エーッ、配給ってタダじゃなかったの!? 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 おわりに





暮しの手帖編集部『戦争中の暮しの記録
 保存版』暮しの手帖社、1980、
(もと第96号特集。1968


暮しの手帖編集部
『戦争中の暮しの記録 保存版』1980、p1491


暮しの手帖編集部
『戦争中の暮しの記録 保存版』p441.


p.16「衣類全部に切符制」


p.1 表紙「衣料は節約 切符は献納」






(第99号 2003.8.6「むらき数子 情報ファイル」)
エーッ、配給ってタダじゃなかったの!?    むらき数子
「日本では、配給は、原則として有料だったんですよ」
と言って、30代40代の人から
「エーッ、配給ってタダじゃなかったんですか!?」
と、反問されて、こちらがたじろいでしまう場面が続きました。大学の史学科を卒業して歴史書編纂の仕事をしている人からも同じ言葉が返ってきました。
それを聞いた75歳以上の体験世代は
「とんでもない! あの頃、国が何かタダでくれるなんてことなかったんだから!」
「物がなかったんですから!」
と、興奮してしまって、配給品を受取るには現金を支払ったという事実を、冷静に語ることができなくなってしまうのです。
思い返せば、30年近く前、銃後史の勉強を始めたころに、私自身が、年長者に
「配給ってタダじゃなかったの!?」
と、聞いて、
「あの頃、国が何かしてくれるなんてことなかったんだから!」
と、無知を笑われるという、まったく同じやりとりをしたことがありました。

なんで、非体験世代は、配給とはタダだと思い込んでいるのか? いっぽうで、なぜ、体験者は有料だったと語らず書かないのか?
戦争中の暮らしに関する手記体験談のたぐい、解説のたぐいに、配給制度への恨みつらみは溢れているのに、どうして、それが有料だった、現金がなかったら配給品を入手できなかったのだ、という記述が乏しいのか?

たとえば、『戦争中の暮しの記録 保存版』(暮しの手帖社、1980)には、配給にまつわる手記がたくさん載っているけれど、配給品の価格にはほとんど言及していない。
「配給食品日記 焼けなかった京都の朝昼晩 平岡峯太郎」(p.149-156)という絵日記には、1944年1月から8月までの8ヵ月の毎日、入手した食品が記されている。

「●一月中 魚類五回、蔬菜十四回、牛肉一回、卵一回、豆腐二回、食用油一回、雑穀一回、蜜柑三回」と、1月分について回数や量は書いてあるが、価格は1回も記してない。2月に入って、15日に初めて「片栗粉 百匁□(○の中に「公」)十八銭」とあり、
  「○十六日 
 お葱とみず菜
   ○十七日 大根
   ○十八日 白菜
   ○十九日 大根
   ○二十日 千切大根 一人三十匁
   ○二十一日 豆腐
         牛肉 百匁 一円六十銭
         鯖 四分の三 三十六銭
         大根
   ○二十二日 大蕪 二十五銭
            出し雑魚 一人十匁」

という具合である。以後も、価格が記されるのはまれである。だからといって、価格の記されていない大根・白菜・豆腐などを無料で入手できたはずがない。
逆に、なぜ、平岡峯太郎は価格をときどき記したのだろう?

一つの解釈は―
配給の苦労を書き記した人々にとっては、現金を調達する苦労よりも、行列に並んだり、品物を分配する作業・人間関係の苦痛のほうが大きく感じられたからではないか。
もう一つの解釈―
人は、あたりまえのことは、言わないし、書き記さない。だから、記録に残らない。
当時の日本社会に暮す人にとって、配給は有償であることは、あまりにもあたりまえだったからこそ、誰も、無償でないことを疑いもしないし、有償であることへの不満ももたない、価格を記録もしない。
当時、総力戦体制を構築する側は、ソ連の配給制度をも念頭に置いていた。雑誌などにも、物不足よりは、ソ連の行列による配給制度はいいものだ、という言説が載る。ただし、ソ連(=社会主義体制)では無償、ということは言及されない。私有財産制度のわが国体において、無償で配布するというのは、惰民をつくる・革命思想と排斥されるとんでもない危険な発想だった。
で、現実に、私のデータに配給品の価格の見られるのは、僅かに次のようなものである。
  ・農家の親爺さんが記す「経営記録」的な収支簿
・町村役場から村内への通知類
・まれに、茨城新聞の「配給」欄

今、イラクで、米国から攻撃開始される前に「配給」された6ヶ月分の食糧が尽きる時期にさしかかってきた、今後、ますますイラク国民の生活は悲惨になる、と、イラク帰りの報告者から聞きます。
それを聞いて、配給は無償であることを、あたりまえと思ってしまう、聴衆。

フセイン政府が、社会主義的政策として、生活の最低保障をしていたのだ、と考えると、それなら、なおさら、1940年代の日本が、革命を起させずに総力戦に国民を駆り立てるためには最低保障をしていただろう、と思ってしまう。
国民皆保険制度のおかげで医療費のための破産・身売りを見聞することもなく、教科書は学校でタダで配られるのがあたりまえ、だと思って家計をやりくりしてきたのが、戦後世代。飽食の福祉社会で、配給というからには、並べばタダで貰えるもの、と思って不思議ない。
さらに、総力戦とは究極の合理性を要求するものだと理屈で考える人ほど、つまり、今、有事体制関連法案を作成しつつある人たちほど、そう思うのだろう。

「産めよふやせよ」と言いながら、出産用脱脂綿、ガーゼの配給には、産婆・医師の証明書を役場に出して「購入票の交付を受けたら直ぐに購入して下さい」。つまり、購入=代金を払って買わなければ、入手できない。
戦費を調達するために、税のほかに、凍結した賃金の中から、さらに、「貯蓄」の名目で、現金を金融機関に差し出させ、生活費の3割切下げとまでキャンペーンを張って、吸上げた国家だった、という事実。
何も持たない主婦には、軍需品縫製の内職を奨励して、作業そのもので報国し、その賃金
を献金することでさらに報国できる、と賞揚する有名人。
日用品の鍋釜まで供出(きょうしゅつ)させ、供出代金をさらに「献納」させるプレッシャー。
敗戦後の、戦災者・引揚者への配給品さえ、無償の場合は特記される。戦災者への釜の配給は、小37円、中44円20銭、大62円20銭。(「茨城新聞」1946.5.18)

難民そのものの、戦災者・引揚者から代金を取る配給なんて酷い! と今の感覚では思う。
けれども、配給は有償であることをあたりまえと思っていた当時の人たちにとっては、品物が割り当てられるだけ、幸運という受け止め方だったのだろう。
現金を持たない人が、どうやって、生き延びたのか、勉強すればするほど、わからなくなってきた・・・

「あたりまえ」が、「あたりまえ」でなくなったとき、その内容は伝わらず、まったく異なる解釈を与えられる。
たまたま残った文書を史料とする文献史学の陥る危険と、自分が生きる今の感覚で計ることの危険を、再認識しています。


目次へ


第100号 2003.8.11「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第1回
むらき数子
前号掲載の「エーッ、配給ってタダじゃなかったの!?」には、さまざまな年令の方から、「ショックだった」「タダだと思っていた」「もらえると思ってた」などとの反響をいただいています。「配給がタダじゃなかったの? という疑問がどこから出てくるのか、それが理解できない」という声もあります。
いずれ、「配給特集」として、それぞれの方の「育った地(○○県の郡部・市部)・生れ年・性別」を記して紹介したいと思っております。
お盆は高齢者のお話を聞ける機会です。まだの方、ご感想・ご批判をお寄せください。

***************************************
(第101号 2003.8.17「むらき数子 情報ファイル」)
☆ 「エーッ、配給ってタダじゃなかったの!?」に、さまざまな角度からの反響が寄せられています。文章も長短さまざま。とうてい1回の特集にはおさめきれないので、テキトーに、『配給連想』として紹介していくことにします。



大阪・大本達也さん 
むらきさんから「配給が有料!?」の感想を、ってことですので。

配給が有料だということは「うすうす気づいていた」って感じです。
当時も、自治会費や、NHK受信料、PTA会費みたいに、「かすめとられていた」んだろーな、って思ってました。
やっぱりそうか、って言ってしまうと、あたかもこれまでいろいろと考えてきたみたいでしょ。
はっきり言って、深く考えたことはありませんでした(ごめんなさい)。

ともかくも、NHK受信料は払いたくないですよね。
「見たい」と言った覚えもないのに、NHKが映れば「受信料」を払うべきだって法律まであったりして。
NHKが映らないTVを作っても違法じゃないんでしょ、メーカーさん!
僕の場合、部長さんとかがわざわざ職場まで来てくださって、2時間ほどお話しました。
で、それからは「徴収」されてません。

PTA会費も場合によればそうなんですよね。
子供が入学したら(義務教育なんですよ!)、自動的に入会させられるんですから。

あくまで「任意団体」なんですよ。
「交通安全協会」とかに入るのも嫌なのにね。
ちなみに僕のところは、小学校は会長や校長との話し合いの末、会費のみ支払って活動には参加しないってことになりました(どーしても辞めてほしくないみたいです)。
中学のほうは、はじめから入会を拒否しています(これは楽ですよ!)。

自治会費は半額免除(ま、村唯一の借家ですから)。
これもすったもんだあったんですが。

かなり話がそれました。
ともかくも、お上やそれに近い団体からかすめとられないようにお互い用心しましょうね!

そうそう、配給対策。
とりあえず、僕はあの米不足騒動以来、毎年一年分の米を備蓄しています。
(精米機と密封袋、脱酸素剤を購入しました)
いつも古米を食べることになるんですが、少しは「お上」に「抵抗」できるんじゃないでしょうか。

あ、そうだ、お酒も備蓄しなきゃ。
お酒がなければ、誘惑に負けて一番に配給を受けそう(そんなのないって!)....


目次へ

第102号 2003.8.22「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第2回
投稿者に「生まれ年・育った地・性別」を記すようお願いしているのは、「配給」が全国一律に施行されたのではないからです。
たとえば、1942年2月1日施行の衣料切符は、1人1年に都市100点・郡部80点と、居住地域によって差をつけていました。
内閣情報部が「衣類全部に切符制」(『写真週報 』第204号 昭和17.1.21)で、
 “この甲乙の点数の差はその生活様式の相違からくる差違によって決められたものです”
と記すように、当時の、都市と郡部の暮らし方の違いが非常に大きかったのも事実であり、配給にかかわる体験も地域差が非常に大きかった、と考えられるからです。



(1)1974年生まれ・東京育ち・男性
でも確かに配給って言葉は「もらえる」って感じがしてたね。
最近の災害時に公民館に避難している人達に、毛布とか配られるのは配給とは言わないんだよね? あくまで配布なのかな。でもやっぱり「給」って言葉には「もらえる」って響きを感じるけど、学校の給食ってのは、給食費ちゃんと保護者が払ってたんだね。



(2) 1953年生まれ・東京育ち・女性
私も無料だと何となく思ってました。
だって、「配る」っていう字だから・・・
同居の義母からも並んだ苦労や本家とのいざこざでの苦労は聞いても、買ったという言い方では聞いたことありませんでした。
義母も東京生まれ、大正15(1926)年です。
有料と言うことは特に言うようなことではなく、もっと多くの困難のほうが記憶に残っていたのだと思います。



(3) 1937年生まれ・東京育ち・女性

1937年、生れたのは信州ですけど、父が文部省の、天下りの「日本語教育振興財団」で、(植民地向けの)教科書を作る仕事してたので、東京にいました。
敗戦のとき、小学校2年だったから、(集団疎開に行かずに)東京で、毎晩、空襲で。B29が青い光で、日本の飛行機が攻撃しても、B29のほうはちょっとぐらつくだけで行っちゃう、日本のは火達磨になって落ちてくる、口惜しかった。高射砲だって、届かないんですから。
 配給は、私は小学校2年で、子どもだったけど、母から「配給、貰ってらっしゃい」って、お使いに行かされました。配給は、(役所ではなく)隣組の組長さんのおうちで、あったのね。配給は、いくら、ってお金払ってました。でも、その都度じゃなく、月に一回だか、まとめてやってましたから、(お使いのつど払わないので、そのつどの金額は知らない)。まとめて払うのは、その地域、その組長さんの、やり方かもしれませんね。
 東京じゃ、戦争末期、昭和20年、には、配給もなかなかなくなってきてたんです。物がなくなってたんですから。
 闇よ。物々交換とか。泥棒が多かった、何でも売れたから、何でも盗られた、玄関で革靴脱いでおくと、盗られちゃう。
 (むらきが書いたように)あの頃、国が国民に何かしてくれる、ってことなかったんですから。取り上げるばっかりで。国が何かしてくれる、って絶対ないですよ。軍だって、満州で、軍の偉い人は先逃げちゃったし、沖縄だって死んだのは兵隊と、地元の人で。

 今、また同じことなろうとしてるのに、誰も声をあげないのはどうしてか、って、腹が立って・・・。


目次へ

第103号 2003.8.25「むらき数子 情報ファイル」
◆配給連想 第3回 
(4) 1955年生まれ・福岡県田川市育ち・女性
配給は有料という話は、初耳ではないけれど、詳細なむらきさんの文章を読むと、あらためて認識するというのは大変なことなのだなあと思いました。



(5) 1967年生まれ・横浜で小学生・男性(大学教員)
夏休みですが、法人化を直前に控え、いろいろな雑用があって大学に毎日来ています。研究する時間は、ほとんどありません。
配給についてですが、わたしは小学校のとき先生から教わりました。国がただで配っていたと。そのときその先生は20代、1970年代終わりですから、先生も‘50年代生まれか? たしかに、わたしはそう教わった記憶があります。だから、なんとなくそうなんだろうと思っていました。で、この話をこんど学生としてみますが、たぶん、ただでも有料でもどうでもいい、こんどこういうことがあったら国はただでくれるだろう、と思っている学生が多いような気がします。

つまり、こういうことです
?有料だったことを体験で知っている人々
?無料だったと思い込んでいる人々
?無料だったと「教わった」人々
?どうでもいいと思っている人々=こんどはただでくれると思っている人々

?か?かの議論も大事ですが、?の事実があったということを凝視し、これは歴史教育の問題だと捉えること(有料・無料ですんでいるからいいですが、もっとこわいフェイクロアが教室で流されているのでは)、?がおそらく圧倒的に多いはず、というあたりを議論してほしいです。
もう一度、いいます。怖い現実は、「そんなことどうでもいいじゃん」という人たちが、20代以下にはすごく多いのではということです。





目次へ

第104号 2003.8.31「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第4回 
(6) 1983年生まれ・東京育ち・女性
以前歴史の漫画(?)だったと思いますが、配給を貰う時、深々とお辞儀をしてもらっているのを見たことがあります。何という本だったか、よく覚えていませんが、絵で見たことは確かです。だから、私は、「配給は無料で誰にでも配られるもの」だと思っていましたが、有料だったとは「情報ファイル」を読んで初めて知りました。
 ちょうど、テレビのニュースで、「北朝鮮は食糧不足がさらに深刻化し、給料が支払われていないし、配給もできない状況だ」と報道されていました。ここでの「配給」と言う言葉は、無料で食料を配る事だと解釈できます。私は、今、「配給」という言葉に敏感になっていたため、この報道に疑問を持つことができましたが、敏感になっていなかったら、疑問を持たなかったと思います。この報道を見て、私たちはマスメデイアからも無意識のうちに様々なことを刷り込まれてしまっているので、常に色々な情報に対して敏感にならなくてはと改めて感じました。



(7)1946年生まれ・東京都目黒区育ち・男性
私は1946年生まれです。物心が着いたところは東京の目黒です。小学校1年まで目黒に住んでいました。
米穀通帳の時代に未就学児童でしたから配給と言うものもその延長に考えていました。
ですから、お金は当然払うものと考えていました。
「ただ」と考えている人がいたと言うことが驚きでした。
戦争体験者(戦争に行った人)が70歳を過ぎ、その体験を伝える人がどんどん少なくなっています。
私たちの年代が何を伝えるか考えてしまいますが伝えなければ風化していきます。
「配給」など具体的なことで討論ができれば良い企画だと思います。



(8) 1933年生まれ・東京・男性
餓鬼のあの頃はいつも空腹でひもじかったなあ〜
今の小学6年生に相当する年頃のオレ達は、大人達のワメク 「欲しがりません 勝までは!」に唱和させられて菓子も牛乳もパンも果物もオヤツらしきものなど全部無くなって・・・ひもじかったナア〜
しかも飯は大根の方が多い一膳飯か さつま芋2本の代用食(おお懐かしい言葉ヨ)だったナア〜
何もかにも物と言う物は統制で配給で親達は購入キップと代金を持って、ずら〜つと行列して配給所で買って家に重い足を引き摺りながら帰って来たナア〜
負け戦が続き勇ましい軍歌のメロデーが段々と悲壮を帯びた もの悲しいような軍歌に変わるに連れ、食う物も家畜の餌に近くなり、着るものも履く靴も無くなっても 「鬼畜米英!撃ちてしやまん!」などと空元気で皆で叫んでいたナア〜
切腹した三島も石原慎太郎などあのテの部類の少年時時代は芋や豆粕だらけの雑炊も糠団子や大根飯も食った事が無い筈だ、オヤ達が特権階層で裕福だからいつも白米飯で3品のオカズ付で、オヤツも甘いケーキと果物の日常だっただろう。闇の市場が庶民の目の届かない所で横行していた事実からして証明できる! 
食いモノの恨みはコワイぞ!!

あの当時の経験をした多くの人は、あの時代の経験が、あまりにも惨めで苦しみの極限であっただけに、語ることを憚っているのだと思います。

目次へ

第105号 2003.9.7「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第5回 
(9) 1979年生まれ・茨城県猿島郡育ち・男性
 (配給が有料だとは)知らなかったです。(ずっと昔のことだから)関心なかったし。



(10) 1961年生まれ・茨城県猿島郡育ち・男性
 (配給は)タダじゃなかったんですか? 知らなかったです。最低保証があって当然だと思いますね。



(11) 1925年生まれ・茨城県真壁郡育ち・男性
高等科卒業して、(河内村の)役場に入った。大東亜戦争開戦ときは役場の職員だった。
大東亜戦争の、とき、特配ってありました。シンガポール陥落特配にお酒。一戸に3合か。
(特配のお酒も)お金、とられました。配給はカネとられました。
 □□でも□□でも、塩引き(=新巻鮭)でも、配給来たの、なんでも、役場で(職員だけで)食っちゃった。(きちんと分けて配給したら、ごく僅かになってしまうようなものだから)
だから、今、北朝鮮だって、援助物資、軍とか上の方で取っちゃってるに決まってる、一般にまでわたるわけない。
昭和17年以降は、物資こなくなっちゃった(から、職員で分けようもなくなった)

供出(きょうしゅつ☆)は、タダ同様だ、だけど、タダじゃない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ 供出 
『広辞苑』によれば―

?求めに応じて差し出すこと。
??主要食糧農産物を生産農家から政府が強制的に提供させ買い上げること。食糧管理法に基づく。
 とあるが、『関城町史 史料編? 戦時生活史料』(茨城県真壁郡関城町発行、1984年)の解説p.55には―
 「「供出」という言葉は、米、大小麦だ けに適用されたわけではなかった。馬鈴薯、とうもろこし、里いも、大豆、鶏から卵まであらゆる食糧となるものから、縄、筵(むしろ)、叺(かます)などの藁工品、木材、銅鉄の類は火の見櫓( やぐら)から門扉、ナベ・カマまでが対象となった。一九年七月二六日付「茨城新聞」が報じた「真壁郡本年度ワラ工品供出割当」は叺二三万一八八四枚、筵一二万五八○九枚、縄五二万四七七○貫であったが、その内、叺増 産目標をみると、関本町九○九○枚、河内六七四八枚、黒子五七七一枚となっている。
  「供出」が「自由供出」から「強制供出」になった。関本町農業会にいた猪瀬秋一は米穀供出係で、全農家の反当りの一筆調査を行い米穀供出台帳を作成した。検見員(農家組合の推せん)と合議制で一筆ごとに坪刈りをなし 収穫調べをしたのである。さらに家族調査をして保有米まで削らせ、食べられなくなる分は月末に県からの還元配給で食いつなぐという有様であった。猪瀬は一八年に供出増産の優良職員として農林大臣より表彰されている  が、「涙流して供出督励した」と述懐している。「これだけ出せば食えなくなる」のがわかっていてもやるしかなかったが、あくまで「話し合い、納得づく」でやり、「しぶる人」や「横流し」した少数者は非難の的となりやっていけなくな ったという。猪瀬の言をかりれば、彼は「謝まり専門」だった。農家に謝まり県に謝まって歩き、農家には供出を頼み込み、県へは供出台帳を持ち込んで還元配給を懇願したのである。」

「配給」と対をなす「供出」制度は、生産側の農家にとっては、作目指定で作付けの自由を奪われ、割当量を指定価格で買い上げられることで、取引相手を選ぶ自由・価格決定の自由をも奪われるものであった。



目次へ


第106号 2003.9.11「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第6回 
(12) 1981年生まれ・新潟県上越市育ち・女性
配給はお金を払うものとは知りませんでした。各家にチケットのようなものが配られて、交換に行くようなものだと聞いていたような・・・。

「もうけるのはだれだ?」
「支払うのはだれだ?」
「そして、死んでいくのはだれだ?」          (『戦争中毒』より)
戦争なんて、なんのメリットもない。

もうけるひとにも、いつか跳ね返ってくるのだから。
誰もが幸せな世界をつくりましょ。



(13) 1955年生まれ・福井県育ち・女性
(配給が有料だとは)知りませんでした。
引換券のようなもの、持ってくんじゃなかったんですか? 引換券はタダでもらえたんでしょう?
(14) 1931年生まれ・長崎市で生まれ10歳から名古屋市・女性
配給について思い出すこと
その頃自由販売もあってそれは当然お金払っていたとはっきり言えるけど、配給はどうなのかと言われると漠然としています。それに自分が生活を支えていない子供だったこともある。
父は三菱長崎造船所の技師で、1941年6月に名古屋の三菱発動機製作所に転勤、造船の技師なのに、飛行機の発動機をやれと言われて戸惑っていた。

長崎から名古屋への転勤に、夫婦に子供5人の7人家族が引越し・転校しただけでなく、長年うちで働いてきた女中も一緒にきて、一年ほどいて結婚で辞めていった。彼女のあとには女中はいなくなり、母が一人で家事をやるようになり、戦争末期には妹二人が疎開したので、家族は5人になっていた。
女中だった彼女の夫はまもなく出征し、戦死してしまい、彼女は夫の弟と再婚した。
1941年頃まではバナナ、チョコレート、ビスケットなど食べられた。母はバナナの入ったサラダを作っていました。『婦人之友』の読者で、「友の会」会員でした。

42年頃になるとお菓子もだんだん少なくなり切符制になりました。隣のオバサンの実家は田舎の町で町内会長をしていて、余っている切符をもってきて、家に分けてくれた、切符制といってもズサンなものだった。だから銀シャリ(☆1)などあるところにはあったのだ。
お米がまず統制になって、だんだん配給の量も減ってくるのでお粥になり、お粥の中に芋が入るようになり、空襲が始まる頃はおまじりになっていった。
母はご飯らしいものを食べさせようと「楠公炊き」(☆2)なるものを作ってくれたが、これがまずい。お米をポップコーンのようにはじけさせて炊くというもの。
それでもたまにご飯を炊く日があるけど、それは私たちの口には入らなかった。多分少ししか炊けなくて、神様のお供えのお下がりは、いつも末の妹で多分後は父のお弁当だったのだろうか? 
お米の代わりの代替食品として大豆、豆かすが配給されるようになり、いつも少ししか配給されないのに、或る日沢山の大豆が配給され、喜んだのも束の間、空襲で焼けた倉庫にあった大豆だったので、焼焦げ臭が強くて食べられたものではなかった。

八百屋の店頭に最後まで自由販売品として残っていたのがあらめ、ひじきなどの海藻類。野菜の配給も最後には、5人家族に対して1週間に白菜4/1などとなり、大根の干葉(=ひば。これが固くて噛み切れない)、大人はいつも田舎に芋や野菜の買出し。時には物々交換をしながら。

まずいとか固いとかいえるのはまだ極限を味わっていないから言えることですね。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆1 銀シャリ=白米だけで炊いたご飯。節米の名のもとに、七分搗・玄米食・混食・代用食が奨励され、貴重な「白米だけのご飯」は「銀シャ   リ」「純綿」「純毛」などと呼ばれるようになっていた。
☆2 楠公炊き
勝矢武男「日日の歌」(暮しの手帖編『戦争中の暮しの記録』1980年、p.37-52の絵日記)p.44に―
 「楠公飯とは、楠正成の発明した米のたき方だという。まず米を煎り、その米の三倍 量の熱湯中に投じ、長時間にたきあげる。分量は確かに驚くほど増えるが、美味く ないのも事実だ。」

 


目次へ


第107号 2003.9.18「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第7回
 配給連想を読んで、「1944(昭和19)年8月から翌1945年10月までの学童集団疎開の経費は誰がどう負担したのか」、「義務教育は無償というけど、教科書はいつからタダだったのか」
という疑問が寄せられています。
皆さん、どう思いますか?



(15) 1949年生まれ・東京育ち・女性
私は1949年生まれで、配給の話は結構親に聞いていましたが、配給が有料か無料かは考えたことがなかったです。
お金があっても品物が手に入らないし、制限されていたことは知識としてはありまして、配給物資は有料だったか、無料だったかとクイズを出されたら、有料だったと答えたと思います。
現在の、台風や地震などで被災された方に配られる食事や毛布などはどうなっているのでしょう。これは無料なのだと単純に考えていましたが、やはりお金はとられたり、毛布などはあとで返却したりするようになっているのでしょうか… と思いました。



(16)1936年生まれ・東京育ち・女性
配給は、タダってことはなかったでしょ。引換券みたいの持って行って。
引換券、つまり、買える権利がもらえる、ってことが大変だったんじゃなかったの?



(17)1923年生まれ・東京都育ち・男性
 東京久我山にて。明治25(1892)年生まれの母が(配給で足りなくて、闇物資を)買出しにでかけた。
配給された物には、砂糖やバターもあった。おかねははらっていた。



第108号 2003.9.24「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第8回
(18) 1985年生まれ・東京育ち・男性
さてさて、タダじゃないと…。む〜、配給という言葉からは有償というイメージは浮かびませんねぇ。タダだとか有料だとか、考えたこともなく(おそらくは無意識に当然タダだと思っていたからでしょう)、有料だと言われればそんなものかぁというくらいの感じです。

さて、何も僕が送らなくても、例えば国会図書館とかでも見られるかもしれないし、現役の教師とお知り合いの方も多いかと思うのですが、最近使われている高校の日本史教科書の引用を送ります。
 センター試験ではAとBに分かれているのですが、ほとんどの大学はBを選択させています。センター試験過去問の「赤本」もA用は発行されていません。ですから人数で言えば圧倒的にBの方が多いと思います。ので、Bの方を載せます。
本は関心のある人しか読みませんが、少なくとも中学の歴史教科書は皆が、高校の日本史教科書は教科の選択にもよるでしょうが多くの人が手にするはず。
世間のほとんどの人は教科書にさえ書いていないような戦争中のことは知らなくてもやむを得ないとも言えますよねぇ。という訳で今、あるいはこれから戦争のことを学校で学ぶ人達は「配給」をどう捉えていくのでしょう。これからの世代を生きる大多数の人は教科書に書いてあることだけで戦争を学ばねばならないかもしれません。
そういう意味では教科書の中身ってやっぱり大事なんですねぇ。
ではでは。

■資料 「詳解日本史B改訂版」(三省堂、高校教科書、98年検定、02年第4版)
  「第5編 現代の社会と文化
  第2章 日中全面戦争と戦時体制
  3 戦時体制の強化
【国家総動員法の成立】

……国家総動員法を制定し…政府の経済統制力がいちだんと強まった。
 この結果、国民生活に必要な物資の生産は制限され、国民は衣料や食糧まで不足し、配給制や切符制がしかれるようになった(注)。

(注)1941年公布の生活必需物資統制令によって配給制度が全面化した。生活必需物資は、切符を必要な点数分そろえたり、家ごとの通帳を持参したりして、公定価格によって配給された。


第5編 現代の社会と文化
第3章 太平洋戦争と大日本帝国の崩壊
2 戦局の悪化と国民生活
【戦争経済の崩壊】

……労働力や肥料などの不足は農業生産を低下させたが、とくに主食の米は不足し、1941年には東京・大阪などで米の割当て配給制が実施され、主食の代用として豆類などの雑穀が用いられるようになった。翌年、政府は食糧の供給をはかるために食糧管理法(注)を公布したが、食糧不足は解消されなかった。日常の生活用品も配給制となって統制をうけたため、国民は闇取り引きと農村への買い出しで食糧を求めざるをえなくなった。さらに戦局の悪化によって朝鮮や満州からの食糧供給がとだえがちになり、戦争末期には生命の維持すら困難な状況に追い込まれていった。……

(注)政府は1939年に米穀配給統制法を出し、米価も統制して食糧供給をはかった。一方、農民に対しては米の強制買上げを実施し、小作料統制令によって小作米を直接、政府に納入させた。そして、1942年に食糧を国家管理とする食糧管理法を公布したが、食糧危機は深刻であった。


●経済統制と国民生活(一部略−引用者)
1938  3 綿糸配給統制規則公布
    4 国家総動員法・電力管理法公布
1939  4 米穀配給統制法公布
   10 価格等統制令・賃金臨時措置令公布(公定価格と闇価格の分離始まる)
   11 米穀の強制買上げ制実施
   12 白米禁止、木炭配給制、小作料統制令
1940  6 6大都市で砂糖・マッチの切符制(割当制)開始
   8 東京の食堂・料理店で米食禁止(代用食時代)
1941  4 6大都市で米穀配給通帳制実施(大人1日2合3勺)
   5 酒切符制実施
1942  1 食塩、通帳制に
   2 衣料・味噌・醤油、切符制実施
1944  2 雑炊食堂開く
   8 砂糖の家庭用配給停止
1945  7 主食の配給、大人1日2合1勺に


第5編 現代の社会と文化
第4章 民主化と戦後改革
3 国民生活の復興
【進む復興】

……工業生産の停滞や、農業生産の激減によって、とくに都市の食料難は深刻で、米の配給がとだえがちになり、買い出しの群れが都市から農村に向かった。…国民は…闇市で生活物資を買い求め、平和な生活を楽しみはじめていた。……」



目次へ

第109号 2003.10.2「むらき数子 情報ファイル」
※ジャガイモ談義? & 配給連想第9回
供出するのはジャガイモじゃなくて馬鈴薯

資料3点の紹介です。
戦争中は、供出は、「大東亜戦争必勝ノ為」「大東亜戦争完遂ノ為」の「皇国農民ニ課セラレタル重大責務」として、実行組合に「誓約書」まで提出させていました。
敗戦によって、供出―配給の制度は機能低下したといわれていますが、実態はかえって、非農家にまで、供出を強要したのでした。

? 1944(昭和19)年7月9日 茨城県真壁郡河内村、馬鈴薯供出検査日時通知
         (『関城町史 史料編?戦時生活史料』1984、p.443。) 
昭和十九年七月九日    河内村農業会長
 各字実行組合長
 藷類出荷部長   殿
    馬鈴薯供出検査日時通知
標記ノ件左記日時ニヨリ割当分供出検査相願及御依頼候也 追而左記数量ハ特定地域ニ於ケル飯米ノ代替配給ナルモノニテ絶対必要数量ニ付申添候也
                            記

組合名 検査供出日時 供出数量  行先   備考
板橋   七月二十二日午前九時  一二七俵 其ノ都度指定  検査場所集荷所
舟生 七月二十二日午前十一時
八月二十五日午後三時
三七
五三
 〃   〃 
木有戸南 七月二十五日午後四時 六○   〃   〃 
     北 同日 六七  〃   〃 
犬塚  八月四日午前十時 一一二  〃   〃 
上藤 八月十四日午前九時 一一二  〃   〃 
中藤 同午前十一時  八三  〃   〃 
下藤 八月四日午前九時
八月十日正午
一五
三○ 
 〃   〃 
関館 七月二十六日午後四時
八月十四日午後三時
七○
 〃   〃 
花田 八月十四日午後一時 七○  〃   〃 
霞台   八月四日午前九時 二三  〃   〃 
 計




? 1945(昭和20)年8月 茨城県猿島郡中川村、常会徹底事項(昭和二十年)
             (『岩井市史 資料 近現代編?』 1994、p.272)
八月の常会徹底事項
一、 麦と馬鈴薯の供出について
 食糧は勝ち抜く為の力です。(中略)
 殊に農家における御奉公の道は、一に食糧の増産と供出にあります。戦況が危急をつげると共に、国内の食糧事情はいよいよ逼迫して参りました。これからの食糧は麦と馬鈴薯で食ひつながねばならぬ事情にあるのです。従って今年は特に麦は八月末日までに、馬鈴薯は九月末日迄に必ず割当全量の供出を完了しなければなりません。
 特に馬鈴薯については、七月十五日以后の割当出荷数量に対して農業会は前金を渡して「先買」をし、その金は各自の貯金通帳に記入されることになっております。
 横流しや闇売は決戦国民の恥です。お互に堅く申合せて一日の延滞もなく一俵の不足もなく供出を完了し、刻下の食糧不安を克復して皇国農民としての責務を果しませう。

?1946(昭和21)年5月19日 (二)「茨城新聞」
 「家庭でも供出 
    古河町では農家以外の各家庭からも大小麦馬鈴薯等の供出を行はせることになり隣組を通じて各戸に耕作反別の届出方を通知した」



目次へ


第110号 2003.10.7「むらき数子 情報ファイル」
◆配給連想 第10回 
(19)埼玉県川越市・1963年生まれ・男性
配給の件、ぼくも知りませんでした。だからびっくりしました。というか考えてもみなかったことでした。
赤紙が郵便でなく兵事係が直接持参した(これも「むらき数子情報ファイル」で紹介された本『赤紙』☆で知りました。そのための膨大な調査が必要だったということを明かす貴重な本でした)ことと同様に、勉強不足を恥じます。
と同時に軍国主義を貫徹するためにさまざまな身近な装置が必要なんですね。

☆『赤紙―男たちはこうして戦場へ送られた―』小澤眞人+NHK取材班、創元社、1997)



(20) 1950年生まれ・埼玉県浦和市育ち・女性
「エーッ、配給ってタダじゃなかったの!?」、私も読んで驚き、のけぞってしまいました。
早速、終戦当時16歳のおばにTELしたのですが(普段のご無沙汰の言い訳にも良いネタだったから)あいにく草津に出掛けているとの事で話を聞くことは出来ませんでした。
 じゃあ配給の意味ってなんだったのかな?という疑問が湧いてきてしまいました。
すみません。ずっと「銃後史ノート」の読者だったのに理解不足で。



(21)1944年生まれ・4歳頃まで群馬県前橋市育ち・男性
配給制度について特に勉強したわけでもないので、あまり言うこともないですが、
米の配給って戦後も結構長い間続いていたのでは?
米屋が定期的にやってきては、家族の人数に応じて升ではかって米びつに入れていた。
別に無料だと思ったことはないです。

4歳頃、前橋にいたとき、あめ玉の切符があるとかで、お婆さんと一緒に買いに行ったことを覚えている。(おぼろげな記憶)1個だけだが・・・。(なかなか食べさせてもらえなかった。)(あめ玉は切符制だったのだろうか?やっぱり配給制なのかな。)
日本史の学生出身としては少々頼りない話でごめん。



目次へ


第111号 2003.10.13「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第11回
(22) 1954生まれ・岐阜県育ち・女性
 私も配給はただだと思っていた。
おばあちゃん(岐阜県の郡部)や、親族の人からも戦争の思い出を聞くことはあったけど、配給に並んだとだけしか聞いた覚えがない。
ただだという先入観で聞いていたのです。



(23) 1943年生まれ・兵庫県神戸市育ち・女性
お米が永いこと配給制だったぐらいしか覚えていないのですが、有料でしたよね。
考えてみたら、供給が少ないから一人当たりいくらまでと制限する制度ではないのでしょうか。
あの頃公設市場と闇市場がありました。子供だったので市場の名前ぐらいに思っていたような気がします。どちらもちゃんとしたアーケードの市場だったけどどうなっていたのかしら。



(24)1930年生まれ・広島県比婆郡東城町育ち・女性
中国山地の真中、広島県の、岡山県との境の村。
配給は部落〔集落〕ごとにあり、その分量を一家の家族人数で割って割り当てた。いくらかはわからないがお金は払っていた。田舎なので野菜や、粉などは供出分を除いても結構あった。当時水力発電しかなかったので、粉引きも自宅で(やった)。
女学校の理科の時間に蕎麦の実をもってこいというので、袋いっぱい持っていったら、先生が余った分をくださいという〔実験か何かに少し使っただけらしい〕。どうぞ、と手渡したら涙を流して喜んでいた。きっと食べるものがなかったのだろう、もっと持ってってあげればよかった。
農家には蓄えのある家もあった。



目次へ


第112号 2003.10.19「むらき数子 情報ファイル
◆ 配給連想 第12回
(25) 1949年生まれ・宮崎県の郡部育ち・女性
 「配給」に、お金払ってた、なんて、全然知らなかった。
「学童集団疎開」の経費も、親が払ってたの?

 私が子供の頃、一学年が11クラスあった小学校で、教科書は、風呂敷持って買いに行った。お兄さん・お姉さんのいる人は、買わなくってすんだのよネ、「線が引いてあって、ラクだ」って言ってた。
 中学1年のとき、赤黒二色のボールペン持ってる子って、学年に2人くらいしかいなかった。学校持ってくと「貸して、貸して」って・・・でも、おさがりの教科書は紙がぼろくて、ボールペンでうまく線引けないのよね、もういっぱい鉛筆で線引いてあるし。



(26) 1949年生まれ・長崎県南松浦郡育ち・女性
配給の連想はちと難しかったです。
洋画(映画)の配給くらいしか思いつかなくてすみません。
         
私は戦後生まれですから、配給の経験がありませんので「ただ」だと思っていました。
単なる思い違いなのでしょうが、それにしても不思議です。

配給という言葉を辞書で引くと、
1. くばり与えること。品物などを一定の割合でめいめいにくばること。
2. 統制経済のもとで、数に限りのある物資などを特別の方法・機関によって一定量ずつ消費者に売ること。
と、あります。「ただ」とは、一言もありませんね。
たぶん「給」という字のせいでしょう。
「給わる→賜る→頂く→ただ」

改めて思うのですが、戦争で物資がなくなり、経済統制をしかざるを得ない状況になるのは為政者の責任であるにもかかわらず、こういう連想をしてしまうなんて・・・。

「お上はえらい」、「国は国民の生命・安全を第一に考えてくれている」という刷り込み、されていたのでしょうか。
目をさまさなきゃいけませんね。  
ともかく、今度の衆議院選挙、だまされないようにしようっと。



(27) 1949年生まれ・埼玉県居住・女性
きょうは地域の人と企画をした「平和を願う映画の会」の一回目でした。20人くらいのささやかな会でしたが「にんげんをかえせ」などを上映しました。
84歳(1919年=大正8年生まれ)の元気なおばあちゃまが、戦時中の話をちょこっとしてくださいました。1945年の8/14と16付けの新聞も持ってきて見せてくださいました。(15日付けはないそうで、理由は不明とのこと)
私が、「情報ファイル」で話題になっている、配給=無料という捕らえ方論議のことを話したら、とてもびっくりした顔をされました。
そして戦時中の話をするときに、衣料切符などを示して、「これがないとお金があってもものが買えなかったし、品物がなくなればもう手に入らなかったのだ。」と説明されていました。



(28) 1940年生まれ・東京生まれ・男性 福島県での体験
 私の場合、配給が無料ではなかったという印象は持っていたのですが、実際にいくらぐらいの金額だったかの記憶がありません。
 東京生まれ・育ちの母が、父の実家の疎開先(福島県石川郡野木沢村<現石川町>)の田舎で、自分の着物を米や味噌、塩・醤油・野菜にかえて私たち兄妹を育ててくれたことだけは覚えています。
 めったに口にすることのできない白米(白米が比較的多い麦飯)がお膳に出たときなど、当時小学生だった私は、一家心中するつもりではないかと疑いながらも、ひもじさに負けて食べてしまい、あくる日になって生きていたことにホッとした記憶があります。
 当時の母の苦悩を思うと、目頭が熱くなります。
母は、子どもたちが育って、ようやくそれまでの苦労が報われる時になって、52歳の若さで癌で亡くなりました。いま、生きていれば、88歳です。



目次へ


114号 2003.11.4「むらき数子 情報ファイル」
◆ 配給連想 第13回
(29)1934年生まれ・東京・男性  
配給がただじゃなかったの? という疑問がどこから出てくるのか、それが理解できないのですが。30代、40代には配給という概念がないわけで、配給という言葉から想像するしかないのだと思います。例えば、分配とか給付とかやがてほどこしみたいな言葉にたどりついて、そして無償じゃなかったの、となったという解釈が成り立つと思います。
この頃つまり昭和20年をはさんでの前後数年、米野菜、衣料品その他は配給制度のもとに厳しく管理されていて、お金は幾らあっても仕方がない、欲しいのは物だという雰囲気があったのは事実だった。

ところで、食糧難とか食糧危機といわれるこの時代の食糧事情は、食料そのものの絶対量が絶対的に不足していた、からではない。
このことを、この国の人たちはもっと痛切に知らなくてはならない、統制経済というものは、モノヲ恣意的に配分出来る制度だということを知らなくては行けない、あるところにはあった、自分の口に入らなかっただけのハナシ。と僕は考えてます。後の世になって、本当はお金があれば白いお米はおろか、真っ白なお砂糖でも虎屋の羊羹でも鯛の刺身でも、そして毛皮のコートでも、手に入れられたということがわかった。
後年、僕は大学に行き、そこで多くの友人に出会います。そして僕の体験が必ずしも彼らのそれと一致してはいない事を知らされます。
否、中学、高校の段階でもそうだったのかもしれないが、話題にされなかっただけの問題かも知れません。

荒川区に住む従姉の家は下町大空襲の3・10で焼け出され、叔母の家を頼って埼玉の与野にいったそうで、そこで被災者家庭にということでナベ、カマの類を 國だか、県だか、区だかは分からないが、これは貰ったそうです。
何故このナベ、カマが貰った物だと記憶してるのか、彼女は面白いことを云ってました。 
「よく、お母さんは、与野のオバサンに,”新しいお鍋が貰えて良いわね”と、イヤミを云われた,と云っていたわ」とのこと。
実の姉妹同士のふたりが、焼けだされたもの、と、転がり込まれたものとの、という新しい、かつ、微妙な関係の中で、お互いの連れ合いの顔色をうかがいながら、窮屈な生活を強いられていたあの時代の女達の辛さが感じられます。

情報ファイル102号の配給連想について、もう少し話をさせてください。
配給をもらってらっしゃい、と言われた‘37年生まれの女性のご発言は正確な記憶なんだと思います。つまり、配給の品物は”もらい”に行くもので、買いに行くものではない、戸籍謄本は”もらい”にいくもので買う物ではない(実際は400-700円)。パスポートも”買い”にいく人はいない、1万円だして”もらい”にいくか、あるいは、せいぜい”取り”にいくていどではないでしょうか。
今、年寄り達はバスや地下鉄の無料パスを駆使してバスを乗りついで遠くまで行ってます。これも彼らは”もらっている”と言ってます、”買ってる”と言ってる人を私は知らない。
つまり、有料であっても、お上の手を経ると”貰う”ということになってしまう。
それでその言葉が定着しやがて独り歩きするころになると、貰ってたのだからタダだった、いや、それもオカシイ、はてなハテナ。
配給の無料か有償かの問題に限れば、「配給を貰う」という表現が一般的であったとすれば、後年になって、その時代の実感が喪失してしまったとき、「貰う」イコール「無償」という解釈があっても不思議ではない。

歴史をしっかり見据えてないと、こんな風になるのですね。身近な問題から重要な課題を提起して頂いたむらきさんの感性にいつもながら驚きます。



目次へ


第118号 2003.11.28「むらき数子 情報ファイル」
終わりに
むらき数子
◆「配給連想」は第114号掲載の第13回で終了させていただきました。
皆さまのご協力ありがとうございました。
連載中に、「学童集団疎開の経費負担はどうだったのか?」という疑問が寄せられましたので―


◆学童集団疎開―費用はどうなっていたのか?◆
学童集団疎開に関しては、全国疎開学童連絡協議会編・大空社発行、全五巻の『学童疎開の記録』1994年など、多くの本が出ています。疎開の中では、「学童集団疎開」は、はじめから最後まで行政の事業として運営されたものなので、私事として国からほとんど放置された「縁故疎開」に比して、資料が残ったといえます。
学童集団疎開の対象と経費について、その第3巻p.4「帝都学童集団疎開実施要領(昭和一九年七月七日)」には、

 第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
   区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
  第七 経費ノ負担
   一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月拾円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
二、 国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス

とあります。
政府の広報誌『週報』は、第406号(1944.8.2)と第407号(1944.8.9)に「疎開学童問答 上下」を載せています(『学童疎開の記録4』p.172‐182)。
下記の「必要な携行品」は、20kg以内に荷造りして送るものと、リュックサック一箇と風呂敷一箇程度にまとめて児童が持ってゆくもの、とにまとめる。運賃は都道府県と国が負担するので「学童は無料で疎開地にゆけるわけです。」
  
  寝具―掛蒲団一枚、敷蒲団一枚、枕一箇、毛布等
  衣類―寝巻、下着、シャツ、ズボン、猿又(男)、ズロース(女)、靴下、足袋、腹巻、モンペイ、防空頭巾等
  日用品―食器、手拭、ハンカチ、塵紙、歯刷子、歯磨粉、水筒、コップ、通信用紙、石鹸、布巾、雑巾、マスク、糸、針、櫛(女子)、古新聞紙等
  履物―下駄、運動靴等
  その他―教科書、学用品

 学童集団疎開が国策となり、「経費は児童一人について、生活費の一部として一ヶ月十円を父兄に負担して貰へば、ほかには何も要りません。」と言われても、保護者はこれらの品物を用意しなければなりません。

「名古屋市における集団疎開・縁故疎開・疎開残留の状況」(『写真集 子どもたちの昭和史』大月書店、1984、p.114)には、3−6年の児童の26%が残留したこと。そして、「集団疎開の取り消し理由」に、「布団の準備のないもの  15%」「家事上の理由によるもの  9%」という数字があります。
『学童疎開の記録3』P.34の「疎開学童対策協議会委員会並ニ幹事会開催ニ関スル件<伺>(昭和一九年九月三○日)」を見ると、文部大臣以下、内務・大蔵・厚生・農商・運通・陸軍・海軍各省の局長・次官など49人の疎開学童対策協議委員が出席する10月5日の会議の経費として、
「食費 一人 九円五○銭(食事 五円
             税  四円
             サービス料 、五○)」
という金額もあります。

当時、10円がどれだけの重みがあったのか、衣料切符制という繊維資源統制のもとで、布団を準備するとはどんなことだったのか、などと、思ってしまいます。




目次へ /  ホームへ 



muraki kazuko