'45〜47年茨城新聞</

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

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おわりに


 むらき数子さんから、大量の新聞コピーを手渡されてからこの数ヶ月、有事法制反対のデモや、憲法集会、訴訟の法廷、そして最近は、「選択制」を導入した横浜市の「住民基本台帳ネット」に反対の集会、ビラ配布、ホットライン等の運動に馳せ参じたりしながら、とにもかくにも、敗戦後まもなくの新聞記事とニラメッコしつつ、読み、書き、考え込むことしきりだった。

 「憲法」とは、この国の形をあらわすものだと思うのだが、あの時、私たちは戦争という大変な代価(犠牲)を支払った上で、与えられたものともいわれる「憲法」そして「教育基本法」を自分達のものにした。とはいうものの、天皇制温存を主眼とする為政者の国体護持に固執する敗戦前後の動きを見れば、私たち日本人は、自分たちのみでは到底創れなかった「憲法」であり「基本法」であったと思う。

 『あたらしい憲法のはなし』という教科書を手にしながら、民主主義を唱えるアメリカという国は、何と素晴らしい国だろうと思ったなんて、今考えれば「何とオメデタイ人だったんだろう」と笑われるが、占領軍を称して「解放軍バンザイ」と叫んだ人々がいたことも納得できる雰囲気の中に私もいた。(☆36-1)

 教室で先生が「今、日本は焼野原で大変みじめな状況にあるけれども、唯一つ世界に誇れるものを持っています。それは戦争放棄を世界に宣言した憲法を持っていることです。これからの日本は文化国家として立って行くのです」と言われたのを聞いて、「そうだ、そうだ!」と思ったし、戦争放棄と共に強く教えられた基本的人権というのは、初めて聞く言葉で、意味がよくわからなかったけれど、とにかく今迄とは違う世界が目の前に開かれていく思いに心を奪われた。

 「憲法」といえば、その二つをしっかり教えられたことが思い出される。つまり第二章の戦争放棄と第三章の国民の権利及び義務は聞いても、第一章第一条の天皇の地位・国民主権については印象が薄い(☆36-2)。私にとって、国民主権という言葉が入ってくるのは、昭和天皇のXデーが云々される頃である。


 「憲法」をよく読めば、前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し」と堂々と謳っているにもかかわらず、施行当時は、この「国民主権」なるものは少なくも私の周辺では取り上げられなかった気がする。それというのも、為政者ばかりでなく、私たち一般人にとっても、この国に天皇がいて当たり前という空気が支配的であったからだろう。(☆36-3)

 それ故にこそ、当時の新聞記事にも「天皇制という国民の感情から流れ出た組織と、人民主権という近代的理性から生れた制度を、一つに接木しようとするところに新憲法の悩みがある」と書かれているように、主権の存在をあいまいにし、不平等をごまかすガスが漂ったままの「憲法」だったのだ。
そうしたことは何十年という人生経験と知識とを経て初めて見えてくることがあるのだと知った。

今でこそ首相の靖国神社参拝は政教分離の憲法違反だと声を上げて、私も原告の一人になったのだが、あの頃天皇は伊勢神宮にも靖国神社にも、‘69年の靖国法案が出る頃まで、何回も行っている。それを人々は何とも思わない状況にあったのである。

 飢えに苦しむ戦後の出発は、食べるものはなくても、未来に希望が感じられた。だが、この57年間、自衛隊とか軍需産業を肥大化させ、米軍に思いやり予算をつけてきたといっても、何はともあれ、「憲法」のお蔭で表向きは武器にまわすお金をつぎこむことなく生活できた日本は、いつしか飽食の世界に変わり、希望のない、とらえどころのない国になってしまった。

 「憲法」が根づかなかったばかりか、今や「憲法」「教育基本法」の危機を迎えている。天皇制の温存という旧支配者とアメリカの戦略が見事に一致して、天皇が責任をとらずに象徴として生き残り、人々をも無責任体制にしてしまったことにも原因があり、「憲法」「基本法」を自分のものとして血肉化する努力をしてこなかった。それを怠ってきた自分自身を反省すると共に、有事法制に行きついてしまった今こそ、私たち「主権者」が問われていることを強く感ずる。

 同時に昨年9・11以後のアメリカの動きを見るにつけ、満州事変以来の日本が辿ってきた国家による国民への「行け行けどんどん」の煽りかたと、それをよしと受け入れてきた私たち日本人のあり方を思い出さざるを得ない。

 敗戦後、空から降ってきたキラキラ星のように見えた「民主主義」なるものも、国家という暴力装置を隠すベールであり続けてきたことを、現在のアメリカの姿を見て、今更のように気づかされた。


 思いがけなく敗戦直後の新聞の山と格闘したお蔭で、ずいぶんいろいろなことを勉強できたと感謝しつつ筆を擱くことにします。    (2002年5月10日・9月20日)
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆ 36-1 新制中学の教員となった潮地ルミさんは、‘47年5月3日の日記には憲法について何も記さなかった(第23回 第一部第二章(その一)☆1-3)が、当時をふりかえって次のように記す(書き下ろし)―

「その頃のいつか、手ごろな大きさで、教科書らしくない『あたらしい憲法のはなし』の明るい薄黄色の表紙を、新鮮な気持ちで生徒たちとともにめくった。しかしその時の記録はない。

 今からみれば薄っぺらな表紙、中味の紙質も印刷も粗末であったかもしれないが、私たちにとっては上等な本、その扉には議事堂の上に法=憲法が輝いていた。後は戦争放棄の衝撃的な絵、そして「みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。・・・いまやっと戦争はおわりました。」の文章にしんみりとそれぞれが二、三年来に味わった悲しい記憶と、その授業の時点(‘47年)での貧しい、不安定な暮らしを思い巡らしていた。ということしか思いだせない。

このときの生徒は、‘44年から’45年にかけて、国民学校児童として学童疎開をさせられていた。そのうち、集団疎開をした児童たちは、最初静岡県、のち戦況の悪化によって青森県に移動する。また集団疎開から縁故疎開に変わった子供もいた。はじめから家族で縁故疎開した子供もいた。それらほとんどの子が行った先での悲しく苦しかった生活体験をもっていた。

そして疎開先から渋谷に帰ってくると、自宅は戦災のため間借り生活、学校も間借り。

また肉親の出征、未帰還もあった。着るものも、食べる物も極端に不足。うかうかするとせっかく持参した弁当まで盗まれるので教室移動の際は日直が留守番だった。

以上のような状況の上、私には前文の説明をする力もなかったのでそのままになってしまったのではないかと思う。当時の私は、政経分野の科学的素養は全く無かったので、‘47年秋に『あたらしい憲法のはなし』が配給されても今のような思い=共感はなかった。私が真剣に歴史・社会科学の勉強を始めたのは、’48年夏休みからだった。
この本を本当に良い本―読ませたい本と思うようになったのは60年安保闘争のころのように思う。

次に『あたらしい憲法のはなし』を用いて授業をしたのは、1967年に復刻版が出版されてからであった。それは、早稲田大学憲法懇話会が憲法制定二十周年を記念して刊行したものである。

それは私が多少とも社会(社会科ではない)に目を向け前むきに歩かなければと思うようになってからである。
‘61年蕨東中に転勤。このころ埼玉県蕨市でも教員組合運動最も盛んであった。

 ‘67年、『新しい憲法のはなし』の復刻版を組合員が紹介した。

 私たち社会科教師はかねがね‘55年以降の社会科に疑問をもっていたので、「復刻版で憲法の授業を」と図書主任であった私は、生徒から集めている生徒用の図書費(月額10円)から1クラスの半数分を購入、授業の時に貸し出すことにした。
 私も復刻版を用いて授業した。利用した個所は復刻版本文の1〜25ページ「一 憲法」から「七 基本的人権」。要するに憲法の精神の部分については当時使用の教科書より『あたらしい憲法のはなし』のほうが熱をこめて伝えやすいと思ったからだった。
生徒の受け止めが、はたしてどうだったかわからないが、自分自身は憲法が作られた当初の精神で一生懸命やったつもりである。
 復刻版利用にさいしての難点は ?印刷が不鮮明、?旧漢字 ということで生徒は読み難かったようだった。」

戦後20年の時点で、「(憲法を普及させようとしていた政府自身が、20年間に)なしくずしに憲法を空洞化させようとしてきたがが、肌さむいばかりに感じとれるのである。」と、早稲田大学憲法懇話会は、復刻版を刊行し、解説に次のように記した―

「文部省著作であるこの『あたらしい憲法のはなし』が、文部省による教科書検定にたいする批判の道具となりうるのは、歴史を逆もどりさせようとするものが当然にうけるべき道理であろうか。」
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☆36-2 憲法普及会の活動の一つに、‘47年2月、東大に各省庁の中堅官吏を集めて行われた特別講習会がある。ここでは天皇を直接論じなかった。(古関彰一『新憲法の誕生』中公叢書、1989年、p.258)

三本柱について、戦争放棄と基本的人権については説明するが、天皇には言及しない、という社会科授業の例は、次の本にも見られる。これは、2002年現在も、茨城県猿島郡境町公民館図書室の児童向け書架に並んでいるものである。

    編集委員(和歌森太郎・高橋磌一・来栖良夫・上川淳・徳武敏夫・佐藤伸雄)
『子どもに伝える太平洋戦争史5 あたらしい憲法』岩崎書店、1991

☆ 36-3 たとえば、羽仁もと子は、敗戦直後に発行した『婦人之友』1945年6・7月合併号に「世界史上に新日本を創造れ(つくれ)」と題して次のように記している。

  「「敗戦」この筆で書くに忍びないこの文字を、私は今力をこめてはっきりと書いた。国民の総力を以て武力戦にも勝ちたいと、来る日も来る日もどんなに祈り求めたか。「祈りは遂に聴かれなかった」そう書くことはまた一層に苦しいことである。・・・永久に日本国民の忘れ得ぬ八月十五日 天皇陛下御親(おんみず)からラジオの前に立たせられ、畏れ多くも切々の御衷情を以て我等臣民に命じ、また諭したもうた、そのことがなかったら、この激情に打克って、どうしてわれらは今このような深き思いの中にあることが出来るであろう。

ただ無念にも武力に敗れたこの国に、絶対に大切な君臣父子の国体は無疵(きず)のままに残っている・・・」



***(今回で、小園優子による第一部は完結です。次回第37回以降はむらき数子による第二部を掲載します。第64号(2003.2.13)に掲載した第18回「第二部第一章その五」の続きです。)****
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