'45〜47年茨城新聞</

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

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第二章「憲法」普及の取り組みと公布・施行の賑々しさ


     (その二)

 「憲法」公布翌日の11月4日の「茨城新聞」は、通常は2頁だてのものが見開き4頁となって、「香り高き新憲法公布 国家再建発足の歓喜」「自由の天地開く 普遍の真理追求に」「われ等理想実現に邁進」「民主日本の進路決す 不滅の憲章公布さる」「新憲法精神把握が日本の将来を決定」「各方面に聴く 新憲法への感激」等々、今や打ち捨てられたかに見える「憲法」の華々しい門出が紙面を埋めている。
 そんな賑々しさと共に伝えられるのは、天皇に関してである。公布から55年経った現在、天皇制裁判にいどんでいる私は、やはりそのことに関心がそそられる。
 3日のトップ記事は「新憲法きょう公布 天皇陛下親臨のもと厳かに記念式典を挙行」と書かれ、
 「・・・新憲法公布式典の状況は、貴族院本会議場から全国に中継放送され、又三日付官報には、新憲法公布の勅語、上諭、新憲法全文が掲載され、これをもって新憲法公布諸手続は完了する。現行憲法は明治廿二年発布以来半世紀の間、日本政治の常規として行われて来たが、新憲法公布の日をもって、その大半の機能を喪失する。・・・」(46.11.3)
とあり、その「勅語」(ちょくご。天皇のことば)、「上諭」(じょうゆ。君主が臣下に告げさとす文書)なるものが掲げられている。
 「勅語」とか「上諭」という言葉と共に、その中に「朕(ちん。天皇だけが自分をさす呼称)」とか「御名御璽(ぎょめいぎょじ。天皇の名前と天皇の公印をさす)」という言葉が、この時期まだ生きていることに、歴史の転換点を感じながら、新憲法に対して天皇がどんなことを述べていたのか見てみよう。
 「   勅語
   本日、日本国憲法を公布せしめた
   この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて、国政を運営することを、ここに明に定めたのである
   朕は国民と共に、全力をあげ、相携え、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和を愛する文化国家を建設するように努めたいと思う」(46.11.4)
 「   新憲法公布上諭
   朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深くよろこび枢密顧問の諮詢及び、帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる
   御名御璽
    昭和二十一年十一月三日       内閣総理大臣
                           各国務大臣副署」
(46.11.4)
からも読みとれるように、天皇は、その抱負を述べると共に、この「憲法」はあくまでも、帝国憲法つまり明治憲法の“改訂版”として、枢密院(すうみついん)の諮詢(しじゅん。旧憲法下、天皇がその大権を行使する際、意見をきくこと)を経て、枢密院本会議で可決の後、旧憲法73条に従う手続をとったあと公布していることがわかる。
枢密院とは、1888年に設置されて、新憲法公布の時まだ存在していた天皇の最高諮問機関である。
 そして天皇は、この新憲法公布を神々に告げるために、この日とくに宮中の行事として臨時大祭を親裁(しんさい。天皇みずからが行うこと)している。
 「新憲法公布の三日、天皇陛下は午前八時五十分宮中三殿で臨時大祭を親裁、御告文を奏して、新憲法の公布を親告される。神域には高松宮殿下を始め皇族方吉田首相以下顕官、貴衆両院正副議長も参列するが、・・・」(46.11.4)

 公布を歓び迎える記事には「神的主権から国民主権に移行する民主憲法」とか「わが青史に一大画期をもたらす新憲法」という活字が躍る一方で、その公布を神々に告げる所作が行われている。この状況は、やはり「古い天皇制と新しい人民主権の接木」と前述した10月10日の新聞論説が思い出される。日本の新しい船出は、すっきりとしない矛盾をかかえての出発と感じざるをえない。
 そういえば、11月3日は、かつて明治節といわれ、明治天皇誕生日を記念して制定された祝日であった。この日を新憲法の公布日とし、以降今日まで「文化の日」として名称を変えて祝われるようになったのも、右の事柄と関係なしとしない。 >>


この日を祝って政府はお酒と“憲法煙草”と称する煙草(☆24-1)を、各家庭に特配した。酒は「成年男子一人当り二合、女は世帯単位で二合ずつ」(46.10.14)、煙草は「男が十本、女は五本」(46.10.23)である。お酒も煙草も一種のぜいたく品として、容易に手に入らなかった時代、「憲法」と一緒にこれらの品を人々に与えようとする政府の心意気も感じられるのである。思わぬ特配に、飲めない、喫えない人は、これらを横流しして、食糧との交換物資に役立てている。
 しかし、何度も言うようだが、飢えていた人々にとって、鳴物入りの「憲法」も案外盛り上がらなかったようである。(☆24-2)  「国旗もチラホラ、慎ましやかにお祝い」と題する記事には、 「・・・マ司令部から許可された日の丸の国旗を掲揚した家もちらほら、賑やかなお祭気分はなくて、案外つつましい新憲法公布の記念日であった」(46.11.4)と。これを見ると、禁止されていた国旗掲揚は、この時に初めてマッカーサーから許可がおりたようだ。
このことに関してついでにいえば、国会・裁判所・総理官邸などいわゆる立法・司法・行政という国家の主要3機関と皇居の建物の屋上に許可されたのは、それから半年後の‘47年5月3日の施行の時だった。

5月3日の施行の日は、公布時の華々しさより記事そのものもトーンダウンしていて、翌日の一面トップは、「日本再建の旗印」という題で、進駐軍茨城軍政部(☆25-1)の談話が発表されている。
 「・・・旧来の日本の政治理論によれば、国家とは国民が全面的に忠誠であらねばならぬところの、国民から遊離した存在であった。国民は政府に奉仕し、政府は国民をその恩恵として保護し、面倒をみたのである。国民は国家に対し、何等の権利をも有しなかった。・・・
・・・も早や国民は、国民から選ばれたものでない一握りの少数者に対し、尊敬したり服従したり支持したりする必要はない、も早や政治の運営に当るものは、上司に対する忠誠の義務もなければ、すべての国民が彼に対して全面的に忠誠であり、奉仕することを確保することも維持することも必要ではない。・・・」(47.5.4)
と、国家と国民の関係、いってみれば、天皇と国民との関係をあざやかに説いているものと解される。

 なお、この日に合わせて、旧制中学生・女学生による模擬国会の催しが大々的に開かれていたり、また新しい六・三・三制度による新制中学の発足の日とも重なっていることを付け加えて、新しい教育の出発について、次に見ていきたい。

------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆24-1-1猿島郡は煙草の産地なので、煙草は貴重な換金作物であり、自家用にして子供まで吸ったり、闇に流したり、と多様である。食糧増産と競合して減反・増反をくりかえし ながら、食糧供出の報奨物資として特配される物でもある。
 「郷土帳 ◇猿島郡逆井山村国民学校の児童達は最近夜遊びを覚えて自家製の巻煙草を盛んにふかしている、甚だしいのは吸がらを道ばたになげ捨ててゆくので冬季の乾燥期になると頗る危険千万、防火上甚だ困る問題として学校当局に対して注意方を要望して居る
 ◇勿論同村ばかりでなく境地方は葉煙草の産地だけに父兄たちの自家用煙草の製法を毎日見ているので児童達もすっかり製法を覚え鼻から煙をだしている」(45.12.2)
 「配給のお知らせ 境専売局出張所では正月用煙草一人当り三十本づつを月末までに隣組を通じて配給」(45.12.6)
 「煙草の増産特配酒
    境、岩井全専売局出張所管内、岩井管内十六石、境管内二十四石を・・・境税務署の清酒移入が遅れ旧正月早々配給することになった」(46.1.30)
 「藷類の増産へ 煙草作減反荒蕪地開墾等」(46.5.18)
 「”憲法煙草”を特配 男が十本、女は五本」(46.10.23)
 「一日に配給 日立方面の憲法タバコ特配」(46.10.31)
 「煙草巻きが副業 これはこまった、村の人達
   境警察署の経済室には連日の如く葉煙草や自製巻煙草の横流しが検挙・・・」(47.1.14)
   「全村こぞり 葉煙草増産」猿島郡猿島村。「自製煙草」森戸村若林(47.3.25)

☆ 24-1-2 佐藤和賀子「一冊の家計簿からみた戦時下、終戦直後の暮し―昭和一八年から二一年における茨城県鉾田町の一事例―」(『鉾田町史 七瀬』6、1996、p.1-31)によって、都市部の非農家の煙草をめぐる動きを見ると―(p.21)
「煙草に関しては、A家史料が、一九年一○月一七日に「煙草も今月いっぱいで常会配給になる話」と書いている通り、一一月には常会単位の配給となり、男子一日六本の割り当てになった。そのため、常会配給が通知されてからの半月間は、煙草の買い溜めが当町でもおこった。たとえば、一○月二二日には、「たばこ買いのため今朝も四時に起きて行ったが、とうとう金鵄(煙草の銘柄)は買われなかった」、二四日は「今朝のたばこ買いで父が三時におきた」、二七日「今日も父三時におきて煙草買いに行ったが一七番目で駄目であった」、二八日には「今朝は父一二時に起きて煙草買いに番取り」の如く煙草買いが加熱してゆく様子を日記は伝えている。早朝に起きて入手した煙草は自家用に消費せず、酒四合を譲ってもらった礼として金鵄四○本、粉せっけんに対してきざみ煙草一個、また、終戦後は醤油の不足が著しく、醤油五升を一○円で「無心」した礼として煙草百本を上載せしている。煙草の値上がりも著しく、一八年一月から二○年三月までの間に「光」は一八銭から六○銭に、「金鵄」は一○銭から三五銭に上がった。
 昭和二○年八月一日には、成人男子一日三本の配給となり、代用煙草がつくられるようになった。」

☆ 24-1-3 鹿野政直・堀場清子『祖母・母・娘の時代』岩波ジュニア新書96、1985年、p.186―
「「新しい憲法の誕生、なんと言う喜ばしいことでしょう。その明るい日にお酒や煙草の特配も大へん結構です。いかがでしょう? もう一つ特配に大増収のイモをお加え下さったら。それこそ大よろこびです。」
日本国憲法の発布を目前にひかえた一九四六年一○月一七日、『朝日新聞』の「声」欄にのった投書です。書き手は、徳島市の主婦の小西寿美恵。空腹をかかえて、毎日のたべものの確保に頭をなやます主婦の実感が、あふれています。」
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☆ 24-2 朝日新聞社世論調査室『テーマ別にみた全国世論調査一覧 民意50年の流れ1946−95年調査』(1996.4)に、次の3回の世論調査結果が見られる。
[1952年2月] 日本の憲法をひと通り読んだことがありますか
   ? ひと通り読んだ 14 ?一部読んだ 19 ?読まない 67
[1957年11月] あなたは、いまの憲法を読んだことがありますか、全然読みませんか
   ? 読んだ 39 ?全然読まない 61
[1962年8月] いまの憲法を読んだことがありますか、全然読みませんか
   ?読んだ 44  ?全然読まない 56
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☆25-1 茨城軍政部については、第二部で述べる。
------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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