第2回はじめに

第一部 茨城新聞に見る『憲法・天皇・教育』

目次
はじめに

小園優子


 昨年暮に突然、既刊『銃後史ノート』で共に学びあったむらき数子さんから、「かつて『戦争への道を許さない北・板橋・豊島の女たちの会(KIT)』のニュースに連載させていただいた文章を、メールによる個人通信『むらき数子 情報ファイル』に流してもいいでしょうか」と連絡が入った。その時は、正直いって書いたことは覚えていたものの、どんなことを記したのか細かいことは忘れていた。

 でも、戦後の焼け跡だらけ、何もかもないない尽くしの日常の中、一千万人の人々が餓死するだろうといわれていた食糧難にせめられながら、最初に手にした教科書らしき体裁の『あたらしい憲法のはなし』は、これこそ敗戦日本が進むべき未来を示すキラキラ星に見えた記憶が鮮明で、そんな当時の「思い出ばなし」をごく親しい同世代の友達の日記や感想をまじえて綴ったことはたしかだった。

 むらきさんが、情報ファイルで流したいと思ったのは、今や憲法改正をもくろむ憲法調査会の立ち上げと、そこでの論議、そして何よりもかつての「総動員法」「戦時立法」ともいえる大変な法律「有事法制」が現実のものとなりつつあるからこそ、あたらしい「憲法」が制定された頃をふり返り、今一度「憲法」の原点に立ち戻ろうという思いを伝えたいと考えたからなのか。

 そんなことを思いめぐらしながら、十数年も前に書いたものをと、恥ずかしながら渋々OKしたところ、今年に入って6回に分けてメールしてくださった結果、見ず知らずの方々から、「とても貴重なお話です」「教材に使おうと思っています」「若い世代の何人かを啓蒙することができると確信します」はては「進行中の法廷闘争の参考になります」との貴重な反応をお寄せいただき、ただ、ただ恐縮しております。 >>




 また私の居住する神奈川で、共に平和運動をしている仲間が、わざわざ500部も小冊子に仕立ててくれたり、また他の仲間は季刊雑誌に取り上げて下さったりと、思いがけない反響にいささか驚いています。

 そんな中、またもやむらきさんから、ドーンと大荷物を手渡され、開いてみると、なんと1946年7月から47年8月までの一年分の地方紙「茨城新聞」のコピーの束。
この紙の束を前に、彼女から「これはとくに憲法・天皇・教育を中心に、必要な記事をとってきたから読んでみて? その上で、続篇をどう?」と告げられて二度びっくり。

 年月が経っている上に、紙もインクもお粗末きわまる当時の新聞のことゆえ、渡されたコピーはかすれたり、つぶれた字がワンサとあって、そのままではとても読めた代物ではない。それでも彼女の好意と、私の関心も手伝って、読み始めると「なるほど! なるほど!」と思うことしきり。さっそく大きなルーペを買ってきて座り直した。

 201枚にもなるコピーの山は読んでも読んでもなかなか崩れないのだが、単に当時の思い出の一端として書き綴った事柄が、案外ピタリと新聞の記事と重なりあっていることを発見して、私の記憶もまんざらではなかったと思う。その一方で、やはり、あたらしい「憲法」の新鮮さに、子どもなりに身も心もとらわれていたんだと実感するのだった。 >>


 当時、我が家では「毎日新聞」をとっていたような気がするが、'46−'47年といえば、私は小学6年から中学1年にかけてだったし、戦後の混乱の続いている最中、父や母をはじめ家族の中には、のんびり新聞を読む雰囲気はなかったように回想する。(☆1)

 今回、地方紙「茨城新聞」を読んだあとで、同じ年月の中央紙「朝日新聞」にもざっと目を通してみた。その結果、中央で出された政府の法律や通達を受けて、各地方でどのように具体化されたかがよくわかって、むしろ当時の状況やあり方を把握するのに都合がよかった。

 但し一言付け加えておきたいことは、民主化・人権を華々しく掲げる連合国軍総司令部(以下、GHQと略す)は一方で主要日刊紙(約70紙)とすべての書籍・雑誌を含む多くの出版物・放送・映画・演劇・紙芝居にまで、占領期間中は検閲を実施していた。(☆2)

 「『もしもし』に御注意 外国向郵便物を米軍が検閲」(朝日新聞45.9.9東京都立日比谷図書館蔵縮刷版)とあるが、外国向けだけでなく、日本国内の郵便物も検閲されていた。(☆3)私自身も、配達されてくる郵便物の封筒の下が開けられて、英語の文字の入ったセロテープで封印されたものを受け取って「これは何だ! そうか、抜き取り検査されたんだ」と思うことがよくあった。その辺の事情はこのほどピュリッツァー賞を受賞したジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)下巻第14章に詳しい。そのような検閲をふまえての新聞紙面であることを理解した上で、どれだけのことが、どこまで一般に公開、報道されていたかを念頭におきながら、紙面を広げてみよう。

 もう一つは、なぜ「茨城新聞」かといえば、むらき数子さんが、この十年来茨城県内の二つの町の町史編さんにかかわってきた経緯があって、その必要上慣れ親しんでいたので、今回私に渡されたのが、当の新聞だった。(☆4) >>


以下、私の感想をまじえながら、当時の新聞に見る「憲法」制定過程とその普及方法、軍国主義一掃から民主主義教育を掲げた新制中学の発足など、新聞記事をたどりながら追ってみたいと思う。
ただ私は、憲法や法律にくわしいわけでもない。そこらにいる一市民の眼で、敗戦直後の新聞を開いて抱いた思いを綴ってみようと思っている。
そんな思いを抱きながら、とにもかくにも未曾有の敗戦の混乱の中から立ち上がろうとする日常を、当時の新聞記事を通してつぶさに思いつつ、何とか書き上げたのが5月10日。
「やれやれ、一服しよう」と思っていた矢先、むらきさんから次のようなメッセージが届けられた。

「私が渡した『茨城新聞』が’46年7月以降だったのは、適当に、憲法草案の審議の時期との見当でコピーをとったからでした。国会審議については、それほど間違いではなかったように思いますが・・・いまいち、充実をはかるご苦労をお願いしたほうがいいと思うようになりました。・・・念のため’45年秋から’46年6月、審議開始までの『茨城新聞』を見ておいたほうがよいと思われます。」

と、またもや新聞の山が何回かにわたって送られてきた。積み上げてみると、その数614枚。曲がりなりにもそれらに目を通している彼女の丹念さに敬服したものの、夏休みに入って、1年生になったばかりの孫と急な病で倒れた身内のめんどうも加わって、暑さはともかく、紙の山を見つめるだけの日々が過ぎていった。
 9月に入って、やっと身辺も一段落し、とにかくむらきさんの要請に応えようと紙の山をかき分けた。

 (その一)については、右のような事情もあって、バタバタと追いまくられながらの作業になってしまったが、以下、茨城県立図書館蔵のマイクロフィルムにより、’45年8月から10月までの「朝日新聞」(この間「茨城新聞」は空襲による社屋焼失のため発刊されていないので)、11月より’47年8月までの「茨城新聞」(’47年7月5日以後は「いはらき」と改題した)を通して見た「憲法」制定過程である。

以下、新聞記事の引用は―
 ・カッコでくくり、旧字・旧かなは改め、読み易く、句読点を補った。
  ・判読不能の字は□□とした。
  ・掲載日付は、(西暦下2桁.月.日)とした。
  ・記事の略した部分は「・・・」で示した。
  ・パソコン画面上で作字できない字は、例えば□(らん、手偏+覧)としておく

------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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☆1 誰が新聞を読んだのか、については、第二部で検討する。
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☆2 戦後7年間、日本の新聞はGHQの統制下におかれた。
江藤淳『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』(文芸春秋、1989)は、米占領軍当局が米国政府の命令通りに、占領期間中を通じて、民間検閲を実施し、同時に民間検閲支隊(CCD)をはじめとする占領軍検閲機関の存在を秘匿し検閲への言及を厳禁したことを、検証している。

 『朝日新聞社史 昭和戦後編』(1994年)によれば―

45年9月10日「言論および新聞の自由に関する覚書」、9月19日「プレス・コード(新聞準則)」など明文化された指令と検閲に加えて、示唆などの内面指導が行われた。新聞人への公職追放と新聞用紙統制もおこなわれていた。
検閲で「不許可」「削除」とされた原稿の中に、「連合国の対日方針不一致を暴露するもの」「わが国食糧事情の窮迫を誇大に表現せるもの」もあった。事前検閲から事後検閲へ変わったのちに、49年10月24日で検閲制は廃止された。「しかし、新聞指導、統制の基本方針は厳然として残っており、それを踏みはずせば厳重な処分も予想され、また新聞課による『内面指導』はその後も継続された。」

 『茨城新聞百年史』(1992年、)によれば―
「戦前の本紙発禁処分言論統制が厳しかった戦前、本紙はいく度となく発行禁止の処分を受けた。・・・
その翌日の紙面には「御詫」あるいは「お断り」といった社告が掲げられ、「○○付朝刊記事の一部が当局の忌諱に触れ発禁処分に付されましたので直ちに改版発行いたしましたが、そのため一部読者諸君への配達が遅れました。右御諒承を願います」と読者に説明した。
発禁の対象は思想的なものばかりでなく、戦地通信など、戦闘地や戦闘部隊が特定できるような個所はどんどん削られ、検閲のすさまじさを物語っている。」(260頁)
「新聞人の勤労奉仕  戦時下において、政府や軍部は新聞の果たす役割について十分に認識しており、それゆえに戦争遂行にも新聞を利用した。このため、新聞発行を続けるために、新聞社から応集(ママ)されていく者は他の産業に比べて少なかった。」(246頁)

 戦時中にこうして政府・軍部と “共存”していた「茨城新聞」は、戦後の占領下では新しい支配者に“面従腹背”の態度をとり「本社が検閲により発行停止処分を受けたり、記事の削除を命じられることはなかった。」(297頁)
川俣英一「占領政策の地方的展開」(『茨城県立歴史館報』第17号、1990年、p.143)は、茨城軍政部が1948年6月分の「月例軍政活動報告書」で、茨城新聞に高い評価を与えていたことを紹介している。

 伏せ字や空白などの検閲の痕跡を残さないGHQのやり方は、結果だけに接する日本人に、占領軍=解放軍・言論表現の自由の守護神と思わせた。
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☆3 鶴見俊輔など編『日本の百年 10新しい開国』筑摩書房、1978年、202頁「占領時代の初期、アメリカ軍は日本人助手をつかって郵便局に集まってくる日本人の通信を開き、検査をしていた。その調査結果によれば、十代の女性相互のおしゃべりめいた手紙がもっとも多くて第一位。つぎはかつて戦友であり、いまはちらばって郷里や職場にある二十代の男性同士がお互いの安否をたしかめあう手紙。会社などのビジネス用の手紙はきわめてすくなく、再建後の今日では圧倒的多数を占める大人同士・会社相互の挨拶状などはゼロにひとしかった。(検閲部員の談話)」

 江藤淳『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』(文芸春秋1989、p.213)は、私信の開封の仕方について、技術作戦部(特殊活動部)の「便覧」を紹介している―
「《個人の私信を取り扱う場合、そのすべてについて秘密検閲を用いるのは危険である。
法人組織の通信を取り扱う場合には、検閲の対象となる郵便の少くとも3%を鋏を使用して開封し、しかるのちにシールを貼らなければならない。ウオッチ・リスト担当のメッセージ分析員は、外観によって、どの手紙が無害な文面のものであるかを判定するよう努めなければならない。無害な手紙は、鋏を用いて開封すること。必要とあらば、すべての私信を蒸気を用いて開封し、秘密に封をした上で、無害な文面のもののみを鋏を用いて再び開封し、テープで封をすること》」
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☆4「なぜ『茨城新聞』をとりあげるのか」は、「第二部第一章」として次回掲載する。
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------小園優子・むらき数子著「'45〜'47年茨城新聞」-------


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