(そのニ)
「基本法」制定の新しい教育の出発を受けて、現場ではどのような状況が起こったのか、「茨城新聞」の1年間の具体例を眺めてみよう。
まず最初に出てくる記事が、教員の公職追放を検討する委員会の設置についてである。
この追放指令は‘45年の10月30日にGHQから出されているが、10月30日といえば、1890(明治23)年に「教育勅語」が出された日付であることに、書きながら気が付いた。これはGHQ側の皮肉な配慮だったのか。
ついでにいえば、東条英機ら28人のA級戦犯の起訴状が裁判所に提出された‘46年4月29日は、昭和天皇の誕生日である「天長節」であった。極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が開始されたのが同年5月3日、そして戦犯処刑の日は‘48年12月23日、現天皇明仁の誕生日に設定されたのも、意図的であったと思う。
話をもとに戻すと、この軍国主義一掃を実施する適格審査委員会について、「教員の適格審査 県に審査委員会設置」の見出しで最初に出てくるのが、‘46年5月26日で、「連合国最高司令官の覚書によって、新日本の発足にあたり教育界より軍国主義者、極端なる国家主義者又は連合国軍の日本占領の目的及び政策反対者を完全に追放するため、県は政府の指示に基づき県教員適格審査委員会を設け、その委員会の定める規定条項に基づき、県下国民学校、青年学校、中等学校教職員及び三級視学官、市視学等約一万人を書類審査し、適・不適を裁決することになり、目下委員の人選を急いでいる。・・・」(46.5.26)
とあり、審査期間は6ヶ月以内とされている。
さらにこの審査会の委員選定について、
「県教育界の追放令該当者を決定する教育適格審査委員会を形成する教育界側委員七名の選出について・・・候補者の顔触れは九十七名中、教諭、訓導は僅かに十二名で大部分は勤続十五年以上の古顔校長連であり、水戸市を除いては依然として教育界の顔役揃いというところ、このまま委員を選出すれば、委員自体が先ず第一に追放令の槍玉にあげられる懸念なしとしない。・・・」(46.7.7)というような候補者を選ぶのが、旧態依然たる教育界の現状であった
(☆27‐1)。これがこの地方ばかりでなく、全国の状況であったろうから、GHQとしてもとても放置するわけにいかなかった。
矢継ぎばやに、2、3日後には、こんな記事も掲載されている。
「目下軍国主義及び極端なる国家主義的匂いのある一切の物に対する『追放』を実施中であるが、終戦後とかく問題になりながらそのまま放置されている空虚な『御真影奉安殿』も早急に一切とりこわすことになり、十一日その旨県内務部長から各地方事務所長、各学校長に通知した。・・・
なお教育勅語の取扱いについては、中央の方針未確定のため、放置されていたが、県教育課ではこれも回収することになり、県直轄学校は直接、その他は地方事務所でとりまとめ、文部当局の意向をただすことになった」(46.7.12)
(☆27‐2)
さらに日付を追って読みすすむと、
「校歌校訓からも拭い取る軍国調」(46.8.8)
「軍国色を拭う 私塾や裁縫塾にも厳達」(46.8.28)
と、学校ではないが、義務教育終了後の十代の娘たちの集まる場だった裁縫塾の類いにまで、県の通達を流していることがわかる。
7月12日の記事では、「教育勅語」の取扱いについては、文部省に問い合わせる段階であったが、秋になると次のような通牒が出されている。
「・・・今後は勅語や詔書は読まないこと、しかし引続き学校において保管するが、その保管に当っては神格化する様な取扱をせず、教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源とする様な従来の考え方を改めると共に、教育の淵源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等に求むる態度をとる様にする」(46.10.13)
こうして、軍国主義・超国家主義的匂いのする一切の物を教育現場から追放する動きは、さらに進んで各地の施設や町中にも及び、翌‘47年3月の記事には、 「都内の忠霊塔、忠霊碑、銅像などを撤去する審査委員会の委員の顔触れが廿八日決った。・・・
撤去を要するものは、約七十五件で、すでに終ったものは国民学校の彰忠碑、忠霊塔など十四件、撤去に着手しているものは芝青松寺の肉弾三勇士、靖国神社の燈ろうの浮きぼりなど廿七件である。
なお審査委員会では三月六日に北白川宮殿下、大山、東郷元帥の銅像や日比谷公園の軍艦マーチの記念碑など廿四件について審査する」(47.3.2)
とそれまで戦意昂揚のために一世を風靡した銅像や碑が、なだれをうって倒されていく風景となるのだった。
(☆27‐3)
このように初期の軍国主義一掃は、相当に手厳しいものであった。