでん・たくあん。
期間限定で大根干しのやぐらを再現されていたそうです。
このやぐらというのは、大根を縦にぶらさげて干すんですね。(※3)

三太―
巨大な白い縄のれん、みたいだ。

アルフレッド-
東京・浅草の待乳山聖天の「大般若講・大根まつり」は、毎年1月7日にふろふき大根が
振舞われるそうです。(※4)
ナマスを作り終えた女将さん、寝込んじゃいました。
インフルエンザだとお医者さんに言われました。
年内はひとに会わないほうがいいとも言われたので、今号はここまで。
みなさん、良いお年を! ではなく、良いお年に!

※1 学校給食献立のナマス
※2世羅高原農場の「大根まつり」
※3 三嶋大根祭り
※4 大般若講・大根まつり



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(741) 80年 測量
+
アルフレッド ―

女将さん、王子駅から亀山へ行く途中に、もう一つ学校がありますね。

女将―
そうそう、「順天学園」(※1)。
昭和30年頃には「王子ドレスメーカー女学院」と「王子英語学校」だった所だと思う。(※2、←写真)

敗戦から15年ほどの間、空前の「洋裁ブーム」だった(※3)。
そもそも、順天学園は、191年前、1834(天保5)年に大阪で福田理軒が開いたときは、和算の塾だった。明治初め「本邦最初の測量技術者養成校」となった(※4)。
校誌をたどると、その後、男子の中学校になり、女子高等学校へ、さらに男女共学校になり、今では中高一貫校です。

アルフレッド-
高木助一郎さんの日記によると、大正4(1915)年8月20日から26日まで、板橋税務署主催土地測量講習会に出席しています。会場は板橋小学校です。(※5)

女将(=おかあ)―
北豊島郡の中心の板橋町に、郡下の町村役場の若手吏員を集めて受講させたんでしょうね。
助一郎さんの住んでる大字下十条は、王子町のなかでも板橋町に隣接してるし、板橋小学校も近いから、往復は歩いたんでしょう、昔のひとは健脚だから。
講習会の講師は東京税務監督局技師倉田幸蔵氏。
7日間、日曜も無休で、朝8時から午後3時ないし5時頃迄。日割は
  第一日 講話    第二日 実習    第三日 同    第四日 同
  第五日 実習    第六日 同     第七日 講話
最終日の8月26日木曜日は、全日程を午後3時に終了して、「紀念撮影ヲナシ其ヨリ証書授与式」。「開会ノ辞」、「講師ノ講評」、「修業証書授与」、「講師ニ対スル講習生ノ送付式」演説(郡長、税務署長、郡視学、板橋校長)が全部終ったのは午後5時30分。

助一郎さんは、講習の一週間後から、時々、“測量した”と記しています。
業務として小学校の「測量ヲ命ゼラル」という日もあれば、某さんが来て「〇〇番地ヲ測量シクレズヤトノ事ニ付キ」測量し図面を作った、という日もある。
王子町は、鉄道用地や軍用地、民間会社の工場用地、学校の新設、校舎の増改築にと、田畑・山林の買上げが頻りで、地主の側も代替地を求めたり、宅地化して家作(貸家)にしたり、電柱建設の件で寄合ったりと、浮足立っている。

アルフレッド-
大正期の王子町は、日に日に《開発》が進み《都市化》していってるんですね。

女将―
昭和42(1967)年、中央工学校は、明治44(1911)年以来ほぼ60年ぶりに測量科を復活設置しました。
「地域開発が盛んで、どの都道府県・市町村でも公共投資による仕事が多かった」時代に「測量技術者に対する需要が頂点に近かった。」「測量科の設置が、王子校舎時代の発展
をもたらし、中央工学校の黄金期を築く一つの契機となったことは特筆すべきであろう。」とあります(※6)。

アルフレッド-
測量の歴史に残る学校が2校も、神田から王子に移ってきて現存しているんですね。

女将―
偶然の結果なのかな…
たまたま「測量士」養成をたどってみて、日本の近現代社会は、私塾・各種学校・専修学校で学んだ人たちが担ってきたんだな、って改めて思う。
私のあたまの中の教育史は、【学校令】中心だったんだ、って。(※7)

※1 順天中学校・順天高等学校 
   『順天百九十年史 校長 松見文平』2022.8.26 
   『順天180周年記念出版 創立者福田理軒伝』2014.8.26 
   創立者福田理軒の伝記を漫画で描いて吹き出しも5ヶ国語(日本語、漢語、韓国語、タイ語、英語)、
   「まんが甲子園」に何度も出場経験のある劇画部の協力によるもので、「漫画は日本の文化」とある。
※2 「昭和30年代、王子ドレスメーカー女学院(岸町)」『写真アルバム 東京都北区の昭和』いき出版、2020年、p190
※3 「洋裁 自分の服を求め、学び、作る」『朝日新聞』2024年8月3日 3時30分
※4 『地図をつくった男たち 明治測量物語』山岡光治、角川文庫、2022年、p229
※5 『高木助一郎日記(第十号~第十七号)調査報告書3 文化財研究紀要別冊第三十一集』北区教育委員会、2023年、p。177~
※6 『中央工学校八十年史』 中央工学校八十年史編纂委員会 編纂、中央工学校、1990.10.21、p.339―343
※7 たとえば、文部科学省『学制百五十年史』2022.12.30 



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