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その一)


小園優子(神奈川・戦争への道を許さない女たちの会)

『あたらしい憲法のはなし』という教科書で授業を受けた人を知らないかしら?」
「私がそれよ、多分、最初に学校で教えられた世代じゃなかったかな」
「ぜひ、その経験を書いてみて」

というやり取りを、むらき数子さんと交したのは、一九八九年、天皇の代替わりという事態にあって、憲法をあらためて開いてみた頃だった。
民主主義とセットになったものとして受け取ったはずの新憲法は、第一章は天皇、第一条から第八条までが天皇条項でうめられ、しかも、この天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とある。

 かつて、私達が初めて『あたらしい憲法のはなし』を手にした時、どんな感慨でどのように受け止めたのだったか、この機会に友達にも尋ねながら調べてみた。

   まず、教科書『あたらしい憲法のはなし』について述べよう。復刻版で知っている人も多いかも知れないが、私の手元にあるのは一九四七年八月発行の物だ。
 一九四七年、私が、新制中学の第一回生として入学した当時、戦後復興はおろか、あらゆる物資が底をついていた。国定だった教科書さえまともなものではなく、大きな紙に裏表八ページずつ印刷されたものがそのまま手渡され、これを各自が折畳んで、切って綴るとペラペラのパンフレットのような教科書ができあがった。こんなお粗末きわまる教科書を買わされた(教科書の無償は一九六二年からだ)のは、紙不足と内容の書き換えを迫られて間に合わなかった事情が重なっていたからか。国語などは、教師が好きな教材を選んでガリ版刷りにしたものを使用した。夏目漱石の短編など印象深く思い出される。

 すべてが万事この調子の中で、『あたらしい憲法のはなし』は、まがりなりにも薄っぺらな表紙が付いてホチキスで止められ、さらに背表紙が付いている。大きさは単行本より少し小さめで、それまで手にしていたどの教科書よりも小さく、現在子供たちが手にしている教科書よりもずっと小型のものだ。

 薄黄色の表紙には国会議事堂が描かれ、空に光が伸びている。この絵は戦時中の教科書しか知らなかった者には、かなり斬新さを感じさせた。中の挿絵もイラスト風で、これまでの教科書とは趣を異にしている。

 裏表紙にはペン書きで他人の名前が書かれているのを見ると、憲法の普及に政府がかなり力を入れた筈のこの教科書でさえ、充分に数がなかったらしく、一つ上級の学年からのお下がりであることが歴然としている。してみると、最初に配布になった四七年の八月には一つ上の学年が使用して、翌年に私が使ったことになる。

 奥付には「昭和二二年八月二日 文部省発行 ¥2.50」とあり、特にカッコ付きで(この本は浅井清その他の人々の尽力でできました)と、ことわり書きが付いている。

 この本の編集メンバーだった浅井という人は、慶応大学法学部の教授で、戦後、GHQの公務員課に採用され、臨時人事委員長を務め、四八年には人事院の初代総裁に選ばれ、民主主義研究会理事などを歴任している。主著には『憲法精義』『新憲法と内閣』などがあるそうだから、民主主義や新憲法について委しい人だったらしい。

 本文は「新かなづかい」だが、漢字は旧漢字で表記されている。ザラ紙使用のせいか、印刷もすっきりとはしていないが、五○ページほどの教科書は「憲法」「民主主義とは」などなどの項目に分かれていて、そもそも憲法とはどういうものかの説明から入って、以下、新しく作られた憲法の大事な要点が十四項目にわたって、列記されている。しかも中学生にも分かるように大変平易な言葉で述べられている。

教科書 ちなみに、この教科書は、四七年八月から五一年までの中学生が使用したもので、翌四八年に高校生用に出版された『民主主義 上』は四八年から五三年まで、『民主主義 下』は四九年から五三年まで使われている(資料1)。もっとも後者の教科書は、すでにアメリカがソ連と冷戦状態に入り、反共を前面に押し出してきた頃に作成されたもので、現在では多分に反共的な匂いのする教科書として位置づけられている。

 そういえば、四八年頃からGHQのCIE提供のナトコ映画(十六ミリの映写機の名前がナトコ映写機というので、この名前が生れたという)が、全国津々浦々に貸与され、農村では引っ張りだこの大流行を見せた時期があった。この映画の狙いは「日本人の啓蒙と民主化」にあり、内容の多くは「快適なアメリカの生活様式を伝えるものであり、同時に共産主義の脅威を直接、間接に教えるもの」であったことも、今回初めて知ったことだった。このナトコ映画と教科書『民主主義 上』が軌を一にしていたことは、なるほどと肯けることだった。

 それはさておき、『あたらしい憲法のはなし』が、五一年までの五年間しか使われなかったのも、アメリカの世界戦略による反共軍事同盟に結びつく日本の在り方と連動していることが分かる。日本も朝鮮戦争を契機に右旋回が顕著となり、『あたらしい憲法のはなし』に盛られたような新鮮でういういしい雰囲気は遠ざかってしまったような気がする。
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その二)


 四七年四月、六・三・三制が導入され、私は新制中学の第一回生として中学生活を迎えることになった。とはいっても、戦後の荒廃中、焼け跡だらけの都会では、小学校の校舎さえろくに無く、二部授業が当り前の状態だったから、新制中学校とは名前だけで、校舎も先生も揃っていないような始末だった。
 
私の一家は、東京とは言っても、江戸川を目の前にした東京のはずれ、柴又に戦時中に疎開のつもりで都心から移り住んでいた。その辺りは、畑や田んぼがそこここにあるような土地だったから、焼け野原にこそならなかったが、そちこちに落ちた爆弾の穴が、まだそのまま残っていた。

 私が入学することになった中学校も、校舎は隣町の小学校の間借で、当然のように青空教室が予想された。
 「もし経済的に余裕があるのなら、設備の整っている私立学校に入ったほうが、勉強ができるのでは」という、卒業時の担任の勧めもあって、私は、元女学校だった私立校に入学した。小学校の同級から四、五人は都内の私立校に進学した。

 その年は新制度の発足で、元府立・市立・県立の旧制中学・女学校などの公立校はすべて入学を取り止めたので、いきおい私立を希望する生徒が増えて、急に私立が狭き門となった。

 授業料が払えるだけでなく、物資の無い当時、ちゃんと制服を着せて、裁縫の教材まで用意できるのはごく恵まれた家庭だったのだと、今にして思う。私の家庭は決して裕福ではなかったが、戦災には遭っていなかった。焼け出された家庭の人は、成績優秀でもその学校には入学許可されなかった。
 
入学した年の五月三日に新憲法がいよいよ施行されることになり、私たちの学校でも式を挙げている。
「五月三日、土、雨ノチヤム。今日は新憲法実施記念日で、学校はお式だけでした。記念日にあたり、校長先生、上級生のお話があり、十分休憩してから、前広島文理大学長・文学博士・近藤寿治(ひさじ)先生の『新憲法と女性』といふお話があった」
 これは、小学校からずっと一緒に同じ学校に入学した、ごく親しい友人の日記の一部である。
彼女は、集団疎開中も欠かさず丹念に日記を書いていた人で、私は彼女の日記を通じて戦時中の疎開先での出来事や、今回はまた憲法施行前後のことなど、いろいろと知ることができた。日記ばかりか、当時使われた『あたらしい憲法のはなし』や『民主主義 上下』などの黄色くなった教科書の実物・学校での班日誌、隣組に配布されたらしい『国民必携 日本国憲法』なるものまで「何かの役に立つかしら」と届けてくれた。
憲法紙芝居(資料2) それらをたよりに当時をあれこれと思い出してみるのだが、残念ながら、そのとき校長や上級生がどんな話をしたのか、「新憲法と女性」とはどんな中味だったのか、皆目思い出せない。ちなみにこのとき来校した近藤という人は、戦時中は文部省の役人で、教育関係の著書などもある人である。戦後、文部省から広島文理大学(現広島大学)の学長に送り込まれた人のようだ。戦時から戦後にかけての転換をうまく果たした人なのか、とにかくそういう経歴の人が、いったいどんな話をしたのだろうか。演題に「女性」とついているのは、いかにも元女学校だったことを証明している。

 それはともかく、施行を記念して東京中を花電車が走ったのか、五月六日の日記には、
 「夕食後、七時に押上を花電車が通るといふので、花電車を見に行った。花電車が登って来る時、空が赤くなって、人が線路を防波堤のようにさへぎって居た.・・・(中略)・・・目がくらみさうな電気の明るさです。さういふ花電車が五台通りました」とある。

 戦時中は灯火管制、敗戦後も電力不足で、四七・八年頃までは夜も停電してしまうことが多かったから、街全体がまだまだ薄暗かった。そんな東京の夜を通って行く花電車の電灯(イルミネーション)は、文字通り目がくらみそうだったのだろう。それを大変な人だかりで迎える。政府側の気ばった宣伝に、迎えるほうも新憲法万歳の拍手喝采で迎えたのかもしれない。

 五月三日は、皇居前でも天皇・皇后を迎えて記念式典が大々的に挙行された。皇后もまだこの頃は、戦後制定されたモンペスタイルのような皇后服とやらに身を包んで、人々のよろこびの声に、もみくちゃにされながら親しくほほえみかけている写真は、たいていの写真集に載っている。五月三日から一週間ほどは、各地でこんな華々しい行事が続いたものらしい。

 国会・裁判所・総理官邸などいわゆる立法・司法・行政の三主要機関と皇居の建物の屋上に、日の丸を掲げることをマッカーサー元帥が戦後初めて許可したのもこの時だった。花電車が出たのも、戦後この時が初めてではなかっただろうか。

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その三)


 一九四七年五月三日の施行の日を中心に、GHQからの指導もあって、政府も新憲法、とくに「主権在民」という新しい憲法の性格を普及するために、かなり力を入れたらしい。

 この年の三月頃から政府は、芦田均を委員長に憲法普及委員会を作り、各府県で普及のための講習会を開いたり、ポスター・写真を作ったり、条文を解説したパンフレットを三月中に全国の家庭に配布できるように手配したりした。
 また、若い人々を対象にするのが一番手っ取り早いし効果もあると考えて、学校の先生を集めて短期間の講習会を開催し、その先生たちが、一日二十分でもよいから生徒に新憲法の内容を熟知させるよう指導した。
 私の学校でも、その頃、受持ちの教師が毎朝の朝礼の時間を割いて、条文を説明している。

 六月六日の日記には、憲法を読んでの感想文を提出していることが書かれている。そこに私達はどんなことを書いたんだったろうかと思っていたら、
 「その感想文というのが出てきたのよ。誤字だらけで恥ずかしいんだけどお目にかけましょうか」
という友達からの電話に二度びっくり。送られてきた黄ばんだワラ半紙半切の裏表に正直な思いが記されている。中学に入ったばかりの一年生としては一生懸命考えて書いたあとがわかり、当時の子供たちの受け取り方の一端として、紹介したい。





新憲法を読んでの感想

飯塚裕子


天皇は「生き神」と言はれ私達はよりつけぬ高い所においでになるように考へていましたが、新憲法で天皇は国民のあこがれの的と言はれるようになった。
共産党は「天皇などいられなくてもよい。」と言う主義でありますが天皇は日本の國におられないと國がまとまりません。
國民が生れながらに持っている権利を國で守って下さるのですからその権利を悪い方で使用せずよい方で使ひたいと思ひます。

今までのように「ほうけんママ政度」ですと上の方から下の方へ言って来た事は火の中でも通らなければいけないのです。
上の人は下の人にいくらよい考へがあっても其言はれた事はその通りしなければばっせられたのです。
そう言う時代を考えると今の時代は個人が尊重されておりますから責任を持って何事でもしましょうと思ひました。
國会は衆議院参議院からなっていますので、いかに、選挙が大切かがはっきりわかりました。
それとともに地方自治の大切な事は、小さく個人に考へると一人一人が、りっぱな人になることが大切です。
戦争放棄と新憲法に書かれてあり「もし、他の國から、戦争を仕向て来た時どうするのかしら。その時の用意に少しぐらいの兵をのこしておけばよいのに。」と不安な気持もしましたが、世界に國際?合と言うのがあり、國を守る兵はそこで送って下さると聞き安心しました。 ですから日本の兵隊はいらないわけです。

國際?合の兵をかりなくてもよいように平和な國にするのが本當です。
そして憲法と反対の事をしないよう気を付け新聞も毎日読み國の変り方ぐらい知っているよう心がけます。
今、男女同権・言論の自由が叫ばれておりますが女としての昔ながらの美風は高め悪かった所は改めるようにして、言論自由と言はれているのですが今程、言論不自由な時は無いそうです。
それは、言った事を實行に移さないからです。
私は、此級を小さい社會と考へ自分かってのこうどうをとらない、他の級に負けない級になるよう心がけ、憲法のねうちを行ひであらはすようにしようと思ひました。

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その四)


 あの頃、天皇について教師たちは、どのように説明したのだろうか。私の興味の第一点はそこにあった。

 私の記憶では、教科書『あたらしい憲法のはなし』の中で印象に残っているのは、「戦争の放棄」と「基本的人権」という言葉で、「今の日本は焼野原で大変みじめな状況にあるけれども、唯一つ世界に誇れるものを持っています。それは戦争放棄を世界に宣言した憲法を持っていることです。これからの日本は文化国家として立って行くのです」という教師の話だとか、その本の中の挿絵―1ページ大の挿絵は、飛行機や戦車や弾丸などが戦争放棄と書かれた大きなるつぼ坩堝に投げ込まれて燃やされていく。そのるつぼ坩堝の下から汽車や自動車や船やビルなどが生れ出てくるというものである(添付ファイル「資料3」)―を見て、なるほど日本はこんなふうに生まれ変わるのかと思ったこと、一人一人に人権があるというのも、よくわからないながら、今迄とは違った世界がひらけてくるような気がしたものだった。

 私の頭の中には、そんなことばかりが印象深くて、天皇についてどんな説明を受けたのか、さっぱり記憶にないので、今から考えれば、当時教師たちにも象徴天皇というのは、自分でも説明のしようがなくて、それについては省いてしまって、戦争の放棄と基本的人権だけをやたらに声を大にして説明したのではなかったかと思っていた。

 しかし、この感想文を読むと、一応は天皇についても説明があったらしく、やはり天皇がいないと国がまとまらないから必要だと受け取っている。そうした思いはその頃の大人も子供も含めての一般的な風潮であったものとみえる。日本支配のために天皇制の温存を強く進言したマッカーサーの認識は的確だったと思える。

 当時、教壇で私達に憲法について語った女教師は、現在(1989年)八十歳を越えてお元気なので、その頃のことを手紙で問い合わせると、

 「私は皇室中心主義の教育の下に(下田歌子の実践女学校専門部の卒業生)、天皇は現人神として教育された時代の者ですから、新憲法に対しては共鳴する所はあっても、時に違和感も多かったと思います・・・」
とのお返事をいただいた。

 教師一人一人の受け取り方の相違もあって多少主観の入った説明がなされるのは避けられないと思うが、大方の意見としては、先にも述べたように、やはり天皇は国の中心的存在としてあるべきだというのが、妥当な解釈だったのだろう。

 軍隊の解散についても、一抹の不安を幼い心に抱いている。これについては国際連合が解決してくれるという理想を抱かせられたのも、まだ朝鮮戦争以前だったから、幻想としてあったのだろう。

 男女同権も取りあげられているが、女としての昔ながらの美風は高めた方が良いというのは、「敬虔・勤労・高雅」という校訓をもっていた女学校だったこともあるし、その学校には旧制女学校時代に入学した上級生が五年生までいて、「婦道」などという戦時中の残りかすのような機関紙も時々発行していたから、そんな気風がまだあちこちに影をとどめていたからだろう。

 それでも、あの頃、そんな学校でもかなり自由な雰囲気に改められつつあったようで、週に二時間ほど自由研究という時間が設けられて、その時間は各自好きなことを思い思い勝手にやっていいことになっていた。「婦道」などという良妻賢母を謳う印刷物がだんだん小さくなっていく一方で、新憲法の発足を機会に、そんな自由な時間が特設される雰囲気が作られつつあったのかと、今ふり返る。

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その五


 『あたらしい憲法のはなし』を通じて、私は「民主主義」を掲げる新憲法を、これからの日本の未来を指し示す輝かしい導きの光のようなものとして素直に受け取った。新鮮でういういしく感じられたのは、当然といえば当然だった。

 私達の世代は、もの心ついた時代にはすでに戦時体制だったから、常に圧迫感や抑圧感みたいなものにつきまとわれていたし、殊に戦争末期の爆撃による恐怖感、加えて集団疎開中の陰惨な思いなどに、ずっととらわれてきたから、紙の上とはいえ、憲法に約束されたあのキラキラとした開放感は何ものにも代えられない珠玉のような感じがあった。

 なにごとも任命で、教師の言うことは絶対と思わされていたのが、なにごとも選挙で定め、選ばれた人々が寄り合っていろいろなことを定めていく生徒会なども、新鮮で楽しく頼もしいものだった。
 これからは自分達が主役で事を成してゆく、つまり主権在民の意識を日常的に自覚しはじめ、個人は尊重され、男女は同権であるべきなど、憲法で宣言されたすべてをいいことずくめに受け取った。

 これからは、「責任をもって何事でもしましょう。・・・一人一人が立派な人になることが大切です」と友達の感想文にあるように私もまた憲法バンバンザイ組だったのだろうと思う。

 そのことは大人といわれていた人々にとっても同じ思いではなかったろうか。それまで憲法などというものは、一般の人には全く縁がなく、せいぜい大学に入学できたエリートだけが、やっと講義を受けるくらいだったろう。明治憲法作成の中心人物・井上毅が、学校での憲法教育にきわめて消極的だったことは、原口清『明治憲法体制の成立』(岩波講座「日本の歴史」一五、一九七五)を読んで最近知ったことである。

 友達が貸してくれた『国民必携 日本国憲法』という小冊子(添付ファイル「資料2」)は、多分、四七年の憲法普及の一環として隣組を通して配られてきたものだろう。
縦一四センチ、横八○センチくらいの細長いザラ紙の裏表に二段組でビッシリ百三条の全文が刷り込まれている。それは、ポケットに入るような小ささにびょうぶだたみに折り畳まれていた。

 あの紙のない時代に、政府はそのパンフレット普及のために、とくに用紙の手当をしたというから、相当な気の入れようだったことがわかる。

 そうした政府の意気込みに応えるかのように、友達は「父がよくその憲法の条文を読んでいる姿を目にしたわ」という。

 見せず、触れさせず、お上のものだった憲法が、初めて声高に語られ、しかも戦争放棄の理念を世界に先駆けて高々と掲げている新憲法を教えられれば、戦火に苦しめられてきた人々にとって手ばなしの喜びであった、と、私には感じられるエピソードだ。

 けれども、ある友人は、職業上、神国日本を説いてきたはずの父親が縄文土器から始まる子供向けの『新しい日本歴史』を読んでいた姿を重ねあわせて、右に左にと時代の波を生き抜いてきた大人にとっては、これからの泳ぎ方を探る手段だったのではないか、と醒めた見方をする。

 当時の憲法の授業について、何人かの同世代の人たちに尋ねたところ、 「食べることのほうが大変で、憲法にまで目が向かなかった」
   「疎開先にいたままで、そこで受けた心の傷が癒されないまま悶々とする日々で、そんな授業があったことさえ脳裏にない」と語る人がいる。一方で、広島原爆の際、集団疎開していて助かった友は、
 「新憲法ほど平和の有難さを感じさせるものはなかった」
 「軍都広島では、軍人が第一で、軍人以外は人ではないような扱いを受けた中で、人として生きる権利を日本中の人が得たことはこの憲法のお蔭」と、新しい憲法を学んだ時の感動がとても大きかったことを伝えてきた。

 「一年間、情熱的に説き聞かせてくれたその教師は、多分共産党員だったろうと今にして思う」という彼女が憲法を学んだのは福岡だったそうだが、同じ授業を受けても、爆撃も疎開もなかった子供たちと、自身の受けとり方の違いに目をみはったという感想も添えてきた。
 語る教師の姿勢と受ける生徒の環境・体験の違いによって、その受け取り方は様々だったのだろうが、概して「あまり覚えていない」と答える人が多いのは、やっぱり理念(花)よりも物質(団子)で、食べることで精一杯だった現実の方が、あの頃重く肩にのしかかっていて、そちらの印象の方が強かったということなのかもしれない。

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その六


 二、三年前、Xデーが話題にのぼりはじめた頃、「憲法の第一条には、天皇の象徴としての地位は日本国民の総意に基く、とあるが、かつて国民の総意を問うたことがあっただろうか」という意見を聞いて、新鮮な驚きをおぼえた。憲法を、民主主義を指し示す輝かしいものとして受け取ってきた私は、その憲法に疑いをはさむなどということは、これまでしてこなかった。そんな条項があることさえ意に介さなかった。

 同世代の友人たちには、施行当時「現人神が象徴になったという変化にショックを受けた」という感想もあったが、ショックもそこどまりで、それ以上の考えが及ばなかったのは、私たち子供ばかりではなく、大人も同じだったのだろう。何よりも空襲や疎開で打ちのめされてきた私たちにとって、戦争放棄という謳い文句がどれほど価値あるものに思えたか。その言葉の新鮮さにすっかり頭をとられて、天皇のイメージは関心の外にあったのか。

 今思えば、象徴という言葉は誰が思いついたのか、言い得て妙、天皇の存在が常に変幻自在に妖怪変化するという本質を衝いた最高の言葉を選んだものだと、感心している。
 当時も、そして現在も、私たちは、象徴という言葉にだまされ続けているような気がしてきた。

 戦後手に入れた素晴らしいものの一つとイメージを抱き続けてきた憲法、黄色い表紙の『あたらしい憲法のはなし』に新鮮なういういしさをおぼえた感動がずっと続いていたせいか、十年ほど前にこの本の復刻版を見つけて、懐かしさが先に立って思わず買い求めてしまった。
 日本平和委員会発行の復刻版の「あとがき」には、この「まぼろしの名著」と呼ばれた教科書は、
 「当時の中学生だけではなく、『教え子をわが子をふたたび戦場に送るな』と誓いあい、新しい平和と民主主義の教育への熱意に燃えていた教師、父母に深い感動とあかるい希望をよびおこしました。

永かった戦争のもとで、生命と財産、青春と自由のはかりしれない犠牲のうえに、ファシズムをうちたおし、平和・民主・自由を要求する国際世論にささえられてようやくかちとった新しい憲法を、みんなで学び守っていこうとする真剣な願いが、この教科書のすみずみににじみ出ています。それは、いまでも読む人に新鮮な感動をよびおこすでしょう。

  しかし、この教科書は二、三年使われただけでした。日本は、昭和二五年にはじまった朝鮮戦争の基地にされ、日米安保条約が結ばれ、「警察予備隊」が「自衛隊」にかわってゆくという時代の流れのなかで、教室から姿を消してしまったのです。」と書かれていた。
 日本が強大化し、それと共に天皇制も一まわりも二まわりも大きくなりつつある今、戦後憲法を今一度見直す作業をやりはじめなければと思いはじめている。

(完)


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<参考>
 
小園優子
「戦後教育改革は幻か」
『銃後史ノート 復刊7号 特集・女たちの戦後・その原点』
編集発行・女たちの現在を問う会、発売・JCA出版、1985年。




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