第27回第一部第三章二

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

目次
第三章「憲法」と並ぶ「教育基本法」の制定と新制中学発足


(そのニ)

「基本法」制定の新しい教育の出発を受けて、現場ではどのような状況が起こったのか、「茨城新聞」の1年間の具体例を眺めてみよう。
まず最初に出てくる記事が、教員の公職追放を検討する委員会の設置についてである。
この追放指令は‘45年の10月30日にGHQから出されているが、10月30日といえば、1890(明治23)年に「教育勅語」が出された日付であることに、書きながら気が付いた。これはGHQ側の皮肉な配慮だったのか。

 ついでにいえば、東条英機ら28人のA級戦犯の起訴状が裁判所に提出された‘46年4月29日は、昭和天皇の誕生日である「天長節」であった。極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が開始されたのが同年5月3日、そして戦犯処刑の日は‘48年12月23日、現天皇明仁の誕生日に設定されたのも、意図的であったと思う。

話をもとに戻すと、この軍国主義一掃を実施する適格審査委員会について、「教員の適格審査 県に審査委員会設置」の見出しで最初に出てくるのが、‘46年5月26日で、「連合国最高司令官の覚書によって、新日本の発足にあたり教育界より軍国主義者、極端なる国家主義者又は連合国軍の日本占領の目的及び政策反対者を完全に追放するため、県は政府の指示に基づき県教員適格審査委員会を設け、その委員会の定める規定条項に基づき、県下国民学校、青年学校、中等学校教職員及び三級視学官、市視学等約一万人を書類審査し、適・不適を裁決することになり、目下委員の人選を急いでいる。・・・」(46.5.26)
とあり、審査期間は6ヶ月以内とされている。

 さらにこの審査会の委員選定について、
 「県教育界の追放令該当者を決定する教育適格審査委員会を形成する教育界側委員七名の選出について・・・候補者の顔触れは九十七名中、教諭、訓導は僅かに十二名で大部分は勤続十五年以上の古顔校長連であり、水戸市を除いては依然として教育界の顔役揃いというところ、このまま委員を選出すれば、委員自体が先ず第一に追放令の槍玉にあげられる懸念なしとしない。・・・」(46.7.7)というような候補者を選ぶのが、旧態依然たる教育界の現状であった(☆27‐1)。これがこの地方ばかりでなく、全国の状況であったろうから、GHQとしてもとても放置するわけにいかなかった。

 矢継ぎばやに、2、3日後には、こんな記事も掲載されている。
 「目下軍国主義及び極端なる国家主義的匂いのある一切の物に対する『追放』を実施中であるが、終戦後とかく問題になりながらそのまま放置されている空虚な『御真影奉安殿』も早急に一切とりこわすことになり、十一日その旨県内務部長から各地方事務所長、各学校長に通知した。・・・

 なお教育勅語の取扱いについては、中央の方針未確定のため、放置されていたが、県教育課ではこれも回収することになり、県直轄学校は直接、その他は地方事務所でとりまとめ、文部当局の意向をただすことになった」(46.7.12)(☆27‐2)
さらに日付を追って読みすすむと、
 「校歌校訓からも拭い取る軍国調」(46.8.8)
 「軍国色を拭う 私塾や裁縫塾にも厳達」(46.8.28)
と、学校ではないが、義務教育終了後の十代の娘たちの集まる場だった裁縫塾の類いにまで、県の通達を流していることがわかる。

 7月12日の記事では、「教育勅語」の取扱いについては、文部省に問い合わせる段階であったが、秋になると次のような通牒が出されている。
 「・・・今後は勅語や詔書は読まないこと、しかし引続き学校において保管するが、その保管に当っては神格化する様な取扱をせず、教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源とする様な従来の考え方を改めると共に、教育の淵源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等に求むる態度をとる様にする」(46.10.13)
 こうして、軍国主義・超国家主義的匂いのする一切の物を教育現場から追放する動きは、さらに進んで各地の施設や町中にも及び、翌‘47年3月の記事には、 「都内の忠霊塔、忠霊碑、銅像などを撤去する審査委員会の委員の顔触れが廿八日決った。・・・
 撤去を要するものは、約七十五件で、すでに終ったものは国民学校の彰忠碑、忠霊塔など十四件、撤去に着手しているものは芝青松寺の肉弾三勇士、靖国神社の燈ろうの浮きぼりなど廿七件である。
 なお審査委員会では三月六日に北白川宮殿下、大山、東郷元帥の銅像や日比谷公園の軍艦マーチの記念碑など廿四件について審査する」(47.3.2)
とそれまで戦意昂揚のために一世を風靡した銅像や碑が、なだれをうって倒されていく風景となるのだった。(☆27‐3)
 このように初期の軍国主義一掃は、相当に手厳しいものであった。


---小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」---


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☆ 27‐1 金原左門・佐久間好雄・桜庭宏『茨城県の百年 県民百年史8』山川出版社、1992年、p.305―
「一連の軍国主義・国家主義教育を排除する政策のなかでもっとも大きな問題となったのが、教職員の適格審査であった。GHQは、昭和二十一年一月に、軍国主義者の公職追放と超国家主義団体の解散を指令した。同年五月には国家主義教育を推進した教職者の追放基準が示され、茨城県でも八月に茨城県教員適格審査委員会規程が制定され、茨城軍政部との駆引きのなかで、県下約一万三○○○人の審査が、水戸中学校長の委員長西野正吉のもとでおこなわれた。

茨城県は鹿児島・熊本の両県などとともに、「強固な国家主義の地盤」とみなされていたが、二十三年三月までに、鹿児島県では二一○人、熊本県では一二○人の追放者をだしたのに対して、茨城県では校長加藤完治ら日本国民高等学校の五人をふくめて、わずか一七人にすぎなかった(『茨城県教育史』)。追放者が少なかったのは、委員長西野の策略が効を奏したのである。敗戦時から二十一年三月までに退職した学校長や教職員約三六○○余人(その大半は戦時中に養成した青年学校の教職員)のリストをつくり、戦争責任を感じて退職した者であるとの注釈をつけて軍政部司令官リンボウと折衝した結果だとされている(「戦後の教育」議会史内部資料第二八号)。茨城県教員適格審査委員会の運営は、敗戦後初の県会(昭和二十年十一月)で、内務部長が、「教育者の人事を徹底的に刷新」し、「新な人事を以」て「新興日本の教育に当らせたい」とする意向を表明していたこととは逆の方向であった(「昭和二十年茨城県通常県会会議録」)。
茨城の教育改革はそのスタートから従来の教育に対する反省は不十分であった。それだけに昨日まで、“神風の襲来”“鬼畜米英”を教えこんでいた教員たちも、手のひらを返すように、民主教育・平和教育を唱えた。」

 猿島郡では、‘45年12月23日に「給料五倍、衣服支給 猿島郡下の有志教員が結束『同志会』で要求決議」(45.12.27)と、境国民学校で「国体護持の教育道を確立」と生活安定を掲げて郡下の国民学校教職員150余名が「真日本教育同志会」を結成した。
その1か月後には、「県教育会の即時解散を決議 猿島の革新運動」(46.2.2)と、各学校長、教頭、首席訓導、真日本教育同志会等の各層から選出された代表者委員32名が境国民学校で郡総会を開催、県教育会の即時解散を決議した。
 2001年発行の『猿島郡教育史』には、教員適格審査について具体的な記述はない。執筆者である編纂委員長・石塚俊は、敗戦当時、境中学校3年生で、学徒動員で日本ピストンリング古河工場に動員されていた。工場は古河市にあり、寮は須藤製糸工場松原工場の粗末なものであった。上級生は古河郊外の三菱重工業(現・古河自衛隊)に動員されていた。俊の父・勇次郎は現職教員、1950年度には境小学校長となっている。
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☆27−2−0 生田目靖志「<研究ノート>占領軍の学校視察と教育現場の対応―GHQ指令文書・視察簿・事件等を中心として―」『茨城史林』25号、2001年6月、によれば―

p.30 1945年10月6日付茨城県内政部長発・各学校長宛の「進駐軍視察ニ関スル件」を受けて、「これに対して、県や教育現場では視察に対する様々な対応策を作成し、県・郡の視学たちが事前に直接学校を訪問したり、校長会を招集して協議を重ねたりして、念には念を入れて対応した。」「いずれにしても、軍政担当中隊による視察が開始されたのは、県内四地区では多少のばらつきはあったが、早いところでは十月中旬から十一月中旬にかけて、県内相当数の学校に連絡済み視察か不意の視察が行われた。」

p.32「またこの間にも「軍国主義並びに極端なる国家主義的物件の処理に関する件」が再三にわたって出され、その中には「日本教育制度ニ対スル連合軍ノ管理政策ニ基ク標記ノ件ニ関シテハ数次通牒シタノデアルガ、連合軍ノ日本占領満一ヶ年ニ及バントスル今日、一部ニ未ダ遺憾ノ向ガアルカラ、左記ニヨリソノ徹底ヲ期サレタイ」として、四六年七月八日より十二日までを徹底処理期間、教育部会内での隣校相互検閲、全教員参加の総点検などを指示した。検閲は校舎内外を問わず戸棚、引き出し、床下、物置、職員机中、児童机中などはもちろん、使丁室、宿直室などあますところなく総点検をなすなど、細部にわたって注意事項を明示している。その上、処置する物件の例として教練、武道具、神棚、天皇の軍装写真はもちろんのこと、学校日誌、郷土誌、表彰状など百品目に近い処理物件を示している。」

p.39「教育勅語の返納と奉安殿の取り壊しにかかわる事件」について「七月初旬(一九四六年)戸多国民学校に突然進駐軍二名が来校、奉安殿を開けることを要求、中に教育勅語の巻物があり、破り捨てて帰った。・・・学務課長と協議。明日にでも全県の学校長に『教育勅語』を県まで持参してもらうよう手配するということで外部に漏れず宅着。」・・・と記しているが、この時点では、各学校に教育勅語の返納・奉安殿取り壊しの指示は出しておらず、学校の大半は教育勅語を奉安殿に安置しておいた。これが発見されて問題化したのである。

  県では、一九四六年七月六日付「指示事項」の中に、奉安殿其の他の「御紋章は取り外して破壊」、「天皇陛下、明治天皇、大正天皇の御軍装写真は焼却」の指示を出していたが、この事件を機に七月十一日、急ぎ奉安殿の取り壊しと教育勅語の県返納を命じた。こうして七月十二日を教育勅語返納日、奉安殿撤去のタイムリミットの日にして急場をしのいだのである。」

p.41(3)生田目靖志「占領期の茨城の教育」『茨城新聞』1996.11〜1998.8に76回連載。

  (4)生田目靖志「指令文書等にみる占領軍の学校視察」『内原町史研究』第5号、1994。

p.42(31)『高萩市史 下』「終戦前後の学校教育」高萩市、1969年


☆27‐2-1 沓掛国民学校(猿島郡沓掛村、現猿島町)では、1945年11月21日という早い時期に占領軍による査察を受けた。以後、同校の対応は、新聞が報じる一般的な動向よりも先行している。『猿島町史 通史編』1998、p.1068によれば―
「十一月二十一日、沓掛国民学校にジープで乗りつけた古河駐屯隊(第七六○野砲部隊、隊長ジェームス・ブレヤス少佐)の将校以下四名が校内を検閲、とくに教練用の武器、武道用具の有無について調査した。
 翌二十一年一月十五日、沓掛国民学校では、村長以下列席して御真影の奉遷式を挙行。午後一時、校長平勢五郎が御真影を捧持、木村甲之進教頭、村代表木村保三郎書記、青柳駐在巡査が護衛して、境町の猿島地方事務所に返還した。二月五日には、修身、国史、地理教科書と同教科参考図書を倉持訓導の指揮により高等科二年生の手で、猿島地方事務所へ搬出した。七月十三日、「教育に関する勅語」を猿島地方事務所に返還、その他の勅語、詔書、令書類は学校で焼却した。これらについては他の学校でも同様に行われた。

 また奉安殿については県の通達により、沓掛国民学校では七月十一日より撤去工事に着手、青年会員七十余名の奉仕作業により、一か月を要して取り壊し作業を行った。
 その他の軍国主義および極端な国家主義に関する「物件」についても、県の通達にもとづいて徹底的な破却、払拭作業が行われた。沓掛国民学校では七月十日から作業を開始、諸帳簿、書籍、掛図、備品等をはじめ、物置、堆肥舎、小使室、器具室、裁縫室、家事戸棚等の整理、調査作業を行い、机・腰掛から児童の所持品まで検査をしたほか、床下に穴をあけ天井板をはがして、床下・天井裏まで清掃・調査をした。また、この物件処理のために学校間の交換検閲を行い、沓掛国民学校では七月十一日、全職員が出張して七重国民学校の検閲を行い、翌日は七重国民学校の全職員と菅谷郡視学の検閲を受けた。」
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☆ 27‐2‐2 『境町史資料目録 第二集 旧森戸村役場文書』1-15「親展書綴 村長自昭和二十年」には「処理物件」と題された次の文書がある。日付も作成者名もないが、森戸青年学校に関するものと思われる。
一、器具類
戦利品銃     二    軽機関銃    一
弾庫      二○    手榴弾     七
教練銃     五○    標的      七
木銃      二五    偽装網    五○
指揮刀      四    手旗      五
飯盒      一○    銃架      一
水筒      一○    短棒     一○
薬莢     一○○    銃剣術防具   一
帯革及剣差   四二    剣      四○
擲弾筒      二
二、図書類
教練必携    一○    作戦要務令   一
歩兵操典     七    修身公民科精義 四
教練指導書    二    修身公民書   四
関係法規綴    一    女子青年学習書 八
教科書男子用  二二    農村青年の教育 一
女子用     一八
教本       八    防空必携    一
農村教育ノ新建設 一    作業□範    一
理想郷建設の五型 一
掛図       一    其他
国体の本義    二    校旗      一
体操□範     四
青年学校経営の実際一
☆ 27‐2‐3 幸島国民学校の教員の回想を紹介する。
石崎和夫さん(1925年、幸島村大和田生まれ。父は村収入役など)は、境中学校から水戸師範を1944年に繰上げ卒業後、4ヶ月間の水戸での兵役後、復員して、’46年4月から地元の幸島国民学校西校(現三和町立大和田小学校)に勤務した。

「終戦直後はGHQの軍政下にありましたから、学校教育も全てGHQの命令のもとで行われました。教科面では修身、国史、書き方廃止、礼儀作法は指導した方がよいだろうと「躾(しつけ)」の時間を週一時間設けました。教科書、図書の中に戦争、帝国主義を強調するような文字、文章は墨でぬりつぶすよう指示があり、ほとんど使えなくなり焼却した本もたくさんありました。奉安殿も解体されました。8月末頃米兵の査察がありましたが、職員室の中を見回した程度で20分位で帰りました(☆27-2-4 幸島国民学校「学校日誌」参照)。校旗も縮図を提出するようにとのことでしたが本校にはないことにして、私があずかって家で保管しました。今度の記念行事(大和田小百年)を機にお返ししました。PTA創設の準備も三学期に行われたように思います。」(『大和田小百年』)
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☆ 27‐2‐4 当時の現場を理解するために、幸島国民学校の「学校日誌」(『三和町史 資料編 近現代』茨城県猿島郡三和町、1994年、p.1282−1290)より、本稿のテーマに関連する記事を転載する。
幸島国民学校は、高等科と尋常科を併置した「併置校」(現諸川小)と、尋常科のみの「北校」(現駒込小)「西校」(現大和田小)から成っていた。「会館」とは学校内の集会場である。

「(一九四六年)
二月十一日 月曜 天気曇 温度三度
    午前十時ヨリ紀元節拝賀式挙行、全校一回ニ行フ 午后一時ヨリ真日本教育同志会員座談会アリ、会館ヲ使用ス
二月二十七日 水曜 天気晴 温度五度
    午前九時半ヨリ幸島班主催民主主義教育講習会ヲ会館ニ於テ開催ス 講師 東京高等師範学校教授 中川一男先生 本日授業ヲ行ハズ全職員出席ス
四月二十九日 月曜 天気晴
    午前九時ヨリ天長節拝賀式ヲ挙行ス、来賓ナシ
六月二十六日 水曜 天気晴 温度二十六度
    学校長、教職員組合結成準備委員会ノタメ境町ヘ出張 高等科児童、小麦脱穀及除草ヲナス 午后職員農場ノ作業ヲナス
七月二日 火曜 天気晴雷雨アリ
    学校長、郡学校長会議出席ノタメ境町ヘ出張 昨日ノ学事室ヨリノ通牒ニヨリ午后全職員ニテ学校全体ヨリ軍国主義、極端ナル国 家主義的色彩ヲ除去ス、直チニ文書ニテ学事室ヘ報告セリ 教頭、村内戦死者宅ヲ弔問ス (下略)
七月十日 水曜 天気晴 温度三十一度
    昨日ニ引続キ軍国主義的物件処理ヲナス、組合昨日通リ 午后一時菅谷視学、針谷主事補来校、処理状況ヲ視察サル
七月十一日 木曜 天気晴 温度三十二度
    日直ヲ除キ全員八俣校ニ出張、物件処理状況ヲ視察ス、授業ナシ
七月十二日 金曜 天気晴 温度三十一度
    八俣校全職員来校、軍国主義物件処理状況検閲ス 授業二時間
    午前九時ヨリ開始、手分ケニテ校舎内外全部ヲ検査ス、午前中終了ス
七月十三日 土曜 天気晴 温度三十一度
    学校長、勅語謄本返納ノタメ境町ヘ出張 江原訓導、教職員組合結成委員会ノタメ境町ヘ出張 (下略)
七月十五日 火曜 天気晴 温度三十四度
    (前略) 一奉安殿ニ関シ関教頭役場ヘ 一農場作業 一県指示ニヨリ、助役ヨリ奉安殿撤去ハ早急ニ実施困難ナルニヨリ、取敢エズ一部ヲ取払フコトナリ、玉垣及内部ノ木造部ヲ撤去ス
八月四日 日曜 天気晴 温度二十八度
    (前略) 一山中利氏及人夫三名来校国旗掲揚柱台除去完了
十一月三日 日曜 天気晴 温度十六度
    午前九時ヨリ明治節拝賀式並新憲法発布記念式ヲナス次イデ秋季運動会ヲ開催、午后四時終了ス
十二月三十日 月曜 天気晴
    午前十一時ヨリ村主催新憲法発布記念式並ニ祝賀式ヲ挙行、祝賀行事ハ夜マデ行ハル 来賓 綿引事務所長其ノ他
(一九四七年)
一月二十三日 木曜
    (前略) 午后一時ヨリ部内各校ヨリ教組委員集合委員会ヲナス
一月二十四日 金曜
    午前中郡学校長会議アリ 午后学校長ト教組幹部トノ懇談会アリ、教頭及江原訓導出席ス 本日授業ヲ二時限ニテ打切リトス(欠席多ク、旧正月三日ナルタメ)
一月二十五日 土曜
    十月十八日以来文部省ニ要求スルコトアリ、組合運動ヲ続ケ来リタルモ交渉成立セズ、本日郡教組合員全員境校ニ集合、大会ヲナス 授業ハ来ル十九日日曜日ニ振替授業ヲナシ置キタリ
一月二十六日 日曜
    本日ヨリ部内各校ヨリ教組委員一名宛来校、宿直室ニ待機ス
一月二十七日 月曜
    午前十時三十分ヨリ保護者会ヲナシ、会館ニ於テ懇談会ヲナス 九時ヨリ授業参観、十時ヨリ十時半マデ学級懇談会、主トシテ教組運動ニツキ説明ヲナス 部内各校ヨリ一名宛待機
一月二十八日 火曜
    教頭、教組用事ノタメ境町及古河町ヘ出張 本日ヨリ各学年トモ授業ヲ午前中トナス、職員ハ問題ヲ印刷シテ宿題トスル準備ヲナス 部内各校ヨリ一名宛来校待機ス
一月二十九日 水曜 天気晴 温度五度
    授業午前中 部内各校ヨリ職員一名宛来校待機ス
一月三十日 木曜 天気晴 温度五度
    郡教職員組合委員会アリ、江原訓導・関教頭境町ヘ出張
一月三十一日 金曜 天気晴 温度五度
    全官公庁職員、内閣ニ要求スルコトアリ、明日午前零時ヲ期シテゼネストヲナスコトトナリ、本日授業二時間ニテ第三時間目朝礼場ニテ、コレマデニ至リタル理由ト、明日カラ休業トスルコト、自習問題ハ学級ニテ出サレタル問題ヲ勉強スルコト、先生方ガ巡視スルコト及通知アリタル時ハ直チニ登校出来ルヤウ、注意シテ帰宅セシム 児童ニハ平常ト異イタル様子見ラレズ
二月一日 土曜 天気晴 温度五度
    授業平常通リ三時間ヲナス
    本日、全国的ゼネストノ予定ニテ教員モソノ中ニ入リ授業廃止ノコトトナリ、居ズレモ昨日進駐軍マッカーサー司令部ヨリ禁止命令アリ 本日早朝ヨリ全職員ニテ児童ニ連絡シテ授業ヲナスコトヲ得タリ 本日ノ出席ハ平常ニ増シテ良好ナリキ
二月五日 水曜 天気晴 温度三度
    明日ヨリ授業ヲ旧ニ復帰スルコトトス 午后農民組合ニテ会館ヲ使用ス
二月十二日 水曜 天気晴 温度四度
    部内教組委員会ヲナス、各校ヨリ委員来校ス 部内各校ヘ布靴ノ配給ヲナス、職員全員ニ一足宛 学芸会ニツキ相談ヲナス
四月七日 月曜 天気曇 温度十六度
    午前九時より始業式を行ふ、新制中学の開校式は二十一日となり中学校入学該当者は二十一日まで休みとす 午前十時半より入学式を挙行す 新制中学校の学校長公選の件につき、中川教官境町へ出張す (下略)
四月八日 火曜 天気曇 温度十五度
    授業二時間にて教室掃除をなす
    午前九時より午后三時まで講堂にて農地改革に関する講習会あり、地方事務所より係員来校す、役場より農地委員、村長等来校す 午后三時より栄転四先生の送別会をなす
四月十七日 木曜 天気晴 温度十六度
    午后二時より部内学校長並教組委員会をなし闘争態勢を解除せり 明日県主催六三制についての講習会の通知あり 准教収三九一号による文書「軍国主義並極端なる国家主義的物件処理について」を受領す 境中同窓会あり
四月十九日 土曜 天気晴 温度十六度
    午后一時より新制中学校に関する学校長異動あり、小森谷校長辞令受領のため境町へ出張す (中略) 郡教職員組合委員会あり、関、中川、江原三教官境町へ出張
五月三日 土曜 天気雨 温度十度
    一新憲法施行記念日、訓話ヲ行フ
    一幸島村立幸島中学校開校式実施
    一来校者 開校式参列ノタメ、村長酒井貞次郎、保護者会長関根喜市郎、副会長北山喜太郎、村議西村庄四郎(以下、七名略)、北校長三浦武、西校長関清治
五月八日 木曜 天気晴 温度二十二度
一破損個所調査
一教組執行委員会
一作業分担打合せ
(下略)
五月十二日 月曜 天気小雨後曇 温度十八度
一家庭訪問日
一DDT(粉末)左記ノ通リ代金支払
  • 小学校 一五四円六三銭
  • 中学校 一九八円八一銭 保護者会衛生費ヨリ支出
一鯨肉三、四年児童ヘ配給
一人百匁目、代価八円、十銭ノ運賃保護者会ニテ補助
五月十五日 木曜 天気曇 温度二十二度
一家庭訪問
一身体検査実施
一新学制準備協議会
校長、(保護者会長等八名略)の諸氏
五月十八日 日曜 天気晴 温度二一度
一村民協同組合結成式 講堂使用
五月二十八日 水曜 天気晴 温度二十一度
一新教科書国語講習会(下館小)
一新学制準備協議会開催
  1. 新制中学敷地ニ関スル件
  2. 昭和二十三年度生徒収容ノ件
  3. 小学校修繕ニ関スル件
五月二十九日 木曜 天気晴 温度二十三度
一学校長役場へ
一新教育講習伝達
一ビタミンAD剤 三○○粒注文 」

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☆27‐3‐1 この頃の猿島郡の子どもの様子を、「茨城新聞」は―
「郷土帳
   ◇猿島郡逆井山村国民学校の児童達は最近夜遊びを覚えて自家製の巻煙草を盛んにふかしている、甚だしいのは吸がらを道ばたになげ捨ててゆくので冬季の乾燥期になると頗る危険千万、防火上甚だ困る問題として学校当局に対して注意方を要望して居る」(’45.2.2)
「ジープを囲む子供たち 子供達の大好きなジープ・・・」(’45.2.2写真キャプション)
「コドモが稼ぐ エビカニとり」 猿島、結城の飯沼川沿岸、一日二百円からの稼ぎ・・・(46.11.30)
「学童が火の元用心に協力
  猿島郡猿島村国民学校の児童達は吾が村から一件の火事も出すまいとこの程学校常会で申合せをして月末から明春まで村内を二十数班に分け防火班をつくって火の元注意や泥棒用心に協力する事となった」(46.11.25)

☆27‐3‐2 当時、名崎国民学校(現三和町立名崎小学校)の児童だった染野浩(三和町尾崎、1932年生まれ)の回想『三和悪童奮戦記―昭和も遠くなりにけり―』(日本図書刊行会、1997、p.160−)によれば(参照:第17回・疎開児童の急増)―
「8.疎開の子とのかかわりあい
小学五年生の頃になって、この縁故疎開で同じ教室へ入って来た友達が、たしか、数名はいたと思う。
都会の子は頭がよいんだ、という先入観があった所へ入って来た新入生は、大へんことばがきれいで、(歯切れがよく。)それに、国語の本読みなども上手であり、どうも、我々田舎っ子は面白くなかったようであった。
「東京っことば使って。」
などと、いじめてやれ、気分になってしまう。我々は団体であり、民族主流派であるが、疎開されて来た少年達は少数民族である。
親許(おやもと)をはなれ、たったひとりぼっちで、泊めてもらっている親戚の人にも少しは気をつかうだろう。夜になると父母がこいしいのではないか。
こんなことは、当時、我々田舎っ子だってよくわかっていたのに、次のようなことばをあびせ、からかったりしてしまったのである。
「おい、犬が西向くと、尾はどっち向く。」
と言い、
「尾は東じゃないの。」
などと答えると、
「その犬日本犬だど。」「柴犬(しばけん)だぞ。」「けんか負けた犬だど。」と、難題にしてしまったのである。
日本犬(秋田犬)はしっぽ上向いている。と逃げられるし、柴犬は、しっぽうずまいているから、ぐるぐるまわって、どっち向いているかわからない。負け犬は、だらりとしっぽをさげてるから、
「下じゃないの。」
と答えた時は、
「負け犬は、しっぽ下げてっけど、後足(うしろあし)ではさんでしまうので、外から見えねんだよ。」
などとほざいたのである。
又、
「あのな、おまえ、あしたな、猫と犬のタマゴ持って来てくれよな。」
などと、大へんきつく、できっこないことを言い、困らせたことがあるのである。
 今になって、申し訳ないと言ってもはじまらないが、田舎にばかり住んでいて、井戸の中の蛙(かわず)であり、世間知らずであったので、と言い訳させていただき、水に流してほしいのであります。

☆27‐3‐3 1944年、茨城県の或る村に縁故疎開した児童の側の回想を、大岩川嫩「日本人と洋装―鹿鳴館から女がジーンズをはくまで―」『「きもの」と「くらし」―第三世界の日常着―』アジア経済研究所〔アジアを見る眼〕88、1993、p.241‐243から紹介する。

「体験した都市・農村格差 忘れ難い記憶として、ここに書きとどめておきたいのは、戦火を避けた疎開先の農村で、子供心にも初めて戦前段階における都市と農村の生活様式の著しい差異を知ったことである。一九四四年初夏、国民学校五年生の私が縁故疎開した関東地方の一農村では、洋服を着ている子供はまだ皆無に近かった。一方、洋服しか着るもののなかった都会からの「疎開っ子」は異分子としてことさら目立ち、地域の登校班を率いる年嵩のボス生徒のいじめの対象とならざるを得なかったのである。
出征兵士の留守宅の農作業に勤労奉仕に引率されて行ったある暑い日、草むしりをしていた私は、デシン地で鮮かな黄色に黒の水玉模様の、姉のお下がりのワンピースを着ていたが、突然、「そんなべべ着てるからノーリツが上がらねエんだべ!」という怒声を浴びせられ、大きな牛糞を肩先へぶつけられた。驚いて見上げると、黒っぽい縞模様の野良着にモンペの、高等科二年(今の中学二年)の女ボスの仁王立ちになって怒りに歪んだ顔があった。都会育ちの身に慣れない野外作業で能率が悪かったことはたしかだが、真面目にがんばっていたのに、きれいな服を着て浮かれている、と罵るボスの意地悪さ(とその時は思った)は、それまでの小さないじめの数々にも増して、骨身に徹してくやしかった。 しかし後年、繰り返しその記憶を辿るたびに、だんだんその光景が違った意味をもって理解できるようになってきた。あのとき、彼女に発現したのは、一九四○年代前半における都市の小市民生活の風俗と、派手な水玉模様の洋服など触ったこともない地主小作制度の支配する農村の小作農の娘の生活格差への名状しがたい怒りであったのだろう。きっと、その時期、日本中のあちこちで同じような都市と農村の文化衝突が起こっていたにちがいない、と・・・。この事件後、私は東京に戻って八月から開始された学童集団疎開に参加することとし、遠い富山県に赴いた(写真参照)。
 こうした衣服文化の地域格差は、こんにち一掃されている。少なくとも、子供たちの服装は都市も農村も何ら変わりがない。戦後の農地改革を初めとする日本の社会諸変革の成果である。」

茨城県における学童疎開に関する参考文献
? 生田目靖志「戦禍を避けて―新聞に見る学童疎開―」『いはらき新聞』1990.8.7−9.19の25回連載
? 生田目靖志「茨城県における学童集団疎開概要の一端」『茨城県史研究』81、1998年10月、p.61−77
? 鈴木靖「茨城県下における淀橋区学童集団疎開の展開」『茨城県史研究』81、1998年10月、p.78−96
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---小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」---


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