(その一)
私がこの章の見出しとして「『憲法』と並ぶ『教育基本法』」と書いたのは、「教育基本法」(以下、「基本法」と記す)が新憲法がつくられる同じ時に準備され、「憲法」施行と同じ年の3月31日に制定されたという時間的同一性ばかりではない。
教育にかかわる法律の基本・トップに位置づけられる法律であり、後出の記事に出てくるように、「新憲法は政治改革を推進し、基本法は教育革命を推進する」とある通り、「憲法」と連動して「教育勅語」にかわって、敗戦後の教育を推進してきたという意味で、教育憲法ともよばれるものだからである。
また「憲法」と同じように、条文の前に前文がついていて、そこには、こう書かれている。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。(以下略)」
この前文を読めば、「憲法」と「基本法」が手をとりあって、未来の日本をつくりあげるシナリオであったことがよくわかる。
ところで、戦前の教育制度は、「教育勅語」を中心にすべて詔勅・勅令を基本としてつくりあげられていた。どちらも天皇の発する命令であり、教育制度は国会の手が及ばないところで決定されていた。だから、天皇ぬきの「基本法」を制定する営みは容易でなかったことが想像される。
敗戦1ヶ月後の9月15日に出された文部省の「新日本建設ノ教育方針」の第1が「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ・・・」となっているのを見ても、これは到底、日本側に委せてはおけないと、占領軍であるGHQが判断したのは当然であった。
ドイツで行った直接占領とは異なって、同じ敗戦国である日本に対しては間接占領を行っていたにもかかわらず、GHQは口を出さずにはいられなかったのだろう。
というよりもアメリカは早くから、神国日本を築きあげたのは、軍国主義・超国家主義の教育の力にあると考えていたからだ。だからこそ、GHQは10月末に早くもそうした教育に対する禁止指令を次々に出し、それに続く軍国主義者・超国家主義者の公職追放という措置をとった。
そのような例を新聞の「見出し」から拾ってみると、
「軍国主義者 教壇から追放 近く校長の大異動」(45.10.11)
「日本人の再教育方針 連合国司令部より指令 軍国主義を禁止 教科書再検、自由討議を奨励」(45.10.24)
「軍国主義教員追放 復員者を含む元軍人の資格検討 資格選定の機関設置 マ司令部指令」(45.11.2)
「奉安殿へ敬礼廃止」(45.11.2)
「軍国的教義を抹殺 純粋宗教へ再出発 マ元帥神道と国家分離指令」(45.12.17)
「神道を国家より切離 純然たる一宗教へ ダイク代将見解表明」(45.12.17)
「神道と教育絶縁 文部省具体案を検討」(45.12.17)
等々、多くは一面トップ記事で伝えられている。
純真無垢なる人間(子どもたち)にどんな教育を施すかによって、いかなる国家を構築するかを考える為政者にとって、教育とは最重要事であればこそ、教育改革はGHQにとっても最大の関心事であった。
憲法改正案が国会で審議されている一方で、GHQは米国教育使節団の来日要請を企画し、これに協力する日本側教育家委員の人選もすすめ、委員長に東大総長になったばかりの南原繁が選ばれている。
使節団の来日は‘46年3月5日で、1ヶ月後には六・三制など教育の民主化を勧告して帰国している。
その後、この日本側教育家委員となった人々を中心に、‘46年9月に教育刷新委員会がつくられ、ここで「教育基本法」を制定する必要性を決議し、翌‘47年に「基本法」が制定されたのである。
以上が「基本法」制定のあらましであるが、「憲法」と共にこの「基本法」も改悪の憂き目に立たされているのが現状である。その先どりが昨今の「日の丸・君が代」強制であることは、火を見るよりも明らかである。