目 次
1. 「憲法九条が無視された時」
2. 「後方支援から最前線」
2". 「補足・後方支援から最前線へ」
3. 「米海兵隊にされた日本船員」
4. 「朝鮮戦争参加で日本は復興」
5. 「警察予備隊から米世界戦略軍へ」



*** その5 警察予備隊から米世界戦略軍へ ***

 在日米軍を朝鮮に出動させたマッカーサーは、日本国内の治安を口実に政府へ「警察予 備隊」の創設を命令、しかも武力集団である事を秘し、あくまでも警察官募集を装うよう 指示し、これを受けて政府は1950年8月国会にも諮らず閣議で発足させました。

 戦争の最中1951年9月にアメリカはソ連、中国、東独など社会主義国を除いて、サンフ ランシスコ対日講和を強行し、日米安全保障条約と日米行政協定を結び日本国内にアメリ カ軍基地を建設、アメリカ軍を駐留させました。これにより日本は憲法に違反して軍事力 を増強し、実質的にアメリカの世界戦略軍の一部になることを約束しました。

 資本主義社会では戦争も産業であり、誰かがどこかで儲けているからこそ、その時々の 開戦口実のデマを振り撒きながら戦争は繰り返されています。

 朝鮮戦争は「射ち方やめ」のまま今年で58周年を迎えましたが、未だに平和協定を結ぶ どころかそのための6者協では日本は拉致問題をアメリカにけしかけ、妨害を続けていま す。休戦前の戦争は、当時の占領軍命令でやむを得ない協力だったと言い訳しても、有事 立法を制定し、日米軍事同盟まで結んだ今度はそうはいきません、日本国民が選んだ戦争 です。それを押しとめるにはそれなりの覚悟が必要です。

 朝鮮半島を、四度までも戦線がローラーのように移動する中で戦争のむごたらしさや、 誰が損をし誰が得をしたのかこの目で垣間見た海上労働者の一人として私は、一日も早い 朝鮮戦争の終結で東北アジアの平和を実現してアメリカ軍日本駐留の口実をなくさなけれ ばならないと思っています。そのため平和憲法の下での戦争の事実を日本国民に明らかに し、反戦平和の行動を貫きとおすことが私の生涯の責務だと決めています。 
(終わり)



50年12月、国連軍が朝鮮半島東北部の興南から撤収する際、米軍の破壊工作部隊
が港湾設備を爆破。猛煙の上がる岸壁付近の沖合で、最後まで残った米軍の艦隊が
上陸船の収容作業に当たった。=米海軍撮影。

(『朝日新聞』1997年12月10日)  


   *   *   *   *   *   *   *   *

「一船乗りの朝鮮戦争体験記」は今回で終ります。
転載をお許しいただいた三宮克己さんにお礼申し上げます。




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*** その4 朝鮮戦争参加で日本は復興 ***

 興南を脱出して数時間後には、東洋一といわれた大工場旧日本窒素興南工場(※)は米 軍により40トンのダイナマイトで爆破されたとのことでしたが、当時の写真が97年『朝 日新聞』にひょっこり掲載されました。こうして撤退するときは街を破壊するばかりでな く、拉致もありました。

 半島東部の海岸でしたが撤退するとき、残しておくと敵の戦力になるからと付近の青年 たちを韓国の警察隊や軍隊が集めて、私たちの船に追い立ててきました。岸では家族が夫 を、息子を呼んで探す、青年たちは船上から家族の姿を求めて走り回る、本当に気の毒で した。8時間かけて済州島まで送りましたが、着の身着のままの彼等にインスタントコーヒ ーを沸かし、砂糖をいっぱいにして飲ませてやる以外なにもしてやれませんでした。

 私たちには使命感のない戦争、戦況によっては昼夜兼行の危険作業に体は疲れ、神経は すり減り、気持は荒れてささくれ立っていました。破壊された街や混乱している海岸で出 会った離散家族、助けを求めてくる在留日本婦人、船内にかくれ脱出しようとする人たち に、何故あの時もっとやさしくできなかったのかと今も胸が痛みます。たまに日本に帰る と、みんなで浴びるように酒を飲みました。

 開戦当時は、何だかよく分からないが、まあ物資の輸送なら貨物船の仕事だ、戦争は韓 国軍と米軍でしているのだろうくらいに考えていましたが、とんでもないことでした。

 日本沿岸の兵站基地から現地前線への補給や上陸作戦、撤退作戦まで参加すれば、兵隊 と民間人の区別も、前線・後方の区別もつきません。特に撤退の時は、最後の一兵を収容 してから逃げるのだから最前線になるのが戦場の実態でした。この戦争の時の朝鮮・中国 両軍には爆撃機や潜水艦がなかったので、LSTは爆撃や雷撃による犠牲者はありませんで したが、過労と狭い船内生活で結核が各船に蔓延して、私の同僚たちも23,4歳で多く亡く なりました。陸に上がった人たちも、うしろ暗い思いで参戦のことは口を閉ざしているよ うで、参戦を職務命令した日本政府の関係者は今もなお、参戦の事実を秘密にしているの で、犠牲者の実態は不明のままです。

 こうした朝鮮戦争は戦後日本の進路に大きな影響を与えました。

 朝鮮戦争勃発時、ときの首相吉田茂は「不遜な言い方だが天佑である」といったそうだ が、朝鮮特需で敗戦後の日本経済は大いに復興しました。開戦後の2年間で土のう用麻袋、 衣類などから携帯食糧、トラック、機関車、ナパーム弾、吊光弾、迫撃砲弾など兵器、海 陸の輸送などで54億5000万ドルの米軍からの受注とその後の冷戦体制で中国を始めとす る近隣の貿易が絶たれたため、対米貿易に依存する方向に進んで日本資本主義の対米従属 を確立する役割を果たしたといわれています。

                           

[むらき注 ※ 日本窒素興南工場の写真が見られます→
 岡本達明編著『聞書水俣民衆史 5 植民地は天国だった』草風館、1990年。または、興南工場全景]


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*** その3 「米海兵隊にされた日本船員」 ***

 上陸軍司令官は「われ制海権を失えり」とGHQに報告したそうですが、予定より大幅に遅れた米兵たちは、ライフジャケットを防寒着がわりに着たまま上陸していきましたが、既に「北朝鮮」軍は退却した後で、作戦は大失敗のようでした。

 元山作戦を終えると再び日本海を南下、黄海に出て北上、38度線より北の大同江河口の鎮南浦へ、米・日掃海艇の掃海後さらに遡航して旧日本製鉄兼二浦工場横に自動車燃料のドラム缶などを揚げて、参戦してきた中国軍に追われ退却する米軍への補給基地を作り、再び鎮南浦に戻って待機。元山以来食糧も燃料も無補給のため、暖房も止めたので、11月半ばの厳寒の中、防寒コートと長靴のまま寝ている人の息が鉄の船体に冷え、水滴となってポタポタと天井から落ちてきました。


 敗退する米兵を収容すると護衛の艦隊は、砲撃を開始、旧日本鉱業の高さ東洋一といわれた大煙突や巨大なマンモスグレーンを砲撃破壊、陸上に積み残した軍需物資の山と共に街全体も焼き払いました。

夜空を横切って飛ぶ真っ赤な砲弾の下から、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ声が風に乗って聞こえ、帆柱に火のついた小舟で対岸に逃げる人影、私たちは暗いデッキで押し黙ったまま錨を巻き揚げました。

 逃げ込んだ米兵たちは口ぐちに「中共軍と戦うのは日本陸軍が一番だ、日本陸軍は何時くるのか?」と尋ねました。

私は「日本に軍隊はない」と答えますと、「何をいうかお前たちこそ海兵隊ではないか」と言い返されました。

朝鮮現地で作業事故死した日本人LST乗組員を米軍は、「海兵隊員mariner」と報告しています。(外務省外交資料「遺体処理」1951年9月13日付)


 仁川に兵隊を揚げ、佐世保で若干の補給をすると再び日本海側の元山より更に北の興南港に向かいました。

 興南では中朝国境から敗退してきた米・韓軍が中国軍に完全に包囲され救出を求めていました。
私たちの船が38度線を越え、さらに奥深く興南に近づくと街の方々に火災が起こり、沖合いの大型米船に向かって、4、5人の兵隊を乗せて運ぶ水陸両用戦車がノロノロと蟻の行列のように続いていました。すれ違いに南下する小型韓国船には戦死者の沢山の死体がデッキに積み上げられていました。


 救出のため海岸にのり上げ待機しましたが、包囲した中国軍が周囲の山を越えられないように、山を越えて街に侵入されると米軍は全滅なので、一日中海岸、海上から山頂に向けて砲撃がつづき、夜は戦艦ニュージャージーが一晩中絶え間なく吊光弾(落下傘付き照明弾)を打ち上げて山頂を照らし、その下を米・中両軍の火□が交叉していました。まさに戦場の真っ只中でした。

 汚れた服にひげだらけ、あかぎれの手で「ベリーコール、ベリーコール」と寒がる敗残兵を船内に収容すると、喜んで「ジングルベル」を歌っていました。12月も20日頃でした。
                           

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*** その2  「補足・後方支援から最前線へ」 ***

前号掲載「その2」、三宮さんの乗ったLSTが参加させられた「仁川上陸作戦」について補足します(むらき)

●参考:「朝鮮戦争 年表その2」「仁川作戦から休戦まで」

2008年8月26日撮影の、現在の仁川の写真です ↓

?仁川月尾島「仁川上陸作戦標識石」1950.9.15 三つの上陸地点のうちの一つ「グリーンビーチ」に建てられているもの。

?現在、仁川国際空港からソウルへの往復の車窓から見られるように、ソウルの西側海岸一帯「西海(ソヘ)」は、遠浅で、干満の差が非常に大きい。仁川港は潮位差が約9mにもなる。

?仁川、自由公園、「マッカーサー将軍銅像」のすぐそばに建てられている「上陸記念碑」。
このレリーフのLST(上陸用舟艇)は兵員だけを乗せています。三宮さんが乗っていたLSTは「40トン戦車とその兵員たち」を乗せる大型でした。

?仁川、自由公園の「マッカーサー将軍銅像」。上陸地点を向いて立っています。


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仁川月尾島「仁川上陸作戦標識石」1950.9.15三地点のうちの一つ・グリーンビーチ
?仁川月尾島「仁川上陸作戦標識石」1950.9.15
三地点のうちの一つ・グリーンビーチ
仁川は遠浅、干満の差が甚大

?仁川は遠浅、干満の差が甚大
自由公園、マッカーサー像脇の「仁川上陸記念碑

?自由公園、マッカーサー像脇の「仁川上陸記念碑
仁川、自由公園「マッカーサー将軍銅像」

?仁川、自由公園「マッカーサー将軍銅像
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*** その2 後方支援から最前線へ ***

 九州の小倉、門司、佐世保などの港は船や鉄道で送り込まれた米兵や軍需品の集中、分散で大混乱と好景気に沸きました。戦災跡にバラックのバーや米兵相手のお土産店が立ち並ぶ街が出現し、トンコ節(ぶし)がはやり「戦争があるといいな、こんなに景気がよくなった」との声も聞かれました。物価はどんどん上がり、帰港のたびに買う肌シャツが40円、60円、100円と値上がりしていきました。

 対岸の釜山の岸壁では荷揚げに動員されたインテリから「これで日本は復興、戦争様さまですね」と戦争支援に感謝どころか、火事場泥棒の非難を浴びせられました。

 9月に入ると岸壁の40トン戦車とその兵員たちが積み込まれ始め、密かに「北朝鮮」軍 の後方仁川へ敵前上陸との情報が入ってきました。船内では当然この参加について大議論となり、先の戦争で何回も撃沈され辛うじて生き残った先輩たちは、「5年も経たないのに又戦争か、俺はいやだ、船を降りる」と激怒、私たちも「日本は戦争放棄だ、永世中立だ、他国の戦争に参加できない」と理屈を並べ立てましたが、海の向こうの日本から無線で山崎猛運輸大臣の「現地指揮官の指示に従え」の職務命令を受け不満ながらも従いました。
あくまでも拒否すると「占領目的違反」として逮捕、沖縄に送られ基地建設の重労働に処せられるといわれていました。

 やがて船は無線封鎖、目的地も示されず出港、その都度手旗で指示されるアップル、バナナ、オレンヂなど「暗号の三定点」をたどるうちに何時の間にか米、英、豪、仏などの連合艦隊と米、日LSTの大船団になって到着したのが仁川沖でした。どこからか飛行機が飛んできましたが、沿岸近くの連合艦隊や遥か沖合いの戦艦ニュージャージーの激しい艦砲射撃の後、日暮れの満潮を期してLSTはいっせいに全速力で海岸に向かいました。私たちは行きついた先で何が起きるのか不安で仕方ありませんでした、米兵たちも緊張して一緒に無言で前方を見つめていました。

 夜間、火災のおさまった上陸地点の橋頭堡(敵地に作った重要な足がかり)からの合図で、私たちは一気に船を海岸に乗り上げ船首扉を開けると、戦車は次つぎと船体をゆすらして発進していきました。夜が明けて近くのトーチカ(コンクリートで固めた防御陣地)をのぞくと、「北朝鮮」兵が火炎放射を浴びて真っ黒になって死んでおり、足元に「山岳戦提要」と書かれた冊子が落ちているのを見て「ああ、俺は何をしているのだ、人殺しの手伝いか」と、それまでの捨て鉢な気持ちが一層高ぶってきました。

 船内のラジオでは、国会で徳田球一議員の「朝鮮戦争に日本人は参加していないか。もし参加要請があればどうするのか」との質問に、吉田茂首相は「仮定の事実にはお答えできません」と一言ではねつけました。そんな言葉の応酬に乗組員たちから「俺たちがここにいるではないか」と怒号が上がりました。

 仁川では船が横転しそうな事故に会い救命艇での避難騒ぎもありましたが、横浜で修理を終えるとすぐに旧陸軍の頑丈な防寒コートとフェルトの防寒長靴が支給され、旧海軍飛行兵のライフジャケット(飛行服の上につける救命胴着)が大量に積み込まれ戦後の物不足の中によくも新品がこんなにあったものかと感心させられました。

 十月初旬、引き返した仁川からまた、米兵を乗せて日本海側の元山上陸作戦に向かいました。しかし、湾内に機雷があるとのことで到着した沖合いに三日程防寒コートと長靴をつけて昼夜漂遊機雷を見張りながら待機。米兵たちは全員ライフジャケットを身につけさせられ、着けてないと食事は貰えませんでした。そのうちに機雷を掃海していた米艦2隻、韓国艦1隻それに日本の掃海艇1隻も触雷爆沈、日本側にも1名の死者と多数の負傷者が出たとの情報が入りショックでした。


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***その1 「憲法九条が無視された時  ***

もう58年も前の古い話です。

 あまり自慢できる話ではないので辞退したのですが、是非ということで以前『社会評論』に紹介したことを老人が繰り返す昔話のつもりで書きます。

 私は、あの朝鮮戦争のときに勇戦奮闘したわけでも果敢に反戦運動をやったわけでもなく、テレビも新聞もない洋上の船内生活で井の中の蛙がただ情勢に流されていっただけで した。内心忸怩たる体験が「護憲反戦」を主張して7期の府中市議会議員を務めるきっかけになったのでした。

 朝鮮戦争が始まった1950年6月、当時私は平凡な一人の船乗りでセーラーといって貨物の積み降ろしをしたり、デッキ掃除やペンキ塗り、マストに登ったり、航海中には舵を握ったりする下級船員でした。
船員は大体2年ごとに休暇下船し乗り換えることになっており、1946年からの復員輸送を終えて1950年頃たまたま乗り組んだのがLSTという2700トンの米軍上陸用舟艇でした。アジア太平洋戦争で商船のほとんどを失った日本政府が海外引揚げ者用に借り上げ、運輸省管轄下の商船管理委員会に乗組員は所属して、船長以下40名余りでした。

 朝鮮戦争が始まる前の5月頃には、日本人乗組みのLSTが、相模湾や九十九里浜で米軍の上陸演習に参加させられたとの話を聞き、またグアム島では中国大陸を追われた国府軍 も見かけて、何かキナ臭いなと思っていました。

 6月25日、グアムから米軍用車のスクラップを日本に運んで小笠原附近にさしかかったとき、「朝鮮で戦争が始まった。大至急追浜に荷物を揚げて横浜ドックに向かえ」と無線が 入りました。
大急ぎで追浜から横浜ドックに回ると待ち構えていた工員たちが、5日間ほどで兵員輸送用の大改装を終え、それと入れ代わりに4人乗りのジープに機関銃を備えた軽 武装の米兵約100人が造船所構内から乗り込み、朝鮮半島南東部の浦項にむけて出港しました。
横須賀沖にさしかかったとき、突然船をゆるがす大音響が起こり、米兵たちは「魚 雷だ、機雷だ」と大騒ぎになりましたが、船は傾きもせず船内を調べると慌てた工事で溶接を間違えた海水パイプの破裂でしたので、米兵に説明し鎮めました。追浜以来、自分た ちの周りに何が起って、何をするのか否も応もないあわただしい朝鮮への出発でした。浦項の手前の九竜浦に着き、日本で遊び呆けていた米兵たちは、本国にでも帰るかのように、 ギターやガラスケースの人形、卓袱台までも抱えて「バイバイ」と陽気に上陸していきましたが、後でこの部隊は大田附近で壊滅したと聞きました。

 佐世保や久里浜から釜山へ兵員、物資の輸送に往復しているうちに「北朝鮮軍」から半島南東部の大邱、馬山、釜山をつなぐ狭い三角地帯に追い詰められた米・韓軍と避難民で 釜山の街はあふれ返り、岸壁附近は戦車、トラック、積み上げられた貨物、荷揚げ人夫、移動する兵士たちでごった返していました。

 朝鮮海峡をはさんで直ぐ向かいの日本からは、大小の貨物船で旧日本陸軍仕様のニッサン、いすずのトラック、渡辺製菓の韓国軍用携帯食糧、森永製菓の乾パン、日本製の木箱 入り銃弾などが続々陸揚げされ、さらに日本で焼いた食パンまでもバラ積みで運び込まれました。韓国紙幣も印刷梱包して運び込んだといわれています。


 狭い三角地帯では膨大な軍隊への給食施設も食糧工場もなく、銀行の紙幣印刷工場もなくなっている状況の所に、日本から総力をあげてのピストン輸送の補給で米・韓軍は持ち こたえ、日本の軍需産業は私たちの目の前でみるみる復活していきました。

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