‘45〜47年茨城新聞

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

目次
第一章「茨城新聞」に見る「憲法」制定過程

小園優子




(その二)

 憲法改正の出発は、以上述べたようなハプニングを伴ったものとなった。GHQ作成の草案を受けて、政府は再度、改正案づくりに着手することになり、入江法制局長官を中心に金森徳次郎博士(☆1)、松本国務相など関係者がその法文化を急ぎ、各閣僚の最後的承認を得、4月16日に幣原首相は、天皇にこれを上奏し、裁可を得たので全文を発表した。
「憲法改正草案法文成る 十一章百ヶ条に成文 平仮名、口語体の民主憲法」(46.4.18)と、華々しく躍っているトップ記事がそれで、一面全紙を使って100ヶ条すべての条文が初めて口語体で記され、掲載された。

こうして作られた憲法改正案は、第一次吉田内閣の’46年6月25日に第90回帝国議会に提案された。この改正案は、憲法学者金森徳次郎を憲法問題専任の大臣として国務大臣に就任させ、その年の春に初めて行われた新選挙法によって選出された女性議員39人(☆2)を含む衆議院議員によって国会で審議されることになった。
審議は、
 「・・・廿九日からは芦田均代議士を委員長とする七十二名の委員から成る異例な特別委員会に移され、・・・」(46.7.8)
まず衆議院で論議が開始され、
 「・・・改正憲法の歴史的審議は、前文ならびに第一条に主権が国民にあることの明記と、戦争放棄の積極的表明を修正点の二頂点として民主憲法の方向を一段と強調する数々の修正を行ってその使命を終え・・・」(46.8.6)
8月半ばに大詰へと向かい、
 「・・・六月二十八日第一回委員会開会以来、七月二十三日まで逐条審議を行い、さらに七月二十五日より八月十六日まで前後十二回に及ぶ小委員会懇談会で、憲法案全条章に及ぶ修正討議を加え・・・前後二箇月に近い慎重審議を重ねた結果、帝国憲法改正案は極めて重大かつ広汎に亘る修正を受けて、二十二日以後の本会議に上程、採決に付され、歴史的な修正可決の運びとなった。・・・」(46.8.19)(☆3)
とあるように、改正案は衆議院憲法改正小委員会といわれる委員会に移された。この会合は秘密に開かれ、アメリカ側の指示が内密に伝えられたともいわれている。

こうして、8月24日、憲法改正案は可決成立し、貴族院(参議院は当時まだ貴族院であった)に廻された。
 貴族院では、
 「・・・質問者の顔振れも宮沢俊義(無)南原繁(無)牧野英一(無)浅井清(交友)佐々木惣一(無)等何れも学界の最高峰を行く人々で、之等の諸権威が精緻な法理論に立脚して展開する学究的な憲法論議は、衆議院における政治的論争とは別箇の意義を有するものとして注目される。・・・」(46.8.27)と書かれているように、いわばその理論的仕上げに重点が置かれた。 >>


 かくして、10月7日に憲法改正案は成立した。
だがその制定過程について新聞は次のような批判をしている。
 「・・・審議に当った各議員の熱心さは認めても、その理論的水準は全体として必ずしも高いとは云いえず・・・世界注視の中に行われた新憲法の審議としてはいささか淋しかった。政府側は金森国務相が責任を一手に引受けて前後千三百回に亘る答弁を行い、あたかも『金森憲法』の観を呈したが・・・新憲法の民主的内容は、もっと積極的な喜びを以て迎えられて然るべきであるにも拘らず、国会の□□は全体として明治憲法に対する惜別の情の痛切なのに比して新憲法に対する支持が稍々消極的に思えた。・・・」(46.10.9)
 右の記事に、「世界注視の中に行われた新憲法の審議」とあるが、先にも書いたように、極東委員会をはじめとする他の諸国が、日本の戦後のあり方を注視していたのは確かで、殊に極東委が絶えず注目したのは当然であった。
 7月4日付けの「茨城新聞」にも一面トップで「日本憲法の原則採択 極東委員会 マ元帥に送付」の見出しで、
 「極東委員会は特別会議において、日本民主政府を確立する新憲法の『原則』を満場一致採択した委員会の決定文書を、直ちにマッカーサー元帥の承認を得て議会へ提出した。
憲法草案と比較するためと見られる。委員会当局では決定の詳細発表を避けており、先ずマッカーサー元帥に相談することに申合せが出来ているが、今回決定の『原則』には日本新憲法の従うべき諸条件が含まれているものと解される」(46.7.4)と大きく報じられていることに注目したい。

新憲法の成立をアメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」は「日本革命の完成」と題して次のように論評している。
 「・・・この新憲法は東洋的神権主義を捨てて、西欧民主主義の進歩的形態ととりかえた。新憲法はその宣言中で『吾々は主権が人民にある事を宣言する』と述べているが、これこそ総ての民主主義的政府の第一の原則であり主要な基礎である。・・・」(46.10.11)

 一方、日本の新聞はといえば、「茨城新聞」の論説欄は、「新憲法と国民の覚悟」という表題で、
 「・・・今年の四月に初めて草案が発表されてから七ヶ月、議会にかかってからも四ヶ月になった。議会審議の延時間も議会始まって以来の最高記録を作った。憲法を作る形式からいえば、例えば議会を解散して特別の憲法制定議会を召集するのが当り前だという意見もあった。また大衆的な討議の機会が少なかったというような批評もある。然しポツダム宣言によって政治の民主化を急ぐ必要があるいまの特別な事情を考えると、新憲法を作った手続きが民主的でなかったと非難は出来まい。・・・
   またその内容も各政党の発表していた草案よりもずっと進歩的なものであった。しかして天皇制という国民の感情から流れ出た組織と、人民主権という近代的理性から生れた制度を、一つに接木しようとするところに新憲法の悩みがある。だから金森国務相の説明では充分に徹底せぬ感じを残している。・・・
   新憲法の改革をのぞむ者は政治と教育によって大衆を啓蒙して新たな理想が大衆の常識になるように努めなければならない。・・・
   だから立派な憲法を生かすのも殺すのも国民の政治知識と政治的訓練である。・・・」(46.10.10)
 つまり焼跡の上に、今までとは違った骨組みの立派な基礎が完成したが、これを生かすも殺すも国民の今後のあり方だと戒めている。
 ところで、この論説の中に、「古い天皇制と新しい人民主権の接木」という言葉が出てくるが、このことに私はこだわる。
そこで、憲法草案審議の過程で、その問題がどのように扱われたのかを記事を通して眺めてみよう。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆1 金森徳次郎(かなもりとくじろう)
「1886-1959(明治19-昭和34) 憲法学者、官僚。名古屋市に生まれる。1912年東大英法科卒。法制局に入り、法制局書記官などを経て、‘34年岡田啓介内閣の法制局長官となる。著書《帝国憲法要綱》(1921)は高等文官試験の参考書としておおいに読まれたが、その天皇機関説は、美濃部事件に際して攻撃され、‘36年辞職。戦後‘46年、第1次吉田茂内閣の国務大臣として新憲法制定の衝にたずさわった。議会における憲法審議の答弁にあたり、宮沢俊義貴族院議員の<八月革命説>と対立した。‘48年より国立国会図書館初代館長。《憲法随想》《書物と人間》など、随筆家としても知られる。」(長尾龍一『大百科辞典』平凡社、1984)
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☆2 いばらき女性史編さん事業委員会編『いばらき女性のあゆみ』(茨城新聞社、1995年、p.235-237)によれば―
‘46年4月の戦後第1回総選挙は一県一区の大選挙区制限連記制。女性議員が全国で39名当選した中に、茨城県から1人、自由党の杉田馨子が当選した。
茨城県の立候補者数は定員13人に対し89人。有権者数は、県全体で98万1146人、うち男子42万7882人、女子55万3264人で女子の方が12万5000人も多かった。投票率は63.5%で全国の72.08%より低く、とくに女子は52.4%と低率であった。
杉田馨子は1908(明治41)年、東京生れ、日本女子大学卒業。夫杉田省吾が公職追放となったために急遽、身代り立候補した。

杉田の選挙戦を、「茨城新聞」は次のように報じた―
 「光る応援弁士各候補とも演説会の低調ぶりに悲観の際ただ一人流会続きの農村演説会にも断然大入の人気を呼んでいるのが自由党公認候補の杉田ケイ子女史夫君に代って敢然出馬しただけに粒は小さいが全身に横溢する政治力は杉田省吾氏を今日に導いた内助の功を遺憾なく物語り、『女の候補者を女の力で出よう』のスローガンが婦人有権者にピッタリ喰ひ入り物凄い人気・・・」(46.4.1)で、第3位当選を果した。議員生活は1年で終わる。
 杉田省吾は、かつて南方占領地の司政庁で佐官待遇の軍属をしたことのある筑波郡出身の右翼主義者であり、終戦直後の8月20日ごろ、土浦警察署長をおとずれて、米軍の占領に備えて慰安所を設置するよう示唆した。(池田博彦『警察署長の手記―終戦前後のこと―』下、ふるさと文庫、筑波書林1983年、p.117)
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☆3-1 青年学校の家庭科の助教諭である潮地ルミ(1925年東京生れ)は、‘46年7月17日、貴族院本会議、衆議院憲法審議会を傍聴した。放送局勤務の父親と一緒に行き、報道班員の腕章をつけて入った国会の印象を次のように日記に記した。
「17日   (貴族院本会議は)お殿様の会議だけに流石にお行儀は良いが活気に乏しい。食糧難どこ吹く風といふような人ばかり。そして議長もはっきりしないし(今日の感じでは)報告も活気に乏しく、質問はやたらに長くて、こんなものは必要ないと思った。一寸も国民のことを考えさうもない。しかも居眠りの議員の多いことよ。実際居眠りの出るのも無理ない程熱のない会議であったのだ。
衆議院の方もはっきり聞こえず残念であったが、婚姻の条につき、自由党武田きよ(☆4)と言う婦人代議士がかなり突っ込んだ質問をしていたのは心強い。」

☆3−2 土浦から満員列車で通勤していた毎日新聞社記者・小林登美枝は議会の様子を(春原昭彦他編著『女性記者―新聞に生きた女たち』世界思想社、1994、p.87−88)―
「婦人代議士が揃って帝国議会に初登院したときは感激しました。日本国憲法の審議には婦人議員も参加していて、憲法草案委員会には私も出入りしていました。しかし、婦人議員の政治的力量は概して、まだ、低かったように思います。・・・
   議会担当記者として、小林さんは、冷静な眼で国会を見つめていた。四六年九、一○月号の『生活者』(生活社発行)に、当時の議会傍聴記を寄せている。
 <今年の夏は、とうとう議会で過ごしてしまった。・・・私たち新聞記者の席は、傍聴席の下の二階になってゐるが、議場内に立ちこめる熱気が天井近い二階のほうへ立ち昇って来るので、息苦しいまでに暑い。
新聞記者は、のんびりと扇の風など送ってゐられない。本会議の発言の一言半句も聞き洩らさずに、ニュースをまとめあげてゆかねばならないのだから、鉛筆を走らせてゐると、汗は流れ放題といふことになる。
なかでも気の毒なのは、責任をもって「本記」を書く人で、どんなに暑くても記者席から離れることが出来ず、夕方散会するとぐったりとのびてしまっている>」
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☆4 佐藤まや「婦人代議士誕生―三九人の横顔」(『銃後史ノート』復刊7号、1985年、p.204-224)によれば、武田キヨは―
「武田キヨ 広島県 自由党 五一歳 東京女子高等師範学校卒業後、女学校教諭、校長などを経、呉港中学校長夫人、自身も同校の教師として現役。戦前は市川房枝の婦選獲得同盟の中国支部長を勤め、婦選運動に参加する。「平和日本の政治は愛の政治でなければならぬ、母心といふか、政治愛といふか、愛情の行きとどいた政治を心掛けたい」(朝日 四六年四月十三日)と主張した。
 『逐条日本国憲法審議録』によると、七月十七日の憲法改正審議では、婚姻生活における女性と子供の保護について、
「本当に母と云うものの大きな力を私は国家が期待すると同時に、これに対して、母性の尊重と申しますか、保護と言うよりは寧ろ私は尊重と云う意味で、これに対して国家が適当な取扱をせられるようにと云うことを要求して居るのでございます」と演説している。
 また第二三回総選挙にあたっては、自由党婦人部副部長として次のように述べている。
「自由党の行き方は、革命に対して革新だと申し上げたいのです、そうすれば婦人の本質からいっても当然革命は避け革新への道をとるのが当然だと思われます」(婦民 四七年二月二○日)
 このときの選挙法改正に対して全婦人代議士で中選挙区連記制の調停案を出すことを提案するが、進歩党婦人代議士の反対で流れた。
 第二三回総選挙でも当選する。」
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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