第27回第一部第三章三

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

目次

第三章「憲法」と並ぶ「教育基本法」の制定と新制中学発足



(その三)

 あらゆる分野での軍国主義一掃のあと、教育改革は第二段階に入る。
 ‘46年11月3日に、新しい日本の指針ともいうべき「憲法」を公布した政府は、その後に当面する施策のあり方を政府声明として発表した。その第一が「新憲法の普及徹底」であり、この件に関してはすでに述べてきたが、第二が「教育制度の刷新」であった。
 「・・・新声明の内容は、その前文において新憲法をつらぬく理想であるところの民主主義を実現するためには、教育などの刷新、国民生活の経済的基礎を確立し以て国民各自の人格を確立して平和国の再建、国民文化の向上を図らねばならぬことを強調し、この憲法精神の普及徹底を期するとともに、教育、文化、経済などに関する基本的施策を遂行するための国民の協力を要請した」(46.11.5)
とあるように、教育による民主主義実現のために、民主教育へと軸足を移していく。

県内でも、10月に、それまで教育課に統合されていた社会教育課を独立させようとしている。
 「民主主義の推進徹底は、社会教育の振興徹底が土台とならねばならぬので、県では終戦以来、社会教育課の独立を考慮して来たが、最近各方面からの強い要望もあるので、出来れば十月中に独立をはかる方針で・・・」(46.9.20)
と、まず内部機構の改変に手をつけ、さらに半年後、社会教育課を充実させるために、
 「進駐軍茨城軍政部教育課の積極的支援の下に広範且つ有機的な社会教育運動を実施することになり、・・・公民館の増設をはかり、・・・社会教育委員と連携して運動を推進する。・・・図書を一括購入、図書購入不便の農村に回覧する。その他に十六ミリ映画班をつくって巡回する」(47.2.23)
と、公民館の活用をはじめ図書・映画などを利用して、広く一般の人々を対象に啓蒙活動を始めている。
(参照・第22回☆20‐1‐8沓掛村愛郷青年会記録誌)
 一方、中央では「教育勅語」にかわる「新教育勅語奏請」という反動的な動きもあったが、
 「政府は目下教育刷新委員会で審議中の教育新理念、義務教育、教育行政、教員育成等の課題について成案を得次第、これを参集して教育の大本を規定する教育基本法と新教育実施に関し、具体的内容を盛る教育法の二大法律案を来る通常国会に提出する。・・・」(46.11.25)というように、新教育の基礎が固められつつあった。

 しかし、中央でのこうした動きと対照的に、学校内での教師たちの言動は、教員組合の結成とそれを支える父母たちの支援もあって、「食べられる賃金をよこせ」という飢餓突破教員大会などへ大きく結集、そこここでストが展開された。(☆31‐1)
「きらはれる”先生職業” 食へないで退職すでに四十名 補充も追付かぬ北相馬地方」(46.6.23)
「単一組合愈よ結成 一万余の教員団結へ」(46.6.24)
「教職員の大同団結 県教員組合結成大会」(46.6.29)

そうした労働運動の光景は、‘47年2月の有名な「二・一スト」と呼ばれるうねりになっていった。(参照・第29回☆27‐2‐4幸島国民学校日誌)
「茨城新聞」の紙面を見ていると、教員の動きは、この時代の全労働者の中でも突出していたように見える。
聖職とされる一方で、教員人件費がいつも町村財政の最大の負担として問題視されてきたからこそ、教員の労働運動は大きく紙面にとりあげられたのだろうか。あるいは、日立などの鉱工業部門の労働運動が検閲によって記事にされにくかったということだろうか。(☆31‐2) >>




そのような動きの中で、刷新委を中心としてつくられた基本法案は、いよいよ議会に提出されるまでになった。‘47年3月14日の論説欄に、 「・・・教育の刷新は、吉田内閣のかかげている六大緊急施策の一つであり、その早急な実現は、国内だけではなく諸外国側からも強く要望されている。民主的平和的文化国家としての日本の建設は、日本を戦争にかりたてた今までの教育の欠陥をとりのぞき、これを根本的に改めて、初めて出来ることだからである。教育基本法は新憲法の精神にもとづいて教育の新理念を明らかにし、民主的教育の基本になる事柄を示した教育の感懐ともいうべきものである。新憲法は政治革命を推進し、基本法は教育革命を推進する。・・・」(47.3.14)
とその意義を解説している。そして教育の機会均等、六・三・三制、男女共学など新しい教育理念を含んだ「教育基本法」と「学校教育法」が3月31日に公布・施行されたのである。
 1872(明治5)年の学制頒布による近代公教育の開始以来、教育の目的は常に「国家の為にする」ものであった。それが「基本法」では「人格の完成をめざす」ものとなり、
「不当な支配に服することなく」行われるべきものと大転換がなされ、ここに民主教育が出発したのである。
 
とはいえ、生産の破壊と国土の荒廃という条件の下で、新制中学の発足は、志はあっても予算不足で設備が追いつかず、教室も教科書もままならないまま実施されることになった。
 しかし、新制中学という新しい教育は、住民や父母その他の熱意に支えられて進行していった。たとえば、前年より極度に払底していた紙不足は、4月に行われる選挙の投票用紙も危ぶまれるまでに底をつき、教科書用の紙不足は深刻な社会問題となっていた。
だが、これを見かねて、
 「全国百十六の日刊新聞社は、教科書用紙の不足が日本の民主化の基礎教育に重大な支障をおよぼすことにかんがみ、既にこれら新聞社に割当てられた用紙のうち、三、四、五の三ヶ月間、全国各新聞社は毎週二回タブロイド版(ママ)を発行することになり九日から実施する。・・・」(47.3.4)
タブロイド判とは、現行の新聞のサイズの半分の大きさのことで、紙面を縮小しても教科書に紙をまわすという、大変好意的な声明を発表して援助を申し出ている。
また“県民の声”の欄には、
 「母の会で校舎が一日も早く建つよう、大工にお茶を出したり菓子を供する費用に一人当り二円ずつ必要だから寄付して貰いたいと県友会から集金に来た。・・・」(47.4.18)
 母親たちの真摯な姿に多少苦言を呈する形で「校舎新築寄付」に一言が寄せられた投書も見られる。
 発足後3か月経った6月30日の「机のない生徒三万」のトップ記事には、計画だけの新制中学の状況を訴えている。
 「・・・県内の新制中学校設置学校数は公私立合わせて三百七十二校、千九百五十九学級で何れも独立校舎の建築は認めず、普通特別合わせて不足教室数八百九十四にのぼる。
・・・机、腰掛の不足は小学校分一万五千四百九十九人分、中学校二万八千五百十七人分というから、新制中学生総数の約三分の一の中学生が机、腰掛を持っていない有様である。・・・」(47.6.30)
 その一方で、次のような例も見られる。
 「新制中学校が継子扱いにされ、どこの町村でも予算や建物や設備に頭痛鉢巻の種であるとき、村や学校当局、そして村民が協力一致『新制の名に恥じぬ立派な学校を造ろう』と雄々しくも立上った村がある。・・・
 新しい教育の日課表には生徒の個性伸長、民主、自由教育の活動部面を前面に推し進めて同校独自の教育方針を明快に標榜している。・・・」(47.8.8)(
☆32-132-2
>>




    このように新制中学の出発は、予算不足の中よろめきながらの右往左往の状態だったが、敗戦直後の教育方針は、
 「帝都の中等、国民校 あすから授業開始 男子は科学、女子には躾」(45.8.31)とあるように、男女平等には遠い、性別役割の再確認であった。「女子にはともすれば忘れ勝であった躾の点に特に重点を置き皇国女子としての婦道徹底に邁進する」と、国体護持のための婦徳が、戦後の女子教育の出発だった。

 こうしてみると、私が入学した新制中学が、依然として女学校時代そのままの『婦道誌』なる学内を作っていたのも、うなずける。男女が同一内容の教育を受けるには、まだまだ遠かったのである。
(☆35-1)
 「”絶対”ではない男女共学 実情に応じて校長さんに一任 県から通牒」(46.11.1)とか、「知事さんは粋な人 愈よ合併の男女師範」(47.3.22)、「仲よくゴ勉強 大貫で共学のハシリ」(47.4.25)などの見出しからは、男女共学を嫌い、あるいは揶揄する雰囲気が感じられる。(☆35-2)

7月になると、男女共学も、双方にとって有意義な方向へと評価している記事が見られる。
 「男女共学が世論を浴びて新しく出発してから三ヶ月、案ずるよりも生むが易しで、当初懸念された幾多の弊害も見られず、最初の一学期を終えてどうやら軌道に乗った形だ。・・・」(47.7.26) 

 女子学生が華々しく登場しつつある姿は、5月3日の施行日に、水戸市内11校の旧制中学・女学校の最上級生が割当てられて、新憲法記念行事の一つとして、県が計画した模擬国会を実演した例が見られる(☆35-3)。このマメ議会には女子学生も登場、
 「・・・議員ははじめ男七人に女三人の割で選出しようとしたところ、女子側の政治意識つよく半数宛を主張、結局男女五十名ずつ百名となり、・・・十三の閣僚のうち、六つのイスを婦人が占めるという世界一の女護カ島議会となるが・・・」(47.4.19)
「女護カ島」とはよくも言ったりと、苦々しく思わないでもないが、当時の雰囲気からすれば、そんな表現がピッタリだったのだろう。それにしても、当時普及運動を担う人々でさえ、男7・女3でよいとするところに、男女同権に対する理解の程度がうかがわれる。
このマメ議会は4月半ばから猛練習が開始され、当日は、 「・・・『青少年不良化防止法案』をめぐって・・・メイ論卓説総出、傍聴のオトナドモをすっかり感心させた。・・・傍聴人の一人は『女学生のほうがダンゼン優秀ですワ』と・・・」(47.5.6)
というように、男女ともに伸び伸びと未来に向かって発進していこうとする心意気が垣間見られるのである。(☆35-4)

 設備をはじめ、何もかもお粗末な中での出発だったが、こうして「基本法」にもとづく民主教育は、新制度の発足と共に未来に向かって歩き始めた。


---小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」---

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☆31‐1‐1「昭和二五年 猿島郡勢要覧」(1950.12猿島地方事務所発行)を見ると、
「学校教育関係団体」の(1)茨教組猿島支部は、事務所を境小学校に置き、支部長1名 副支部長2名班長4名の全部が小中校長であり、書記長は欠員、書記次長2名は小中教頭である。
学校の管理職が教組の役員を兼ねている。第29回☆27‐2‐4の幸島国民学校日誌にも、組合活動が公務扱いで記されている。

☆ 31‐1‐2 竹前栄治「GHQの戦後改革」(『朝日百科 日本の歴史 12現代』12-70)によれば、―
GHQによる「労働改革は、戦時労働体制の解体に始まり、労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の制定によって、労働組合運動の助長、団体交渉制度の確立を目指す改革であった。この組合助長策は、単位産業報国会の組合化、生産管理闘争の盛り上がりと相まって、労働者を昭和二十二年の『二・一ゼネスト』へと高揚させたが、マッカーサー元帥の禁止命令によってストは回避された。」

☆ 31‐1‐3 猿島郡三和町で教育長など多くの役職を勤めた峯清さん(1920年結城郡名崎村生れ)の場合―
東京の豊島師範学校を卒業して、東京の小学校に就職。その3ヵ月後の‘41年7月に召集され、水戸連隊に入営、牛久で終戦を迎えた。復員し、復職したがすぐに退職して帰郷し、農地改革下のニワカ百姓となった。峯家は大百姓であり大本家(おおほんけ)である。
「戦後、教師の給料が安くて、それより、百姓して豚飼ってるほうがいい、って。
 終戦の時には、代用教員で入って、それからずっと続いて資格取ってる人もいたし、私らは遊んでた。
校長なんかが、『出ろ、出ろ』って、勧誘にきてたけど、豚飼ってるほうがいい、って。29年に再就職したときの、月給が1万足らずでしたからね。
 昭和29年頃から、勤めに出たほうが有利になった、その頃から景気が復活してきたんで。昭和30年になると、闇米が売れなくなった、景気が回復してきて、勤めに出ても食えるようになってきた。私にも、町会議員に出ろとか言う人もあったけど、私は、親が仕込んでくれた教員に戻ろうと思ったんです。」

同じ結城郡名崎村で育った赤荻阿佐さん(1926年生まれ)の場合―
村長などを勤めてきた村一番の旧家に生れ、‘43年下妻高等女学校卒業と同時に、女子挺身隊隊員に編成されて土浦の第一海軍航空廠に行き、終戦を迎えた。
父の死後、‘48年、学歴を活かして小学校教員となった。
‘51年に、遠縁の教員と結婚するとき、嫁入り支度は戦前の姉達のものとも高度成長後の娘のものとも、比較できない貧弱なものだった。が、母親は「うちはドル箱くれるんだから、必要なとき、買えばいい」と言った。結婚後も共稼ぎを1970年まで続けた。
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☆31‐2‐1 『茨城新聞百年史』を見ると、石炭増産の国策のもとで、茨城新聞社の姿勢は労働運動に対して好意的でなかったことがうかがわれる。

☆31‐2‐2 茨城新聞の紙面で、労働運動・争議に関する印象が弱い背景として次の二つが考えられる。(参照:鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』日立市役所、1988、p.345)
‘46年6月、「社会秩序保持に関する政府声明」等が出され、経営協議会の設置・労資の民主的協力による生産増大が強調され、生産管理を否認し争議防止がはかられていた。
‘46年4月27日に結成された茨城県労働組合連盟(県労連)の主力組合である、日立鉱山の両労組が、労資双方の共存共栄的な基本姿勢をとっていた。
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32-1 『茨城県の百年 県民百年史8』山川出版社、1992年、p.314― 「このような県財政のまずしさを象徴したのが、戦後改革の柱の一つ、六・三制義務教育の実施にともなう学校建設問題であった。茨城県には三七三校の新制中学校がうまれたが、独立校舎が新設されたのは一校にすぎず、他はみな小学校と同居していた。机・椅子などもたりず、一六○校近くは二部授業であった。教員不足もひどかった(江本富貴夫『大地に緑の塔を』)。
上の写真は、茨城県が昭和二十二年(一九四七)十二月に学校建設宝くじ券を売りだしたさいの広告ポスターである。学校を建設する財政的な余裕は県にも市町村にもなかった。
新制中学校の人件費は半額国費・半額県費とされたが、他の経費は設立義務者の市町村負担で、設備費にわずかの国庫補助金がでただけだった。産業資金や戦災復興資金の確保が優先され、中学校の建設には起債さえ認められなかった。このため、市町村は、寄付金の募集、土地・山林などの公有財産を処分して、校舎の新設や設備改善の費用を捻出しなければならなかった。宝くじ券の発行もその一つであった。宝くじ券は一枚一○円で総額二○○○円、当籤金一等一万円から五等五円までで、ほかに牛一頭・自転車・革短靴・散髪用バリカン・ドロップ・石鹸が景品としてついていた。」
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32-2 猿島郡の新制中学校の校舎不足の実例をいくつか紹介する。

☆32-2-1 新制中学校建設のため、猿島郡森戸村(現境町)では、1947年12月、約10km南東の菅生村の建物を買取り移築した。建物のとりこわしは、村内15組合から2名ずつの、釘抜き・金槌・弁当持参の労力奉仕によって行われた。
(『境町史資料目録 第二集 旧森戸村役場文書』2‐35「昭和二十二年告示案綴」)

☆ 32-2-2 中島公也(ともえ、1934年生れ)は、東京から猿島郡八俣村(やまたむら・現三和町)に疎開し、住み着いて八俣村立中学校の第一回生となった。その記憶によれば

(「思い出の新制中学一回生」『いばらき女性のあゆみ』1995、p.403)― 「終戦後、国民学校初等科、高等科は小学校、中学校となり八俣村立中学校へ机代わりの座卓と座布団をもち第一回生となりました。校長先生を含めて三人しか先生がいないのと、小学校の間借りで校舎もなく一、三年と二年が一日おきに交互に通い、自由研究室があって先生がいなくても自由に登校して勉強ができたんです。義務教育といっても半分しか学校へ行かないで済んだんですよね。教科書もなくお古でも恥ずかしくありませんでした。

 二年生になって岡郷の飛行場の建物を移築し、校舎ができ本などもいくらか増えてきました。」
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☆32-2-3 猿島郡逆井山村(さかさいやまむら、現猿島町)の場合を『猿島町史 通史編』で見ると―
 p.1070「昭和二十二年五月、猿島町域の三つの中学校が発足した。
四月十五日に新制中学校長の人事が、四月三十日に教官の人事が発令され、五月三日各中学校の開校式と始業式が行われた。いずれも小学校の校舎を借用しての開校であった。
 逆井山中学校の教諭として赴任し、一年A組(男子三七名、女子三三名、計七○名)を担任した鶴見鶴男氏は、当時を回想してつぎのように語っている。
 「逆井山中は、小学校と同居。職員室もなく、一年二学級、二年二学級、三年は十何人かで男生徒だけであったように思う。机も腰掛もなく、一人ひとり自宅から持参のみかん箱が机でした。
座っての授業でした。教科書などもザラ刷り(新聞紙大の折り本で、生徒は家に持ち帰り、各ページごとに裁断し、縫い糸で綴じた)のおそまつきわまりないものでした。ただ本物なのは生徒だけで、敗戦から立ちあがる意欲十分な元気な子どもでした。不服も唱えず、スナオな、男女共学のスタートでした。」(猿島中学校創立五周年記念誌「暖流」より)
 当時、逆井山中学校では、二年B組は香取神社の社務所を借用して授業を行ったが、十一月八日から三月までは寒さのため借用を中絶、のちには生徒数の増加にともない砂崎会館を借用して仮教場とした。」

2年後の1949年4月、逆井山中学校に赴任した島田昭三が見たのは(島田昭三『昭和に生かされて』1997、p.57-62)―
「昭和二十四年四月。新採教員として赴任した逆井山中学校は、逆井山小学校の一棟三教室だけの学校で、玄関が職員室になっていた。
「おはようございます」
と登校すると校長の机があり、ぎっしりと十人の教職員の机が向き合っている。職員室の末席である廊下側では、暗くて文字も見えない。・・・申し出て・・四月中頃から二年A組の担任となった。B組は、中堅で女子の鈴木登志先生だった。

○二部授業から会館生活
二十四年度の逆井山中学校は、三年生が二組、二年生が二組、一年生が三組の七学級編成だった。
教室は三教室しかない。しばらくは、午前中に登校する組と、午後に登校する組の二部授業だった。
これでは教育課程が消化できない非常事態だ。学校と村当局が熟慮の結果、逆井小の空いている教室と、学校隣の香取神社社務所や砂崎行政区の砂崎会館を教室として活用することになった。
公平な活用を考えてか、本校―社務所―会館と月ごとに順送りに教室は移動した。
はじめは、社務所が教室になった。ぎっしりと机を並べ、はだか電球が一つ。天気の悪い日は、暗くて授業も進まなかった。
何回か砂崎会館で生活した。学校から一キロメートルほど離れているので、本校との往来もままならず、担任がほとんど全教科を指導する状態だった。
教える力もない教科の授業は、満足な指導もできず、生徒たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。特に、苦手な音楽の授業は苦労した。一時間、小学校で習った唱歌などを次から次へと歌わせて過ごしたこともあった。
昼休みなど、会館近くの和田三郎先生の家にいっては、お茶などをいただき職員室がわりにしていた。ずいぶんご迷惑をかけた。
二年A組は、二月が最後の会館生活となる。「竹細工の花挿しでも記念に残そう」と相談がまとまる。男子生徒は、喜んで工作をした。特に、普段の授業では目立たない「小林」などよくやってくれて頼もしかった。

○中学校建築決まる
 去る十二月十五日には、生子菅中学校の新築開校式が盛大に挙行された。逆井山村でも、早く中学校を新築してよい環境で学ばせたいものだ。
 二十五年一月十四日。中学校建築の請負が、三百六十万円で決定したとの話を聞く。生徒たちのために、一日も早く完成してくれることを切望したい。
 二月二十四日には、中学校敷地の松の木を抜く仕事をやった。学級の生徒たちは、協力してよく働いた。一番早く終わりB組の手伝いもした。学校建設のために尽くす、生徒たちの腕も弾んだ。」

☆ 32-2-4 猿島郡境町では、町立女学校設置の動きが戦後に実現した。
1946年2月には、森戸村など近隣の村からも寄附を集めて創設準備が進められ、5月1日には晴後雨の天気のもとで開校式が境中学校講堂で行われた(旧森戸村役場文書(境町史資料目録 第二集)2村政一般 32「昭和二十一年 日誌 森戸村役場」)。
古河高女への通学に難渋していた現境町の少女と親達にとって待望の開校だった。

境町新吉町の商家に生れた門谷(もんや)一枝さん(1933年生れ)の場合(2001.1.5聞き取り)―
境国民学校卒業後、1945年古河高女に入学したが、学徒バスは木炭バスで、朝は境始発6時半、下校は2時半に乗り損ねたら古河から歩かねばならなかった。木炭バスは、塚崎の坂では乗客が皆降りて押さなければ登れない。運転手が出征して翌日からは車掌が運転した。その学徒バスもなくなってからは、教員が境町に出張して吉祥院の本堂で複式授業をするようになった。教員は大きなリュックをしょって来て、サツマをしょって帰った。
「古河へ入学したけど、空襲だと車(=学徒バス)が山の中で待機になっちゃう。1年間古河へ行ったけど、戦時中は毎日百姓のうちのお手伝い、どうせ勉強できなかった。で、境に町立女学校ができる、県立に移行するっていうので、(古河高女1年を修了した同級生が)境へ5人くらい戻って1年をやり直しで入学した。
境女学校は1年しか募集がなくて、2年になった時は、新制になっちゃった。1年間しかなかった、“幻の学校”なんです。
(1946年春、境女学校に入学したら)生徒が自分達で校舎作ったんですよ、岡郷の飛行場(現総和町。第二部第一章(その五)(2)参照)の兵隊さんの入ってた建物を壊したのを自分達で運んで、清水岡に、やっとできあがったら、今度、運動場の木の根っこを全部掘って、そのあとへサツマ芋植えて、そのサツマ芋をふかして大工さん達に食べてもらう・・・やっとできあがったら、そこへは、新制1年が入るようになっちゃって。私たちは入れなかった。
女学校は境高校に残ることになった、元が男の学校だから、男便所ばっかりで、女子便所が少なくて、(便所でない所で)済ませちゃえ、なんて、言ったり・・・。
新制中学は、はじめ、「境町外二ケ村立中学校」って言った、それが「清水岡中学校」になって。」
参照:椎名仁「町立境高等女学校」『町史研究下総さかい』第7号、2001、p.95―96

☆ 32-2-5他県での例をあげておく。
? 群馬県桐生市で新制中学一回生となった石崎瞭子(1934年生れ)によれば(「楽しかった新制中学 石崎瞭子(昭和9年7月生)」週刊文春編『私の昭和史』文芸春秋社、1989.11、p.347-350)―
「東小学校の校舎でスタートした私たちは、結局、三年間、居候のままで卒業した。桐生川のほとりに新校舎が建ったのは、その後のことだった。」

? 愛知県三河長篠村(現鳳来町)で、新制中学一年生となった林吉宏の記録によれば(七原恵史・林吉宏・新崎武彦『ぼくら国民学校一年生』ケイ・アイ・メデイア、2001年8月15日、p.224、p.232)―
スタートは「運動場の東の隅にあった紅葉の木の下の青空教室であった。」「学校建設は、生徒も随分手伝いをした。とくに校舎の基礎工事は、多くの櫓を中心に地突歌にあわせて基礎固めをした。川砂や砂利運び、壁の「こまい」は生徒たちの仕事だった。落成式の日がきても運動場はまだ半分整地されただけだった。」

? 石川県鳳至郡七浦村(しつらむら、現門前町)字皆月という、能登半島の西北端の寒村で新制中学一年生となった、橋本左内によれば(『国民学校一年生―ある少国民の戦中・戦後』新日本出版社、1994、p.150、p.175)―
新制中学校の校舎は、「小学校二、三年の教室と旧尋常高等小学校一年の三教室を振り当てて、どうにか三学年(一学年一学級)が授業可能という状態であった。体育館も運動場もすべてが居候ということのために、何かにつけて小学校に対して遠慮がちであった。」
☆ 35-1 1945年12月4日、閣議、女子教育刷新要綱を了解(女子大の創設・大学の男女共学制・女専と高女の学科程度引上げなど).(岩波書店『近代日本総合年表 第二 版』1984)
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☆35-2-1 茨城軍政部から、「男女共学の励行について」と、両性の本質的平等観に立脚すること、小学校では原則実施することとの、地方事務所を通じて町村長会議に対する‘47年5月12日の強い注意が、やはり必要だったのであろう。(『境町史資料目録 第二集 旧森戸村役場文書』1国・県・郡16 「自昭和二十年度 町村長会綴 森戸村役場」)

☆35-2-2 中島公也(ともえ、1934年生れ)の記憶によれば(「思い出の新制中学一回生」『いばらき女性のあゆみ』1995、p.403)、猿島郡八俣村立中学校では―
「新しい教育制度になり、男女別だったものが中学校では男女共学となったが、教室の中で男と女の席ははっきり分かれていたし、ほとんど男性とは口をききませんでした。学校自治会(今の生徒会)でも私的なことは話しませんでした。会話するとうわさで大変だったんでしょうね。クラスは共学でも卒業写真は男女別々にどうして撮ったんだろう。本が好きな私は、学校の図書は全部読んでしまいました。」

 八俣村立中学校の図書を、大木洋士さん(1940年生れ)は、‘55年に卒業して結城第一高等学校定時制農業科に進学してからも、借りに行っていた。(「大木洋士日記」未刊)

 島田昭三が新採教員として赴任最初に担任した昭和24年度の猿島郡逆井山中学校2年A組の記念写真も、男子と女子は別々に撮っている。(島田昭三『昭和に生かされて』1997の口絵写真)
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☆ 35-3-1 「市役所を占拠した一週間 佐藤由子(昭和六年八月)」 (週刊文春編『私の昭和史』文芸春秋社、1989.11、p.304-307)によれば―
鳥取市では1947年の初夏、進駐軍の命令で少年少女週間を実施した。市内の中等学校(男子校4、女子校3)から5人ずつ選出された最終学年の生徒たちは、模擬市議会議員選挙から模擬市長選挙・模擬市議会に至るまで、市長・議員・課長・新聞記者などに扮して2ヶ月間「珍しい民主主義ごっこを体験したのであった。」

☆ 35-3-2 橋本左内『国民学校一年生―ある少国民の戦中・戦後―』(新日本出版社、1994、p.175)によれば、石川県鳳至郡七浦村(門前町)の新制中学では―
「全校生徒に議事法を教えるために、講堂へ全員を集め、議長を立てて、一つのテーマについて賛否両派を用意して討論をさせ、多数決によって最終結論を見るという、戦中には思いも及ばなかった民主主義的な議会を経験したことは、僕たち生徒みんなの心の中に明るく熱い希望と自信ともいうべきものを芽生えさせてくれたのであった。」
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☆35-4-1 栃木敏男「教育改革と女子学生」(いばらき女性史編さん事 業委員会編『いばらき女性のあゆみ』茨城新聞社、1995第二編第一章第三節3)p.202には―
「しかし男女共学は県内全域には定着しなかった。県立水戸第二高等学校に最初に入学した男子生徒二名はまもなく転校し、その後は二年間に一名ずつの入学者があっただけで、二十七年度以降男子入学者はあとを絶ってしまった(『水戸二高七十年史』)。そして共学実施後五年目の二十九年度入学志願者の状況は、女子中心の第二高等学校に男子志願者皆無の学校が多く、同一地域に旧制中学と旧制高等女学校があり、男女別の教育が行われていた地域では、男女共学の原則はほとんど有名無実の状態となっていた。しかし水戸第一高等学校へ二十五年四月初めて入学した二名の女子生徒が語っているように、「ほんとうの学問を男性といっしょにしっかり勉強したい」(『いはらき』新聞、二十五年四月十日付)という抱負を持って旧制男子校へ入学する女性はじょじょに増え、自覚する女子生徒の強さを示していた。また小瀬、笠間、麻生、潮来、鹿島、江戸崎、真壁、谷田部、上郷、境、岩井のように地域にただ一つの高等学校では、学習効果が向上し、生活体験の拡大や男女間の理解が進むなど共学の実があがっていった。」

☆ 35-4-2 公立高校における男女共学は、西日本でよく実施され、東日本では不徹底のままという「西高東低」であった。
東京では募集数に性差をつけて、旧制中学系は男子を、旧制高女系は女子を多くして別学クラスを編成していた。
埼玉・茨城などでは旧制中学系は第一、旧制高女系は第二と命名した別学校を存続させる「ナンバースクール」が続いている。
「私立高、共学化進む 「男女共同」視野に少子化対策 公立でも加速 別学存続求める活動も」(「朝日新聞」2003.1.19)との記事には―
「公立でも加速 別学存続求める活動も
 公立高でも共学の動きが拡大している。私立高と違うのは、教育委員会が、男女共同参画を強く打ち出すとともに、高校再編計画と関連づけている点だ。
  福島県はかつて県立高の約2割、20校が別学だったが、94年度から共学化が始まり、今年4月に移行する4校(福島、福島女子など)で計画が終了する。
 現在12校の女子校がある千葉県は8校の共学化に着手した。宮城、群馬、秋田の各県も共学化推進を打ち出し、05年から一部校を切り替える計画だ。栃木県は有識者会議の意見などを踏まえ、近く方針を決める。

  男女共学は戦後、新制高校の原則の一つとされたが、西日本と東日本で実施率に差が生じた。とくに関東・東北では、旧制中学・高等女学校の流れをくむ高校の多くが別学でスタートした。
一律の共学化には伝統校の卒業生らの間で「大事な校風が薄れる」と反発する声もある。埼玉県では、別学の高校の卒業生、PTA、生徒らが大量の署名を集めて存続を訴えている。」

広島県での徹底した男女共学の体験を『若葉出づる頃―新制高校の誕生』(西田書店、 2000)に記した関千枝子さんは、「西高東低」について(2003.1.1たより)―
「新制高校の西高東低は、同じ地区でも差があるし、(各県の)占領軍軍政部による、男女共学だけでなくナンバースクールの扱いの違いなども大きいとは思います。けれども、教育委員会の思考も大きかったのではないかと思います」

☆35-4-3 大学では、女子よりも点数の低い男子を合格させるなど、女子の入学を抑えるために“苦心”してきた。このことを明記したものをまだ見ていないが、入試関係者の多くの胸に覚えがあるはずである。
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---小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」---

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