'45〜47年茨城新聞</

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

目次
第二章「憲法」普及の取り組みと公布・施行の賑々しさ


(その一)


 1946年4月に憲法草案が提案されて7ヶ月、その間議会での審議に4ヶ月の月日を要してようやく成った新しい憲法を、人々にどう根づかせるか。それは政府にとっても、GHQにとっても一大事業というべきものだったろう。
なにしろ敗戦後の混乱は、何よりも生きていくために必要な食糧の不足だった。
(☆19-1)

戦時中から配給制度は続いているものの、その配給でさえ遅配・欠配が続くようになり、農村はともかく、都市生活者は、自分の着物をはいで、持てるものを食糧に代える筍生活(たけのこせいかつ)から、やがて「『一皮はぐごとに涙の出る』玉ネギ生活」(47.4.24)に陥っていた。
 その一方で、石炭不足による過度の電力事情の悪化は、ローソクの在庫も払底するほどで、夜も暗いままとなっていく。そんな日常は、私の思い出の中にもはっきりときざまれている。そればかりか工場への電力供給に支障をきたし、生産不可能となった工場の閉鎖により失業者は増え、その上、物価はヤミ値の横行でつり上がるばかり、ほんとうに一千万人の餓死者の予想も現実にならんとする時代だった。(☆19-2)

 それゆえ、1946年5月19日に「国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ねギョメイギョジ」と書かれたプラカードを掲げて皇居内に入っていった有名な食糧デモもあったように、「賃金よこせ」「食糧よこせ」のストライキは、全国津々浦々にこだまし、農業県だった茨城県でさえ例外ではなかったことが、記事を通して読みとれる。したがって、食うや食わずの人々にとって、新憲法など「何処吹く風」と無 関心そのものの人が多い中で、これをどう根づかせるか、真剣にならざるをえなかった。
 
だからこそ、政府は、新憲法が衆院を通過した時点で、早くもその普及方法を訴えている。
 「・・・政府は新憲法の発布を前にして国民一人一人が新憲法の真意を充分に理解し、新しい国家の権利と国務を正しく行使し得るよう、憲法精神普及運動を発布の日から施行までの期間を通じ、強力に展開することになった。・・・」(46.8.28)
 そして普及運動の中心をになう「憲法普及会」を‘46年12月1日、帝国議会内に設置し、あらゆる手段を使って普及に力を入れたのである。
 11月3日の公布が近づく頃には、
 「県では十一月三日の憲法発布を記念するために、市町村、学校、青年団体等に実情に応じて記念行事、記念事業を行って市町村民の新憲法に対する理解を深めさすこととなり廿三日関係方面に通牒し、次の如き行事、事業の型を示した。
一、記念奉祝会の開催 二、常会を開いて憲法について相互の研究を行う 三、回覧板で知らせる 四、記念運動会 五、憲法講座開設 六、ポスター、習字、図画、作文の募集 七、記念講演会 八、記念樹移植 九、公民館設置 一○、青年団未設置町村の設置 一一、一町村毎統一した青年団体ない場合は統一団体を作る 一二、郡市連合青年団の設置」(46.10.24)
と各方面に新憲法普及のための手段を示している。
 この通牒をみると、「常会(じょうかい)を開いて相互研究を行う」とか「回覧板で知らせる」とか、青年団など、古い組織をそのまま使っている。
常会とは、戦時中に全国の家庭が1軒残らず組織された部落会・町内会の下部単位である「隣組(となりぐみ)」が、定例的に開く会合であるが、国民統制のために組織され、戦争遂行の上意下達機関ともなり、食糧をはじめとする物資の配給や勤労動員・供出・国債の割当の場でもあった。
回覧板は隣組制度とともに普及された、上意の広報手段である。
青年団は「終戦に伴って昭和二十年九月二十一日の閣議決定に基き従来の所謂官製青年団は解散し、新生青年団は郷土に即した青年の社会生活訓練の機能として団の指導や統制を根本的に断ち切り真に地方の自主的な自然結成にまかせることとなった」(46.7.3)はずであった。
 普及運動の展開をみると、敗戦によって軍は解体されたが、統治の官僚組織は末端までそのまま残って利用されていることが知られよう。(☆19-3) >>



公布当日は、
 「・・・県庁では知事以下全員が屋上に参列して祝賀式をあげ、他の官衙も同様祝賀会を開いた。各地の国民学校校庭に繰展げられた運動会には多数の人々が参集して歓喜の一日を送った。・・・」(46.11.4)
とあり、同日の記事には「水戸・日立・土浦など県内の市では植樹や大運動会を催し、山車(だし)も町を練り歩き」「町も村も民主の喜びで、街頭へ旗の波」と伝えられている。同じ紙面には、学童の綴方「平和日本の基」「新憲法発布について」という表題で、将来を見据えた子どもたちの晴れ晴れとした作文が掲載されている。(☆20-1

公布から翌‘47年5月3日の施行までの期間の取り組みも、ラジオによる憲法講座「新憲法の根本精神について」や座談会などが連続して流されており、同じような地元の取り組みとして、県は旧制水戸高校に委嘱して新憲法講座を開いている。
 「新憲法の内容とその精神の普及徹底のため、文部省では一般と知識層を対象に二つの憲法普及講座を全国の市区町村毎に公民館を利用して三月末日までに実施する。公民館のない市町村では国民学校でひらき、講師は市町村の学校教員、有識者、近接市の大学・高専校教授らが当る。
  知識層向け講座は、全国の大学、高専、師範五五校に委嘱し、三月末日までに一回二〜三時間、約十回の連続講座が開かれる。本県の委嘱学校は水戸高校である」(47.1.26)

 施行直前の‘47年4月には、教科書作成もおぼつかない紙不足にもかかわらず、解説パンフレットが新憲法記念の贈り物として全国の家庭に一冊ずつ届けられる。
 「・・・このパンフレットは『新しい憲法、明るい生活』と題する三○ページの可愛いらしいもの。全県一世帯ずつ配布しようとかねて憲法普及会で作成を急いでいたが、総司令部当局もこの計画に全面的賛同を与え、このほど予定の二千万部が出来上ったので、全国に発送中である。
  このパンフレットは前半が『新憲法の特色』についての解説で、『生れかわる日本』『私たちの天皇』『もう戦争はしない』『人はみな平等』『義務と責任が大事』など十五章にわたり、さし絵や漫画をまじえてやさしい口語調で述べてあり、後半には新憲法の全文がのせられている。・・・」(47.4.11)(☆20-2

 施行後も憲法普及夏季大学講座が水戸市で開かれ、教育に携わる教師をまず啓蒙して、子どもたちに伝達する役をになわせていることが次の記事からわかる。
 「地方における憲法教育指導者養成のため、県では文部省、憲法普及会県支部共催の下に、県下小学校、青年学校、新制中学校の社会科教員六○○名を集めて八月十九日から三日間開く。・・・」(47.7.15)
 多分、GHQ側の要請もあったのだろうが、政府はあらゆる方法・手段を駆使して盛んに普及につとめている様子が見てとれる。 >>



たまたまこれを書いている今日、2002年5月5日の「朝日新聞」に、憲法普及会東京都支部が憲法紙芝居を実演している写真が載っている。
「憲法施行記念」と書かれた旗のぼりの下、戦闘帽をかぶったような人もまじって、子どもたちを前に「国民が一番えらいのであります」との名調子で新憲法を宣伝している様子、後方にはGHQのアメリカ人の姿も写っている。(☆23−1)

   農村部への普及には、ラジオや雑誌『家の光』の果した役割が大きいと思われる。(☆23-2)
 とにもかくにも、ようやく成った「憲法」をいかに人々に定着させるか、何よりも次の時代を担う若い人々を対象にするのが一番手っ取り早いし、効果もあると考えた当局が、教師を集めて講習会を催し、一日20分でもよいから子どもたちに教えようとしたことは、前篇で書いた私の体験からも肯ける。(☆23-3)

 はじめて手にした教科書らしい体裁を整えた『あたらしい憲法のはなし』が発行されたのが、‘47年の8月、なによりもまず子どもたちにと、政府・文部省がすばやく取り組んだ事情もよくわかる。
 それにつけても、いつの時代でも、国策の普及浸透は、社会経験という免疫のない子どもをまず標的にするのだ、と、今進行中の「君が代・日の丸」最近文部科学省が出した「心のノート」の強制を連想しないではいられない。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆19-1−1 『朝日新聞社史 昭和戦後編』31頁によれば、
「飢える都市 戦後の国民生活を苦しめたのは食糧難とインフレであった。このため朝日は一貫した姿勢で国民の理性に訴え、経済危機回避のための適切な施策を求めつづけた。
まず食糧については、戦時の農業の衰退に加えて冷害、風水害があり、昭和20年産米は平年作の三分の二という実態を知らせ、食糧輸入の実現を要望するとともに、農民に対して正常な供米をもとめた。・・・主食の遅配、欠配もあって食糧難はさらに進行した。11月18日の紙面には「始っている『死の行進』 餓死はすでに全国の街に」という記事があり、その中見出しは「仙台 懐中には二千円」「甲府 裏街道歩く二千名」「横浜一日平均三名」「名古屋 すでに七十二名」「大阪 駅付近で四十二名」「京都 行路死三百名」「神戸 百四十八名」「福岡 引揚民二週間で百名斃る」とあり、各地の悲惨な実情を伝えている。」

☆19-1−2 佐藤和賀子「一冊の家計簿からみた戦時下、終戦直後の暮し―昭和18年から21年における茨城県鉾田町の一事例―」(『鉾田町史 七瀬』6、1996、p.1-31)によって、茨城県鹿島郡鉾田町の四人家族A家の例をみると−
「A家の収入は、夫の給与と下宿収入、家賃収入からなる。・・・総収入に対する貯金と保険の割合は、昭和18年で45.0%、19年で27.4%である。他方、平均消費性向は昭和18年68.0%、19年58.5%である。高い貯蓄率は、A家のみならず戦時下の特徴である。・・・消費支出総額では、19年が前年より微増、20年は前年比で1.5倍である。そして、21年は7月までの合計で、18、19年のほぼ二倍、通年では四倍以上と推定される。戦後の物価高騰の様子がこの数字からもわかる。・・・戦時下では、物々交換がさかんであり、家計簿に数字として残らない部分が多い。」A家では昭和19年までは小作料(現物)を受け取っていたが、田を返還されたので昭和20年からニワカ百姓として妻が中心となって畑をつくり自給につとめている。
「戦時下の交際費を特徴づけるように、出征に関する費用が、18年には交際費総額の約30%、19年には64%を占めている。・・・この史料から、A家では、105人の近親者が出征し、10人が戦死していることを知ることができる。」

☆19-1−3 戦争遂行の国策が、都市小市民の食生活水準を切り下げ、農村のそれに近づけるものであったことを、黒羽清隆は次のように指摘している(『生活史でまなぶ日本の歴史』地歴社、1984、p.272)―
「苛烈な戦争は、国民生活―――ことに食生活――を徐々に、確実に悪化させていった。
そのことは否定できない。しかし、その悪化の進行は、都市住民――都市小市民――の食生活の悪化においてことに顕著であり、依然として人口の大半をしめる村落社会住民の食生活の日常構造は、あの「一九三○年代」の最中にあってほぼ不変であって、都市住民の食生活の悪化は、そうした常民――村落社会住民――の食生活の日常的構造への接近、いわば一種の平準化作用の貫徹としてこれをみることができる。ファシズムの史的機能としてしばしば指摘される「社会の強制的セメント化」「同質化」(“Gleichschaltung”――しかし、それは「永遠に<未完成>」であるとされる――丸山真男『増補版・現代政治の思想と行動』)は、日本常民の食生活史においても進行し、供出制と配給制とは、都市住民の食生活の絶対的な下降と村落社会住民の相対的な上昇という作用をつうじて、双方の「出会い」の場を保証したともみられよう。「進め一億火の玉だ」というスローガンは、むろん、すべてのスローガンがそうであるように、一種の擬制幻想にすぎないが、こんどの15年間の大戦争ほど、日本人を一つの「国民」にする作用をはたした事件は、そう、ない――そう、なかった――と私は思う。」
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☆19-2 加納実紀代「女たちの戦後―その出発点をアンケート六四四人の声にさぐる―」
『銃後史ノート』復刊七号、(JCA出版、1985年)では、40年近い時を隔てた質問ではあるが、次のような回答を得ている。
「敗戦直後、一切ヤミをしないで餓死した裁判官のことを聞いたことがありますか」
  はい 内地81%、外地引揚げ88%
「昭和21年5月、皇居前で食糧不足を訴えるメーデー(食糧メーデー)がありましたが、知っていましたか」
   はい 内地56%、外地引揚げ43%
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☆19-3 古関彰一『新憲法の誕生』(中公叢書、1989年、p.268)は、『新しい憲法 明るい生活』二千万部の配布方法について、次のように記している。
「全戸に配布する方法であるが、榊原麗一総務部長はここは『中央集権国家』日本の官僚として胸を張ってハッシーにこう説明している。『配布は選挙の投票用紙の配布と同じ方法でやります。普及会本部はまず各支部に送ります。各支部の事務所は京都を除いて各都道府県庁内に置かれています。各支部は都道府県内の各市町村へ送り、さらに各市町村は町内会を通じて各戸に配布します。隣組組織を活用すればもれなく全戸に配布することができます』」
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☆20-1-1 「祝賀日本国憲法公布」と題した『アサヒグラフ』46年11月25日号の紙面には、山車や神輿、子どもの手古舞姿の写真が載っている(『アサヒグラフに見る昭和の世 相6(昭和21年−22年)』朝日新聞社、1976年)。
こうした祝い方は、明治憲法の発布の際の「奇妙な祭」(鶴見俊輔『日本の百年?強国をめざして』筑摩書房、1963年初版、1978年改訂版、p.3)を連想させる。『アサヒグラフ』の記事は、次のように書いている。
「・・・戦争中、夢を奪はれていた子供たちへは好い贈り物ではあったらうが、最早や、明治の民ではない以上、「絹布の法被」の御下賜だらうと誤解して、随喜の涙で、大供たちが神輿担ぎや山車引出しに大童になる御時世でもあるまい。
  『世界一民主的』と謳はれたワイマール憲法を制定したドイツが、僅かの間にナチスの独裁を生んだことを想起すれば、この公布が単に『占領下日本の特筆すべき出来事だった』に止まらず、『自由と平和を愛する文化国家』建設への第一歩で、決して完成で無いことを自覚したい。機構は運用次第で善くも悪くもなる。」
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☆20-1-2 古関彰一『新憲法の誕生』中公叢書、1989年、p.269-279
「こうした国民への憲法普及・啓蒙活動は、着実に国民の憲法への関心を高めていった。普及会は新憲法制定にあたり懸賞論文の募集を行っているが、かなりの国民が高い関心を示し応募している。普及会が『朝日新聞』と共催した懸賞論文には全国から一○三八篇の応募があったという。・・・
こうした懸賞論文は各地方支部でも募集している。ただし各地方によってかなりの差があるが、地方紙と共催している県が多い。
  いずれにしても数千の一般市民が、戦争の傷もいまだ癒えず、書く紙とて不足する時代に、生れ出る憲法を主題として論文を書こうと机にむかったのである。日本近代100年の歴史のなかで、自由民権期を除いて、このような経験をした時代が、日本人にあったであろうか。」

☆ 20-1-3 潮地ルミさんは、当時の日記から次のように記している(書き下ろし)―
「46年10月30日初めての都下青年学校女教員大会があり、女教員の再教育、男女差別待遇撤廃、教員養成所女子部を青年師範と同様の3ヵ年とするなどの要望がだされた。この午後市川房枝女史の「新憲法に於ける婦人開放の条項について」という講演があった。日記には「特に新しきことなし」とある。これは私の母は戦前から婦人参政権獲得同盟に入っており、その通信を私も読み、女学校3年の時「私の尊敬する人」という作文の課題に市川房枝をあげたこともあり、またベーベルの婦人論なども4年生のときには読んでいたから、今更特に感じなかったのかもしれない。
11月1日再教育講習が始まった。第1日目社会教育課長の訓話のなかに、憲法に於ける婦人の地位の解説があった。2日も講習。
11月3日、日記には、何も書いてない、4日も―本来ならば感激すべき新憲法公布の日なのに、いかに無関心なことか。
47年5月2日新しい赴任先渋谷区立広尾中学校の開校式、入学式。3日の日記、やはり書いてない。新憲法施行日なのに。」


☆ 20-1-4 崔 淑子さん(1925年東京生まれ)は、学童疎開の引率教員として福島県白河で敗戦を迎えた。戦後まもなく、教員を辞めて実家に戻った。実家は空襲によって焼け出されていたのだが、すぐ食べるには困らなかったので、憲法公布の頃は「無職の娘」であった。
その記憶を、50年後に次のように記した(「憲法記念日を復活したい」戦争への道を許さない北・板橋・豊島の女たちの会編『今、女たちは平和を語る』?16、1997)―

「憲法記念日を復活したい

--------------------------------崔 淑子

 都心の家は空襲で燃え尽きていたが、桜の木が数本焼け焦げの幹をさらしていた。高い先端も焦げてはいるのだが、このしっかりとした根元があるのだから、いつか若葉をつけるまでに回復するかもしれない。空襲の夜の恐怖と惨状は母や兄から聞いてはいたが、目路の限りの焼け跡に立てば、感傷すらもなく、ただ「戦争だったんだから仕方がない」とだけ思っていた。そうしてその足でこれまた薄汚い省線(しょうせん。現・JR)で憲法公布祝賀式場の広場に出かけた。

「『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』なんていうのはもうなくなったのよ。新しい憲法は国民大衆のものなんだから」
憲法を早くから読んでいたらしい友は興奮して人波に揉まれながら大声で話しかけてくる。
特に軍国少女ではなかったが、子守歌は軍歌、「忠と孝」とは日本人の合言葉だった戦前戦中を生きてきた私にとっては、この日の新憲法公布をこんなにみんなが祝っているのがちょっと解せない。そうだみんな嬉しいんだ、誰も戦争が好きだったわけではないんだ。その日から新憲法を読み始めた。憲法など馴染みの薄いものが、その前文を読んでからは、共感と感動で頁をくるようになった。前文は非戦による国際平和、主権在民、基本的人権が三本柱になっている。その精神から第九条は戦争放棄、戦力、及び交戦権の否認が明文化されている。「神聖ニシテ侵スヘカラス」という様な無意味な言葉が、どんなに日本人を拘束、抑圧してきたか。新憲法は各章が理想に満ちていた。・・・
 この第九条にこそ日本再生の道がある。日本だけでなく世界中がこの理想をもてば、人間の苦しみは半減するに違いない。若かった私は純粋にこの憲法の精神に傾倒していた。
憲法が、法律という言葉で、いかに私たちの生活に密着しているものかも知った。稚かった私だけではなく、この憲法が公布される以前、旧憲法下で生命を縮め、血涙を流した苦難の行程を知っている大人たちも、ここに活路を見出した筈である。だからあの日の祝賀会場の人波となったのではなかったか。・・・」


 2002年12月、崔淑子さんに、式典当日の様子を電話で尋ねたところ、「「憲法祝賀式典」は、実は、秋だったか春だったか、はっきりしないの。
和服を着て行ったので、印象に残ってるんです。晴れてお天気のいい日だったけど、羽織を着ないで「帯つき」で行ったから、(衣更えの習慣のうるさい当時では、羽織を着ない季節)・・・春だと思いますね・・・
場所は、皇居前広場でした、みんな、旗、日の丸持ってました。
一緒に行った「友」は、男で、戦時中国民学校の教師だった30代の、大変真面目な、どちらかっていえば国粋主義者だった人。何代もの商人の家に育った人ですけど。
その人にすれば、同僚は戦死したのに、自分は戦死せずに、学校で教えていた、だから、日本を愛する自分は、これからの新しい日本を作るんだ、(憲法公布は)おめでたいから日の丸を持って行こう、という感じでしたね。
あのころは、戦犯という意識とか、あんまりなかったし、あとでは誰も言うようになったけど戦争責任とか言うんでなくて・・・」


 そして数日後、崔淑子さんは、さらに補足してくれた。
「数人の知人に電話し、当時のことをきこうとしましたが、ダメでした。(2人は病床、1人は亡くなっていて) 他の数人は、
 ○疎開先で、情報のない環境
 ○焼け出されて東京に戻ったが仮住居でやっとの生活
 ○就労先を見つけるのに必死
などなど、東京で花電車が通り、祝賀行動があったことなど、知らない、というのが、当時、22、23歳の女性の返事でした。私もまた、友人とパスカルのパンセを読もうと集まったりして(これは永続きしませんでした)ノンポリでした。50年後の現在は、原爆、水俣、テロ、拉致などの問題を話し合える友になりましたが、現在の若者を非難できない、戦後1、2年の私でした。」


☆ 20-1-5 東幸一郎さん(1927年生れ)は、中国東北のハルビンで生まれ、日中全面戦争からアジア太平洋戦争の時期には、日本軍占領下の北京で少年時代を過ごした軍国少年であった。
東幸一郎さんが、2002年12月25日、テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟において述べた「原告意見陳述書」によれば―

 16歳で海軍の予科練を志願し1年5ヶ月の軍隊生活を送った軍国少年でした。
 敗戦後、あの戦争は中国にとっては抵抗するのが当然の侵略戦争であり、2000万以上のアジアの人々を殺し、日本国民も300万の犠牲を出したことを学んで行くにつれて、目がさめる思いが致しました。
 平和憲法が公布されたとき、私は19歳の学生でした。学校の寮で仲間たちと憲法が話題になったとき、前文の結びが「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と世界中の人に「誓ふ」と言い切っていることに感動したのをおぼえています。新しい日本が出発するんだといった若々しさのようなものを、そこに感じたからでしょう。
 けれども、日本はもう永久に戦争はしない、だから武力は一切もたないという第9条については、もう戦争はこりごりだから当たり前と感じていたのか、特に記憶に残っていることはありません。
アメリカの占領政策が変わり、1950年代に入って政府・与党が憲法を曲解させて事実上の軍隊を作り、次第に増強させて行く、それに対し再軍備反対、軍国主義復活反対、軍事基地反対等々の運動がおこる。一方戦争責任の問題も議論されるようになる――そうした運動に参加したり、かつての戦争とそのあとしまつの問題を考える中で、私は平和憲法、とくに第9条の重要な意義を理解し共感するようになっていったと言えます。少々気負った言い方になりますが、教員になってからは、生徒たちの血を戦争で一滴たりとも流させてなるものか!といった思いで、教員生活を続けました。
 しかし、その後憲法の空洞化が進み、とくに1997年の日米新ガイドライン成立以後は、憲法の精神に反する悪法が矢つぎ早に成立し、周辺事態法、テロ特措法、そして自衛隊を派遣し、米軍に荷担して参戦するに至って、私たちは提訴することを決めました。


☆20-1-6 猿島郡幸島村の幸島国民学校(現三和町立諸川小学校)では、11月3日には明治節拝賀式並新憲法発布記念式と秋季運動会を行った。12月30日には村主催新憲法発布記念式並祝賀式を行っている。詳しくは第29回掲載予定の学校日誌参照。今後の掲載状況によってはさらに掲載回を変更するかも知れません
  
☆20-1-7 『猿島郡教育史』(猿島郡教育会、2001年、p.289)によれば、猿島郡猿島町の沓掛小学校の創立百年記念誌『開校百年』には次のようにある。
  「・・・二十一年七月、奉安殿及び教育勅語の取扱いに関する通牒があり同月十一日、奉安殿撤去作 業を開始、八月七日破壊作業を完了した。また七月十三日に教育勅語の奉還がなされた。
  荒廃した社会と不足する物資の中で、戦時教育の払拭と新教育への模索が始まった。同年十一月三日には、日本国憲法が発布され、祝賀の大運動会が開かれ、その教育にも新しい試みが多くとり入れられた。
  二十一年七月、共同研究の指定を受け、新教科「社会科」の研究を進めた。二十五年五月、茨城県教育委員会より実験学校の委嘱を受け、新教育の研究を強力に推進し、その実績により十一月、優良校として県下で三校、水戸市立五軒小、新治郡栄村立栄小とともに、茨城県教育委員会より表彰を受けた。
  この期は、社会科を中心とした新教育の研究で、校内における学芸会、校外における子ども会など、児童の自主活動が中心の教育が盛んであった。・・・」

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☆20-1-8 猿島郡沓掛村では、沓掛村愛郷青年会が1946年4月29日に新生青年団として発足し、活発な活動に対して1948年5月には郡代表として優良青年団表彰を受けた。
「沓掛村愛郷青年会」の活動は、
「文化部の講師を招いての時局講演会、英語講習会、新憲法普及映画会、盆踊り大会、桜花大会(桜祭への山車参加)の主催や南部連合青年団の青年講座、懇談会、郡文化祭、郡弁論大会への参加など、産業部の農産物品評会、一人一研究、犂耕講習、甘藷苗床講習、黄色木の特殊栽培、村農業会と共催の鞍造り競技会など、体育部の各支部の角力大会、隣接地区や郡主催の角力大会、柔道大会、陸上競技会への参加、村民運動会の主催など、奉仕部の飯沼川堤防、西仁連川堤防の勤労奉仕、県道・村道の改修奉仕、砂敷などの多彩な活動を展開している。」(『猿島町史 通史編』1998、p.1100)
 その活動日誌(椎名仁「沓掛村愛郷青年会記録誌(抄)」『郷土研究さしま』第9号、1996年、p.103-131)によって、本稿がテーマとする憲法・天皇・教育基本法にかかわる活動を見ていくと―

(1946年)六月二十日
機関誌「道標」創刊号ヲ出ス

十一月三日
国民学校運動会にて五千米と借物競争参加 [むらき注:憲法について記述なし]

十一月二十八日、二十九日
「道標」編集

十二月七日
南部連合体発団式につき早朝出発す、金子、逆井副会長外十八人出席す
斉藤義雄青年教育官「新憲法と私達の道」につき、約一時間半にわたり講演

(1947年)二月十四日
講演会 「新憲法解説」青年教育官斉藤義雄先生
午後二時開会 二時間三十分の長時間講演す 四時三十分終了 幹部懇談会約三十分 夜は白木屋にて正副会長、木村栄一、福原周二、校長、古矢、森山、斉藤先生の八人にて慰労会

三月十九日
郡連合青年団結成大会 於境寿座
本会より大体四十名出席 殊に根古内支部は良好なり
   式次第
   一 開会の辞  二 経過報告  三 議長選任  四 団則決定  五 宣言  六 決議  七 役員発表  八 団長挨拶  九 来賓挨拶  十 閉会の辞
   来賓祝辞 貴族院議員飯島雷輔 後藤武雄 中内読売記者 横島武治 猿島地方事務所長 郡教育会長

   宣言

今や新憲法は公布された。その向ふべき方向は既に明らかにされてゐるにも拘らず、一般大衆今尚虚脱と混迷の中に彷徨を続けてゐるような状態であります。吾等青年は斯る世相を直視し、この現実の中に立って郷土生活の中に培はれた青年の長所と弱点を反省し、夫々の立場から確実なる任務の遂行を通じて、日本の将来を決定する郷土団体として結成を見るに至りました。平和にして民主的な文化国家建設の前途は程遠く、しかも幾多の困難が横はっております。しかし乍ら吾等は自主と責任と協同の民主的な体制の下に、共励切磋、人格の向上に努めると共に、明朗闊達なる青年の本領を発揮し、大同団結以て祖国に光明あらしめんとするものであります。
   決議

吾等は友愛提携し、以て本団目的達成のために邁進せん事を期す

   右決議す

昭和二十二年三月十九日
   猿島郡連合青年団
午後○時二十分終了 昼食後午後一時より講演会
   「四月選挙をめぐって」 毎日新聞記者 中正雄先生

五月二十日
役員会 憲法記念映画会に関する件 午後四時開会
本件は南部連合青年団事業として去る五月三日施行を見た日本国憲法普及映画会を開催するにより、費用は審議の結果、各会員一人金五円也を拠出する方法による事と決定せり、当日は各役員は昼食より全員出席の上準備する事となし、午後六時散会す

五月三十日
憲法普及映画会開催
午前九時木村信一(社会部長)外六人機械引取に行く
当日五○ボルトの為不能にてトランス等又は電線切断等の結果、どうやら開催できしも甚だ電力少なきを以て折角の催しに甚だ残念なり 内野山方面の青年幹部も本会に積極的に協力なく時代の事とは言え甚だ心痛の事なり青年の指導また重大なり

十月五日
青年講座 於七重中学校 県社教課、郡連青共催
   講演
      一 青年の活動分野 菅谷社教課長
      二 公民館と青年運動 倉持主事
      昼食 音楽(生子菅村深耕文化協会)
      三 貿易再開と日本の経済 衆院議員原健三郎
      四 今国会の重要案件 衆院議員鈴木明良
      五 時局と女姓  社会教育者村岡花子
右により夫々熱心に講演あり 政治経済産業各分野にわたり種々話せり 幾分政党的残念の点もあり 帰する処お互に良く之を吟味し再批判し今後の資とすべきなり

十月二十二日
新穀献納 小生と増田君引率し一行青年幹部十七名(支部長以上)学校五名及村内有志三名計二十五名にして、茨急バス、午前六時半香取神社出発、取手経由九時四十分宮城坂下門より入る、それより宮中三殿詰所に於て献納手続をなす とくに本日聖上陛下拝謁の栄に浴すとの伝言あり 午後二時宮内庁北車寄にて拝謁の光栄に真に感激に堪へざる処なり
 特に我々に対し新穀奉献御苦労であるとのお言葉あり 次いで各県の農村状況はとのお言葉により、愛知県代表及埼玉県、千葉県、茨城県と相ついで夫々実情を奉答申し上げ、時に二時十分、それより各宮中広場の焼跡及旧本丸、主馬寮等を順次拝観、帰途に皇后陛下のご通過あり、次いで宮中三殿拝礼、午後三時三十分終了し、宮中を退出、浅草に寄り、午後九時三十分帰宅す、バス代六千円也

(1948年)七月十日
単位団長会 於境小学校
一 青年の組織と運営に対する講演会(軍政部ローケン氏)を開催する件
   1七月十三日午後一時より、生子菅小学校
   2講師 関東軍政部リー女史
  茨城県軍政部ローケン
   3内容 公民館と青年組織運営
   4各村青年団長一、女代表一、公民館長
   5各団幹部人名簿報告
二 昭和二十二年収支決算の件

七月十三日
講演会 於生子菅小学校
   関東軍政部 リー女史、 茨城軍政部ローケン
一 青年に対する組織のあり方に対しローケンの講演
   1 団体は自由な団体なること
   2 少数の反対者は非常な障害となる
   3 会員は自由意思による参加
   4 民主主義の原則によって運営する
   5 得るところなければならぬ
二 陪審式討議
  木村、風見四郎、五ケ谷秀吉、吉川泰俊、飯島・生子女副会長、計六名
  「青年の組織運営」について、約三十分討議
三 「レクリエーション」についてリー女史の指導あり

七月二十三日
地方自治法普及講演会 於境高等学校
茨城軍政部フロスト軍曹、県庁各主事多数来る。地方自治法の改正された今後の自治に対して細目講演及び討議あり。午後四時散会。本会より会長、福原周二君、張替清一郎君出席。

九月二十九日
教育委員会法施行趣旨徹底協議会 於境高等学校
県庁より教育課長及係官、軍政部よりマック先生来演、教育委員選挙の重要性を講演す

九月三十日
午後八時より松岡稔司君ら三人で教育委員選挙に関するポスターを書く 約百三十枚即日配布する

十月二十五日
献穀上京 午前五時五十八分石下発、会長外十五名、八時東京駅着 それより坂下門から宮城に入り、賢所に行き諸手続をすませ記帳する 九時頃中村義光氏より特に拝謁を仰せ出さるとのこと 吹上内苑に暫し待機し午前九時五十分、天皇、皇后両陛下立たれ、木村栄一君最敬礼の号令をなす 不肖の前に両陛下立たれ最初に「農村の状況は如何か」の御下問、不肖本年度における水害の状況及び加へて稲作の病虫害を奏上、然し谷津に於ては平作特に畑作は近年になき豊作でありますと奏上 陛下は「ウン、ウン」とうなづきつつ、食糧増産は実に重大であるから、種々気をつけて励むようにと仰せられ、退御 木村栄一君号令す 十時献納の手続きをすませ、それより宮中三殿の拝観、続いて宮城内各処を中村義光氏に案内さる 午後一時宮城清掃奉仕の件につき山崎係官と要談する

十二月十六日
宮城勤労奉仕出発 木村信一、尾花操、長命寛男、森田博、青木義一、増田善平、張替道之助、張替秀雄、張替栄一郎、九人参加する

十二月十七日
宮城勤労奉仕のため不肖午前五時十二分石下発乗車、九時入城参加する 則岩井班四十二人と沓掛十名にして計五十二名、終始熱心に奉仕し、午後三時宮城発、新宿にて映画「四人目の淑女」を鑑賞し、午後八時武蔵小金井浴恩館に宿泊する

十二月十八日午前七時浴恩館出発、九時入城し直ちに天皇、皇后両陛下の拝謁を許さる、有難きお言葉を頂き唯々感激で一杯、最後に不肖君が代を斉唱す、則退出する それより午前中宮城内を拝観、特に二重橋を渡るを許さる 午後二時宮城を出発、午後八時半帰宅する」

『猿島町史 通史編』1998、p.1100によれば―
「愛郷青年会は、その機関紙として『道標(しるべ)』を発行した。創刊号は二十一年六月十五日に出された。ガリ版刷りのザラ紙のきわめて粗末なものであったが、号を重ねるごとに誌面も充実し、各実践部の報告、論説、主張などのほか、詩、短歌、俳句などが誌面を賑わしている。第五号には、日本国憲法の制定を祝して、木村令子(甲之進)が句を寄せている。

    日本国憲法

秋光や平和日本の指標燦
秋や長し民主日本へまっしぐら
  前文
厳粛に示す進路や国の秋
  第一章 天皇
象徴の秋不二高ふ仰がるる
  第二章 戦争放棄
  月高う平和の彼岸のぞむかな
国民の権利及び義務
  人権の宣言に照る紅葉かな
国会
  民主化の理想の華や秋麗ら
内閣
  秋高し議院内閣制嶄然(さんぜん)
司法
  稲妻や国会至上に閾(きしみ)さす
財政
 皇室の財産国に菊晴るる
地方自治
 秋耕や民主の基盤培うて
改正
 鵙(もず)高し改正発議国会に
最高法規
 国際の信義に霧は晴れわたり
   第十一章 補則
茸狩に山案内のほしきかな
   ○
内閣の責任重し国の秋
法の前民平等の夜長かな」

[むらき注:椎名仁は、第五号の発行時期を記していないが、p.1101写真「第189図「道標」1946.12月号」の表紙写真に、「12月号1946 6号」とあるので、第5号は、1946年秋発行と推定される。
木村総雄の記録には、昭和21年「十一月二十八日、二十九日「道標」編集」とあり、12月末にも編集している。以上から、11月末に発行されたものと推測する。
木村令子(甲之進)は、1945年度、沓掛国民学校の教頭である。]
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☆ 20-2 このパンフレットは、前篇で写真いりで紹介した屏風畳みのパンフレットとは異なっている。
☆ 23-1 紙芝居は、1934(昭和9)年に諸川(現三和町)での街頭紙芝居の写真が残っている(舘野喜重郎家蔵)ように、都会だけでなく農村でも子どもの娯楽になっていた。
また、体制側が民衆教化に使う手段の一つともなっている。例えば、河内村(現真壁郡関城町)の「河内村方面委員報告書」(『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984。p.474)に―
「昭和十七年一月二十九日
事項    各部落教化ノ件
要領    農村閑期ヲ利用シ各部落ニ紙芝居ヲ以テ時局対策ニ重キヲ置キ
精神修養上ノ説明ヲ為スコトニ内定役場、学校、方面委員之ニ当ル筈」

 敗戦後の「茨城新聞」には、次の記事が見られる。
  「復興の街に 紙芝居の小父さん
・ ・・木の香も新らしいバラックの建並んだ焼跡の広場で・・・かつては軍国物で子供達を喜ばせた小父さんも終戦と共に今はやさしい昔話を演じているそしてしっかりと子供達の心の中に生き、平和日本再建! 日本のさきがけとしてこの復興の巷に咲いて子供の世界を『明るい自由』に導いて行くことだらう(水戸市内所見)」(1945.11.19) 

その紙芝居も、戦前戦中そして戦後にわたって検閲の対象であった。
桜本富雄・今野敏彦『紙芝居と戦争』(マルジュ社、1985年、p.112)、公演パンフレット『新国立劇場2000/2001シーズン 夢の裂け目』(財団法人新国立劇場運営財団、2001.5.8)によれば―
1942年2月発足した日本少国民文化協会紙芝居部会は警視庁に代わって、国内で発行される紙芝居の脚本・絵画の企画審査を行なったり、紙芝居伎芸者証を発行して、これのない者の実演を禁止し、実質的な検閲を行った。
‘45年9月、GHQ「プレスコード」「ラジオコード」に次いで、「ピクトリアルレコード」を発令し、紙芝居や映画などを検閲。
‘46年2月、GHQのPPB(プレス・映画・放送課)、4つの街頭紙芝居貸元を強制捜査。
同年6月21日、佐木秋夫、東京裁判で検察側証人として出廷。
‘47年4月、GHQの調査では、貸元16、画家93人、作家70人、紙芝居屋793人。

日本少国民文化協会紙芝居部会の庶務幹事であった佐木秋夫は、‘46年6月21日、東京裁判の検察側証人として立ち、『日本は戦争をしているのだ』を実演した。
  「東京裁判 法廷で紙芝居実演 証人に緒方元国務相 悪夢の一くさり 実演に苦虫の被告達」(「毎日新聞」‘46.6.22)

2001年上演の井上ひさしの戯曲『夢の裂け目』は、佐木秋夫をモデルとして、東京裁判のカラクリと庶民の戦争責任を描いている。
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☆ 23-2 ラジオ・『家の光』については、第二部で検討する。ここでは番組の紹介にとどめる。
「茨城新聞」のつぶれたラジオ番組欄でかろうじて読みとれるだけでも、新憲法に関して、1946年11月3日には公布記念式典・都民大会の実況中継があり、解説・講演・座談会といった番組が10月30日、11月1日、2日、3日(中継のほかに2本)、4日(朝昼夜に5本)、8日、9日、15日に組まれている。翌47年には、3月17日、4月30日から5月9日まで「憲法講座」などの番組が組まれている。

46.10.30(二)「ラヂオ」新憲法と青年
46.11.1(二) 「ラヂオ」新憲法と学生の進路
46.11.2(二) 「ラヂオ」私達の憲法 中村哲他
46.11.3(二) 「ラヂオ」新憲法公布に当りて、
前五、一五   新憲法公布に当りて 柳川宗左衛門
一一、○○  日本国憲法公布記念式典実況―貴族院より、
后二、○○  日本国憲法公布記念祝賀都民大会実況―宮城前広場より
八、□○   一、話 吉田首相 二、座談会 芦田均他
46.11.4(三) 「ラヂオ」
前五、一五  私達の新憲法―農民の立場から―古屋栄吉
六、四五   新しい憲法をめぐって
一、○○   新憲法と家庭 田辺□(繁?)子
六、○○   新憲法と女性の立場 社会党山口シヅエ
六、三□   憲法□□(一) 尾崎行雄
46.11.8(二) 「ラヂオ」
六、四五   新しい憲法をめぐ□ [他、判読不能]
46.11.9(二) 「ラヂオ」  放送座談会 男女の平等は如何にして実現出来るか[判読不能]
46.11.8  ラヂオ街頭録音「新憲法について」 
[ この項のみ『ビッグマンスペシャル マッカーサーの日本占領』世界文化社、2001、p.37による ]
46.11.15(二)「ラヂオ」 お話 平和な国の子供
47.3.17 (二) 「ラヂオ」 教育の民主化について蝋山政道他、総選挙について、
         ラジオ民衆学校 参議院と衆議院
47.4.30(二) 「ラヂオ」 憲法講座(一)新憲法の根本精神について 田中次郎
47.5.2(二) 「ラヂオ」 憲法講座(二)憲法と□教育について文部大臣高橋□一郎
47.5.4(二) 「ラヂオ」 録音「新憲法と農□」、「座談会、憲法今昔話」
47.5.5(二) 「ラヂオ」 憲法講座(三)座談会憲法について 田中二郎
47.5.6(二) 「ラヂオ」 座談会 女性解放と新憲法 玉城肇他
47.5.8(二) 「ラヂオ」 座談会、新憲法と平和
47.5.9(二) 「ラヂオ」 平和な国の話加藤元一
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☆23-3-1 古関彰一は『新憲法の誕生』(中公叢書、1989年、p.275)で恵庭事件の野崎美晴(1926年生)を紹介している。
北海道恵庭町(当時)に住む酪農家の野崎は、陸上自衛隊の演習用通信線を切断し、自衛隊法違反の罪で起訴され、法廷で次のように述べた。
「私は、かつて『新しい憲法の話』という本で教育を受けました。先生も、一切の戦争はしないのだと教えてくれました。検察官や裁判官も、戦後、法律を勉強されたのなら、憲法九条は一切の戦力を持ってはならないと教えられたはずです」
野崎美晴は兄とともに無罪となった。」

☆23-3-2 小林初枝『おんな三代』(朝日選書、1981年、p.228)には、埼玉県児玉郡児玉町での新憲法普及の様子が次のように記されている。
「この年の五月三日、新憲法が施行になった。“現人神”として教えこまれた天皇を“国の象徴”とあらためた新憲法の思想が、すぐさま人びとの心に溶けこむはずもなかった。
「生き神様も人間だってさ。わしらと同じなんだとさ。男も女も平等だっちゅうから、戦争に負けるっちゅうこたあ、世の中をだいぶ変(け)えちまうもんだなあ」。寄り合いのたびに、年寄りたちは怪訝そうに話しあった。しかし、初枝の受け取り方は違っていた。

  民主主義を目標に改革の一歩をふみだした新制度の学校教育では、日本再建の新しいよりどころとなる新憲法の普及に力が入れられた。初枝の担任は、自分の社会科の授業のうち週一時間をさいて、町長を講師に迎え新憲法を教えた。担任は町会議員でもあり、町長は新しい選挙法で選ばれた、帝大法科出身の“学士さん”だった。

  町長は、日本国憲法の前文を暗記するまで読むことを生徒たちに勧め、主権在民、基本的人権、戦争放棄という憲法の三大原則を説明した。戦争のため五年生のときから屋外作業を強制されてきた初枝だちにとっては、講師の話は非常に難解で、一時間が何時間にもあたるように感じられ、クラスにはあくびをかみ殺している者が多かった。しかし、初枝は、一語も聞き逃がすまいと全神経を集中した。とくに、基本的人権の説明には全身を耳にして聞き入った。家に帰ると、理解できたかぎりの内容を、初枝は意気ごんで、きちや三木に語った。
「こんどの憲法は、法の下の平等がちゃんと書いてあるんだから、部落の人たちだって、差別される理由はないんだって」
「男女平等だって決められたんだから、おんな所帯だからって、村の共同作業で小さくなっていなくてもいいんだよ。おばあさんも、お母さんも苦労したけど、やっと、いい時代がやってきたね」
  二人は、「憲法でうたわれたからって、いちげえにみんなが実行するたあ限んねえぞ。長(なげ)えあいだ、人間の心のなかに生きてきた慣習(ならわし)は、そう、たやすくけえられるもんじゃあねえかんな。わしが生れる前(めえ)に解放令がでたんだに、それっから何年経つや。いまだに差別はなくならねえんだぜ。そんなに喜んでも、あてはずれの雀のヌカ喜びにもなりかねねえぞ。初枝も、いい加減に聞いておくほうがいいんじゃあねえか」と、冷ややかな反応しか示さなかったが、初枝の胸は、希望ではちきれそうになっていた。」

☆23−3−3 橋本左内『国民学校一年生―ある少国民の戦中・戦後』新日本出版社、1994、p.162−には、軍国少年であった少国民にて決定的な回心をもたらした「あたらしい憲法のはなし」との出会いが記されている。所は、石川県能登半島の七浦村(現・門前町)字皆月である。
 p.166「この言葉とこのイラストによって、少国民時代にたたき込まれた偏見の心の「目から鱗が落ちた」のである。」
 p.171「先生から憲法の前文と第九条を暗誦するように宿題が出された。学校の行き帰りは大切な暗記の時間だ。・・・」
 p.212「・・・女たちは、戦後の家庭において「家長」である父と夫に抵抗を開始した。また、学校で『あたらしい憲法のはなし』によって民主主義の手ほどきを受けている中学生は、積極果敢に「母たち姉たち」の弁護士であり検事の役割を担ったのであった。・・・」
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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